認知
代表的な認知症はざっくりと四種類に分けられる。
・アルツハイマー型認知症
・血管性認知症
・レビー小体型認知症
・前頭側頭型認知症
ネットで少し調べると、以下の記載があった。
『アルツハイマー型が全体の六十七%の割合を占め、男性よりも女性が多い傾向にある』
認知症と聞いて、物忘れ、徘徊、「ご飯食べてない」というイメージを持たれる方が多いと思いますが、これがアルツハイマー型の特徴です。
病院の裏手にある公園の木の葉は色褪せ、地面に葉っぱの絨毯ができていました。
彼女に追いつきたくて、必死に参考書を読んで勉強しますが、肝心の実技はどうにもなりません。
よく、排泄介助や移乗介助中に患者様から「痛い」との声を聞きました。あきらかに自分の実力不足です。
私は、特に田中トラジという患者様から嫌われていました。大柄な方で、認知症もあり、叩いたり噛みついてきたりします。
池田が介助したときは、そんなことなかったのに。
自分から積極的に先輩に質問して、実技を学びますがいまいちでした。
公園兼喫煙所兼休憩所で、
当院の理学療法士
たまに公園で顔を合わせるくらいで、気まぐれに「慣れたかい?」と気怠い声をかけてもらったことがある。ケーシージャケットがいつかはち切れるなと思うほどのビール腹。おたふく顔に銀縁眼鏡をかけ、薄くなった白髪が風に吹かれると慎重に撫でつけている姿を思い出す。
噂をすればなんとやら、堀之内先生が公園に来たので、依田さんが手招きする。
私は、事情を説明して教えを乞いたい旨を伝えた。
「えぇ、面倒くさい」
気怠げに一蹴される。
「教えるくらい、いいじゃん」
依田さんが加勢する。
「…そっちが教えりゃいいだろ」
「教えてるけど、より専門的な知識を得たいとなれば、専門に聞くのが早いでしょ」
堀之内先生は、煙草を咥えたまま、身体を左右に折ってストレッチを始めた。
「ふぅ、例えばだけど、なにがわからないの?」
目線は合わせず、背中を向けて尋ねてくる。
「いや、全部ですよ。移乗からパッド交換、体位変換とか。座学で勉強しても、いまいち、要領がわからなくて」
「……まぁ、がんばって、勉強すれば」
煙草を半分ほどまで吸うと、さっさと行ってしまった。
「え、あれ、なんですか?」
「悪い人じゃあ、ないんだけどね」
依田さんは、諦めた表情をしています。
「これって、ダメってことですか?」
「まぁ、がんばりなさい」
堀之内先生と同じことを言うと、依田さんはさっさと行ってしまった。
ここの病院、変な人しかいないんじゃないか…。それとも、これが普通なのか?
わかりませんでした。
休憩で公園に出ると、ちょうど二人を発見したので、昨日の件を聞いてみた。
「はっ? 堀之内先生が素直に教えるわけないじゃん」
キャバ嬢のようなメイクに巻きおろしの髪を後ろで束ねた、リハ助手の
「えっ、そうなの?」
「ウチらだって、まともに教えてもらってないよ」
「坂口はまだいいよ。私なんか、口も利いてもらえなかったし」
長身のボーイッシュな東山志乃《ひがしやましの》は、苦い表情をしていた。
「それは、職務放棄だろ」
「そうよ。坂口が入ってくるまで、疎まれても、無視されても、それでも必死に話しかけて、ここまで来たんだから」
いつもニコニコしている東山が、そこまで苦労していたとは知らなかった。
「よく辞めなかったな」
「石の上にも三年。それに、子供のこともあるし」
東山はシングルマザーで、幼い娘と一緒に生活している。嫌なら辞めればいい。口で言うのは、簡単。だが、現実はそうもいかない。
独身の自分には、推し量れるはずもない。
「そっか。ここって、変な人ばっかりなの?」
「院長からして…」
噂好きなおばさんみたいに、坂口が口を開く。
「坂口っ」
静かだが、相手を制するには十分な迫力があった。
坂口は、バツの悪そうな顔で、「なんでもないでぇす」と呟いた。
「堀之内先生に、答えを聞こうとしちゃダメ。まずは、自分で考える。それで、自分なりの答えをぶつけてみて、初めてあの人は応えてくれるから」
「お、おぅ。なるほど」
「難しいと思うけど、収穫あるといいね。応援はしてるから」
微笑む顔に、協力は望めそうもないなと感じた。
リハビリ室は病院の五階。
仕事の合間を縫って、三階から五階までの往復が始まった。
自分なりの答えをぶつけるが、
「で、なに?」
「そこまではわかった。で、その先は?」
のらりくらりと問いかけに問いかけで返され、こちらの知識のなさから、すぐに追い返された。
暖簾に腕押し。まったく、手ごたえはない。
「その先って、そこまではまだ」
「考えなさい」
考えろ、考えろ、考えろ。
もう、嫌になってきました。
「もう、少しは教えてくださいよ」
「……根本的なことを知りたきゃ、自分の身体の動きを意識してみなさい」
やっと、ヒントをもらえました。
東山は坂口が入社してくるまでの一年間、一人でヒントもなく、これに耐えてたんだもな。
家に帰っては、座学と患者様の身体を想像してのイメージトレーニングを毎日していました。仕事で疲れきって、集中力もなく、ダラダラと読み進める状態でした。
自分が横になって、どこがどう動くのかを意識してみます。いまいち、わかりません。
はぁ、やっぱり、池田はすごい。感覚でコツがわかるんだから。
堀之内先生は、私の顔を見るだけで、溜息を吐くようになりました。
先生のスケジュールは、午後から、リハビリ室に行けない患者様のリハビリを行います。
「なんとなくですけど、関節って、直線より曲線の方が動きやすいですよね」
昔、大阪にいた頃、キャラクターショーのアルバイトをしていたとき、縦に蹴るよりも、回し蹴りの方が力も少なく、バランスも取りやすかった記憶がありました。
リハビリが一段落したとき、そう声をかけると、一瞬、堀之内先生の眉間の皺が消えました。
「……ちょっと」
そう言うと、空きベッドに誘われました。
「横になって」
言われるがまま横になると、寝そうになります。
「はい、じゃあ、頭だけを持ち上げて、足を曲げて、宙に浮かせて。腰だけを付けるように」
腹筋のトレーニングかよっ!
言われるがままやりましたけど、かなりキツい。
「も、もう、いいですか」
「ダメ。そのまま、ずぅっと」
呼吸も浅くなり、筋肉が痙攣。
あっ、首ツッた。痛い痛い。
「あぁ、もう無理」
ギブアップすると、かなり腹筋が熱を持っています。絶対、筋肉痛になるやつです。
「キツかった?」
「めちゃくちゃ」
「それで、息吸える?」
「吸った気しないですって」
「ご飯を食べたり、お茶を飲めそう?」
「いや、無理でしょ、絶対に」
「患者は、常にその状態だってこと。一例だけど。患者の症状に合わせて、介助をしないと、い・た・いって言われちゃうよ」
今まで、闇雲に介助のことを考えていましたが、言われてみれば至極当然。
人それぞれの症状に合ったことをしないと、かなり痛い。
「確かに、言われてみれば」
「……うーん。毎月ボランティアで開催してる介護技術の勉強会があるけど、来る?」
「行きますっ‼」
棚からぼた餅。そんなのがあるなら、早く言ってくれ‼
「ほーい。じゃあ、日程は後日」
先生は、手を振って去っていきました。
なんで、誘ってくれたんだろう?
未だに謎です。
勉強会は、診療所や病院の一室を借りて行われました。参加者は、施設や病院で働いている方で、年齢層はバラバラで、自分が最年少でした。
「堀之内、横になれ」
堀之内先生を呼び捨てにするとは、かなりの手練れです。のちに聞くと「俺の師匠みたいなもん」と教えてくれました。
「じゃあ、君。こいつを側臥位にしてみて」
私を手招きします。
みんなの視線が集まる中、緊張しながらも普段通りにやってみます。
…お、重い。
病院の患者様は女性が多く、軽い方ばかりです。
最後は、力ずくでやっていました。
「はい、ありがとう。堀之内、どうだった?」
「痛い」
ですよねぇ。
「じゃあ、今度は私がやるから」
みんな、少しでも技術を学ぼうと近寄ります。
あんなに重かった先生の身体を、いとも容易く側臥位にします。
「いいですか。自分の身体でやった方が早いね。肘を持って、押してみてください」
スポーツ前の準備運動の要領でやってみる。
「今度は、肩から回して押してみて」
さっきより軽く、重さを感じなかった。
「人間の関節は、直線の動きではなく回転です」
内心、うぉぉと叫びたい気分でした。
「直線で押せば、体重も乗り重いけど、回転させれば重さは逃げて、自分の体重より重い人でも介助できます」
二時間の講義は、あっという間に終わった。
感動のあまり、喫煙所で堀之内先生に、お礼を言いました。
「がんばりなさいな」
「拘縮がある人でも、刺激することによって、筋肉の硬直が弱まるって知れてよかったです。これなら、認知のある田中さんの介助もできます」
「ふん。認知症ねぇ」
面白くないという顔で、煙を吐く。
「どうしました?」
「認知症って、誰が作るか知ってる?」
はっ? 意味がわかりません。
「認知症は、病気だから、作ってるわけじゃ」
「認知症にはいくつか種類あるだろ」
私は、覚えたての代表例を四つ挙げます。
「認知症専門医はいるが、実際のとこ、正しい診断ができている医師はわずかしかいない」
「そうなんですか?」
「診察で少し喋っただけで、これは何々型認知症です。はい、お薬だしまぁす。これだもの」
いまいち、何が言いたいのかわからない。
「つまり?」
「医者が認知症を作るんだよ。そうすれば、薬も出せて、点数稼げるだろ」
背筋に冷たい汗が流れた。
利益追求で病気にしてしまうなんてことあるのか。
「噓でしょ」
「これが、現実だ。認知症で、日がな一日ぼうっとしてる患者いるだろ。あれは、薬の副作用であぁなってる部分もある。本当は、あんなに沢山、飲まなくてもいいのに。暴れる人には、また別の薬で落ち着かせる。猛獣じゃないんだから。認知症は、環境と支援だけでなんとかできるんだけどなぁ」
堀之内先生は、熱の籠った目で遠くを見つめていた。
「…田中さん、アルツハイマー型って診断だけど、アレ、院長が診断したんだ。うちは整形外科だってのに」
「マジっすか」
「マジ」
情報量に頭がパンク。
脳裏にいつかの坂口が浮かぶ。もしかして、あのとき、これを言いたかったのか?
「それと、認知症って言っても、いろんな症状の混合型もある。発症したときの、状態も人によって異なる。そんなに難しいことを、たった五分かそこらで、わかるわけがない」
「なんか、ほんと、つくづく、病院がイヤになりました」
「俺もだ。ウチの院長はもっと嫌いだ。顔も見たくない。先代の頃は景気も良かったのに。今じゃ、落ちていく一方だ。だから、必死に点数稼いでる」
面接のときに見た院長の四角い顔を思い出す。
「みんな噂してるよ。ここは、呪われてるって」
「はっ? 怖いこと言わないでくださいよ」
「院長婦人見たことある?」
「ないです」
「院長夫人は、墓石屋の一人娘だ。病院と墓石って、相性バツグンだろ?」
「笑えないっすね」
「面白いこと、言ってねぇよ」
講習の興奮はすっかり冷めていた。これが現実と受け入れるには、あまりにも非現実的すぎた。
二階一般病棟の
ぽっちゃりとした大柄だが、切れ長の目が印象的だった。
「ここ、ひどいって。面接のとき、介護療養病棟を志望してたのに、定員がいっぱいだからって、とりあえず空きが出るまで一般病棟で勤務してくれって言われたのに。空きがやっと出たと思ったら、新人入ってくるし。やってらんねぇ。一番しんどいのは、こっちは夜勤がないから、給料的に厳しい」
そう毒づいていたことがある。
彼はまだ、二十五歳という若さで結婚していて、子供は二人。奥さんとはパチンコのアルバイトで知り合ったようだ。
「あいつと結婚したのは、マジで人生の汚点」
夫婦仲は冷めきっていて、子供がいなければ離婚しているとのこと。
「甘やかされて育ったせいか、ろくに家事もしないし、アルバイトの金も入れないしで。俺だけの給料じゃ、かなり厳しい」
だが、彼は決して、私を責めたりはしなかった。
思慮深く、周りへの気遣いもできて、とても居心地がよかった。
ゲームや読書が趣味だと聞いたので、一度、私が書いた短編小説を読ませると「まさか、ここまで本格的に書いてるとは思わなかった」と驚かれたことがある。
遅出が終わり、駐輪場に行くと武田が自転車を出そうとしていた。
「お疲れ様」
「うぃ、お疲れ」
私は原付バイクで通勤していたが、彼と一緒に途中まで帰ることが何回かあった。
道路脇を二人で並んで歩く。
「認知症って、実際、どんな感じか考えたことある?」
話の流れは忘れたが、私は武田に聞いてみた。いつになく、真剣な表情をする。
「うぅん。まったくないわけじゃないけど、今、自分が何をしようとしてたとか、ここがどこかわからなくなったり、家族の顔もわからなくなったり。言葉の意味が、わからない。考えるだけでホラーみたいな気分になる」
「だよね。想像してみることはできても、なんかいまいちわからんのよ」
「……中学校のとき、仲良くしてるヤツがいたんだけど」
暗くなり街灯もまばらな道路で、彼のシルエットが浮かぶ。
「本当に、急に、学校に来なくなって、連絡も取れなくなった。だから、そいつの家に行ったんだけど。自分の部屋にひきこもってた」
「イジメられてたとか?」
「ちげぇよ。どっちかって言うと、俺ら、スクールカーストの上位組でモテてたし」
「あーそー」
「親も、ビクビクしてて。部屋に入ると、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋で、掛け布団を頭から被って、床に体育座りしてんの。声をかけても、うぅって唸り声をあげて。普通じゃない。布団を取ろうとすると、がぁって奇声をあげて抵抗するんよ。こっちも心配して見に来たのに、意味わかんねぇって。ムカついたから、無理やり剝ぎ取ろうと思って、しばらくやってたんだけど。バカみたいに力強くて。そんとき、身体が痒いと思って、腕を見ると、犬の毛みたいな束が付いてて。っつーか、知らん間に、全身に付いてて。
俺は、わけがわかんなくなって、おいっ、いい加減にしろ!って、掛け布団が千切れるくらい引っ張った。そのとき、すぐ後ろで犬の吠える声が聞こえて、びっくりして振り返ったら、レール式の押し入れに、ガァーって、犬が引っ搔いたような三本の線が抉るように付いて」
「えっ、急に怖い話? どういうこと? 噓でしょ?」
「信じられないっすよねぇ。俺には本当の体験なんだけど」
「マジ? その友達はどうなったの?」
「俺もそのあと、走って逃げたから。少しして、転校したから、それっきり。今でも、あれがなんだったのか、わかんない」
犬の吠える大声に、「うわっ」と声が出る。
犬のシルエットが、走り去った。
「びっくりしたぁ」
「ビビりすぎ。あいつは科学的に考えると、精神疾患とかだと思うけど。どうして、そうなったのかは、わからないけど。あの爪痕を立てたモノがあいつには見えてた。言葉も通じなくなってたけど。変な意味じゃなく、認知症に寄り添うってのは、難しいことだと思う」
私にとっては恐怖の体験談にしか聞こえないが、彼にしたら、友達をわけもわからず失った話だ。
人それぞれ、認知している世界は違う。
誰よりも恐れ、誰よりも嘆き、誰よりも絶望しているのは、罹患した患者本人だ。
自分にできることがあるのだろうか?
想像すらもできないのに。
お互いに、無言で暗闇の中を歩いた。
「僕は、介護が天職なんです!」
つづく。
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