衝撃

新人は私だけかと思っていたら、実は同期がいました。

高校卒業したばかりの池田冬華(仮名)は、物怖じしない勝気な性格で、初めての介護にビビっていた私とは対照的でした。

ボーイッシュな彼女の気安い雰囲気に、一回り以上の年齢差も気にならず、仕事やプライベートの話で盛り上がりました。


一般企業は、まず初日は内部研修や会社説明があるとは思いますが、そんなものはなく。いきなり看護師の申し送りからスタートです。


並いる看護師の前に、夜勤明けの看護師が立ち、わけのわからない専門用語を交え、患者様の話をしていました。各々、メモを取りながら、粛々と進行します。

夜勤明けの看護師の隣で、椅子にデンと座り腕組みした看護師長が、マリアナ海溝よりも深い縦溝を眉間に寄せ。目を瞑って聞き入っていました。


空気が重い。


池田を見ると、まったく気にしていない様子でケロッとしていて、さらに隣りでは看護助手リーダーの浜口絹子(仮名)が、レスリングでもやっていたかのような太い腕を動かし、メモ帳に殴り書きをしていました。


申し送りが終わると、新人二人の自己紹介です。


えっ? この空気でやるの?


自己紹介を終えると、歓迎ムードもなく、おざなりな拍手で解散。

後に、この対応の理由がわかります。


浜口リーダーに連れられ、一日の業務の確認をします。

まずは、朝の排泄介助。

四人部屋で間仕切りのカーテンを閉め、患者様に許可を得てから、パッド交換を教えてもらいます。饐えた尿に混じって、汗の匂いが漂います。

まったく気にならず、


まぁ、そんなもんだろうなぁ。


と、思った程度です。


自分たちも見よう見まねで、壊れモノを扱うような慎重さで、ゆっくり丁寧にやり、そこそこ時間がかかりました。


その間、「介護さぁん!」「ヘルパーさぁん!」と呼ぶ声がして、たびたびリーダーが抜けることがありました。


医療的な処置が必要な患者様は、看護師と一緒に排泄介助を回ります。


例えば、褥瘡

床ズレとも言います。

長時間椅子に座ったり、同じ体勢で寝ていると、背中やお尻が痛くなって体勢を変えようと身体を動かします。これを体位変換といいます。

皆さんも、学生時代に授業中に居眠りして、肘や腕が真っ赤になったことありませんか?

体重で圧迫されて、血流が滞っている状態です。


もし、そのまま、身体の痛みを無視して、ずっと同じ姿勢でいるとどうなるのか?

まず、皮膚が剥げます。

次に、肉が剥げます。

そして、穴があきます。

まぁ、これは極端な話ですが。

摩擦やズレが生じると、褥瘡リスクを高めます。


患者様の場合、年齢もあり、栄養状態や皮膚が弱っている、排泄物で皮膚がふやけている等の理由があります。ご自分で、体動できない方もいらっしゃいます。

日頃から、体位変換を行って、褥瘡ケアに努めているのでしょうが、それでも褥瘡を発生させてしまいます。


今にして思えば、器具不足は否めない。マットレスは普通の固いままだし、体位変換のクッションも使い古してデロンデロンになっていました。

そして、スタッフの知識経験技術不足。

もしくは、知識はあっても、重いという理由から患者様の身体を引っ張る(パッド交換、ギャッジの上げ下げの後、身体がベッドの中心から下がるので、枕元まで上げる)行為をしています。

器具不足は別にしても、これでは褥瘡リスクは避けられません。


そのときの自分は、そうとは知らず、ただ肉の削げた丸い穴から滴る血液や黄色い粘液に、顔を顰めそうになりました。


「うー、んー」


患者様の唸る声が、怖かったです。


「はいはい、痛いねぇ。もうちょっと辛抱しい」


配慮の欠片もない看護師の声掛けに、これが普通なのか? 疑問を抱きます。


排泄介助が終わると、赤いバイオハザードマークのついたダンボールに、使用済みのパッドを捨て蓋をガムテープで閉めます。


浜口リーダーは、

「排泄介助、大丈夫?」

と、聞いてきました。


二人とも問題ないことを伝えると、

「良かった。たまに、排泄介助が無理なんで辞めますって人がいて。何しに来たんだろって思うよね」


とりあえず、一つ目の関門はクリアしたようです。


「うちのベッド、五〇床あって、だいたい三人くらいで回って、一時間で終わるようにね」


えっ? ってことは、一人当たり一六、七人を交換するとして、一人にかけられる時間はせいぜい三分半が関の山。


ムリムリ!

絶対にムリ‼︎


目の前が暗くなる思いです。


「おはよぅござあいまぁす‼︎」


明るい声に振り返ると、ケーシージャケットの上下を着た二人の女性がエレベーターから降りてきました。


身長が高くボーイッシュな東山志乃(仮名)と、キャバ嬢のような濃いメイクに巻き下ろしの髪を後ろで束ねた坂口芽以(仮名)。

二人はリハ助手で、これから患者様をリハビリ室に誘導するとのこと。


軽く自己紹介をして、バタバタとエレベーターに誘導します。


「君が新人だね。よろしく」


一般病棟の看護助手、武田敦彦(仮名)が馴れ馴れしく握手を求めてきた。


「よ、よろしくお願いします」

「やっと、男が入ってきてくれて嬉しいよ。今後とも、よろよろ」


嵐のように去っていった。

なんだったんだ? あの人は。


昼食の時間。

ワゴンで、患者様のご飯が運ばれてきます。

まず、名前と顔が一致していないので、教えてもらいながら配膳します。

お茶に見慣れない白い粉を混ぜていたので、リーダーに尋ねます。トロミと呼ばれる粉で、嚥下能力の落ちた患者様でも飲み込めるようにするものだと説明を受け、今まで考えもしなかったことに新鮮な驚きがありました。


患者様に介助とは言えないながらも、ゆっくりおずおずと教えられた通りに、口元にスプーンを運びます。


「遅い‼︎ 患者に合わせるんじゃなくて、こっちのペースで合わせろっ‼︎」


突然、庄賀紀子看護師に怒鳴られました。

細く鋭い目付きに、息を呑みます。


「見てな! こうするんだよっ!」


患者様の口に、咀嚼が終わると次、終わりかけでも次とスプーンを運び、休まる暇がありません。

リーダーや他の看護助手は、顔を伏せています。


「うー、むー」

顔を顰め、患者様が何かを訴えます。

「うるさい。食べなきゃ死ぬ。死にたくなかったら、早ぅ食べ」

すぐにお皿の半分近くまで減っていました。


「トロトロすんなっ」

「あっ、あぁ、すいません」


何が起こったのか、よくわからないまま昼食介助は終わりました。


昼休憩も、落ち着きません。病院の屋上に、喫煙所があるんですが。

だって、そこには、師長や庄賀看護師もいますから。

味のしない食事を終えると、午後の始まりです。


この時点で、だいぶ心折れてます。


昼は洗濯物、排泄介助、コール対応に大忙しです。

池田は優秀で、何事も卒なくこなしていました。

私はついていくのがやっと。


仕事終わり。看護部長の久石智美が、挨拶に来られた。

艶のある黒髪のボブカットにロイド眼鏡が淑女然としていて、上品な印象だった。


「どうでしたか?」

「いや、もう、わかんないことだらけで」

「そうでしょう。これから期待していますからね」

「あぁ、はい」

歯切れの悪い私に対して、池田は、「はい」と元気よく応えた。


長い一日が終わりました。


これから、やっていけるのか不安に襲われ、明日から行きたくないなぁと思ってしまいます。


そして、月日は流れ。

一ヶ月が経ちました。そして、池田はちょくちょく休むようになりました。


出勤してきたときに体調を聞くと、


「大丈夫です」「女の子の日です」


と、ケロッとしていました。


一ヶ月も経つと、少しずつ嫌なところも見えてきます。


こっちが排泄、洗濯物、入浴、食事と忙しく休む間もなく動いているのに、「ヘルパーさぁん!」「介護さぁん!」と看護師に呼ばれます。

何事かと行くと、大したことのない話や用事ばかり。


ある日、「ヘルパーさぁん!」と呼ばれたので行くと、一人の患者様に褥瘡ができていました。

「あんた達、毎日、クソの世話をしてて、何も気付かなかったの!? バカじゃないの‼︎」


巨漢の看護師、稲葉京子(仮名)が捲し立てます。


リーダーはただ、「申し訳ありません」と頭を下げていました。


その患者様は、いつも看護師と看護助手が二人で排泄介助と処置をしていたのに、なぜこっちに全責任を押し付けてくるんだと、さすがに怒りを覚えました。


午後になると、看護師は患者様の日誌を書くのですが、その間、ナースステーションは井戸端会議の会場になっていて、お菓子を摘みながら、ムダ話に華を咲かせていました。

コールが鳴っても、「ヘルパーさぁん!」で、終了です。



それから、少しして。

浜口リーダーに呼び出されました。


「入社してから、一ヶ月と少し経ったけど、どうかな? 仕事の方は慣れたかな?」

「あぁ、はい。まぁ、ボチボチです」

「なら、良かった。なにか意見があったら、なんでも言ってね。新人の意見は、貴重だから」



「あの、一ついいですか?」

「うん」

「看護助手は看護師の奴隷ですか?」


自分が感じた素直な感情を率直に言うと、浜口リーダーは絶句。


「……えぇと、どういうことかな?」


ようやく、それだけ搾り出すと、音を立てて唾を飲み込む。


私は、今まで自分が見たこと、感じたことを伝えます。


「そ、そうか。まぁ、そうだね。そういう見方もあるとは思うけど、まぁ、今後、改善に向けては、師長や部長と話して、前向きにね、こう、していかないと」


しどろもどろに言う姿に、普段の毅然とした様子はありませんでした。



昼休憩になり、館内全面禁煙にルール変更があり、病院の目の前の公園が喫煙所として機能するようになっていました。


公園に行くと、看護助手の先輩、柳美希(仮名)がベンチに座って、タバコをプカプカしていました。

いつも、ふわふわとしていて、とても年上の人妻とは思えないほど、子供っぽい感じで、ご飯の代わりにお菓子ばっかり食べている人でした。


「面談どうだった?」


先程の経緯を説明すると、


「ういぃ、言うねぇ。さっすがぁ、男の子」


なんか、こちらの本気を茶化された気がする。


「ごめんごめん。君にひとつ、教えてあげよう。ここで長く働きたかったら、何も見ないこと、聞かないこと、感じないこと」

「柳さんは、それでいいんですか?」

「私は、馴れちゃったから」


伏目がちに言うと、タバコを携帯灰皿に押し込み、チョコを口に放る。


「ここね。新人が入っても、すぐに辞めちゃうんだぁ。まぁ、仕事も空気も重いしねぇ。だから、みんな、コイツは何日持つのかなって思うんだ」


初日の態度の理由がわかった。


「そんな、それじゃ、何も変わりませんよ。自分たちでクビを絞めてるようなもんですよ」

「まぁねぇ。でも、どうしようもないよ」


お互い、沈黙する。


「あっ、ふゆちゃん、どう? 最近、休みがちになってるから」

「まぁ、ただの病欠っすよ」

「そっかぁ。なら、いいや。二人は、付き合ってるの?」


はぁ‼︎


「どこをどう見たら、そうなるんですかね?」

「あれ、違うの? 仲良いから」

「いやいや、池田、彼氏いますよ」

「そうなんだぁ。やーい、残念」

「何歳、離れてると思ってるんですか」

「年は関係ないよ。まぁでも、人生の先輩として、ちゃあんと、…守ってあげてね


妙に真面目な物言いに、


「そんな、大袈裟な」


一笑に付す。

煙がゆらゆらと風に揺れて、消えていった。




















「また、一緒に、…介護士として会えるよな? ごめん。気付いてあげられなくて……」


つづく。

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