第2話
「さっきの話の続きですが……博士、ぜひ一局お願いします!」
ガバリと頭を下げる彼に、ナージャは困ったように答えた。
「やりたいのはやまやまなんだけど、最近はもう駒を握っていないのよ」
「ええっ。そんな……実戦でデータを取ることで有名な博士が?」
「ごめんなさいね。歳には勝てないみたい」
「まだまだお若いですって!」
そう、ナージャは最近チェスをしない。
遠方からの挑戦者すら穏やかに追い返してしまうようになった。
これもナージャの体が弱っているからだ。
チェスはいわゆる「お手つき」や「待った」が絶対に出来ない決まりになっている。
更に、一度触った駒は動かさなければならない『タッチ&ムーブ』というルールがあり、意図せず駒に触れてしまうとその手番はその駒しか動かせない。
ナージャは手先の動きが鈍くなってから、『タッチ&ムーブ』に苦しんでいる。
指が震えてしまうため、触りたい駒から狙いが外れて別の駒に少し触れてしまう。そうするともうその駒を動かすしかなくなり、戦略が全ておじゃんになってしまうのだ。
「その代わりに、どうかしらマサキ?」
いつの間にか背後に立っていたナージャにポンと両肩を叩かれる。
――代わりに僕が相手しろってこと?
パイをごくりと飲み込むと、すでに笹川部長は獲物を見つけた猫の目で僕を見つめていた。
「いいね。シェルシュノヴァ博士の一番弟子の実力見せてくれよ」
「弟子とは言ってないんだけど……」
「あら、私は言ってるわよ。マサキは友人でありチェスの愛弟子だって」
完全に面白がっているナージャは僕の背中を押して、店の中央にあるチェステーブル席に座らせた。続いて笹川部長も僕の対面に座る。
二人が席に着いたことを感知して、テーブルを照らすライトが自動で灯った。
チェス盤が備え付けられた特製のテーブルは、脚の部分からずっと透き通った深い青色をしていて、チェスボードまでもが青と白で塗り分けられている。更にその上には透明な駒とクリアブルーの駒が並べられている。
ナージャ自慢の、幻想的な青いチェス盤。
店にいくつかあるチェステーブルの中でも一番存在感があり、僕が初めてチェスをした場所でもある。
ここでチェスをすると途端に大劇場の舞台にでもいるかのような気分になるから、未だに少し緊張したりする。
そしてそれは目の前の相手も同じだったようだ。
チェス盤に反射する光に照らされて、笹川部長がごくりと空気を飲むのが見えた。
▽
雨の降る音が店内に響く。
縦横八マス、計六十四マスの戦場に僕達の魂は降り立った。
意識の投影、精神が体から独立し、十六個の駒とともに盤上を駆け抜ける。
僕達は今から頭だけで戦う。
そこは体格も人格も性別も年齢も干渉することはない。
だから僕はチェスが好きだ。
僕が求める世界がチェス盤の上にはある。
チェスをしている時は、誰も僕の存在を否定しない。
本当の自分になれる。
先手は笹川部長。ポーンをe4に進ませた。
そして対局時計のボタンを押して、棋譜を取る。
その一連の流れがとてもスムーズで、さすがはチェス部の部長を任されるだけあるなあと思った。
対局時計というのは時計盤が二つ並んだ対局用の時計で、お互いの持ち時間を計るためのものだ。一手指した後に自分側に付いたボタンを押すルールになっている。
自分の時間が進み出したのを確認して、僕は黒のポーンをe5へ。白のポーンのど真ん前へと進ませた。
盤上のマスには呼び名があって、白から見て左マスから右マスにa〜h、手前マスから奥マスに1〜10とナンバリングされている。
だからe4というのは左から五、手前から四数えたマスのことを表していて、e5はその目の前というわけだ。
続いて笹川部長はナイトをf3へ。僕はすかさずナイトをc6へ移動させる。
ここまではなんの変哲も無い、『イタリアン・ゲーム』と呼ばれる幕開け。
チェスは基本的に静かな競技だけど、目の前の相手はさっきまでの笹川部長とまるで別人のよう。
薄い唇をキュッと引き結び、盤面だけを見つめている。
まつ毛の影から覗く焦げ茶色の瞳と、緑がかった虹彩。小さくなった瞳孔の先でビショップが斜めに走る。
うん。口を開かない方がモテそうかも?
対戦相手の観察を終えて、僕はナイトを斜め前方に押し出した。
笹川部長の顔に困惑の色が見える。
恐らくこのナイトの理由が分からないのだろう。何故なら僕が最初に指したe5のポーンがガラ空きになってしまうからだ。
当然それを見逃さず、笹川部長はナイトで僕のポーンを取った。
それを見て僕は少し安心する。取れる駒を確実に取ってくれるタイプなら、大歓迎だ。
黒のクイーンをg5へ。
笹川部長はこれまで一度も顔を上げない。
対戦相手がどこの誰であろうと構わないとでも言いたげなそのスタイルに、少し意地悪をしたくなる。
あなたが戦っているのは、目の前にいる僕ですよ。なんて言ったらどうなるだろう。
白のナイトが容赦なく突っ込んでいくのを見て、僕は笹川部長に幼い頃の自分を重ねた。
きっと昔のナージャにはこう見えていたのかな。
目の前の相手に目もくれず、ただひたすら駒を取る。
真綿で首を絞められていることに気付かずに。
笹川部長がリズム良く駒を進めるのを、僕は黙って見つめていた。
チェスにおいて相手の駒を取ることは非常に効果的だ。
少々無茶をしてでも駒取りを優先しようという気持ちはよく分かる。
ただその先には大きな穴がぽっかりと口を開けている。
笹川部長が不意に顔を上げ、目と目が合う。そして一瞬、目だけでたじろいでから視線を下げた。
ずっと観察していたことがようやくバレたらしい。僕の存在に気付いてくれたのならなによりだ。
この戦場には僕達しかいない。いわば二人の世界。なのに蔑ろにされると淋しいものだ。
「負け、ました」
数手後、投了の意味を込めてキングを倒したのは笹川部長だった。
駒を取られた数は僕の方が多い。
けれど白の駒は盤面の左下に押し固められ、キングは動けずに窒息していた。
「ありがとうございました」
チェス盤の上で握手をする。笹川部長は放心したまま
「ああ、ありがとう。驚いた、これは……」
「ブラックバーン・シリング・ギャンビット」
チェス盤から一歩引いた場所からナージャが呟いた。笹川部長がハッとした表情をする。
「イタリアン・ゲームからわざと駒を取らせて
「うあー。やられたああーー!」
ばたりとチェス盤に顔を伏せる笹川部長は大層悔しがっていて、もう対戦前の雰囲気に戻っていた。
僕は手元の棋譜に目を落とす。
チェスには数え切れないほどの戦術が存在する。
その中でもナージャが今現在熱心に研究しているのが、相手の虚を突く『ハメ手』――つまり罠。だからナージャは自分の研究のために、ありったけの罠を僕に叩き込んだ。
その結果が、今回の対戦で表れたというわけだ。
とはいえ、チェストラップとしては結構有名なブラックバーンシリングにここまで綺麗に引っかかってくれるなんて。
「今日は調子が悪かったんですよね? 部長」
「あ〜煽りやがって〜! もう一局だ!」
「えー」
「ふふ、私はコーヒーを淹れてくるわね。どうぞ二人ともごゆっくり」
その後は結局、時間を忘れて笹川部長とチェスをした。
これはボードゲームの不思議なところで、初対面なのに数回対局しただけで、いつのまにか昔からの友人かと思うくらい仲良くなっていたりする。
ナージャに閉店を知らされる頃、僕達は自然と「マサキ」「頼人くん」と呼び合うようになっていた。
「俺帰りますね。今日は急にお邪魔してすみませんでした」
「また来てちょうだいね」
「僕も帰るよ。あ、制服乾いたかな」
制服を取りに二階に上がるついでに、キッチンに残った洗い物をしてゴミをまとめる。ナージャに頼まれたわけではないけれど、少しでも彼女の負担を減らしたいから。
一階の賑やかな店舗と比べて、二階のナージャの居住スペースは物が少なくて淋しい印象だ。
希先生が生きていた頃、この空間は笑い声が絶えなかった。だから余計に静かに感じるのかもしれない。
でも今後のことを考えると、二階に住むのは危ない気がする。階段に手すりがあっても安心できない。
でも僕なんかよりきっとナージャの方が色々考えていて、その上でここで暮らしているのだろう。
僕にできることは毎日ナージャに会いに来て、店を手伝ったりたくさんおしゃべりをしたりすることくらいだ。
制服を持って二人の元に戻ると、頼人くんが「あっ」と叫んでこちらを指差してきた。
「それ栄嵐の制服!? マサキ同じ学校だったのか?」
「うん、そうだけど」
「何組!?」
「B組」
「なんだよ〜そういうのは先に言ってくれよな。よしマサキ、チェス部入ろうぜ!」
「やだ」
「なんで!?」
部活に入ったらここに来る時間が減ってしまう。
そう説明しても頼人くんがあまりにもしつこく勧誘してくるから、背中を蹴っ飛ばして店から追い出してやった。
「明日学校で! 会いに行くから!」
そんな台詞を残して頼人くんは雨上がりの小道を遠ざかって行く。僕は黙ってその背中を見送った。
「よかったわね。同年代のチェス仲間ができて」
ナージャの言葉に僕は首を振る。
「明日会ってもきっと分からないよ」
「それは……どうかしらね」
いたずらっぽく笑うナージャの意図は分からないけれど、これだけは言える。
「明日の僕は『僕』じゃない」
チェスをしている時だけ本当の自分になれる。だからそれ以外の時は常に本当の自分じゃない。
正しく言うと、チェス以外では本当の自分が分からなくなってしまう。
今日できた友達が明日も友達でいてくれるとは限らない。
「あなたはいつだってあなたでしかないのよ。マサキ」
ナージャはその細い指でいつの間にかポケットから落ちていた僕のネクタイを拾って、穏やかにそう言った。
※ブラックバーン・シリング・ギャンビット
別名ブラックバーンの小銭稼ぎ。イタリアンゲームからの派生型トラップ。黒が駒をわざととられることで白のキングを動けなく(窒息負け)させる。
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