回想:旗野詩織②
それはもう盛大で、学校中で語り草になったほどに。
教師が介入し、親が出てきて、二人が停学にまでなった大事件から少し経った頃、詩織は母親と一緒に花鶏の家に菓子折りを持って訪問した。
「この度はうちの娘がとんだご迷惑を」
「いえいえ、お嬢さんは何も悪くないでしょう」
薬師寺花鶏の自宅は、色鮮やかな庭が付いた一戸建ての立派な家だった。
詩織はアパート住まいの上に友達の家に遊びに行った経験がなかったから、少々幼い感想だと自覚しつつも『まるで本の中に出てくるお城のようだ』と思った。
薬師寺家の主人である花鶏の父親は柔和そうな表情と物腰で、詩織たちを家の中に案内する。広々としたリビングは明るくて、天井ではシーリングファンが回っていた。ふかふかとしたソファに座って向かい合うと、目の前で花鶏と目が合う。
(あれ?)
一瞬だけ表情が明るくなった花鶏は、すぐに緊張に顔を強張らせてなんだか窮屈そうに挨拶をした。快活な印象を裏切る、大人しい箱入り娘のような態度だ。
花鶏はひどく居心地が悪そうだったが、彼女の父親はにこにこと笑いながら娘の肩を大きな手でぽんぽんと叩きながらこう続けた。花鶏はきゅっと唇を引き結ぶ。
「私はね、うちの花鶏が間違ったことに対して正しく怒れる子に育ってくれて、本当に良かったと思ってるんですよ。確かにやり方は稚拙でしたがね。そういうのはこれから学んでいけばいい。二人とも、たっぷり叱られて反省したでしょうし」
(これが世間一般の父親? それとも、彼女の父親が特別に立派なだけ?)
最初の父親は暴力と暴言。次の父親は甘言と詐欺。
詩織にとって、それは思い出したくもない記憶だった。
惨めさよりも先に羨ましさを感じて、詩織の緊張はますます高まる。
「詩織ちゃん、大変な思いをしたと思うけど、誰もが君にひどいことをするわけじゃないからね。少なくとも、この子は君の味方だよ。良かったら、これから仲良くしてやってもらえるかな?」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
反射的に何度もうなずき、無意識に返事をしながら、この家は異世界のようだと詩織は思った。見るものすべてがきらきらと輝いていて、住人はみな善良で美しい。
リビングにお茶を持ってきてくれた花鶏の母親も優しそうな美人で、詩織は『両親が揃ってこんなふうだと子供も立派になるんだな』というようなことを考えてしまい、内心で少しだけ落ち込む。詩織は母親が好きだったが、父親に関しては比較することすらおこがましいように思えた。
「それでね、旗野さん。こういった問題こそわれわれ親が積極的に目を光らせていくべきだと思うんですよ。私は今回の件、学校側の対応に不満がありましてね。そのあたり、旗野さんと可能な限り協力していければと思っているんです」
騒ぎは停学だけに留まらず、大人たちの間で色々あったらしい。
『いじめだ』とか『いじめじゃない』とか、『いじめていたのは詩織と花鶏の方』みたいな意見まで飛び出したというから驚きだった。
それに真っ向から反論し、対決姿勢を見せたのが花鶏の父親だった。
学校に乗り込み、教育委員会に直訴までしたらしい。
(なんだか、助けられっぱなしだ)
詩織と母親は薬師寺家を全面的に信じて頼るしかなかった。
その後、色々なことが穏当に解決されていったのは、ほとんど薬師寺家の人々の尽力が大きい。相談を重ねるうちに母親同士はすっかり仲が良くなり、花鶏の父親が働きかけてくれたおかげで事態はおおむね丸く収まった。
「詩織ちゃん、いつでも遊びに来ていいからね」
優しそうな花鶏の母親からそう言われるとなんだか胸が弾んだ。
こんなに素敵な家にまた来ることができたらどんなにいいだろう。
けれど、帰り際に花鶏に告げられたのはそれとは真逆の言葉だった。
「あのね、あんまりうちには来ないでほしいの。ここ、つまんないからさ」
詩織は不思議でならなかった。
花鶏が決して意地悪で言っているわけではないとわかったからだ。
結局その真意はいまひとつわからないまま。
後で尋ねても、『ルールが厳しい』とか『教育方針があたしと合わない』とか詩織にはピンとこない理由だったのだ。
(あんなにいいお家なのに)
少しだけ花鶏を贅沢だと妬んだけれど、それは取り立てて二人の関係性を阻害する要因にはならなかった。内向的な詩織だけでは百年経っても距離は縮まらなかったに違いないが、花鶏の積極性がどんな距離でも一歩で詰めてしまうほどだったのだ。
「学校にも行けるようになったことだしあらためて。お友達になって下さいな!」
二人が学校に復帰したその日、花鶏に呼び出された詩織は本当にびっくりして、まじまじと相手を見つめた。
先日の事件で詩織の孤立は決定的なものとなっていた。
女子に手を上げたことや周囲で見ていた生徒たちの証言により、詩織に罵声を浴びせたり筆箱でキャッチボールをしていた男子たちはこってりと絞られた挙句に反省文の提出を命じられてそれなりに大人しくする気になったらしい。
しかし、『詩織に触れるべきではない』という空気が蔓延し、女子からも遠巻きにされるようになっていた。ただでさえ友達がいないので、おそらくこの状態はずっと続くのだろうな、と覚悟をしていたところだ。
確かに薬師寺家で彼女の父親から『よろしく』とは言われていたが、社交辞令なんじゃないかと詩織は内心で半信半疑だった。
(こんなに明るくてきれいな子が、私なんかと?)
薬師寺花鶏は、きっとクラスどころか学校でも一番可愛らしい女の子だ。
そんな子が自分を助けようとして停学にまでなって、その上でまだ一緒にいたいといってくれる。本当にそんなことがあり得るのだろうか。
これは、もしかすると新手のいじめや罰ゲームなのでは?
(まさかそんな。停学にまでなってるのに)
内心で疑念を否定したが、それでも現実感がない。
詩織が差し出された手をいつまで経っても握ろうとしないから、花鶏は少しだけ悲しそうな表情になった。詩織は『しまった』と思ったが、その直後に花鶏がぐいと距離を詰めてきて、強引に手を握ってくる。
目が合った。まばたきひとつない凝視。熱量の込められた意思を感じる。
花鶏の表情の必死さに、思わず返事をしてしまう。
「薬師寺さんが友達になりたいって言ってくれるの、うれしい。私なんかで良ければ、お願いします」
「ほんと?! やった! めちゃうれしい! 買い食いして映えスポット巡ってカラオケとか行こうぜ! あと映画! 服とか買いに行こ! そのあと遊園地!」
「うん。うん? えっと、時間的に無理じゃない?」
花鶏は感情と言動が直結しているように振る舞う。
手を引かれるままの詩織は翻弄され、未知の世界をひたすらに連れ回された。
何もかもがはじめての詩織は呆けていたが、花鶏はまだまだ元気が有り余っているのか帰り道でもはしゃぎっぱなし。
「遊んだ! 歌った! 満足! ねえねえ、またデュエットしようねー!」
心底から楽しそうに笑う花鶏はひどく眩しかった。
日が暮れていく中だというのに、彼女は夜でも輝く光のよう。
生まれて初めて友達が出来たのだと、その時ようやく実感できた。
「あのね、私も楽しかった。歌とかはあんまり知らないけど、薬師寺さんの歌、すごく上手で素敵。あとドリンクバー混ぜるの、楽しかった。ああいうのって初めて」
「おっ、いいね。またやってみるかー。ドリンクバーだけならファミレス行って飲み物だけ頼んでひたすら粘る迷惑な客ムーブしつつエンジョイできてコスパ良し!」
「えっと、忙しい時間帯は遠慮しようね」
「放課後はダイジョブじゃね? じゃあ明日とか早速いこーぜ! 毎日行こう! 昼休みにも行こう! 学校サボってもあたしはオッケー!」
「あ、うん。その、毎日はちょっと、厳しいかも」
どこまで冗談なのかが分からなかったが、毎日というのが冗談ではない可能性を無視できず、詩織はおずおずと言った。
薬師寺花鶏は身なりが整っている。
単純に容姿が綺麗というだけではなく、身ぎれいなのだ。
時間をかけて整えられたであろう髪とかわいい髪留め、手入れされた肌とよく見ないとわからない程度に薄く色が付いたリップ、制服の下のセーターや靴下。
良い素材を素材のままで終わらせない努力とコストが投入された結果、花鶏は美しい少女として完成されている。
立派な一軒家を思い出す。明らかに詩織とは家の経済状況に差があり過ぎた。
(別に、劣等感があるわけじゃない、けど)
現在の詩織は周囲から言われてるほど『貧乏』というわけではない。養育費は振り込まれてるし、母親は忙しく働いて詩織に不自由がないようにしてくれている。
「それでもお小遣い、多いわけじゃないから。遊び過ぎるのは気が引けるかな」
「そかそか。なら今度からはあたしが奢ってあげるよ!」
「駄目でしょ、その関係は」
ぎょっとして拒絶すると、花鶏はきょとんとして首を傾げる。
驚くほどに感覚が乖離していた。
「え? そう? 遠慮しないでいいのに」
「だめ。不健全」
詩織はもう一度、強めに否定した。
それから相手を説得するために携帯端末を取り出して説明する。
「今は幼稚園の頃ほど困ってはいないの。ほら見て。去年、お母さんにスマホとか買ってもらったんだよ。まあ、友達いないから家族との連絡用だけど」
本当は無料のウェブ小説などを読んだりしているのだが、それを打ち明けるのは少しばかり恥ずかしかった。元々、小学生の頃から図書館に行って本を借りてくることは多かった。当時は母親に負担をかけまいと、お金がかからない趣味を選ぼうという意識が確かにあったと思う。
「じゃーあたしが一番乗りだ! やったぜ!」
無邪気に笑う花鶏を見ていると、詩織は心が暖かくなる気がした。
嬉しいだけに、二人の間に存在する溝が怖くてたまらない。
「あのね、私って『貧乏だから歯の矯正ができない』って言われてたでしょ? 本当はできないってわけでもなくて。私、可哀想な家の子とかじゃないから」
歯列矯正は自由診療であり最低でも数十万の費用が必要になる。
詩織は母親の『無理ではないしどうしてもと言うなら』という言葉を真に受けていたが、実際のところはおいそれと出せる金額ではなかった。
ただ詩織は初めてできた友達に憐れまれるのも、『恵んでもらう』ような関係性に落ち着くのも嫌だった。必死になって拙い言葉を重ねる。
「ずっとしなかったのは理由があるの。えっと、ほら。小さな頃にあの男の子に言われたことがちょっと気になってたっていうか、一理あるかなって思ってて」
不思議と鮮明な記憶を想起しながら、少年の言葉を再現する。
「はっきり覚えてるの。『人には個性があるんだ。そういうのはチャームポイントだから、素敵なことなんだよ』って。幼稚園だよ? なんかすごいよね」
「お母さんの丸パクリ発言で偉そうにしやがってよー。あいつそういうとこある」
文句をいいつつも、花鶏はちょっと誇らしげだった。
それから少しだけ声のトーンを引き下げてからこんなことを訊いてくる。
「もしかして、あいつのこと好きとか?」
「幼稚園でそれはないよ。他にはあんまり覚えてないし」
実は名前もうろおぼえだ。『ゆーとくん』とか『ゆうくん』みたいな呼ばれ方をしていた気はするのだが。
それはそれとして、まさか花鶏が恋愛の話を振ってくるとは思っていなかったので詩織は少し気恥ずかしくなった。
「あの子ってお兄さん? 双子? この間はいなかったよね?」
「あ~いや、双子じゃないよ。あいつが四月生まれであたしが三月生まれの年子」
「そうだったんだ。今は元気にしてる?」
「ん、まあね。背が伸びてバスケ部入って調子こいてる」
「へえ」
思わず感心してしまった。
確かあの頃は自分より小さかったはず。
男子は中学に入ると背が伸びていくらしいから、そういうこともあるのだろう。
もしかすると、儚げで綺麗な王子様はムキムキのスポーツマンに成長しているのだろうか、などと妄想を膨らませてしまう。
「ていうか、どうせ歯並び直してもクソ男子は色々言ってくるよ。小学校の時、『歯になんか付けてて気持ち悪い』って言われてたコいたもん。男子ってマジでアホ」
「ひどい」
「ねー。お前らの言いなりになんかなるかっての」
「それ、わかる。周りの言うことに負けたくない」
「だよねだよね。またなんか言われたら一緒に暴れようね」
花鶏と話していると、詩織は自己肯定感が高まりに胸が熱くなり、ついつい話が止まらなくなった。普段は母親相手にしか喋ってない分、遠慮なく言葉が出てくる。
「なんで私があいつらの言いなりになって、ご機嫌をうかがうみたいなことをしなきゃならないの? 最低の連中にお許しをいただくために、私はお金を使って見た目を整えなきゃならないわけ?」
「それはそう」
「なんでずっと大人しくしてたんだろう。もう負けてやらない」
「うんうん。それもそう。けどそれはそれとして」
興奮し続ける詩織に共感を示しながら、花鶏は腕組して唸った。
それからじいっと目の前の相手を見つめながら何事かを思案する。
「旗野さん。いや詩織ちゃん。いやいや詩織っち、んーとしおしお、おりおり、しおり~ぬ、うむむむ」
「えっと、なに?」
「よし、シオリンで行こう! そっちはアトリンと呼びたまえ!」
(距離の詰め方が速い! 世間の人はこうやって友達と仲良くなるものなの?)
友達がいたことがないから全くわからない。詩織がしどろもどろに「あと、り、ん?」と繰り返すと花鶏は満足そうに笑ってからこう続けた。
「んでさー、言いなりになることはないんだけど、シオリンリンが見た目を整えてるとこはあたし見てみたいな~」
「薬師寺さんの目から見ても、私って見苦しい? そんなに私の顔は変?」
「違う! そっちじゃない! お洋服! おしゃれだよ! それから距離が遠くなってるよ! アトリンだよアトリン!」
「う、うん。でもアトリン、私はその、そんなに服とか持ってなくて」
すると花鶏は妙な提案をしてきた。
「今度さあ、あたしの家、じゃなくて。そう、別荘に遊びに行くのってどう? 普段は着ない服とか色々置いてあるんだ。衝動買いするんだけど、やっぱなんかちがうな~ってなった奴とか。あたしは駄目でもシオリンはいける気がするんだよね」
「えっ、別荘とかあるの?」
「ごめん嘘だわ」
「なんで嘘をついたの?」
「いや別荘じゃないけど、泊まったり遊びに行ったりできる場所みたいな? んー、まあ色々あってさ。準備とかあるし、この時期に行くと親がうるさいから、もうしばらくしたら説明する! とにかく秘密基地があるの!」
『なんだか男の子みたいなことを言うんだな』と詩織は思ったが、既に花鶏のことを信頼していたので素直に頷く。
話を聞くと、その『秘密基地』は親に禁止されている本や漫画、服やアクセサリなどが幾らでも保管できる夢のような場所らしい。
「更にお菓子と飲み物がタダ! 幾らでもこき使える召使いまで完備!」
「お手伝いさんのことそういう風に言っちゃ駄目だよ」
「シオリンはいい子だねえ」
子供のように頭を撫でられても嫌な気分はしない。
背伸びをする花鶏が可愛らしかったのもあるし、意味がところどころわからないなりに、彼女が好意を向けていてくれるのがわかったからだ。
(大事にしたいな)
はじめての友達を見ながら、詩織は胸に溢れる想いをひとかけらも零さないようにしようと誓う。自分の人生はきっとこれから劇的に変わっていくのだろうと、その時の詩織は無邪気に信じていた。
それは一面では正しい。
だが、愚かすぎるほどに楽観的な展望だった。
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