116 商いの真髄
時は江戸末期、幕末の動乱期にさしかかろうとしていた。日本一の商いの町と謳われた大阪では、長く続く不安定な政治情勢にもかかわらず、人々は生活を守るために商いを続けていた。主人公の藤吉(とうきち)は、代々米問屋を営む「藤屋」の若旦那。家業を継ぐ日が近いが、幕府の統制や物価の乱高下に悩まされ、藤吉の心は重かった。
ある日、江戸から一通の知らせが届く。「米相場が急騰する見込み」という噂が広がっていたのだ。当時、米は単なる食料ではなく、財政を支える基軸資産でもあった。相場の変動は商家の命運を左右する。藤吉の父である藤右衛門は老練な商人だったが、「今は様子見が肝要」と冷静に構えた。
だが、藤吉は違った。「今こそ大量に米を仕入れておけば、将来の利益を確実にする好機だ」と確信し、夜を徹して相場表を睨み続けた。
藤吉には商売の才があった。幼い頃から父の商いを手伝い、相場の微妙な変動に敏感だったのだ。しかし父は保守的な性格で、大きな投資を嫌った。「世の中が変わるとき、無理をする者は潰れる」と言って、若き藤吉の提案を退けた。
「勝負するなら今しかない」
そう考えた藤吉は、家族や奉公人たちを説得することなく、独断で取引を始めた。裏で親しい商人仲間から資金を借り集め、地方の米蔵から大量の米を買い付けたのだ。彼は自分の勘を信じていた。江戸に天災が起こったため、近く米価が跳ね上がる――その情報は確かなものと判断していた。
数週間後、江戸からの情報が届いた。
予想に反して、幕府は米の備蓄を放出し、市場の混乱を防いだのだ。相場は高騰どころか、急落してしまった。大量の米を抱えた藤吉は焦りを隠せなかった。「商いは一寸先が闇」とはこのことか。仲間から借りた資金も返せず、藤屋の信用は一夜にして失われる寸前だった。
そんな折、藤右衛門が静かに口を開いた。
「お前はまだ何も見えておらん。商いとは、売り買いだけではない。人を見て、時を待つことが肝心だ」と。
父は息子の独断を咎めることなく、「ここからが本当の勝負」と言った。
そして、残った米をただ売るのではなく、米俵に付加価値を与える策を考え始めたのだ。
まず、余った米を災害地への支援米として寄贈することを決めた。幕末の混乱の中で困窮する人々のため、各地の藩や町に無償で米を届ける。その行為は、米の価値を一時的に失った藤屋の再評価を促し、「藤屋は人情を重んじる商家」として名を上げた。
さらに、幕府や藩に対して、米の保管と流通を預かり業務として請け負う新たな商売を提案した。これにより、直接の相場に左右されず、安定した収益を得る道が開かれた。
数年後、幕府が倒れ、明治維新を迎えたころ、藤吉は父の言葉の意味をようやく理解した。
「商いとは、人と人との信用を繋ぎ、時の流れに逆らわず乗ることだ」という教えが、藤屋を危機から救ったのだ。
新政府の成立後も、藤屋は信用を武器にさらなる繁栄を遂げ、大阪随一の商家へと成長した。
藤吉は今もなお、父から受け継いだ言葉を胸に刻んでいる。商いの世界では、どれだけ先を読む目を持っていても、時には予測が外れることもある。そのときこそ、人としての在り方が問われるのだ。
「商いは勝ち負けではない。信じる者と共に歩み、失敗しても立ち直る。その繰り返しが商いの真髄だ。」
藤吉はそうつぶやきながら、新たな時代を迎えた大阪の空を見上げた。彼の胸には確かな自信と、父からの教えが息づいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます