蟷螂女
遠宮雨
第1話 蟷螂女(とうろうめ)
『蟷螂女』
この山には、
蟷螂女というのは山怪である。
山に住み、種類を問わず獣の肉を食べて暮らす。蟷螂女に雄はおらず雌しか生まれない為、人間の男と番って子を産む。
蟷螂女の姿はひとつに定まっておらず、母親が食べた獣の姿かたちがその子供に引き継がれる。狸、雉、鹿、狐、狼、あるいは熊など。身ごもった母親はひときわ腹を空かせるらしく、兎から熊までなんでも襲って喰う。稀だが人里に降りて家畜を襲うこともあり、それらを喰った母親からは牛馬などの特徴を継いだ子供が生まれてくる。
ただひとつだけ、どの子供にも共通していることがある。蟷螂女はそのどれもが、人間の女の顔をしているのだ。
その顔は花のようにたおやかで美しく、さながら天女のようだという。ひとたびその顔で微笑みを向けられればたちまち男は魅入られたようになり、さまざまな獣の入り混じったその体もまるで何か神々しいもののように感じて、誘われるがままに山の奥深くまでついていき、蟷螂女の夫となる。
蟷螂女の名前は文字通り蟷螂虫に由来する。身ごもったそれはさながら虫のように己が夫を喰らうからだ。
昔の話をしよう。昔といっても数十年前の話だ。
ここいらの山に吾作という名の猟師がいた。
吾作には女房と生まれたばかりの子がいた。その年は稀に見る不猟で山の中から獣という獣が姿を消しており、吾作の家は食うにも困るほどだった。ある日とうとう女房は乳も出なくなってしまい、このままでは一家全員飢え死にしてしまうというような状況だった。
やむなく吾作は猟銃を手に、普段は立ち入りを禁じられている山の奥まで猟に出た。
そこが禁じられているのには理由があった。古くからそこは蟷螂女の住処だと言われていたからだ。
たとえ女房がいようが子がいようが蟷螂女の美貌を目にしたが最後、みな魂を抜かれたようになるという。
だが、ここで獲物を狩らなければどのみち女房子供は飢えて死ぬ。吾作に迷っている余裕はなかった。
分け入った山奥は不気味なほど静かだった。鳥の鳴き声一つしないのだ。生きているものの気配はまったく感じられなかった。
それでも吾作は、自身も飢えと疲労で血走った目で注意深く辺りを見てまわった。そうしてしばらくすると、一つの足跡を見つけた。
蹄が二つ。それはカモシカの足跡だった。奇妙なことにその足跡はひどく左右に揺らめいており、ふらつきながら歩いていったようだ。足跡と共に点々と連なる血の跡から、そのカモシカの身に常ならざる何かが起きたことは明白だった。
血の乾き具合から、獲物がここを通ってからまだそう時間が経っていないことが見て取れた。気づかれないよう気配を殺しながら、慎重に吾作は足跡を辿っていった。
ほどなくして足跡の主は見つかった。
その四足はたしかにカモシカのものであった。しかしその尾は狸、胴は猿、四足とは別に熊の両腕、そして――人間の女の頭。
大きな杉の木の根元に上体をもたせかけたその蟷螂女はすでにこと切れていた。胸には袈裟斬りにされた大きな傷があり。おそらく熊にやられたのだろう。その両腕の元になった熊の、あるいは敵討ちかもしれない。かっと見開かれた両目はすでにどこも見ておらず、一目で絶命しているとわかるものの、それでも点々と飛び散った地で化粧したそのかんばせは吾作に一瞬すべてを忘れさせるほどに壮絶で美しかった。
我に返った吾作はほっと息をついた。近頃の不猟はきっとこの蟷螂女が山中の獣を喰い荒らしたのが原因だろう。その元凶がこうして死んだ今、徐々にではあるが山はもとの形を取り戻すことだろう。
しかしそれはもう少し先のこと。今は目先の飢えを何とかせねばならない。
吾作は目を閉じ、しっかりと手を合わせてからナンマンダブ、ナンマンダブと口に出した。たとえ化け物相手とて、人の顔をしたものの体を切るのには躊躇いがあった。それでも、喰わねば生きてはいけない。
吾作は蟷螂女を仰向けにした。まずは足のカモシカの肉を分けようとして、その腹がわずかに動いているのに気付いた。――中に赤子がいるのだ。
ほんの一瞬、吾作はこのまま何も見なかったことにして腹の上からまっすぐに山刀を突き立てしまおうと思った。実際に彼はそうしようとして、両手で柄を握った山刀の刃を皮一枚の所まで刺しこんだ。そのまま根本まで貫いてしまわなかったのは、家で女房と一緒に自分の帰りを待っているはずの生まれたばかりの我が子の顔が頭の中に浮かんだからだった。
山刀を片手で握りなおし、吾作は慎重に刃をすっと横に引いた。裂けた腹の中から生暖かい湯気が立ち上る。
おそるおそる、裂け目を手で広げ吾作は中を見る。
ぴくりとも動かないそれを、最初は死んでいるのかと思った。しかし外気に触れたためか、それは大声で泣き声を上げ始めた。餌を求める雛鳥の鳴き声のようなそれは、明らかに人の声ではなかった。
へその緒で繋がれたそれは腹から上は確かに人間の赤子だったが、両足は猿、尾は狐のそれだった。形から女であることがわかった。母親に比べて人間の部分が多い理由について考えて、吾作は先日噂で聞いた、山向こうの村が鉄砲水にのまれて消えたという話を思い出した。ひょっとすると、鉄砲水にのまれる前にすでに村の人間は化け物の腹の中に消えていたのかもしれない。
赤子は大粒の涙を流しながら、目を開けて吾作の顔を見た。黒々と濡れたその瞳はなんの穢れもない無垢そのもので、生まれた時の息子のそれとそっくり同じものだった。
吾作は山刀で臍の緒を切ると、そっと胎の中から血に塗れた赤子を取り上げた。
吾作の胸に抱かれた赤子はしきりにごそごそと両腕を動かして、何かに吸い付こうと口をもごもごさせている。どうやら乳を探しているようだ。
死んだその子の母親を見るとその乳は大きく張っており、吾作が赤子をそこへ近づけるとしっかりと乳に吸いついた。
吾作は赤子の好きなようにさせ、自分の飲み水の入っていた革袋の口を空いているほうの乳へ寄せる。愛しい我が子に持ち帰るため、押すといくらでも出てくるそれを袋がいっぱいになるまで貯めた。
やがて赤子は腹がいっぱいになったのか、両目をつむり静かに眠り始めた。抱き上げ、着物で包むと吾作はその子をそっと母親の目に触れないところに寝かせた。
そうして吾作は蟷螂女の体をすべて捌いた。
獣の部分の皮と肉を丁寧にとりわけ、人の形をした頭は木の根元に穴を掘って埋める。
石を積んで塚を築き、もう一度念仏を唱える。
肉と皮と乳と、それから着物に包んだ赤子をしっかりと胸に抱いて吾作は山を下りた。
あるいはこの時すでに、吾作は蟷螂女に魅入られていたのかもしれない。
山を下りた吾作は家へ帰ると、女房に肉を食わせ、息子に乳を飲ませた。
すでに泣く元気もなかった赤子だったが、吾作の持ち帰った乳を口に含んだ途端におぎゃあ、おぎゃあと大声で泣きだした。肉を喰らった女房もまた、やつれきっていたのがみるみる生気を取り戻し、乳もあふれんばかりに出るようになった。
腹いっぱいになるまで息子に飲ませてもまだ溢れる乳をこの子にも飲ませてやってほしいと、吾作が着物に包んで連れ帰った女の子を見せると女房は大層驚いた。蟷螂女の赤子というと女房は嫌がるそぶりを見せたが、先ほどの肉がその母親のものであることを伝えると、その肉で命を繋いだからには子を見捨てれば何かおそろしい罰があたるに違いないと女房は震えあがり、そうして女の子にも乳を飲ませ始めた。
そうして女の子は、吾作と女房の子として育てられることになった。
夫婦の実の子である息子を兄とし、女の子はすくすくと育っていった。
吾作の息子と娘はそろって十七になった。
吾作の女房は子供たちが十の年に流行り病で死んだ。
息子の安吉は逞しい若者に成長し、吾作と一緒に猟で山に入るようになった。
娘は料理や洗濯といった家のことを担うようになった。成長したその顔はあの日にみた蟷螂女の母親にそっくりで、まるで天女のように美しかった。
けたたましい雛鳥のようだった声はいつからか鶫の囀りそっくりになっていた。だから吾作と安吉は娘のことをつぐみと呼んでいた。
つぐみはキョキョキョとしきりに鳴いては何かを伝えようとしてくるが、吾作にはそれが鳥の鳴き声にしか聞こえない。しかし幼い頃から共に育った安吉にはつぐみの言葉が分かるようで、やれ今日はわらびがたくさん採れただの、漬物がうまくこさえられただの、そんな他愛もないことをつぐみの代わりに吾作に伝えてきた。かと思えば、つぐみはわざわざ安吉の耳元に口を寄せ、安吉にしか理解できない言葉でこそこそと内緒話をしてみることもあった。あまり表情の変わることのない安吉だが、その時ばかりは眉尻を少しさげ、同じようにつぐみの耳元に内緒話を返してやるのだった。
蟷螂女は主に獣の肉を喰らうとされているが、つぐみは稗も粟も野菜も山菜も、なんでもよく食べた。しかしやはりことのほか好きなのは鳥獣の肉のようで、中でも雉の肉を好んで喰らった。
つぐみはその暮らしのほとんどを家の中で過ごした。女だから猟に連れていけないのはもちろんのこと、麓の村にも一人きりで行くことを吾作は固く禁じていた。もしも何かの拍子につぐみが人でないことが知れたらただでは済まない。猿の足を隠すため、生活に必要な畑仕事や洗濯、水汲みなどで家の外に出るときは必ず、夏でも足をすっぽり覆う藁沓を履いていくようきつく言いつけた。
麓の村には年頃のつぐみを嫁に欲しいという男が何人もいた。どうしても必要がある時は吾作か安吉と連れ立って村に降りることもあり、そこでつぐみの美しい姿を目にした男はたちまち心を奪われた。生まれついてのものだと話していた言葉の話せないのも、まめまめしい働きぶりの前では些細なことだと気に留めるものはいなかった。それでも吾作はけしてうんとは言わなかった。夫婦ともなればどうあってもつぐみの秘密を隠しとおせるわけがないのは火を見るよりも明らかだった。それでもつぐみを嫁に欲しいという男はひっきりなしに現れ、いつしか吾作か安吉のどちらかが猟に行っている間、どちらかは家に残ってつぐみの側につきそうようになった。
その日、猟に行っていた吾作が家へと戻ると、どこか嬉し気な顔をした二人に出迎えられた。
何事かあったのか尋ねると、猟の帰りに道に迷った殿様がこの家を訪れ、一杯の水を所望したというではないか。
驚く吾作にさらに告げられたのは、水を差しだしたつぐみは殿様に見初められ、お城に召し抱えられることになったということだ。
吾作は頭を抱えた。つぐみの正体を知ればきっと殿様はつぐみを斬り殺してしまうだろう。そのような娘を差し出した自分たちもただでは済むまい。さりとて、殿様の命を拒んでつぐみを差し出さなければ、どの道同じ運命をたどることになるのだ。
お城からの迎えがくるという十日後まで、吾作はまるで生きた心地がしなかった。それでも体は猟にいき、淡々といつも通りの仕事をこなした。
つぐみは終始嬉しそうで、迎えを今か今かと待っている様子だった。それは安吉も同じで、二人で内緒話をしてはくすくすと笑いあっている。吾作はもう、内容を聞こうという気にもなれなかった。
十日経って、お城から来た迎えの輿に乗せられ、つぐみは去っていった。
結局何もできないまま、吾作はただ茫然とそれを見送った。
安吉は見送りに来なかった。朝早くから猟にでかけ、夜帰って来た時その手には撃ち落とした雉の足がいくつも握られていた。
慣れた手つきで羽根をむしる安吉を横目に吾作は早々に眠りについた。
明日にはきっと、城から刀をもった侍がやってくるだろう。そしてそれが自分の最期なのだ。
逃げる気力も湧かず。薄いせんべい布団の中で吾作は目を閉じた。
つぐみが家に帰ってきたのは夜の明ける頃だった。
いやに朝鳴き鳥がうるさいとは思った。それがつぐみの声だと分かった途端、吾作はがばりと布団から跳ね起き、寝間着のまま草履もはかずに外に飛び出した。
まだ日の光も届かない木々の薄闇の中にそれはいた。
城で着せられたのだろう。みたこともないようなきれいな着物を着ていた。裾の長い着物は猿の足を覆い隠し、本当に天女にしか見えない。それがひたりと一歩こちらに足を踏み出したとき、朝日に照らされた白いおもてを彩るように真っ赤な紅でそまった唇が見えた。口の端からつぅと紅が滴り落ちる。紅だと思ったそれは血だった。
満足したか。――と後ろから声がした。
振り向くと、安吉がいつもの通り眉尻を少しさげた笑みを浮かべてそこに立っていた。
目の前の女の口元は歪み、そこから鳥の鳴き声がする。
しょうのないやつだなあと言って安吉は女に近づき、そっとその体を抱きしめた。
なぜだかその瞬間、はじめて吾作はつぐみの言葉を理解できた。
それは安吉に向かってこう言っていたのだ。
あにさま、おなかがすいたよう、と。
――旅の途中に山道で迷い、雨に降られて途方に暮れていた私は山の中に一見の小屋を見つけた。
無理を承知で雨宿りを乞うと、そこに住んでいた老人は冷えた体を囲炉裏にあてるよう促し、白湯を振舞ってくれた。
そうして濡れた衣服を乾かしている間、暇潰しにと語られたのが先ほどの話だった。
確かに、十数年前にこの辺りを治める領主の城から一夜にして人が消えた話は聞いている。
しかしそれは家臣たちの謀反という話で、城中の人間を殺した後下手人も自害し果てたと。
そのような人外の化け物に喰い荒らされたなど、到底信じられる話ではなかった。
しかしこうして親切を受けている手前そうと口にできるわけもなく、なんとなく気まずさを覚えた私は話を変えることにした。
「ところで、こちらにはおひとりで住まわれているんですか?」
「いや、娘と孫娘と一緒だ。――息子もいたんだが親を置いてとっととおっ死んじまってな」
聞かなければよかったと心底後悔した。私が言葉を失っていると、家の中に二人の女性が入ってきた。
ひとりは中年の女だった。老いによる衰えはあるものの、若い頃はさぞ美しかったのだろうというのが見て取れた。
「遅かったな」
「雨降ってきたから。通り雨だったから止むの待ってたの」
雨に濡れた顔を手ぬぐいで拭いながらそう答えたのは、もう一人の年若い少女だった。
手ぬぐいから少女が顔を上げた瞬間、私は息をのんだ。その少女があまりにも美しかったからだ。
天女のよう、といった言葉すら陳腐だ。たとえようもないというのが正しいだろう。
真っ白な肌。黒々とした瞳。そして赤い小さな口。そのどれもが完璧な造形で整えられた顔に私は釘付けになった。
少女がこちらに気づいて視線をよこすまで、私は彼女から目を離せないでいた。
「じさま、この人は?」
「……旅の人だ。雨に降られて難儀していたから少し休んでもらった」
老人の言葉に、中年の女がこちらに軽く会釈した。さっきからこの女だけは一言も言葉を発していない。
「まあ、それは大変だったでしょう」
少女は私に近づき、その小さな両手でぎゅっと私の手を握りしめた。
にこりと少女は微笑み、可愛らしく小首をかしげた。それにあわせて濡れた髪の房が額をすべる。
その濡れた黒髪の中に一筋、奇妙な色を見つけ目を凝らす。
それは雉の風切り羽だった。どう見ても少女の頭から直に生えている。これは奇妙なことだと頭の片隅で思ったが、少女の笑顔を見ているうちにそんな些細なことはだんだんと気にならなくなってきた。
「あなたさえよければ、いつまでだってここにいてくださいな」
私は頷いた。迷う余地などなかった。ぱっと少女の頬が朱に染まり、喜色満面といった表情になる。
視界の隅では同じく嬉しそうな顔をした女がいる。老人のほうはそっぽを向いているせいでどのような顔をしているのか見えない。しかしそれもまた些細なことだ。
「……だから最初に言ったじゃねえか」
ぽつりと小さくこぼれた老人の声はもう誰の耳にも届かない。
――この山には、蟷螂女がいる。
蟷螂女 遠宮雨 @tonomiya_full
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