約束
「池田は、どうして介護やろうと思ったの?」
灼熱の太陽に曝された休憩室。エアコンは、28度設定厳守。生ぬるい空気が、肌に纏わりつき、気持ち悪かった。
私は、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、隣の
彼女は、涼しい顔をして菓子パンを頬ばっていた。
「うーん。私の家って、母親が教師で、父親が市役所勤めなんですよ」
「サラブレッドやん」
「そんなことないですって。高校だって、〇〇高ですから」
県内でトップを争うほどの偏差値の高い進学校の名前をさらっと出し、この程度ですからと恐縮する。
私は、その偏差値の半分以下の高校に通っていた。生徒の自主性を尊重する、ユルい校風だったなと思い返す。
「いや、めちゃくちゃサラブレッドですやん」
「両親共働きで、小さい頃から一人でご飯作ったりしてたんですよ。料理を教えてくれたのは、おばあちゃんで」
「へえ、意外に家庭的なんだ」
「意外は余計ですよ」
「おばあちゃんは、優しかったんだね」
しれっと話題を逸らし、一口に放り込んだおにぎりをお茶で流し込む。
「株と土地を転がしてました」
お茶を吹きそうになり、慌てて口をおさえた。
頭の中に、和室でキセルの煙を吐き出しながら、こっちを睨みつける着物姿の豪傑な老女のイメージが浮かぶ。
「…ゴホゴホ。マジで言ってる? すごいね」
語彙力の限界を感じる。
「中学のときに、おばあちゃんが倒れて。家で介護してたんですよ」
「すごいね。そうなんだ」
だから、現場に入っても嫌な顔一つ見せなかったのかと合点がいった。
「親からは、大学行けとか、せめて介護はやめてくれって言われましたけど。なんか、自分の人生は、自分で決めたいじゃないですか。誰が、あんたの母親の面倒見たと思ってんだって言い返しましたけど。それから、あっ、今、彼氏と同棲してるんですけど、それもあって、親とは折り合い悪くなってて」
かなり踏み込んだ自己開示に、聞かなきゃよかったと思う。
「反抗期ってやつ?」
「違います。自立です」
「なんか、しっかりしてるな」
「囚われたくないじゃないですか。過保護すぎるんですよ。今さらって感じですけど」
池田は、私をまっすぐに見据えて、目の前の親に訴えかけるように言う。
きれいな瞳をしているなぁ。
アニメみたいにクリっとした大きな瞳は、陽に照らされていたせいか、星のように光を放っていた。
「そっか。一緒にがんばろう。応援してるから」
雑念を払うと、人生の先輩らしく言ってみたが、誰が言ってんだかと自嘲する。
表があれば裏がある。
小柄ながら、威圧感のあるオーラは、お局様という言葉ですら生易しい。一般職員としては、年齢が近いというのもあるだろうが、唯一看護師長とタメで話せる存在だ。
看護助手は、看護師、田中さん、患者様と気を遣わなければならず、出勤日が被る日は憂鬱な気分になる。
「なにサボってんのっ! 早く仕事して!」
田中さんの怒鳴り声に何事かと行くと、池田が患者様と一緒に驚いた表情をしている。
「サボってません。〇〇様の昔のお話を聞いていただけで」
「今、排泄介助中でしょ。ただでさえ、人手が足りないんだから、くだらない話なんかしてる暇はないでしょ」
「でも、介護の基本は傾聴ですよね」
「聞き齧った知識なんて、なんの役にも立たないの」
田中さんの後ろから、巨漢の
「そうそう。ボケた年寄りの話聞いて、お給料貰えるなら、こんな楽な仕事ないって。お嬢ちゃん、わかったら、さっさと動きな」
池田は、看護師連中からは『お嬢ちゃん』と小バカにされていた。
私は、二人の後ろから池田に目配せする。
“余計なことを言うな。反抗するな”
池田は、唇を嚙んでいた。
「誰が、そんな暴言吐いてるのかしら」
その声に、場の空気が凍り付き、稲葉看護師はそそくさと逃げていった。
看護助手チームには、二人の副リーダーが存在する。その一人が、依田さんだ。
表があれば、裏がある。
「いや、あたしは、お嬢ちゃんが――」
「誰が、お嬢ちゃんですって?」
「…池田さんが、サボっていたから注意したんです」
「サボるとは? 具体的には?」
「患者とダラダラとくっちゃべっていたから」
依田副リーダーは、わざとらしく溜息を吐く。
「なるほど。患者様と話すことがサボりになるのなら、何もしないで怒鳴り散らしている田中さんは、どうなのかしら?」
裏の支配者が、言い返せないところを見ると、
「はい、池田さんは、排泄に戻る。田中さんは、洗濯物をお願いします。これでも、先輩として頼りにしてるんですから」
猫撫で声で、あきらかにからかっている。新人にもできる洗濯物を推し付けたのが、その証拠。
看護助手チームの最終兵器。田中さんよりも怒らせてはいけない存在。
そんなことより、池田のあとを追う。
「おい、大丈夫か?」
「これくらい、想定の範囲内です」
大丈夫そうではない。
「池田が正しいよ。間違ってない」
私も少しは介護の本を読んで勉強を始めていた。
「…ただ、排泄を回っているときは、そっちを先に済ませてからって、あの人は言いたかったんだと思う」
「はっ? 私が悪いんですか?」
「いや、違うって。正しいことを言ってくれて溜飲が下がったけど、状況を考えて行動しなさいってことが言いたいんだって、多分。ほら、依田さんも、池田を排泄に回しただろ。多分、あんな考え方の田中さんを患者さんに触れさせたくなかったんだと思う」
「……わかりました」
清濁溢れそうな感情を呑み込み、そう呟く。
忙しく排泄介助を続けた。
「本当、あったまにくる」
依田副リーダーは、屋上に設置された喫煙所で丸椅子に座り、灰皿を蹴り飛ばしそうな勢いだった。
休憩中ではないのだが、喫煙者は中抜けして煙草を吸うことを許されていた。ひとえに喫煙者が多い職場だから、罷り通っているルールだ。
「池田のこと、ありがとうございました」
「私の前でナメた口叩かれたくなかっただけ。はぁ、リーダーがきちんと締めないから。あなたが言うように、支配されてるから、心を」
入社して一週間くらい経った日。
私は何気なく「ここって、実質、田中さんが支配してますよね」と言ったら、依田さんは目を大きくして「一週間しか経ってないのに。そこに気付くなんて、鋭いわね」と、多分、褒められた。
「そうなんですね」
「リーダーなんだから、もっと周りを見て、みんなをフォローしなきゃいけないのに。あの人、自分しか見えてないから。ぶっちゃけ、私に対抗心持ってるのよね。リーダーを決めるときも、本当は私がなる予定だったんだけど、子供のこともあるし、面倒だから譲ったの。それが、お気に召さなかったんでしょうね。あぁ、ごめん。こんな話、聞きたくないよね」
それぞれの溝は埋まらないほど、深そうだ。
「あぁ、いえ。別に。池田には、それとなく、フォローは入れたつもりです」
「池田さん、続けてくれると、いいんだけど」
「大丈夫ですよ。あいつ、俺より、仕事もできるし。しっかりしてるんで」
「だと、いいけど――」
含みのある言い方に、先を促す。
依田さんは、足を組み替えると、もう一本煙草に火を点けた。
「なんて、言うのかな。率直に言うと、優しさなんて、アテにならんってこと。特に職場では」
「どういうことですか?」
「潔癖な人間ほど、それが枷になるってこと」
ますます意味がわからない。えっ、意味なんてある言葉のなのか。
「わかんないなら、いいや。あなたは、そのままでいて」
失望の二文字を、身体が表していた。
「なんか、すいません」
看護助手チームの最終兵器が、長い煙草を吸い終わるまで、静寂に包まれていた。
「あんたらは、いいわな。寝てるだけで、飯も食えて、クソも始末してもらえるんだから。まったく、こっちも横になりたいわ」
今日も今日とて、稲葉看護師は、昼食の経管栄養の準備をしながら、患者様に悪態を吐いていた。
「すいません。そのような発言は」
「おい、池田」
パッド交換を終えた池田が詰め寄っていたので、手で制する。
「お嬢ちゃん、なぁんか文句あるの?」
「その、お嬢ちゃんってのも、やめてもらえませんか」
「右も左もわからない子供だから、お嬢ちゃんって言ってんの。一端の口を利きたかったら、早く出世することだね」
池田の小さな頭に、ポンっと大きなゴツい手を乗せる。
「あぁ、すいません。どうも、さーせん」
手を払いのけ、「さぁ、片付けに行こう」と促す。
休憩室では、池田が鏡を見ながら髪の毛を弄っていた。
「サイアク」
「最悪だな」
コンビニのおにぎりが、いつもより不味く感じた。
「あんなのが、看護師だなんて、信じられない。もう、これから、コワくて病院行けませんよ」
「わかるよ。俺も、爺ちゃんみたいに、病院嫌いになったわ」
お互いに無言で、ご飯を食べた。
「そうだ。この曲知ってる?」
気分を変えようと、YouTubeを開き、お気に入りの曲を選択する。
「わかんないけど、この曲、弾けそう」
「楽器やってたの?」
「高校の頃、バンド組んでて。ベース弾けますよ」
池田は、曲を聴きながら、ベースをイメージして手を動かす。
「君は、なんでもできるな」
「この曲、いいですね」
「でしょ」
「あぁ、またバンドやりたくなってきた」
身体をリズムに合わせて、揺らしている。
「いいじゃん。再結成する?」
「あぁ、でもダメですね。彼氏が男と会ったりするの、嫌がるんで」
束縛男かぁ。苦労するなぁ。
「っていうか、彼氏ってどんな人なの?」
池田は遠い目をする。
「高校の頃に働いてたバイト先の店長です」
マジっすか。
「てことは、年もけっこう離れてる?」
「一回り違いますね」
はい、逮捕。お巡りさん、彼氏、逮捕です。
「どうして、付き合うことになったの?」
「なんか、向こうは、面接したときから好きだったみたいで。ご飯に誘われて、最初は嫌だったんですけど、断れないじゃないですか。店長だし。で、待ち合わせ場所に行ったら、冬の寒い日だったんですけど、コート着てめっちゃ大人のコーデだったんで、なんか普段の仕事着とは違って。なんか、恰好いいなぁって思って」
「ギャップってやつだね」
「そう、それ」
私の顔を指して、納得する。
「今は、幸せなんだ」
「…まぁ、一応。いろいろ、ありますけどね」
「そっか」
「これ、なんて曲ですか?」
気に入ってくれたようで、嬉しかった。
「アンダーグラフのツバサ」
「覚えておきます」
彼女は、とびきりの笑顔だった。
それから、少しして、池田は欠勤した。
出勤してくると「昨日は、すいませんでした」と、白い目を向けながらも謝罪していた。
「体調不良?」
「女の子の日でした」
「そ、そっか」
あっけらかんと言われるが、答えに窮する。
親切丁寧な対応の成果があり、池田は、患者様から慕われていた。
東山・坂口のリハ助手コンビがエレベーターで患者様を誘導すると、いつも「私がふゆちゃんに連れてってもらうんだから」と、平和な争いが起きていた。まさに、アイドルだった。
「あんた、ナメてんの?」
「でも、おかしくないですか? 私たちが、必死にコール追ってるのに、少しくらい手伝ってくれても」
午後、排泄介助を回っている間も、コールは鳴り続ける。
「ヘルパァさぁん‼」
看護師の呼ぶ声がする。
少数で回っているのに、コールのたびに手を止め、対応しなければいけない。
しかし、看護師が手伝ってくれるなら話は別だ。
池田は、正しいことを言っている。
「じゃあ、あんたは、患者の命を救えるの? こっちは、患者の大事な話をしてんだけど。看護は医療、介護はそれ以外でしょ。だったら、ほとんどのコールはあんたらの受け持ちになるよね。ウチらの話を止めてまで手伝えってのは、患者の命を危険に曝すのと同義なんだけど」
私は、咄嗟に池田の前に出る。
「わかりました。すいません。失礼します」
そのとき、患者様の部屋から浜口リーダーが出てきたが、チラッと一瞥しただけで、他の患者様の部屋に入っていった。いや、逃げた。
池田は、頑なに動こうとしなかったが、無理に階段の踊り場まで引っ張ってくる。
「池田の言うことは正しい。だけど、正しいだけじゃダメなんだって。今は、我慢しなきゃ」
「あぁ、自己保身ってやつですか」
彼女は、疲れたように俯く。
「そうじゃなくて、俺も同じこと思ってたよ。あいつら、人をコキ使って楽しやがってって。でも、今の俺の立場じゃ言えないだろ。人それぞれ、積み重ねた年月は覆らない。まずは、どんなにイヤな相手でも、そこを尊重して――」
「……これだから、大人って信用できないんですよ」
彼女は、「わかった」と言わんばかりに手で制すると、仕事に戻っていった。
池田の欠勤する頻度が多くなり、一週間に一回休むようになった。
浜口リーダーから、初めての仕事の感想を聞かれ、自分の所感を述べた。
悪い人ではないし、向上心も人一倍あるのは理解しているが、私は不信感を募らせていた。
しどろもどろになっている浜口リーダーを見ると、胸がスッとした。
だが、池田に異変が起こっているのは明らかだ。
一週間に一回が三日に一回、二日に一回になり、やがて毎日、欠勤するようになった。
病院の裏手にある公園。
休憩室が息苦しいと思っている人間の憩いの場だが、まぁ、場合によっては、息苦しい元凶が来ることもあるんだけど。
柳先輩が、ベンチに座り、手を振ってきて、隣に促した。
「やぁやぁ、調子はどうかね?」
「まぁまぁって、とこです」
池田のことが気にかかる。
「まぁまぁでも、よいよい」
「……池田、大丈夫ですかね」
「えっ、知らないの?」
柳先輩は、ハッとした表情で口を噤んだ。
薄暗くなった公園で、ベンチに座り、スマホで電話をかけた。
長いコール音のあと。
「…はい」
池田が、電話に出た。
「なんで、言ってくれなかったんだよ」
「ごめん…なさい」
「謝らなくていいって」
足元の石ころを転がす。
「余裕なくて」
「こっちこそ、ごめん。俺のこういうところも、ダメだったのかなって」
「……大丈夫です。ちょっと、心の風邪ってやつなんで。気にしないでください。前から、こういうの何回かあったんで」
柳先輩から聞かされたのは、一昨日、母親に連れられた池田が、退職する意思を
「……ごめん。気付いてあげ、いや、気付いてたのに、何もできなくて」
「気にしないでください。悪いのは、私なんですから」
「池田はなにも悪くないって。俺、お前のこと尊敬してんだからな。あんなに患者様から慕われて。仕事も覚えるの早いし」
「努力しましたから。でも、がんばりすぎたみたいです」
彼女の努力に、私は追いつけていなかった。
いや、むしろ、池田がいなかったら、ここまでの期間に、こんなに仕事を覚えることもできなかった。
「池田の努力とか、なにも知らないのに、説教みたいなこと言って、ごめん。あんなに、まっすぐに看護師に、正しいことが言えるのはすごいよ」
「バカなだけですよ」
「そんな風に言うな。お前がいたから、介護をちゃんと勉強しようって思えたんだから」
「じゃあ、私の分まで、がんばってください」
その言葉に、二度と介護士として会うことはないと思った。
「わかった。でも、これから、張り合いってもんがさ」
「あらら、寂しんぼになってますぅ?」
少し、カラカラと笑う。
「からかうな」
「かわいいトコ、ありますね」
「まぁ、とりあえず、ゆっくり休んで」
「…はい。久々の実家なんで、ゆっくりできるかなぁって」
「親とは休戦協定結ばないと」
「彼氏のことも、いろいろと、ありますけど、今は、休戦ですね」
「よかった」
お互いに電話を切るタイミングを見失った感じで、しばらく無言が続いた。
「あっ、今度、ベース聴かせてよ」
「いいですよ。練習しますから」
「約束だからな」
グダグダな感じで、電話を切った。
「また、…一緒に、介護士として会えるよな?」
なんて、身勝手なことは言えないし、言うつもりもなかった。
これから、彼女には幸せな未来を築いてほしい。
見上げると、都会とは違って、澄み切った空に星が散りばめられていた。
「やっぱ、……寂しいよ」
やがて、星が揺らめいた。
「認知症って、誰が作るか知ってる?」
つづく。
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