115 もしもピアノが弾けたなら


老人ホームの一室で、87歳になる田中は、窓際のピアノをぼんやりと眺めていた。鍵盤は黄ばみ、音色も不確かだ。誰も使わないそのピアノは、まるで捨てられた思い出のように、ひっそりと部屋の隅で眠っている。


「もしもピアノが弾けたなら、人生も違っていただろうな」

田中は独りごちた。若い頃から音楽が好きだったが、家計を支えるために夢を諦め、工場で一生を終えた。

定年を迎えたとき、ふと思った。

「今からでもピアノを始めたらどうだろう?」

だが、その思いも体力の衰えとともに霧散した。


そんなある日、ボランティアの若い職員が田中に言った。

「ピアノ、興味あるんですか?  ぜひ一緒に弾いてみませんか」

「いや、もう指が思うように動かん。ピアノなんて夢のまた夢だ」

田中はそう答えたが、心の奥で小さな火がくすぶるのを感じていた。


翌日、その職員が楽譜を持ってやってきた。

「簡単な曲ですよ、試しにどうですか?」

と言われ、田中は渋々ながらもピアノの前に座った。だが、指は思うように鍵盤を押さえられない。震える手がぎこちなく鍵盤を叩き、間違った音が次々にこぼれた。田中は額に汗を浮かべながら言った。

「やっぱり無理だな……」


しかし、そのときだった。部屋の奥でじっとしていた老婦人――田中の妻である千代が、ゆっくりと車椅子を動かして近づいてきた。彼女は認知症を患い、ここ数年まともに言葉を発したことがない。だが、田中が弾いたたどたどしい音を聴くと、彼女の目から涙が一筋流れた。


「……その曲……覚えてるわ……」

千代が、はっきりとした言葉でつぶやいた。


驚く田中。二人にとって、その曲は特別なものだった。若い頃、彼がプロポーズした夜に流れていたピアノの小品。

「いつか自分で弾いてあげたい」と言った言葉を、千代はずっと覚えていたのだ。


田中は涙をこぼしながら、不器用な指で再び鍵盤を叩き始めた。メロディは途切れ途切れで、決して上手とは言えない。それでも、千代の瞳には確かに生気が戻っていた。彼女は微笑み、震える声で言った。

「ありがとう、あなた……ずっと待ってたのよ」


その瞬間、田中の心の中で長い長い月日が一つに繋がった。もしもピアノが弾けたなら――その夢は叶わないと思っていた。だが、今こうして、不格好でも音を奏でることで、彼は最後の約束を果たすことができたのだ。


そしてその日、千代は何年かぶりに穏やかな眠りについた。それが、彼女の人生最後の夜になったことを、田中はまだ知らない。だが、彼女の顔には確かな安らぎが浮かんでいた。


翌朝、田中はピアノの前に座り、再び鍵盤を叩いた。今度は独りきりで、彼女のためにもう一度――不器用な音を紡ぎながら。

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