天職

介護業界は給料が低い。(現在では、見直し改善されている節もある)

資格持ちで十年働いても、私の地元では二十万の壁を越えられません。ボーナスも一般企業に比べると、泣きたくなる。

役職者も同様で、課長や部長クラスであっても、一般職の同じ役職と比べても低いらしい。

正直、社会保険をかけたアルバイトと手取り一緒です。

それでも介護業界に入ってくる人は、誤解を恐れずに言えば、二極化します。

・介護をやりたくて始めた人

・どこにも雇ってもらえないから介護を始めた人


要注意なのが、後者の方です。

あくまでも、私が見てきた範囲とお断りして。

・一般常識ない

・サボるの度が過ぎて、もはや何もしない

・色恋で職場をめちゃくちゃにする

・犯罪

・本人は気付いてないが、業務内容を理解できないレベルの、なにがしかの病を抱えている人(差別的な意味じゃなく‼)


かといって、前者の方は、自分の信念で他人のATフィールドを破壊するほど暴走されると、現場が困ることになります。


半年が経ち、夜勤もこなすようになりました。

看護助手二名、看護師一名で二階分を診ます。

病院時代は、始業は夕方の五時から、終業は翌朝九時でした。

まるまる二日分に相当する勤務時間は、誰と組まれるかで精神的な快適さに、雲泥の差がでます。

巨漢の看護師、お局様と一緒になる日は、死を覚悟します。

出勤前に、苦痛を想定して精神的にあらゆる誹謗中傷で心にワクチンを接種します。

池田を退職に追いやった一人、庄賀看護師と一緒になると、しきりに追い立てられます。

夜勤中は、調理からお弁当が支給されます。(もちろん、強制的に給料から天引き)

ほとんどの職員は弁当を食べずに、自分で買ってきたものを食べます。

「いっぱい食べて、精をつけないと。男の子なんだから」

捨てるのももったいないからと、弁当を三人前食べることになります。患者様に提供した食材の余りなので、量は少ないですが、三人前はさすがに腹が張ります。

おまけに、精神的な重圧から、食欲ない。ゴリゴリ、お茶で流し込みます。


夜勤中、休憩時間は二時間。交代で仮眠を取ります。

あとの時間は、休む間もなく排泄&コールの対応に、囲い込み漁のごとく追われます。コール音聞きすぎて、家に帰って寝るとき、コールの幻聴がするほどです。

看護師は、涼しい顔をしてナースステーションで日誌を書き、処置があれば対応、なければほぼ休憩状態。

これだけの仕事量の差があれど、一回の夜勤手当は、看護助手六千円。看護師一万六千円。

ここにも、格差があります。

命を守るために、命の最前線で戦っているのは介護士です。ですが、指揮官は『責任』の二文字を背負っています。

これが嫌で、途中で看護学校に通って、看護師に転職する人もいます。


そうでなければ、低賃金のまま働くか。

あるいは、副業を始めるか。


看護助手の田中真里たなかまりは、アマゾネスのような見た目をして、いつも疲れていました。まだ、二十代後半なのに、人生を悟ったような風格があり、いつも一人でいました。

仕事も要領よくこなし、細かいことにも気付いて、かなり優秀です。

柳さんや、リハ助手の坂口と仲良く話すことはありますが、私には心を閉ざしていました。


夜勤中に柳さんと給料の話になったとき「田中は、キャバクラで働いてるよ」と暴露されて、かなりビビりました。

田中さんが、男性客に愛想よくしたり、お酒を作ったりしている姿を……想像できん‼


今でこそ、他業種から学ぶこともあると解禁になっている企業もありますが、当時は副業は禁止されていました。

キャバクラは保険等もないので、バレずに副収入を得るには重宝されています。

中には、キャバクラを通り越して、身体を使った肉体労働で働く人もいました。


「やっぱり、給料低いですよね」

「田中の場合は、結婚したら遊べないから、二十代でおもいっきり遊びつくすためなんだって」

「なるほど…」

結婚の二文字をリアルに考えて人生を謳歌している田中さんに、尊敬の念すら覚える。

目的をもって自分で敷いたレールを走れていることが羨ましい。


「君も、副業するの?」

「体力ないですよ」

介護士だけで、手一杯だった。



初田先生の指導もあって、少しずつ現場で実践を重ねて、スピードは遅いですが「誰よりも丁寧できれい」という称号を得るまでになった。

お局様や一部看護師からは、陰口言われたけど。


ある日、後輩ができました。

自分より十歳年上の男性で、いまだにビーバップしているようなオールバックで、切れ長の目に少ししゃくれた顎。ニキビ跡の残る顔は、まさに顔面凶器。

津田信明つだのぶあきは、ナースステーションで申し送りのあと、ニコっと笑顔を作り、元気よく挨拶した。

「本日から、お世話になります。津田信明です。前職は営業をしていましたが、思い切って異業種に転職しました。よろしくお願いします‼」

白けた雰囲気に浮きまくっていたが、本人はまったく意に介した様子はなし。

まばらな拍手で送りだされた。


津田さんは、患者様に笑顔で接し、年齢も近いことからお局様にも可愛がられていた。

「いやぁ、僕ね、本当に介護がしたかったんですよ。もう、数字ばかり追いかける毎日に、嫌気がして。人の役に立ちたい、人と心を通わせる仕事がしたいって思ったんですよ。妻には給料が下がるからって反対されましたけど、子供もいないし、二人で生活する分には困らないだろって説得して」

人を見た目で判断するのは、よくない。

私よりも、立派な志を持っている。

「僕は、介護が天職なんです!」

看護師やお局様は、彼のアジに乗せられていた。私も、その一人だ。

だが、どこか違和感もあった。



公園で煙草を吸っていると、リハ助手の東山志乃ひがしやましのが隣に座った。

「あぁ、腰痛い」

身長が高い分、腰への負担がかかるのだろう。いつも口癖になっていた。

「津田さん、知ってる? 最近、入った」

「知ってる。奥さん、知り合いだから」

東山は、脚を蛇のように絡ませて組むと、ダルそうに煙を吐いた。

「えっ、知り合いなん?」

「言ったでしょ。前に保険の営業をしてたって。そのときの同僚が奥さんで。プライベートでも何回か会ったことあるけど、まぁ、あまり夫婦の話を、とやかく言いたかないけど」

含みのある言い方に、視線で東山に先を促す。

「…あの人、好きじゃない」

「なんで? めっちゃ、いい人じゃん」

「いい人ねぇ。まあ、確かに。ラウンジにも飲みに来てくれたことあったし」

「……ん? 今、なんか言った?」

「言ってなかったっけ? 昼間は、リハ助手。夕方は母親。そして夜は、ネオンに輝く蝶なのよ」

東山は品を作る。

「……正気ですか?」

「なんか言った?」

喰い気味に圧をかけられた。

「いやだって、想像できないって。ドレス着て、酒作ってる姿とか」

「ちゃんと、やってますから」

「指名とか、もらったりするの?」

「ぼちぼちね。坊やも、遊びに来ていいんだからね、うふ」

「赤紙きた。徴兵や」

東山は叩くマネをする。

「少なくとも、あたしにとって、津田さんより、アンタの方がいい人だから」

「お、おぅ。ありがとう。今度飲みに行くわ」

「お待ちしております」



一般病棟の武田敦彦たけだあつひこは、津田さんを歓迎し「少ない男性陣で、一致団結して、女帝帝国から尊厳を取り戻そう‼」とわけのわからないことを言ってガッシリと握手を交わしていた。


津田さんは、仕事を丁寧にこなしていた。

笑顔を絶やさず、ときに患者様と冗談を言って笑っていた。


三ヵ月経ち、津田さんも夜勤に入るようになった。

やがて、笑顔ばかりではなくなった。


褥瘡の患者様にとって、服の皺ひとつで皮膚にダメージが与えられる。完璧は無理でも、服の皺を伸ばして、排泄でも陰部洗浄を行い、キレイで肌が保湿された状態を保たなければいけない。

早出で出勤して、起床介助を回る。

体位変換のクッションは床に落ち、患者様の皮膚は何時間同じ大勢だったのかと思うほど、赤くなっていた。「うー、うー」と声をあげ、苦しそうに呻いていた。

別の患者様は、陰部洗浄をしたのかと疑うほど、便の拭き残しがあった。

ワセリン等で保湿もできていない。

ズボンやオムツに、便の付着がある。


津田さんは眠そうな夜勤明けの顔で、私が起床介助をした患者様に挨拶をする。

「津田さん、ちょっと」

私は、隅に津田さんを呼び出すと注意した。

彼は夜勤明けへの解放感から、ナチュラルハイになっていた。

「それは、わかってます」

「わかってるんですか?」

「…だって、面倒じゃないですかぁ」

貼りついた笑顔が、能面のように見えた。

「面倒って」

「限られた人数で、回ってるんですよ。患者は一人じゃない。もっと、現実的に考えましょうよ。多少のことは、仕方ないです」

脳裏に、「天職です」とのたまっていた姿が浮かぶ。

「これが、やりたかったことですか?」

「よく言うでしょ。仕事は七〇%でいいんです。ただでさえ、給料安いんだから。それに、看護師もあんなんじゃあ、ムリですって」

違和感の正体に気付くのが遅すぎた。

完璧すぎたのだ。

人には欠点がある。

欠点が見えない人間は、…おそろしい。


「それが許されるなら、俺たちがしてることはムダなんですかっ!」


自分で驚くほどの声が出た。

今までの私の努力や、なにより池田をバカにされた気がした。

津田さんは、口を半開きにして、目を細める。殺気だった表情に肝が冷えたが、まっすぐに見返す。

すぐにまた笑顔の仮面を貼りつかせた。


「どうも、すいません。気をつけます」

彼は仕事に戻った。





これが、あんたにとっての天職なら、周りは地獄だ。

























「あたしにゃ、もう闘う気力は残ってない。定年まで、のんびりさせてもらおうかね」

つづく。

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