蛇足あるいは舞台裏

終わりの裏で、もしくは誰かのプロローグ




「うわっ」


 天を衝くほどに巨大な旗が、青空の向こうではためいている。

 纏ったオーラ、運命力、令嬢威厳値、血統資質、いずれも超一流。

 またこの世界槍のどこかで、少女にとっての破滅が生まれたに違いない。

 想定通りの展開とはいえ、思わず呻かずにはいられない。 


「でっけー悪役令嬢ヴィラネス


 思わず幼少期の粗野な口調が漏れ出てしまうが、小さな独り言はマスクの中に隠れて誰にも気づかれずに終わった。

 少し肌寒い。マフラーの位置を直して制服の袖を握る。風に揺れる長い黒髪を抑えつけながら、旗野詩織はたのしおりは黒マスクの位置が不安になってずれを治す。内側のマスクフレームが少し蒸れていてうんざりだ。好きで付けているわけではないが、いまさら外したくもない。

 異世界に来てもこの世はうんざりすることばかり。


「レーカ。こっちでもフラグを目視できた。タイトルからしてやっぱり津田さんが覚醒したみたい。アトリンはどうしてる?」


 小声で呼びかけると、マスクの裏に仕込んだ超小型の通信機が反応する。グロートニオン結晶がどうとか言っていたが、ぱっと見は紫色のガラス玉付のピンだ。小型通信機は微かに振動して、詩織にだけ聞こえる音声を伝えてきた。


「安心するレカ~、ちゃんと無事レカ。トルフィは撃退できたし、パレルノ山付近の洞窟での採取クエストも終わったレカ。いまからそっちに戻るところレカ! もうすぐだから、シオリもちゃんと準備するレカ~!」


 いつもよりずっとトーンの高い声。甘ったるい響きに加えて奇妙な語尾。

 クラスメイトの誰が信じるだろう。

 この奇妙な通信相手が、学校随一の美少女とされている渡辺麗華わたなべれいかであるという事実を。


(私はアトリンの方が可愛いと思うけど)


 とはいえそんなことは自分と天川勇吾だけわかっていれば十分だ。

 問題はそこではない。

 麗華に押し付けられた無理難題の方がずっと厄介だった。


「はぁ~、どうしよ」


 詩織がいるのは第一階層の西部に広がる巨大国家、リクシャマー連合帝国のとある大都市だった。行き交う人の量はさすがに元の世界ほどではないが、それでもちょっと油断するとぶつかりそうになるくらいにはにぎやかだ。


(うう、酔いそう。こういうの苦手。アトリンに会いたい)


 厳密には異世界にかつて存在していた国家のレプリカらしいが、詩織にしてみればどうだっていいことだ。重要なのは、ここが物語の舞台になり得るということ。

 この連合帝国は中心であるリクシャマーとその同盟国家であるバロッサ、リュベリーン、デッサという勢力によって構成されている。

 そのうちのひとつ、デッサ聖騎士団領は国土の大半を山岳地帯が占めており農業には適さないが、山道を切り開くことで交易の中継地、あるいは防衛拠点として重要視されてきた宗教国家である。

 最大の特徴は呪鉱石という『魔法や錬金術の素材』を採掘可能であること。

 特にパレルノ山はこの希少金属の産出量において世界有数とされ、既に下の階層に進んでいるハイレベルな転移者たちも『稼ぎ場』として通い詰めるほどの人気を誇る。そのためか、市街地の大通りでは転移者らしき姿をよく見かけた。


(旗が、旗が多い~)

 

 詩織が『酔いそうだ』と感じているのは何も彼女が人慣れないからというだけではない。その特異な知覚能力が原因だった。

 遥か彼方の旗だけではない。

 この世界は、無数の旗で溢れかえっている。

 詩織にしか知覚できないそれは悪しき運命を象った虚構のヴィジョン。

 本来なら形のない漠然とした危機感を、詩織の意識が『破滅の旗』という映像に置き換えて解釈している幻影のようなものだ。

 詩織はこのヴィジョンをシンプルにこう呼んでいる。


(『破滅フラグ』なんて、もう見たくない)


 天職は『乙女ヒロイン』。スキルは『危機察知』。クエストは『破滅回避』。

 旗野詩織は、乙女ゲームのヒロインとしてこの世界に存在している。

 しかし、ただの乙女ゲームのヒロインではない。


「レカ~! アトリを連れてきたレカ~! いいレカ? 掴みが大事レカ! 変わり果てた姿を見せて、親友を思いっきり困惑させるレカ!」


「恥ずかしいんですけど」


「我慢レカ! そんなんじゃオリヴィア様に並ぶ立派な乙女ヒロインになれないレカ!」


 別にそんなものにはなりたくない。

 だが、他に妙案が見つからないのも事実だった。

 今の詩織は、渡辺麗華ことレーカの立案したばかばかしい作戦を実行するしかない。そうしなければ、彼女を包囲する破滅フラグが全てを終わらせてしまう。


(折るんだ。私が。全ての旗を)


 決意を胸に、攻略をスタートする。

 特定の運命に対する干渉。それが乙女ヒロインの天職固有スキルだ。

 個々人に与えられた『個性と結びついたスキル』とは別に、乙女や聖女といった特殊な天職には天職に対応したスキルが付属している。

 乙女ヒロインの場合、最初から使用できるのは『出会い』と『自己研鑽』の二つ。今回使用したのは『出会い』だ。

 きっかけも過程も飛び越えて、問答無用でゲームが始まる。


「ヒロインがんばるレカ~! シオリは才能あるヒロインだから自信持つレカ!」


「これ本当に怖いんだけど! もう! どうにでもなれ!」


 えいや、と念じた途端、詩織がいた街の中央広場で異変が発生した。

 雑踏の中でとりわけ目を惹く輝きがひとつ、ふたつ、みっつ、更に増えていく。

 道行く女性が振り向き、すれ違った男性が慄く。

 次々と詩織の周囲に集うのは、イケメン、美男子、王子様、その他いろいろな『攻略対象』たちだ。無から湧いてきた美男子あるいは謎めいた人外、とにかくキャラが立った感じの男たちは揃って詩織に『出会う』ためにイベントを発生させていた。

 完全に同時に、だ。


(なにしゃべってるのかぜんぜんわかんない)


 たとえるならそれは美の包囲網。詩織は情報量の多さで思考がフリーズした。

 ざっと見たところ、ラインナップはこんな感じ。

 やや中華風帝国のどことなく科挙っぽい官僚登用試験への受験を勧めてくる商人に身をやつした皇太子、前世より受け継いだ聖剣を預けるに足る選ばれし十二の騎士、非攻略対象である王子の護衛騎士、思い人に捧げる恋の織物を依頼してきた辺境伯、聖女にだけ心を許すと言われている聖獣、生贄を求める孤独な怪物、停戦の条件として嫌われ者の王女との婚約を提示してきた魔王、女性に触れることができない呪いゆえに婚約破棄され続けている失恋王子、吸血鬼の王とそれを追う狩人公爵、推しカプが被ったので陰から一緒に見守る同盟関係になった腐れ縁の男、対異界防衛隊の最精鋭にして天才的な射撃能力を持つ軽いノリの少年、新選組一番隊組長、世間を騒がせる大怪盗、『ファミリー』のナンバーツーにして『お嬢』の婚約者、森でひっそりと暮らす美貌の隠者。以下省略。


(設定が渋滞してるんだけど。『私』っていう無個性主人公はどこにでも代入できるって話は本当だったみたい)


 何かの操り糸に導かれるような凄まじいモテ方をしているが、そもそもモテたことがないのでこれを『モテ』として扱っていいのかよくわからない。

 というか作り事っぽすぎて現実感がゼロだ。


(これ、クラス全員の『運命の人候補』をぜんぶ奪ってるんだよね? 戴冠神殿の計画を妨害することにはなってるはずだけど、ちょっと嫌な女っぽいな)


 自分の立ち位置を考えるとつらくなってきたが、それが狙いだ。我慢我慢。

 しばらくイケメン軍団との対話になってない対話イベントをにやり過ごしながら待機していると、本命の相手が到着した。

 採取クエストのために出かけていた薬師寺花鶏やくしじあとりと付き添いの渡辺麗華わたなべれいかが戻ってきたのだ。


「お~いシオリーン! 体調は大丈夫~? って、ありゃ?」


 花鶏は大勢の美形に囲まれている詩織を見て唖然としていた。

 それはそうだろう。詩織が逆の立場でもそうなる。


「どゆこと?」


「おかえりアトリン。説明っ、あの、私の天職は説明したよね? なんかぁ、才能があったみたいでぇ、こーんなにモテモテになっ、なっちゃったんだ~、です」


「レカッ!」


 あまりにもあまりな台詞に我慢できなくなったのか、叱責のような鳴き声を上げたのは麗華だ。花鶏は「れか?」と不思議そうに隣を見て、ボロを出した当人は「げふんげふん! レカッ、レッカー車が見えた気がしたけど気のせいだったかも~」などと無理のある誤魔化し方をしていた。

 麗華がその大きな目でじろりと睨んでくる。美人の怖い顔は迫力があるが、こっちにだって言い分はある。詩織は睨み返しながら小声で主張した。


「仕方ないでしょ! いきなり演技なんてできない!」


「ユーゴくんはぶっつけ本番でやり切ったらしいレカ! そんな大根役者丸出しじゃ怪しまれるレカ! アトリが大切じゃないレカ?」


 そう言われると引くに引けない。

 ぐぬぬ、とマスク内で歯噛みしつつ、ぎこちない動きで周囲の男を『侍らせている』アピールを繰り出す。要点はふたつ。『あざとく媚びる』と『清純ぶる』だ。


(あざといって何。清純って何。ヒロインってなんなの!?)


 わからないなりにやけっぱちの演技をしてみせたが、そもそも周囲の情報量が多すぎて花鶏にいまいち伝わっていない気がした。

 しかしそこは薬師寺花鶏である。

 親友として以心伝心である二人は、こういう時でもそれなりに通じ合えるのだ。


「えーっと? 乙女ゲームの主人公になっちゃった、みたいな?」


「そ、そうそれ! さすがアトリン天才! 超速理解! 一を聞いて十を知る!」


「お、おう? なんかシオリン、テンションおかしくない?」


 普段と違う親友の様子を前に、薬師寺花鶏やくしじあとりは不思議そうに首を傾げた。彼女の能力と運命は『錬金術師』、『調合』、『期限までに課題をこなしつつ学院を卒業して自分の店を成功させる』というシビアな時間制限がありつつもわかりやすい状況だったから、なおさら詩織の方向性が不可解だったようだ。

 順番に理解してもらう必要があった。

 補足するように、花鶏の背後からこっそり麗華が囁きかける。


「主人公だからっていい子アピールと被害者アピールを繰り返して何の努力もせず王子様たちに守られて、強欲に逆ハーレムを狙いつつ無実の人に悪役を押し付ける性悪女、それがヒロインである詩織ちゃんなの」


「ちょっと、何?! シオリンはそんな子じゃないよ?!」


 陰口に対して本気で怒ってくれる花鶏を見ていると嬉しくてたまらないが、それはそれとしてこれも段取りの一部だ。

 薬師寺花鶏には、旗野詩織を誤解してもらわなければならない。


「いや、そういうポジションってこと。このままだと『化けの皮を剥がされてざまぁエンド』が待っているわけ。彼女は主人公の悪役令嬢を追い詰める原作ゲームの主人公という悪役だから」


 そう、旗野詩織の天職、乙女ヒロインは二つの顔を持つ。

 ひとつはオーソドックスな乙女ゲームの主人公。この世界における大半の女性転移者はこの類型に属しており、この天職に後から転職することも可能だ。

 もうひとつの隠された性質は、『乙女ゲームに出てくる悪役令嬢を主役としたフィクションに出てくる本来の乙女ゲームの主人公という名の実質的には反転した悪役令嬢』というものだ。『オリジナリーヒロイン』と呼ばれるこの『隠し天職』は、とある適性を転移者に与える。

 とある適性とは、この世界における最悪の運命とほぼ同義である。

 普通に考えれば、望んでなるようなものではない。

 そして、本来なら詩織が選ばれることはない。

 別の適格者が既にいるからだ。

 だが、詩織はそうなる道を選択した。


「悪役令嬢はわかるけど! そういうのじゃなくない?!」


 気色ばんで叫ぶ花鶏。

 そのこだわりと善性を、守らなければならない。

 それが可能なのは、詩織だけだ。


「あのね、この世界にいるのは『謙虚堅実』とか『はめフラ』みたいに本来の主人公と仲良しになるタイプの悪役令嬢ばかりじゃないの。今の彼女のことは『悪役令嬢ものにおける悪役令嬢』という位置づけだと思って」


「え~でも悪役令嬢は絶望に覆われた闇を切り開く正義のヒロインなんだよ~! 悪役令嬢はシオリンにそんなひどいことはしないよ~解釈違いだよ~」


「花鶏ちゃんのその理解、けっこうおかしいからね」


 不満そうにむくれる可愛らしい少女の背後では、これもまた旗野詩織にだけ見えている文字列が輝きを放っていた。

 タイトル。一部のスキル持ちが知覚可能な、転移者たちの本質。


『アトリのアトリエ~巡る時空のアルケミスト~』


 わかりやすくてシンプルで、けれど極めて重大な秘密が隠されているタイトル。

 当人にそれを悟られるわけにはいかなかった。

 閉じた環から戻ってきた希望を、本当の意味で未来に繋ぐために。

 起きてしまった未来の絶望を、詩織自身が廃棄しなければならないのだ。

 

(全ての破滅を回避する。そのために、私は)


 詩織の世界を覆い尽くす無数の旗。

 もうすぐ戻ってくるであろう今井北斗いまいほくと渡辺麗華わたなべれいかもそうだ。詩織の目には、彼らの背後にも旗が見えていた。

 だが、誰よりも巨大な旗を背負っている相手は詩織のすぐそばにいる。

 いつだって隣にいてくれる、大切な親友。

 薬師寺花鶏。彼女のタイトルは、とてつもなく巨大な旗に記されていた。


「こっ、こんなにイケメンに囲まれてるとぉ~、クラスの男子たち、あっいや、男子なんかつまんなくなっ、なってきちゃったかも~。特にあまっ川くんとか、本物の王子様と比べたらつっ、きとスッポンみたいな」


 ボロボロの台詞を噛み噛みになりながらどうにか言い切った。

 麗華が人を殺せそうな目つきで睨んできたがこっちはそれどころではない。

 普通なら相手を不審がりそうな状況だが、その内容ゆえに花鶏は劇的な反応を示した。むっとしたような、少しだけ安堵したような、複雑な表情。

 麗華とアイコンタクト。オーケーサインが出た。


「どうしたの、なんか変だよ? いつものシオリンはそんなこと言わないよね?」


 困惑する花鶏を放置して、詩織は可能な限りアホっぽい顔をしているつもりになった。コンセプトは『親友の相手より周囲のイケメンに夢中』だ。はっきり言ってわけがわからない。どんなイケメンだろうと花鶏を後回しにすることなんて考えられないというのに。もっとも、天川勇吾に限れば同席していても構わないが。


「花鶏ちゃん。詩織ちゃんはクエストによって精神を汚染されてるみたい」


「どういうこと? ナベカは何か知ってるの?」


「今井くんが二週目で、私が原作知識持ちって話はしたよね。実はこの世界には罠があるんだ。『指標インジケータ』っていう悪意に満ちたシステムがね」


 渡辺麗華は、『指標』に関する知識を花鶏に伝えた。

 ある重要な事実を誤認させたまま。

 それが最初の関門で、それを信じさせないと何も始められない。


「うそ、じゃあ、シオリンはこのままだと」


「そう。彼女はクラスの生贄である『指標』に選ばれた。私と今井くんの咄嗟の判断でクラスから引き離したから、すぐには危険な状態にはならない。けど、詩織ちゃんを私たちで救うためにはあなたの力が必要不可欠なんだ。力を貸してくれる?」


「えっと、それはもちろんだけど、あの」


 花鶏がこの決断を迷うことはない。

 だが、最も身近な存在が危機に陥っているという事実は彼女を不安にさせてしまっている。花鶏がそう感じてくれていることに安堵しながら、作戦の第一段階が成功したことを確信する。


「あのっ、あのさ! クラスの人が破滅の原因になるかもって言っても、えっと、ユーゴとかならさ、安心できると思うんだ。そ、相談とかしちゃ駄目かな」


 不安そうに言う花鶏に対して、麗華は厳しい表情で否定を返した。


「残念だけど、彼はイケメン度が高いから攻略対象に含まれてしまうと思う。つまり、本来のヒロインである詩織ちゃんが好き勝手に利用しようとしたところを悪役令嬢に救われて惚れるパターン!」


「ざまぁ展開まっしぐらじゃん! やだよユーゴがシオリンに失望したり嫌いになったりするの、なんて」


 言いながら、それをイメージしてしまったのだろう。

 全て言い切る前に言葉は弱々しくなっていく。

 花鶏は、それは悲しんだはずだ。


(でも、嬉しい気持ちもあったよね? アトリン)


 それでいい。

 詩織の望みはひとつだけ。

 薬師寺花鶏の心が、もう圧し潰されずに済むようにすること。

 詩織は、全ての破滅の始まりに思いを馳せる。

 抱きしめた冷たい身体。幼い約束。血まみれの包丁。二人で埋めた死体。最果ての駅。廃棄した感情。新月ポスト。書き換えられた現実。猫のいる並行世界。暗殺者や異能者たちがひしめく伝奇物語が採用されたリアリティレベル。破滅の呪い返し。バスの大量死。呪われた恋のおまじない。板挟みの果ての無理心中。忘却虚飾の冠。


『あのね、アトリン。私、お兄さんのこと』


 なんて馬鹿な女だろう。

 あの頃の自分を、詩織は心から憎む。

 自分が壊したもの。その結果として起きてしまったこと。

 全ては詩織の愚かさが招いた破滅だった。

 親友の笑顔の裏側を想像することさえできないなら、詩織に生きている資格なんてなかった。だから死んだ。なのにこうして死後の世界で生き足掻いている。

 それが全ての間違い。

 叶うはずのない願いは叶ってしまい、望まない望みは果たされてしまった。

 間違いは、正さなければならない。 


「じゃあ、ユーゴには秘密か。あたしが、シオリンを救わないとなんだ」


 今の花鶏は覚えていない。

 暗殺者が約束を履行すべく花鶏を襲ったあの時に、その記憶は失われた。

 今回は、そういう形に落ち着くことができたのだ。

 もうやり直しはきかない。後がない。


(そうだ。私が、アトリンを救わないと)


 この戦場に天川勇吾はいない。

 いなくてよかったと、心から思う。

 詩織はその名を思い出すたびに高鳴る胸の鼓動を強引に鎮めた。

 まだ足りない。心の奥から湧き上がってくる焦がれるような熱とあたたかな安心感、湧き上がるみずみずしい喜びをまとめて意識の底に沈めて埋める。

 何重にも蓋をして、墓の底での冥福を祈った。


(どうか、私の想いが彼に届きませんように)


 無数の美男子に囲まれた詩織の前には数多の恋が広がっている。

 望めばどんな劇的な恋愛物語だって経験できるだろう。

 素敵な恋人と幸せな思い出を作ることができるだろう。

 それでいい。そうすべきだ。

 状況次第でメイン攻略ルートは変更していくが、当面の目標はやはり黒曜伯。

 ヴァン・ユーストラム・スロードハイン。

 悪役令嬢オリヴィアの婚約者筆頭。序列一位の最強剣士。


(恋をしよう。新しい恋を。偽物の契約結婚を。私が二度と間違わないために)


 あちらでオリヴィアが上手くやれば、天川勇吾は二度目の大爆発を起こさないはず。だから詩織はこの道を進めばいい。

 彼が世界を滅ぼすほどに傷ついてくれた。

 その事実がもたらす暗い喜びを見なかったことにしつつ、詩織は決意する。


(愛とか恋とか破滅とか。そんなフラグは、私が全て折ってやる)


 それは、もうひとつの『破滅回避』の物語。

 旗野詩織が、破滅の旗を折り砕くための長い道のり、その第一歩。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る