112 無題



夕暮れの喫茶店で、彼女はひとり、コーヒーの砂糖をかき混ぜていた。


「どうして、こんなにも生きることがつまらないのかしら?」


誰に向かって言ったわけでもないその言葉は、冷たい空気の中で静かに消えた。彼女は、机の上に置かれたコーヒーカップを見つめ、ふと、そこに何も映っていないことに気づいた。窓の外では、夕日がビルの影に沈んでいく。


かつて、彼女には夢があった。だが、それはいつしか手の中で粉々に砕け、風に散ってしまったのだ。何もかもが失われ、ただ虚しさだけが心の奥底に残った。


「みんな、どうしてあんなに楽しそうにしているのかしら?」


すれ違う人々の笑顔が、彼女には理解できなかった。誰もが何かを手に入れて、何かを成し遂げ、何かに満足しているように見えた。だが、自分には何もない。生きる理由さえ、どこかに置き忘れてしまったような気がした。


「でも、本当は、私も――」


そこで言葉が途切れた。自分の弱さを、もう口に出すのはやめよう。そう決めたのだ。人に話したところで、誰も理解などしない。そんなことは、もう十分にわかっている。


彼女は静かに立ち上がり、店を出た。街はいつもと変わらない。いつもと同じ夕暮れが、いつもと同じように彼女を包んでいた。ただ一つ違うのは、彼女の心の中で、わずかに何かが壊れたということだけだった……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る