三、フライドリバー・アタック
第5話
▽
「そういえば、なんでいきなりチェス部に入る気になったんだ?」
こっそりと星華先輩の姿を追っている途中、頭の後ろで手を組んだ頼人くんが言う。
私は少し考えて、頼人くんにならいいかと口を開いた。
「イワンと対局したいから」
「欧州リーグのマルコフ選手?」
「うん。彼、ナージャの甥っ子で、小さい頃に会ったことがあるんだ」
頼人くんは私の言葉に目をパチクリさせた後、驚きと困惑が混ざった表情を浮かべた。
「シェルシュノヴァ博士の甥だって? そりゃ強いわけだ。博士は研究しながらレート上位に居座る超人だったけど、マルコフ選手の成長率は正直博士を上回る勢いだし。この前の世界大会も若手ではダントツだったぞ。それに――」
情報を吐き出すのが止まらない頼人くんを見て、私は思わず感心してしまう。
「頼人くん……海外の選手のこと随分詳しいんだね」
そういえば頼人くんはナージャに会いにラヴーシュカにやってきた。かなりの情報通でないとナージャが日本で店を持っていることは知らないはずだ。
「おう! 情報は武器だからな。過去の棋譜の研究も大事だけど、俺は今強いプレイヤーのデータの方に興味あるんだ」
「そっか」
そう考えると私と頼人くんは正反対のチェスをしている。
何世紀もかけて積み上げられた膨大な棋譜は、チェスの宝であり歴史でもある。
ナージャは私にたくさんの棋譜を読ませたから、私のチェスは歴史をなぞる一本の線に過ぎない。それもそのはず、私のチェスはナージャの研究のためのチェスだから。
『そうやって裏をかいて、人を欺くのが楽しいのね』
星華先輩のあの言葉に、私はそうではないと返そうとした。
楽しくてチェストラップを仕掛けているわけではないのだと。見えた勝ち筋に沿っているだけなのだと。
そんな綺麗事を言おうとしたのだけれど。
「頼人くんから見たら、私は相手の分析もなにもなく、罠をしかけているだけだね」
「マサキ?」
「私は……多分性格が悪いんだと思う」
楽しくてやっているわけではないけれど、相手が自分の思うようにハマってくれる快感というのは、知らなかった頃には戻れないくらいに強烈なのだ。
チェスをしている間は本当の自分になれる。
本当の堀部真咲という人間は、チェスで相手をはめることをやめられない、ただの性格の悪いジャンキーだ。
そう思うと自分がどうしようもない人間だと思い知らされる。
「勝てるならそれでいいんじゃないの?」
なのに、隣で頼人くんがまた適当なことを言ってくるものだから、私はたまらず吹き出してしまった。
「そうかもね」
星華先輩は学校を出て駅の方へ向かっている。茜日が差す煉瓦道を、私達は息を潜めて進んだ。
「なあなあ、スイッチはなんなの?」
「スイッチ?」
「男のマサキと、女のマサキの」
「あー」
思えば頼人くんは随分と自然に私の性質を受け入れていた。けれどもしかしたら理解が追いついていなかっただけなのかもしれない。
私は襟を正す思いで説明を始める。
「えっと、天秤ってあるでしょ。イメージで言うと、私の中では性別の天秤が常にゆらゆらしてるのね。今日は女なんだけど、ずっとずっと天秤がゆらゆらしてるから、夜眠る前にやっぱり女じゃなかったかもって思うの。そうすると次の日はもう男になってる。でも男になったらなったでまた違うかもって思って……ずっとそれの、繰り返し」
「そっか。だから日によって違うって言ってたんだな」
理解できたのかは疑問だけれど、納得したように頷く頼人くんを見てとりあえずは話は通じていることが分かった。
私の性質を知ってなお隣を歩いてくれているのだから、それでいい。
しばらく歩いて駅前に着くと、星華先輩は一人の男性の元へと駆け寄って行った。
そんな星華先輩を迎えたのは、淡い色のポロシャツを着たいかにも誠実そうな彼氏だ。
二人で映画館に入っていく星華先輩を見送って、私は盛大なため息をついた。
「相手めちゃくちゃ普通の人じゃん。遊んでる風には見えないんですけど」
「あららー。あのウワサはデマだったか。まあそれならそれでオッケーってことで」
「アホくさ……帰ろ」
踵を返そうとするとがしりと肩を掴まれる。何事かと振り向くと、頼人くんが何故か満面の笑みを浮かべていた。
「まてまて。ここまで来たらせっかくだしあそこ行ってみようぜ!」
「あそこって?」
「まあ付いて来なよ」
再びズルズルと頼人くんに引きずられ、駅前から少し離れたショッピングモールまで続く一本道を抜けると、開けた場所にたどり着く。
キャンピングテーブルやベンチが設置された小さな広場だ。そして、その中央には二台並んだ石のチェステーブルがある。
「わあ、もしかしてここって……チェス広場?」
「そう。日本では珍しいよな、路上チェス! 近場でできるのここくらいなんだよ」
ナージャが海外にはよくあると言っていた、駒さえ用意すれば誰でも使える公共のチェステーブル。友達同士、時には知らない者同士気軽にチェスを楽しめるのが魅力だ。
一つのテーブルでおじいさん達が白熱した戦いを繰り広げているらしく、私達はそばに寄って観戦することにした。
「おや珍しいお客さんだ」と笑いながら、白髪のおじいさんが真剣に駒を進める。
その後、「チェック」の言葉に対面に座るおじいさんが難しそうに腕を組んで投了した。
――この白髪のおじいさん、強い。
なめらかな駒取りと美しい囲いが盤面から伺える。
「君達チェスをするのかね?」
「あ、はい! 高校のチェス部です」
白髪のおじいさんが興味深そうに尋ね、それに頼人くんが答える。
「そうかそうか。実は僕も高校チェスのコーチのようなことをしているんだよ」
「へー! そうなんですか。どこの高校――」
頼人くんが言い終わる前に、突然私達をわらわらと人影が取り囲む。
ギョッとして周囲を見ると、学ランをゆるく着崩した男子が数人、おじいさんと私達を中心に円を作っていた。
「えっ」
「な、なんだ!?」
まるでちょいワルグループが敵のチームを相手にしているようなピリピリとした視線を全身に浴びて、私と頼人くんは思わずおじいさんにビタっと引っ付く。
「おいジジイ。時間だぜ!」
集団の中で人一倍目を惹く、頭の左側を刈り上げた男子がおじいさんに語気荒く迫る。やれやれといった風に立ち上がるおじいさんは、彼らに背を向けるように私達に向き直った。
「このうるさい奴らが僕の教え子なんだ」
「え!?」
「チェスやるんだ……」
頼人くんが大げさに驚くのを見て、男子達は不服そうに吠える。
「どうせ俺らみたいなのがチェスなんてって考えてんだろ」
「疑われる前に言っとくけどな。賭けチェスなんてやってねえからな」
「いやまあ、疑ってないけどさ」
頼人くんがあ然としているのをきつく睨み続ける刈り上げ頭の彼は、黙っておじいさんの対面に座る。
「俺らは校内に居場所なんかねーからな。ここで修行してんだ」
コツコツと慣れた様子で駒を配置する刈り上げくん達を見て、おじいさんがふと思いついたようにこちらを向く。
「そうだ君達、この子達と一局どうだい?」
「えっ」
「私達がですか?」
突然の誘いに思わず頼人くんと顔を見合わせる。刈り上げくんも予想外だったようで、「はあ?」と声を上げた。周りの男子達も騒めきながら成り行きを見守っている。
「同年代の実力を知るのはお互い刺激になると思うんだが」
そう言っておじいさんが紳士的に席を譲ってくるので、まるで魔法にかかったように流れに逆らえず、そのままストンと席に座ってしまった。
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