回想:旗野詩織①




 みんな敵だ。

 世界は『わたし』と『おかあさん』だけ。

 それ以外の全ては、旗野詩織はたのしおりを害する悪意でしかない。

 幼い頃は、そんな考えに縋ることでしか自分を守れなかった。


「やーい、ビーバー女ー!」「お前のママもビーバーなんだろ!」「ブース!」「その髪おしゃれのつもりかー?」「似合ってねーよ」「引っ張ってやろーっと」


 馬鹿にされたり、頭の左右で二つに括った髪の毛を引っ張られたり、枝先に乗せた芋虫を突きつけられたり、スカートをめくられたり。

 幼い子供、それも幼稚園児ともなれば男の子の乱暴さには歯止めがかからない。

 激務に翻弄される大人の目を盗んで、獣のような悪童たちが詩織に牙を剥く。


「むかつく」


 負けたくない、と思うより先に手が出ていた。

 たくさん話したりするのが苦手で、不器用な拳で殴りつけるとやりすぎてしまうこともあった。いじめてきた方の子たちは「あいつが悪い」だとか「先に殴ってきた」なんて口裏を合わせてくるから、詩織はすっかり乱暴者扱いだ。

 普段は内向的で、周りの女の子たちも乱暴者だなんて噂を真に受けてしまうからどんどん孤立していく。

 そうやって、詩織は思うようにならない世界にずっと不満を貯めこんでいた。

 そんなときだった。一人の男の子が、詩織の世界に現れたのは。


「やめろよ。そういうこと言っちゃいけないんだぞ」


 詩織よりも少しだけ背の低い男の子だった。

 大勢を相手にしても堂々とした姿は大人のような迫力があって、詩織を含めた誰もがびっくりして気圧されていた。いじめっ子たちは自分たちが数で勝っていることを思い出し、皆で声を揃えて「女の味方すんのかよ」なんて非難してくる。それでも男の子はひるむことなく、毅然と詩織を守ろうとした。

 

「大丈夫?」


 絵本に出てくる王子様みたいだった。

 きらきらしてて、不幸なんて知らないような顔をしてて、誰からも愛されて過ごしてきたことが一目でわかる。

 彼はきっと、光の中で生きてきたんだろう。

 父親に殴られたこともないし、次の父親が悪人だったこともない。

 違う世界の住人は、小さな子供にはまぶし過ぎた。


「うるさい。お前なんか嫌いだ」


 明らかに小さな男の子はショックを受けていた。

 一緒に遊ぼうと差し伸べられた手を強く払って、詩織は乱暴に拳を振り上げる。


「わたし、だまされないから!」


 きっと、彼は詩織の言葉の意味が分からなかっただろう。


『優しい顔で親切にしてくる男を簡単に信用しちゃだめよ』


 今はもうどこかに行ってしまった二番目の父親。

 最低の悪人のせいで余計に困窮するようになった母親が娘にそう言い聞かせたことを、誰が責められるだろう。けれどその忠告は幼い子供には時期尚早だった。

 あの父親もきらきらしていた。にこにこしていた。

 最初の父親とは全く違う、素敵な救い主だと思えた。ぜんぶ嘘だった。

 みんな同じだ。こいつもきっと、詩織の敵。

 周りは全て敵に見えた。この世界は危険と破滅だらけで、全てのものが詩織と母親を虐げようとしているのだと思った。

 だから詩織は悪いやつをみんなやっつけてやろうとますます乱暴になり、そのせいでますます周囲から人が離れていく。悪循環の果てに何が待つのか、詩織は理解できていなかったし、それを大人たちは心配してどうにかしようとしていたけれど。

 結局のところ、その問題は別の方向で解決し、同時にこじれた。


「ねえ、ひとりで遊んでるの?」


「うるさい! こっちくんな!」


 男の子はめげずに詩織に話しかけてくる。

 我慢できずに手を上げても全く懲りない。

 彼の後ろにはいつも『とことこ』という感じの頼りない足取りで追いかけてくる可愛い女の子がいた。とってもお似合いに見える、お姫様みたいにきれいな子だ。

 優しそうな彼女もおずおずと詩織に声を掛けてくれたけど、詩織は徹底的に二人に辛辣に当たった。時には罵声を浴びせ、乱暴なこともした。

 振り返るたびに思う。なんて嫌な奴だったんだろう。

 明らかな問題児。ここまで頑なだと、大人が叱りつけてもどうにもならない。

 変化は、最悪の形で訪れた。

 いつもにこにこしていて、誰よりも優しくてきれいな王子様。

 そんな彼が、唐突に『ぷっつん』したのだ。

 もちろん、詩織はそれが突然の出来事ではないと知っていたはずだ。

 何度も手を挙げた。罵声を浴びせた。せっかく仲良くしてくれようとしていたのに手を振り払った。彼と仲良しの女の子にまでひどいことを言った記憶がある。


(へんなやつ。まるでお話に出てくるつくりごとの王子さまみたい)


 そこまでしても笑顔を崩さない男の子が少し不気味だったのもあって、詩織の暴力には容赦がなくなっていった。

 けれどそれは詩織の勘違いだった。

 彼はひとりの人間で、ずっとつらい気持ちを押し隠していたのだ。

 感情を爆発させた彼はわんわん泣きながら詩織をばんばんぶっ叩き、詩織は詩織で引っ掻いたり股間を蹴り上げたりとやり返しながらぎゃんぎゃん大泣きして、喧嘩を囃し立てる園児たちが集まってきてその場は大騒ぎになった。

 いつも王子様と一緒だったお姫様が大人を呼んでくると、双方の親が出てくる事態にまで発展して詩織はひどく追い詰められる。

 母親の弱り切った顔。

 泣きわめく王子様の声。

 大人たちの深刻そうな話し合い。


(もうやだ)


 具体的な教訓があったわけではない。

 詩織はその一件で学習はしたけれど、成長はしなかった。

 世界の見え方はずっと同じようなものだったし、怒られたから口を噤んで手を引っ込めるようにした、そのくらいの変化があっただけ。

 相変わらず周囲は敵に見えていたし、友達だってぜんぜんできないまま。

 陰鬱な小学生時代を、ずっと小さくなってやり過ごしていた。

 

「うわっ、くっせ」「ビーバーってずっとぼっちだよな」「あいつ貧乏だから歯の矯正もできねーんだって」「マスク外してみろよ」「ビーバー菌タッチ!」「うわきたね」「ちょっと男子やめてあげなよ」「お前も嫌がってんじゃん」


 詩織は学習したから、小学生時代はやられっぱなしで耐えてきた。

 けれど、中学校に上がっても同じようなことが続いたのは本当に堪えた。

 中学生なんてすごい大人だと思っていたけれど、考えてもみればこいつらは一か月前まで小学生だったのだ。性根がいきなり変わったりしない。


(学校、やだな)


 幼い頃の大喧嘩以来、人前で泣かないようにしていた。

 それでも、悔しくて視界が滲む。

 全てを拒絶し続けることなく、あの時に王子様の手を取っていたら、何かが変わっていたのだろうか。

 詩織にはわからない。どうすれば周りと上手くやれるのか、そのやり方が全くわからないのだ。自分には他の人ができて当たり前のことができない。

 たったそれだけのことが、とても苦しい。

 無力感と後悔。

 暗い世界で俯いていた詩織の前に、もう救いの手は現れない。

 この現状はきっと、あの小さな王子様の手を振り払った愚かな自分への罰だ。

 だけど。


「ねえ、もう戦わないの?」


 きらきらした、お姫様のような女の子がそこにいた。

 住んでいる場所が明らかに違う。そんな美少女が薄暗い岩の隙間を覗き込んで、わざわざ虫を見るような奇行に周囲は仰天していたけれど。

 彼女はそんなことお構いなしに詩織にずいと詰め寄ってくる。

 まるで、旧知の仲であるかのように。


「あれちょーかっこよかった。めちゃ強くてかっこいいユーゴと引き分けた女の子なんてはじめて見たんだもん。痺れたよ! あたし密かにそんけーしてたんだよね。友達がさあ、みんな『暴力は駄目』とか言うじゃん? だからね、全力でパンチできるのって『戦う女の子』ってやつだなって! ね、またやんないの?」


 きらきらわくわくした目。

 冗談みたいにきれいでまっすぐなそのまなざしに、詩織は言葉を失う。

 この感覚には覚えがあるし、同じ過ちを繰り返したくないと本能が警鐘を鳴らしている。暴力は駄目だ。暴れても意味はない。もうこんな年齢なのだ。現実は見えている。男の子には力で勝てない。なのに、胸に刻まれた後悔がこうも告げている。

 今度こそ、違う未来を掴むことができたなら。


「あたしね、旗野さんに憧れて自分を変えたんだよね。強い女になるぞって!」


 にかっと歯を見せて笑う少女は、可愛らしい顔の印象を裏切って少年のような活発さで拳を握る。無造作にそれを『いじめっ子』たちに突きつけた。

 胸がどきどきする。

 詩織の世界は、その日を境に一変した。


「やろーぜ、旗野さん。クソ男子どもに必殺パンチをお見舞いしてやろう」


 それが、薬師寺花鶏やくしじあとりとの出会い。

 もちろん男子に勝つなんてできなかったから、大暴れして机と椅子をしっちゃかめっちゃかにして、窓ガラスを粉々にするくらいしかできなかったけれど。

 それはどこか爽快で、二人は並んで叱責されつつ密かに目を合わせて笑い合い、余計に怒鳴られ反省文を増やされた。

 それが始まり。

 二人揃って停学処分を下されることになった、親友としての初めての共同作業だ。



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