回想:旗野詩織⑤




 見えない違和感はそこかしこにあった。

 けれど花鶏の笑顔はいつだって完璧だ。

 その裏側に潜む小さな違和感の正体を見つけることは容易ではない。

 体育の授業や天川家で服を着替える時など。花鶏の身体をこっそりと盗み見たことはあるが、彼女の滑らかな肌には傷ひとつなかった。


(痣も火傷もない。もちろん、これだけで体罰みたいな暴力が無いって断言はできないけど。痕が残らないようにやってるのかもしれないし)


 幼稚園の頃の記憶は少しずつ薄れているが、詩織は今でも大きな声を出された時と腕を振り下ろされた時の衝撃をはっきりと思い出せる。

 男に対する本能的な恐怖。自分よりも大きくて強い存在に勝つことができないのだという実感は、中学生になってますます強くなっていた。

 周囲の男子たちはどんどん背が伸びていくし、髭が生え始めた者さえいる。

 穏やかで大人しそうな男子でさえそうなるのだ。

 良い父親に見えたから、実際に良い父親とは限らない。


(薬師寺家で会った時は立派でいい人に見えたけど、それだけじゃわからない)


 詩織の二番目の父親だってとても優しくていい人に見えた。

 前の怖い父親とは全く違ったから、この人は自分と母親の味方だと信じられた。

 だがそれは全て嘘で、あっけなく裏切られた詩織は全てを疑うべきだという教訓を得ることになる。今回もそうすべきだと詩織は確信していた。

 詩織はある日、ニュースで『教育虐待』という単語を知り、疑念を強めていく。

 花鶏はたとえ小テストであっても、試験の前後になると明らかに憂鬱そうな表情になり、天川家に行きたがる傾向があるようだった。


(そこまで状況が悪いのかはわからないけど。厳しいお家ってだけかもしれないし)


 だとしても、花鶏は薬師寺家を自分の居場所だと感じることができていないのではないかと思う。そしてそれは、きっと健全なことではない。

 他所の家庭事情や教育方針に口を挟むようなことが難しいことくらい、詩織にだってわかっている。それでも花鶏が苦しんでいるのなら力になりたかった。


(私にできそうなことは、今のところは二つくらい)


 ひとつは、花鶏の勉強を助けること。成績面で叱られることがなくなれば、花鶏が家で窮屈な思いをすることが減ると思ったのだ。

 もうひとつは、遊びや気晴らしをする時の言い訳になること。天川家以外にも逃げる場所があるのだと花鶏に思って欲しかった。

 決意を固めた詩織は、冬休みから三学期にかけて、これまでにも増して甲斐甲斐しく花鶏の世話を焼くようになった。

 これまでも宿題を見せてあげたりはしていたのだが、もう一歩踏み込んで勉強に意欲的に取り組んで貰うように頭を捻ったのである。


「アトリン、私はいま歴史ものとかにはまってるんだけど」

「錬金術のお話、私も興味出て調べちゃった。あのね、この関連動画を観てたら科学史の話とかあって、昔の実験とかもやってて面白いんだよ」

「朝の読書、これとかおすすめ。私、アトリンの感想きいてみたいな」

「このアプリ一緒にやらない? 英語だけじゃなくて色々な言語を学べるって、すっごく流行ってるらしいよ」


 少々狙いが露骨過ぎて、失敗した取り組みも多かった。

 けれど、詩織の真剣さが伝わったのか、花鶏はそれを頭ごなしに拒否するようなことはなかった。詩織の予想では、花鶏が抱く勉強への苦手意識は『父親に対する恐怖』に直結している。ほとんど勘だが、詩織は似たような恐怖を抱いたことがあるからこそ、花鶏の気持ちが理解できるはずだと信じていた。


「お母さんに連絡してもらったよ。アトリン、今日は私の家でお泊りね。勉強もちゃんとしてるよって証明するから。はい、ノート出して。一緒に撮影しよ」

 

 後になって思い返すと、それは『友達と一緒に遊びたい』という双方の願いを叶えるための行動でもあったのだろう。

 二人はこれまでよりもずっと『べったり』という感じになり、対抗心を燃やしたらしい恵麻が勉強会に協力してくれたおかげで、二年生になる頃には花鶏の成績は大幅に良くなっていた。


「ほんとに助かる~。実はこの成績のままだと塾通わせるとか言われててさ~。『高校までは自分で頑張る』って言っちゃったから、けっこうギリギリだったの~」


 花鶏は根が素直な上にモチベーションさえあればどこまでも突っ走れるタイプだ。

 詩織が『一緒に頑張ろう』と態度で示せば、同じだけの気持ちを返してくれた。

 お互いの気持ちは確かに通じ合っている。一年間の付き合いを通してその実感を得た詩織は、この上なく幸せな気持ちになった。


「良かった。私も張り切った甲斐があったかな。それはそれとして。その、アトリンに相談があるんだけど」

 

「なになに? シオリンのためならなんだってするよ!」


「数学の小テスト、ぜんぜんわかんなかった。連立方程式のとこ。教えて」


「おおぅ、シオリンが六十点以下とは」


「ばらさないで!」


 中学生になって、詩織は生まれて初めてのことを二つも経験した。

 大切な友達ができたこと。

 そして、自分の手で何かを成し遂げたという実感を得たこと。

 成功体験は自信をもたらし、これまでずっと卑屈で自信に乏しかった詩織を少しだけ前向きにさせてくれた。


(私、アトリンを救えたんだ。薬師寺家のお父さんは暴力とか詐欺とか、そういう人じゃないんだから。お家の教育方針が厳しくても、しっかりと頑張ってるところを見せれば親だってわかってくれるんだ)


 しょせん詩織は中学一年生の子供でしかない。

 だから年相応の楽観性でこう判断した。花鶏に屈託のない明るさが戻ってきたということは、家で叱られることが減ったに違いないと。一緒に遊ぶことに関しても、詩織が信頼を得ることで口うるさく言われることは減ったはずだ。

 ちゃんと勉強を頑張れば叱られない。

 正しいことをすれば報われるし、努力の後にはご褒美が待っている。

 学業と遊びを両立して、自分は親友と一緒に素敵な青春を満喫できる。

 そんな願望の通りに世界が動くと信じたかったから、それを信じた。

 詩織は、調子に乗っていたのだ。




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