ラヴーシュカ

三ツ沢ひらく

一、ブラックバーン・シリング

第1話

 ▽



 チェスは、愛のように音楽のように、人々を幸せにする力を持っている。――ジークベルト・タラッシュ



 ▽



 ぶ厚い雲から溢れるように降り出した雨が、僕の住む街を濡らしていた。


 もう何日も太陽が出ていない気がする。


 梅雨前線に晒された煉瓦造りの街並みを、水たまりを蹴りながら進む。


 ザアザアと勢いを増す雨。頼りない折り畳み傘がなんとか上半身だけは守ってくれたが、制服のズボンとローファーはすでに水浸しで、冷たさを気にすることすら無駄に思えた。


 そのまま真っ青な紫陽花が並んで咲く小道を通ると、木々で塞がれそうになっている小さな店が現れる。


『アンティーク雑貨店 ラヴーシュカ』


 そう書かれた立て看板に並んで、小さなチェスボードがインテリアとして飾られている。


 高校と家の丁度真ん中くらいに位置するこの店に通うのが僕の日課だ。


 扉を押すと、静かな店内にカランとドアベルが鳴り響いた。


 甘い異国の香りがふわりと鼻腔をくすぐると同時に、壁に掛けられたからくり時計が動き出す。


「ナージャ、僕だよ」


 短く切った襟足から首筋に水滴が伝い、自分が想像以上に濡れていることに気付いた。


 このまま上がり込んで店内を水浸しにしてしまうのは良くない。


 僕は店の入り口に突っ立って、折り畳み傘を閉じながら呼びかけに対する反応を待つ。


 淡く揺れる照明に、テーブルの上に置かれたシュンガイト製の猫の置物が照らされている。


 その奥にはベルベットの絨毯と、いつも綺麗に手入れされた艶やかなグランドピアノが存在する。


 濡れねずみでなければ、僕はいつもどおりすぐにピアノに近づいただろう。そしてこう言う。


「ただいま。先生」


 今でもまだ、あのピアノを弾く彼女の姿が目に焼き付いているから。


 耳の奥で鳴り続けるメロディーに、コツンコツンと杖をつく音が混ざる。


 音の鳴る方へ顔を向けると、ゆったりと微笑む初老の女性――この店の主であるナージャが僕を見ていた。


「いらっしゃいマサキ。びしょ濡れじゃないの」


「帰りに突然降られちゃって。タオル貸してくれる?」


「ええ、少し待っていて」


 ブレザーを脱いでネクタイを緩めると、ナージャが言う。


「今日はそっち・・・なのね」


 僕が手にするネクタイを見ていたずらっぽく笑うナージャに、僕はひとつ頷いた。


 彼女の名前はナージャ・シェルシュノヴァ。短めのシルバーヘアーとアイスグレーの瞳を持つ、年の離れた僕の大切な友人だ。


 そしてこの小さなアンティーク雑貨店を経営しながらある研究をしている学者でもある。


 店の中をよく見ると、雑貨に混ざってあちこちに学術書が置いてある。それは売り物ではなく、ほとんどがナージャが書いた論文だ。


 彼女の研究テーマは『チェスによる脳科学的知見について』。ナージャはチェスを始めとした様々なボードゲームの分野では知らない人はいない程有名な学者で、還暦を迎えてからも個人で研究を続けている。


「パイを焼いていたんだけど、最近は昔みたいに上手く焼けなくて」


「握力が下がってるって病院で言われたんでしょ。無理したらダメだよ」


「でもせっかくマサキがテストで一位を取ったんだし、なにかお祝いがしたかったのよ」


「ただの中間試験で大げさだって。しかも外国語だけ」


 そんな話をしながら湿った体をタオルで拭いていると、ナージャが着替えも用意してくれた。


「制服、乾かしたほうがいいわ」


「ありがとう。でも自分でやるよ」


「いいからいいから。おばあさん扱いしないでちょうだい」


 ナージャの勢いに押されて大人しく乾いた服をいくつか受け取る。全部海外製のハイブランドだ。どうやらナージャは僕を着せ替え人形にしたいらしい。


 店の奥に引っ込んでズボンを履き替える。二階のキッチンから漂ってくるパイの香りを胸一杯に吸い込むと、子供の頃のことを思い出した。


 この店は二年前までアンティーク雑貨店兼『ピアノ教室』だった。


 のぞみ先生というナージャと同じ年頃の女の先生に、僕は小学生から中学生の間ずっとピアノを教わっていた。


 僕は典型的な鍵っ子だったから、学校が終わるとすぐに近所のこの店に駆け込んで、ナージャに宿題を見てもらったりパイをもらったりしてから、希先生とピアノを弾いた。


 友達の少なかった僕を心配した両親が無理やり入れたピアノ教室だったけれど、今は感謝しかない。


 この場所は僕にとって第二の家であり、希先生とナージャは僕の家族のようなものなのだ。


 だから二年前、希先生が病気で亡くなってからも、僕はこの店に通い続けている。


 アルバイトのつもりはないけれど、店のお手伝いをすることもあるし、チェススペースでぐうたら時間を潰していることもある。


 なるべく大人しめのゴーシャのシャツに腕を通した時、丁度店の入り口がバタンッと開いてドアベルが大きく鳴った。


「し、失礼します!」


 直後、扉を突き破るようにして現れたのは、僕と同じようにずぶ濡れになった男子だった。


 ▽


 店の奥から顔だけ出すと、客と思われる彼とバチリと視線が合った。


 ひょろりと背が高いせいで体の全面に雨を受けて、横浜栄嵐高校の制服が酷く濡れている。


 短く切られた猫っ毛の先からポタポタと雫が垂れて、これまた猫のような大きいつり目の瞬きで散った。


 まるで大きな野良猫が迷い込んできたようだ。


 対する彼は僕の頭のてっぺんからつま先まで見てしばらくフリーズしてから、水滴が伝う学生カバンを下ろして言った。


「あのっ。こちらにナージャ・シェルシュノヴァ博士はいらっしゃいますか!?」


 どうやら僕を店員と間違えているらしい。床が濡れるのも構わずに店内に突っ込んで来ようとする彼を手で制す。


「今呼ぶからそこで待ってて」


「あ、はい」


 ナージャ・シェルシュノヴァ博士・・、ね。


 雑貨店の客ではなさそうだ。それに、タオルがもう一枚必要になった。


 二階の居住スペースに足を踏み入れると、ガタンと何かが倒れる音が響き、僕は慌ててナージャの姿を探す。


「ナージャ!?」


「ああごめんなさい。ちょっとつまづいちゃって。大丈夫よ」


「本当に?」


「ええ、誓って」


 床に座り込むナージャに手を貸して立たせる。


 細い手に杖を持たせてから、客が来ていることを伝えた。


「お客さんだよ、シェルシュノヴァ博士。あとは自分でやるから、タオル持って行ってあげて。階段降りられる?」


「もう、大丈夫だって言ってるでしょう。そうそう、パイ食べちゃってね。美味しくないかもしれないけど……」


「いい匂いだからきっと美味しいよ」


 ゆっくりと足を進めるナージャの後姿は、不安になるほど痩せている。


 ナージャは最近上手く歩けなくなった。


 握力も低下して、あんなに上手かった料理も失敗が増えた。


 濡れた洋服を干すだけで転ぶようになってしまった。


 病院でどんな診断をされたのか、僕には教えてくれない。


 けれどナージャは日に日に弱っているように思う。


 きっと希先生がいなくなってから徐々に。


 ナージャは時々言う。誓って大丈夫だと。僕はそれを聞く度に不安になった。


 ナージャ、何に誓っているの?


 どうして何も教えてくれないの?


 僕達、友達じゃないの?


 自分の無力さにうなだれながら、濡れた制服をハンガーにかける。


 行き場を失った緑色のネクタイをポケットにねじ込むと、ふと姿見に映る自分と目が合った。


 濡れた前髪の隙間から、真っ黒な瞳がじっとこちらを見ている。


 ナージャには中性的だと言われる顔立ちに、薄い肩と胴体。


 細くて頼りない手足。


 そしてシャツの下の、きつくサラシを巻いた胸。


 最近よく痛むようになった。でもこうしないと僕の心は落ち着かない。


 窓を叩く雨の音が、僕の気持ちを更に沈み込ませた。



 キッチンからパイを数切れ持ち出して階下を覗く。


 ナージャと先程の男子がチェステーブルを挟んで楽しそうに会話をしていた。


 その笑顔からして具合が特別悪いわけではなさそうで、僕は内心ほっとする。


「あ、マサキ。降りてらっしゃい」


 ナージャに呼ばれ仕方なくパイを咥えて二人の元に歩み寄る。野良猫の男子も着せ替え人形にされたようで、すみれ色のシャツに変身していた。


 そして人懐っこい笑顔でこちらに向かって手を差し出してくる。


「俺は笹川ささがわ頼人よりと。博士の弟子なんだって? よろしくな」


「彼、栄嵐高校のチェス部の部長なんですって」


「三年が早々引退しちゃったんで、仕方なくですけどね」


 チェス部の部長。彼の正体を知って僕は納得した。ここにはナージャとチェスをしたいチェスプレイヤーが時々やってくる。彼もその一人ということだ。


「ええと、僕は堀部ほりべ真咲まさき。ここの近所に住んでて、ナージャとは……友達です」


 弟子という言葉に戸惑いつつ軽く握手をして、笹川部長にもパイを渡す。


 一瞬キョトンとした顔をするので、「ナージャの手作りだよ」と言うと、彼は大きな口でパイにかぶりついた。


「うわっ! うま!!」


 その大きすぎる反応に、ナージャと顔を見合わせて笑う。


 こんがり焼かれた生地の中に、トロトロのビーフシチューが詰め込まれたナージャのシチューパイはやっぱり世界一だ。


 吸い込むようにパイを平らげた笹川部長は「ごちそうさまでした!」と大きな声で言った後、思い出したようにナージャに向き直る。

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