第8話 月光
ショートケーキを食べ終わった頃には日が暮れて、藍色の夜空が夕焼けを塗りかえていた。
一息ついたあと、オリオは
「読みかけの本があるから」
と自室に戻り、ウィルは
「植物園にあの若木を連れて行くよ」
と玄関を出て行った。
僕は退屈になってしまったので、一人でバルコニーにやってきていた。
まだ満月には少し足りない月が、夜空の中央に輝いている。僕はそれを、フェンスに体を預けながら眺めた。ここから見える景色全体に、静かな時間が流れていた。
右手に見える植物園には、明かりがともっていた。中でウィルは、若木の鉢の置き場所に迷っているのだろうか。
オリオは、ウィルが植物園に鍵をかけているから、中には入れないと言っていた。もしかしたらウィルは植物園の中を見られるのが、嫌なのかもしれない。
だとすると、僕はあの若木にはもう会えないのかな。
会えないままでいるうちに、僕はだんだんその若木のことも、忘れてしまうのかな。
失ってしまった記憶のように。
そんな感情が、胸をちくりと刺した。
視線の先で、植物園の明かりがパチンと消えた。それからすぐに、ウィルが植物園から出てくるのが見えた。
僕は思った。
今、植物園に行けば、せめて窓から中をのぞきみることぐらいはできるかもしれない。
僕はどうしようか迷った。
知らない方がいいよ。知ったってきっと、馬鹿馬鹿しいって呆れた挙句、いっそ全てを切り倒してしまいたい感情に駆られるだけだ。
オリオがこのバルコニーでそう言ってから、まだ一日も経っていない。
でも、記憶を思い出そうとして暗闇に飲み込まれそうになったのもまた、今日のうちの出来事だ。
空っぽになってしまった今の僕の記憶に残っている、数少ない出会いの一つが、あの美しい若木だった。見知らぬ森で独り目覚めた僕を、最初に温かい気持ちにしてくれたのは、あの木だ。
そのことを忘れてしまうのは、あまりに悲しいと思った。
僕はウィルが自室に戻った気配を感じてから、おそるおそる玄関へと足を進めた。
庭に出ると、月の光だけが足元を照らしていた。振り返ると、二階の窓のうち二つが明るくなっているのが見えた。オリオの部屋と、ウィルの部屋だ。
庭を横切って植物園に向かう僕の足音は、やけにザクザクと大きく聞こえた。
植物園の入り口扉の前まで来ると、僕は念のため丸い銀のドアノブに手をかけて引っ張ってみた。だけど、扉は動かなかった。やっぱり鍵がかかっているみたいだ。
それから僕は、ゆっくりと植物園の周りを回った。この白いドーム型の建物には窓が四つあったけれど、全て僕の頭の位置より高い場所に取り付けられていた。これでは、窓から中を見ることはできない。
中を見る方法が他に思いつかなかったのと、オリオの忠告に従わなかったこと、ウィルは植物園に鍵をかけてオリオにさえも見せたがらなかったことなどが、いろいろ思い起こされて、僕は早々に部屋に戻ろうと思った。
きびすを返すと、また家の二階の窓の明かりが目に入った。さっきは二つの窓が明るかったが、今は一つになっている。
あれ、と思っていると、ガチャンという音が聞こえた。
玄関の扉が開いたのだ。
「そこに誰かいるのかい?」
顔を出したウィルが、こちらに向かって呼びかけた。
心臓がドクンと跳ね上がった。彼の大切な植物園を僕が勝手に覗き見ようとしていたと知ったら、彼はいい気はしないだろう。
ウィルはゆっくりと、こっちに近づいてくる。
見つかる前に、どこかに隠れたほうがいいのだろうか。僕はとっさに暗い庭を見回した。近くに無造作に木箱が積んであるのを見つけた。その影にしゃがめば、きっとウィルは気づかないだろう。
心臓の音がドクドクと耳の奥に響いてきた。
隠れたとして、僕はそのあとどうすればいい?
明日から、どんな顔をして彼に会えばいい?
僕は耐えられなくなって、彼のもとに走りでた。
「ウィル」
ウィルは驚いたように立ち止まった。
「ロミじゃないか」
僕は大きく空気を吸って、一息に弁明した。
「あの、ごめんなさい。僕、どうしてもあの若木をもう一度見たくなって、ここまで来てしまったんだ。本当にごめんなさい。でもまだ、植物園の中は見てないよ。お月様に誓って、本当だよ」
ウィルは面食らったように僕の告白を聞いていた。僕が話しおわると、彼はふふっと笑った。
「なんだ、植物園に興味があったのかい」
ウィルの口調からは、怒りの気持ちは少しも感じ取れなかった。むしろとても優しい声だった。
僕は深く吸いすぎてしまった息を、はぁと吐き出した。
「興味があるなら、言ってくれれば良かったものを。さあ、いま鍵を開けてあげよう。中に入って、好きなだけ見て行くといい」
ウィルがそう言ってくれたので、僕は思わず顔をほころばせた。
「いいの? 本当に?」
彼は返事の代わりに、ドアノブに手をかけた。すると、ドアは簡単に開いた。きっと魔法を使った鍵なのだろうと、僕は直感した。
ウィルが電気をつけると、周りの庭まで明るい光がもれてきた。
「さあ、お入り」
ウィルが中から手招いてくれたので、僕はピョンと植物園に足を踏み入れた。
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