不安

私は、地元に戻ってから、ダラダラとフリーター生活を送っていました。夢や目標はなく、やりたいこともない。求人誌をナナメ読みする毎日。年齢も大台に迫ってきて、ムダに焦りだけが募る。

そんな折、バイト先の先輩に、結婚を機に退職した元介護士の方がいました。

「君は、優しい人だから、きっとできると思う」

初めて、人に褒められた瞬間でした。

頭の中で、介護に対するイメージが検索されます。

オムツを交換して、ボケた老人の相手をして。ご飯を食べさせてあげて。


祖父が亡くなる前、私は中学生でした。年中、酒臭く、四六時中酔っ払っていて、よく家族に絡んできてました。

祖母から伝え聞く話では、酒、タバコ、女、ギャンブルで山や畑、時計から宝石まで、すべて売り払った。散々、泣かされてきた。

祖父は大の病院嫌いで、一度畑の手入れをしているときに、植物の葉で眼球を切ったことがあります。目から出血して、ダラダラと血が止まりません。

それでも、病院に行かずに自然治癒に任せていました。

そんな祖父が、ある日おかしくなりました。

突然、無言で暴力を振るったり、オシッコやウンコをトイレではないところでしたり。祖母が泣き叫びながら、トイレまで連れて行ってた姿に、恐怖を感じました。

ただごとではない事態に、祖母が病院に連れて行きました。病名まで詳しくは知りません。なんとなく、オシッコの毒素が脳に回っておかしくなったと聞きました。

祖母は涙を堪え、

「今まで、好き放題にしてきたバチが当たったんや」

待合室でそう吐き捨てた祖母の身体は、小さく震えていました。

「うううううう、痛い痛い痛い」

診察室から祖父の呻き声がひっきりなしに聞こえ、祖母は仏様に手を合わせ、お経を唱えます。

やがて、診察室から担架に乗せられた祖父が出てきて、手を振り回しながら喚き声をあげます。

担架からぶら下がった袋には、血が混じった黄色い液体が入っていました。

そのときは、意味がわかりませんでした。

その後、祖母も母も、皆、おかしくなりました。

言葉を介さず、常に惚けて、たまに独り言を捲し立てたり。

これは誰だ?

私は、恐怖から自然と、お見舞いにも行かなくなりました。


だから、優しくないのは誰よりも知っています。

ただ、尊敬していた先輩に、そんなことを言われて藁にも縋る思いで、とある医療法人の看護助手の面接を受けました。

初めての正社員の面接。着馴れないスーツが、やけに緊張を誘います。

狭い会議室に、院長、事務長、看護部長、介護療養病棟と一般病棟の師長。看護助手のリーダーと副リーダー。

総勢、八名の役職者に囲まれては、もはや袋のネズミ。蛇に睨まれたカエル。

息苦しさに、口の中がカラカラに渇き、じっとりとした冷や汗が脇を濡らします。

言葉は拙く、自慢できる経歴もなく。今できる最大限の言葉を紡ぎます。

その場で採用を言い渡され、呆気に取られている私に、八人の大人が、お互いの心中を探るような顔で薄ら笑いを貼りつかせていました。

どっかで見たな、この光景。あぁ、政治家が会談しているニュースに似ているな。

どこか他人事で、「おめでとう」「一緒に働けるのを心待ちにしているよ」

熱の籠った言葉は、私を素通りしていました。


採用になったことを先輩に報告します。

「やったじゃん! がんばりなよ!」

肩を叩いて、力強い言葉が嬉しかったのですが、まだ現実感がなかったです。

「……まぁ、何かあれば、連絡ちょうだい。その、介護士の先輩として、相談くらいは乗るからさ」

いつになく真剣で、浮かない表情を浮かべる先輩。

「大丈夫です。がんばりますっ! お世話になりました」

心許ない自分を憂いてほしくないので、カラ元気を出します。

「イヤになったら、いつでも戻ってきなよ。その、いろいろと大変だから」


このときの私は、先輩の言葉の意味を咀嚼せずに、

正社員として採用された事実を実感できるようになると、浅はかにも、これで月給も上がりボーナスも手に入る。人並みに胸を張って生きられる。引け目を感じることはない等と軽く考えていました。


本当に愚かです。

これから、地獄が始まるとも知らずに。


私は、働き始めてからひとつの疑問に行き当たります。
















「看護助手は、看護師の奴隷ですか?」



つづく。

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