「卵か鶏」
お題:人妻の神様
卵か鶏
人のものだから欲しくなる、のかもしれない。
欲望の三角形という概念がある。人は、自分ひとりでは物を欲しない。誰かが欲しているのを見て初めてほしくなるのである。まあそんな考え方なのだが、僕は最初その言葉を聞いた時首をひねったものだ。僕がステーキを好きなのは、ほかの誰かが好きだからじゃなくて、自分が好きだと思ったからだ。ほかの奴のことなんか見ちゃいない。だったら、欲望は僕一人の感情で成立するもんさ、納得いかないね……。
だけれども、時を経て、僕は遠い記憶から「欲望の三角形」のことを思い出していた。どこかの雑誌にちらりと書いていたこの言葉。僕にとっては取るに足らない、通り過ぎるだけの存在だったこの言葉。それは時限爆弾のように僕の心に大きく影響を及ぼしていた。
田舎のなんてことない喫茶店に入り、アイスコ―ヒーをすすりながら僕は頬杖をつく。誰を待っているわけでもない、僕はぼうっとするためにここにいる。何もしないをするために。
「はあ……」
あの人が好きだ。毎日朝にマンションのエレベーターで一緒になる女性。肩まであるくせのない黒髪の女性。シンプルなジャケットとスカートを通勤着にしている女性。最近引っ越してきた女性。僕が知るのはそれくらいであった。
挨拶くらいしかかわすことのない女性。けれども僕はなぜかこの人が好きだった。浮足立った僕の心を固まらせたのは昨日の朝のこと。いつものようにマンションですれ違うあの人に、若い男が声をかけてきた。
「エミ、忘れもの!ほら、気を付けていってきな」
彼女は驚いたあと、嬉しそうに手提げを受け取って、簡単な返事をして僕と同じエレベーターに乗り込んだ。
……ああ、このひとには、恋人がいるのか。もしくは、結婚しているのかもしれない。僕は頭が一気にひやりとした感覚があった。さっきまでの浮足立った気持ちが消えた。僕のこの恋心は、もしかして、「彼女は人のものだから」?
卵が先か鶏が先か、僕にはついにわからなかった。アイスコ―ヒーの氷は溶けきった。
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