二、シベリアン・トラップ

第3話

 ▽


「こらこら、キャスリングは片手でしなさい」


 ルークとキングを両手で同時に取ったらナージャに怒られた。


 キャスリングは一ターンで二駒動かすから、両手でやった方が早いのに。


 ぶーっと頰を膨らませて、片手でキングをスライドさせる。続けて同じ手でルークを動かした。


「キャスリングだけじゃなく、チェスは片手でやるのよ」


 ナージャはチェスの作法に厳しい。幼い子供に指導するにはちょっと細かすぎるくらいに。


 それに加えて道具の扱いにもうるさいのだから困る。木や石でできたチェスの駒は一戦ごとに必ず清拭するし、チェスボードは専用の羽箒で常に綺麗にしている。


 カチリと対局時計を押して手番を終了する。


 どんな戦略もナージャには通用しない。そのことに焦って間違いばかりしてしまう。


 ナージャはが自分で間違いに気付くと嬉しそうに微笑んだ。対局が終わるまで気づかなかった時も、優しいまなざしで盤面を再確認するだけだった。


 そのおかげか分からないけれど、私はチェスで間違うことを恐れなくなった。


 さすがにもうルールを間違えはしない。でも誰にだって悪手は一定数ある。そんな時に引きずらない心の強さを、知らないうちにナージャに教わっていたらしい。


 即決即打ち。悪手だったとしてもポーカーフェイス。


 いつのまにかそんなプレイスタイルに育った私に、ハメ手はとても相性が良かった。


 初めてチェスでナージャと引き分けたのは忘れもしない小学五年の夏。それが私がチェスにのめり込むきっかけとなったのだった。


 ▽


「――ねえマサキ、起きてってば」


 少しふてくされた声が頭上から聞こえ、私の意識はようやく覚醒した。机に突っ伏していた体を起こすと背中がギシギシ軋む。


 どうやら授業中に居眠りをして、懐かしい夢を見ていたようだ。


「もうお昼だよ? あ、もしかして自習の間ずっと寝てたの?」


「ううん。途中で眠くなった」


「もー」


 ずいっと顔を寄せてくるのは同じクラスの日比谷ひびや小春こはる。出席番号が前後で、入学式で仲良くなった。小春は控えめなお下げ髪をくるくるいじりながらお弁当の準備を始めている。


「あ、マサキ」


「ん?」


リボン・・・曲がってるよ」


 そう言って小春は私の首元に手を伸ばす。


 私はされるがまま、自分の制服のリボンが整うのを待った。


 緑色の艶やかなリボンはスナップボタンが付いているから、ネクタイを結ぶよりも楽だけれど曲がりやすいから困る。


「はいできた! マサキはいつもリボン曲がりすぎ。ネクタイ締めるのは上手なのにねえ。まあマサキは顔がキレイだからどっちも似合うんだけど」


「ありがと小春」


「どういたしましてっ」


 小春と友達になれてよかったと思う。私は今まで友達と呼べる友達が少なくて、正直小中学生の頃は学校が苦痛だった。


 無理もない。一日置きに「僕」が「私」に変わってしまっては、周りのクラスメイト達もさぞ戸惑っただろう。


 友達を作ることを諦めかけていた私に、入学式で小春が話しかけてくれて、今もこうして当たり前のようにお昼を一緒に食べている。


 私の大切な友達だ。


「マサキまだ眠そう。寝不足?」


「うーんそうかも。夜中ずっとこれ考えてて……」


 机の中から一通のエアメールを取り出すと、小春は目をキラッキラ輝かせた。


「『郵便チェス』! まだ続いてたんだ〜超ロマンチック!」


「ただの時代遅れだよ。いつもネットでやろうって手紙に書いてるのに聞いてくれないんだもん」


 今時郵便チェスなんてやってるの私達だけだと思う。


 郵便チェスとはその名のとおり、インターネットがない時代に遠くの人とチェスをするために、一手ずつ棋譜を書いて相手に郵便で送るということを繰り返す、一局に半年以上かかる気の遠くなるようなチェスだ。


「でもでも〜相手は海外のプロ選手なんでしょ?」


 そんな化石のようなチェスをしている相手――イワン・マルコフは小春の言うとおり外国でプロのチェスプレイヤーをしていて、タイトルに最も近い若手選手と言われている。


 何故イワンが私のような日本の学生に棋譜を送りつけてくるのかと言うと、彼がナージャの甥にあたる人物だからだ。


 昔、ナージャに会いにラヴーシュカに来たイワンとチェスをした。


 その頃は私もイワンもまだチェスを覚えたての小学生で、二人ともめちゃくちゃなプレイをした結果、勝敗つかず引き分け。


 共通言語を持たなかった私達は再戦の約束もできず、それでも互いに勝ちを諦められず、現在に至るまで棋譜を送りつけ合っているというどうしようもない話だ。


 イワンがプロになったとナージャから聞かされた時は驚いたけれど、それでもこの郵便チェスだけは負けたくない。


 今の私達の戦績は五分五分。


 時間の制限がなく、いくらでも戦略を調べられるという郵便チェスの特性上、ハメ手が使えないのが私にとってよりゲームを難しくさせる。


 夜更かししてようやく決めた一手をしたためて、手紙はいつもどおりナージャに送ってもらうことにする。棋譜と一緒に私のメールアドレスと、『いい加減ネット対戦にして!』とロシア語で一言添えたメモを忘れずに入れて。


「ねーホラ、見た目も王子さまじゃん!」


 イケメン好きな小春はスマホに映し出したイワンのプロフィール画像を見てキャッキャしている。


 色素の薄い髪からアイスグレーの瞳が覗くその姿は、昔希先生に見せてもらったアルバムにあった若い頃のナージャにそっくりだ。


 世界共通ルールを持つチェスに言葉はいらない。


 にもかかわらずロシア語の勉強を続けているのは、化石頭のイワンに文句を言いたいからでもあるし、単純にイワンと話をしたいから。


 なのに手紙の返事すら書いてこないから腹が立つ。


 プロだろうがなんだろうが絶対負けたくない!


 そんなことを思いながらめんつゆ味の卵焼きを頬張っていると、突然「堀部〜」とクラスの男子に声をかけられた。


「なんか二年の先輩が呼んでるぞ」


「げ」


 見ると教室の入り口に頼人くんが仁王立ちしている。


 私は一度深呼吸をしてから、重い腰を上げてのろのろとそっちに向かう。


「マ〜サ〜キ〜! お前B組って……一年B組のことかよ! 昨日の感じで同学年タメかと思っただろ! ……ってあれ?」


 昨日と同じノリで話し始めた頼人くんが、私の格好――主にリボンや制服を見て首を傾げた。


 そして戸惑いを浮かべた表情で問う。


「マサキの……妹とか?」


「いやマサキだけど」


「だ、だよな。あー! ごめん俺てっきり男だとばかり……」


 落ち着かない様子で謝る頼人くんに、私は首を振った。


「ううん。頼人くんは謝らないで。昨日は私、男だったから」


 多分頼人くんは不思議そうな顔をしていると思う。顔を見て言う勇気は、まだない。


 ただじっと頼人くんのネクタイを見つめながら口を開く。


「私、日によって心の性別が違うんだ」


 廊下の窓から流れる風が、膝下のスカートを揺らした。


「だから、見た目はあまり気にしないでほしい」


 なるべく明るい声で言うと、頼人くんは顎に手をやって私の全身を眺め始めた。


「普通の女子にしか見えないなあ」


「うん」


「なのに昨日は男にしか見えなかった」


「そうかな」


「まあ……どっちでもいいか! よしマサキ、チェス部に――」


「だから入りませんってば」


 ポンと肩に置かれた手をべしっと払いのける。


 それと同時に、内心ホッとした。


「どっちでもいいか」というなんとも適当な言葉が私の心を軽くする。


 頼人くんは人を見た目で判断しないんだ。


「なんだよ〜。じゃあ放課後また来るから。勝手に帰んなよ!」


「うわっちょっと……」


「俺はしつこいから覚悟しとけ」


 私の髪の毛を思いっきりかき混ぜて頼人くんは去って行った。


 放課後また来るって言った?


 どんだけ私をチェス部に入部させたいんだ。


「ねーマサキ、誰あれ」


 背後から小春のイラついた声が聞こえる。私は肩を竦めて言った。


「チェス部の部長。昨日会った」


「なんかなれなれしいんですけど」


「小春ああいう人苦手なの?」


 私の問いかけに小春は「うん」と答える。その表情は笑顔なのにどこか恐ろしい。


「どーせチェスができる人手当たり次第誘ってるんでしょ。相手にしない方がいいって」


「うーん、そんなに悪い人ではないよ」


「やめてよー。私イワ×マサ派なの!」


 訳の分からないことを叫びながら小春は私の両肩をがしりと掴んで言った。


「頼むわよマサキ! 大体、部活入ったらイワン選手の叔母さんのお店行けなくなっちゃうじゃん!」


「う、うん……?」


 そこは小春の言うとおりで、放課後ナージャの店に行く時間がなくなるのは困る。


「放課後ちゃんと断るよ」


「その方がいいって。さ、お弁当食べよっ」


 席に戻ってお弁当の残りを口にかきこむ。


 そんな私を小春は笑顔で見ていた。


「マサキを初めて見たとき、王子さまみたいなお姫さまかと思った」


 そして急にそんなことを呟くものだから、私は箸を止めて首をかしげた。


「実際は全然違ったでしょ?」


「ううん。でもマサキは物語の――二次元の中から出てきたみたい。ちゃんと存在するのにね。だからなのかな……私、マサキは普通の人と付き合ってほしくないの。んー、どう言ったら伝わるんだろう」


「小春が私をアニメのキャラ扱いしてるのは伝わってくるよ」


「そういうわけじゃないんだけど」と小春は難しい顔をして続ける。


「芸能人は芸能人と付き合ってほしいみたいな……」


 そう言って口をつぐむ小春に、私は慌てて両手を上げて抗議する。


「待って待って。私芸能人じゃないし。そもそもなんで付き合うとかそういう話になってるの?」


「だってマサキが知らない先輩と仲よさそうだったから」


「ないない! はやとちり!」


「ならいいけど」


 小春はとりあえず納得したらしく、サンドイッチをちまちまかじり始めた。


 私はバナナ味の豆乳を飲みながらちらりと小春のことを盗み見る。


 人見知りするタイプではないのに、頼人くんを見る小春の目は厳しかった。


 偶像崇拝……とまではいかないけれど、小春は私に夢を見過ぎだ。


 架空の世界と現実の世界がどこかで交わっていると信じているタイプ。


 きっと小春の妄想の世界では、私は愛着のあるサブキャラクターくらいの立ち位置で、イワンは異国の王子さまってところなのだろう。


 変わってるなと思いつつ、私にだけはそう思われたくないかと心の中でつっこんでみたり。


「要は世の中には色々な人がいるってこと」


「マサキが言うと説得力あるよね〜」


 それでもつるんでいて居心地がいいのだから、やっぱり私と友達になろうなんて人は、少し変わっているくらいが丁度いい。

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