第6話 カスティーリャ王国って何?
「カステラなのじゃ〜」
「はい?」
イザベルちゃんが、突然わけの分からない事を言うのはしょっちゅうであるが、今回のはさらにわけがわからず、じいは目を丸くする。
まあ、お菓子のカステラはカスティーリャ王国の名からきていると言いたいようだった。
ちなみに、カステラは日本のお菓子で、カスティーリャ王国や、その周辺にはない。
それで、カスティーリャ王国であるが、それは、イスラームと神聖教勢力の戦いの歴史でもあった。
まずは、711年、グアダレーテ河畔の戦いでイベリア半島をイスラーム勢力である、ウマイヤ朝が征服し、西ゴート王国が滅亡する。
その中で、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国したのだった。
そして、アストゥリアス王国は、イスラーム勢力と戦いつつ、徐々に勢力を拡大。
そして、軍事的拠点となるレオンを占領すると、レオン王国と名をあらためたのだった。
そのレオン王国の東部地域は、メセータと呼ばれる周りを山々に囲まれる高原が広がっており、常にイスラーム軍の侵攻ルートとして使われ、戦闘が繰り返されていたのだそうだ。
この地域の住人は、防衛のため多くの城塞を作ったのだそうだ。この地域がカスティーリャと呼ばれるようになったのは、スペイン語で城を意味するカスティーリョに由来するのだそうだ。
当初この地は複数の伯領に分かれていたが、最前線としての軍事力強化を目的として、932年にカスティーリャ伯領として統合したのだった。
こうしてカスティーリャ王国のもととなる、カスティーリャ伯領が誕生したのだった。
そして、カスティーリャ伯は、レオン王国の支配力を徐々に排除すると、961年には事実上独立を果たしたのだった。
一方、イスラーム勢力と友好関係を持ち、イベリア半島で勢力を拡大した国もあった。それが、バスク人の王をいだく、ナバーラ王国だった。
そのナバーラ王国だったが、周辺の同じ神聖教国と戦いつつ勢力を拡大させ、1029年に、カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されると、その妹を妃としていたナバーラ王サンチョ3世が伯領を継承し、ナバーラ王国に併合する。
このナバーラ王サンチョ3世は傑物と言われ、急激にナバーラ王国の領土を拡大、レオンをも占領し、最大版図を作りあげたのだった。自身をイベリア王と自称もしたそうだ。
そして、このサンチョ3世は、亡くなるとき、その領土を息子達に、分割統治させる。
長子である、ラミロ1世には、庶子であったので、新しく作ったアラゴン王国を。これが、アラゴン王国の成立であった。
次男であるガルシア3世には、これを嫡男とし、ナバーラ王国を継承させる。
三男のフェルナンド1世には、カスティーリャ王国を継承させる。さらに、フェルナンド1世は、領土奪還を狙ったレオン王ベルムード3世を破り、レオン王にも戴冠するのだった。
四男もゴンサロには、ソブラルベ伯およびリバゴルサ伯を継承させたのだった。
こうして、再びアラゴン王国、カスティーリャ王国、ナバーラ王国と分かれる事になったが、領土を拡大していく、アラゴン王国、カスティーリャ王国とは違いナバーラ王国は有名無実化していくこととなるのだった。
では、アラゴン王国、カスティーリャ王国はどう拡大していったかというと。
まずは、アラゴン王国だが、カタルーニャ君主国との連合王国を形成し、アラゴン連合王国と呼ばれる事になった。
カタルーニャ君主国は、アラゴンとは別の起源をもつ地域で、801年にカロリング王朝のルイが南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北東部のバルセロナをイスラームから奪回したのが始まりとなった。
フランク王国のスペイン辺境伯領として成立し、住民は南フランスのセプティマニアから来た者が多かった。
このため今日でもこの地方の言語(カタルーニャ語)はスペインの他地域とは異なる。
やがてフランク王国の解体によって政治的に自立し、現在のカタルーニャ州に当たる地域はバルセロナ伯領(カタルーニャ君主国)となったのだった。
アラゴン王家はこのバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。
アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス(議会)を持ち、法制度の違いも残ったが、2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合されたのだった。
こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立したのだった。
一方の、カスティーリャ王国だが、フェルナンド1世の死後も分割相続されたが、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世は弟や妹らの領地を力ずくで再統合すべく行動を起こす。
しかし、最後に残った都市サモラを攻囲中の1072年にサンチョ2世は暗殺され、その結果、亡命していた弟のレオン王アルフォンソ6世が同年にカスティーリャの王位も得て、再び両王国は同君連合となった。カスティーリャ=レオン連合王国だった。
さらに、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世は1085年、イスラム国のトレドを攻略し、さらに支配領域を拡大させようとした。
危機感を抱いたタイファ諸国(イスラーム勢力の小国群)は、アフリカのムラービト朝に援助を求めた。
ムラービト朝はそれに応えて1086年に兵を上陸させ、サグラハスの戦いにおいてアルフォンソ6世率いるカスティーリャ軍を撃破した。
敗れたアルフォンソ6世はトレドまで撤退した。決戦に敗れはしたが、アルフォンソ6世はイベリア半島の中央部を流れるタホ川流域以北を神聖教圏とすることに成功した。
一方、南部のアル=アンダルス(イベリア半島南部)では、ムラービト朝によってタイファ諸国が併合され、統一された。
アルフォンソ7世の時代に、カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立した(1143年)。
また、ムラービト朝に代わりムワッヒド朝がイベリア半島南部を統治する。
1157年にそのムワッヒド軍に包囲されたアルメリアの救援に間に合わず、カスティーリャへ帰還する途中にアルフォンソ7世が死亡すると、カスティーリャ=レオン王国は2人の息子に再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。
カスティーリャは、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン、ポルトガルとは国境線をめぐって戦闘が繰り返された。ムワッヒド朝との戦いも進展せず、一進一退を繰り返していた。
このような状況で、当時の神聖教教主は、神聖教諸国間の争いをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラーム戦争に邁進することを命じた。
これに従い、カスティーリャにはレオン、ポルトガル、アラゴン、ナバーラ各国の兵、さらにテンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結した。
ムワッヒド朝のカリフ・ムハンマド・ナースィルも10万以上の兵を集め、神聖教連合軍を撃ち破るべく北上する。
両軍は1212年7月16日にラス・ナバス・デ・トロサで決戦し、神聖教連合軍が勝利したのだった。(ラス・ナバス・デ・トロサの戦い)
この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいた神聖教諸国の餌食になり、滅びた。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。ここに、イスラーム勢力はこのグラナダ王国を残すのみとなったのだった。
カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲラとレオン王アルフォンソ9世との間に生まれたフェルナンド3世は、1217年に母から王位を譲られカスティーリャ王となっていたが、父の死に伴い1230年にレオン王位も継承した。
これで、レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる事になった。
これが、今のカスティーリャ王国であった。
「カステーラでは、ないのじゃ」
「はい?」
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