幕間回想:オリヴィア・エジーメ・クロウサー




「演じることが、お嫌いですか?」


 それは最初の決戦前夜。

 勇吾とオリヴィアは『計画された指標インジケータの破滅』を回避すべく、クラスメイトたちに定められた『クエスト』の改変に挑もうとしていた。

 改変方法は喩えるなら演劇で、本番の前日ともなれば通し稽古ゲネプロや細かな段取りの確認といった切れ目のないタスクに忙殺されることになる。

 だからオリヴィアが唐突にそんなことを言い出したのは、そうした全てがひと段落した日没後のことだった。

 幻想的に輝く宝石灯に照らされた控室で、勇吾は目を瞬かせる。

 

「いや、最初は不安だったけど、やってみたら案外と楽しいって思えたよ」


 首まで塗りたくられた舞台用白粉ドーランを落とそうとしていた勇吾は手を止めて笑顔を作った。大きな鏡に映し出された勇吾の顔はいつもと変わらずに整えられた感情を出力している。分厚く塗り潰された内側を窺い知ることはできない。

 そのはずだった。


「勇吾さん。あなたはこんな時でも変わらずに美しい。それは天与の才能ですが、わたくしはどうしても惜しいと感じてしまいます。その顔に暗さと醜さ、怒りと憎しみ、悲しみと嫉妬が浮かんだなら、どれだけ心が震えるでしょうか」


 かた、と勇吾の腕が動く。化粧台の上でアイブロー用ペンシルやクレンジングオイルの瓶が転がる。倒れた瓶の側面に見慣れた『エジーメドーラン社』のロゴが記されているのが見えた。いつだったか、オリヴィアがこの世界に化粧品を安定供給できるようになるまでの奮闘記を語ってくれたことを勇吾は思い出す。


「要求のレベルが高いなあ」


 オリヴィアの本質は享楽を貪る浪費家だ。それもおそらく無自覚な。

 生まれついての上流階級ゆえに、無人島に流れ着いたも同然の状況であるにもかかわらず、贅沢を贅沢として認識できない。

 恥じることも迷うこともなく、『欲しい』と願うことができる。

 

「わたくしは、あなたの感情の底が見たい」


 勇吾は目を細めた。眩しさに対する反応のようでもあったし、感情の揺らぎがほんのわずかに表出したようでもあった。


「俺って、そんなに上っ面だけの人間に見える?」


「ええ。それがあなたの長所であり短所。すなわち内なる個我の発露です」


「外面なのに?」


「外と内は同じもの。内面だけで構成された人間はおりません」


 会話が成立していたかどうかは怪しかった。

 両者とも、相手に伝えるべき結論だけが先行している。

 前のめりな干渉とやんわりとした拒絶。

 言葉に意味はない。感情をぶつけようとして、けれど失敗している。

 そのことが理解できていたから、オリヴィアは手を変えた。


「ねえ、勇吾さん。わたくしは何かを演じることは楽しいことだと考えています。けれど、あなたの笑顔には後ろめたさがあるように思えて気がかりです。無礼を承知で立ち入ったことをお尋ねします。あなたはもしや、その誇るべき『完璧』に罪の意識を感じておいでなのですか?」


「ええ? 何それ? 大げさだな」


 誤魔化そうとして作った笑顔の向こう側で、いつも通りのオリヴィアが勇吾を真っ直ぐに見据えていた。

 常にふざけているようで、実際には徹頭徹尾が本気の『悪役令嬢』。

 二人のやりとりは軽薄な冗談と常識的な対応に見えて、本質的には全くの逆だ。

 冗談のような真剣さと、真面目を装った空虚。

 見透かされている。勇吾は観念したように深い溜息を吐いた。


「罪の意識、って言うと大げさかな。ちょっと前に後悔したり、挫折したってだけのつまんない話。たぶん、結構よくある感じの」


「それでも、わたくしはあなたの話が聞きたい。なぜなら、それを知ることであなたのパフォーマンスの向上に繋がる助言ができるかもしれないからです」


 オリヴィアの行動指針はぶれていない。

 言っていることも本心そのまま。

 勇吾はそれを理解して、少しだけ口の端を歪めた。

 話し始めたのは、当人が言う通りさして面白味のない過去だった。


「中学までは、もうちょっと何も考えてなかった気がする。なんていうか、『明るく振る舞う』んじゃなくて、素直に明るく生きていられた」


 当たり前にあった全能感のままに、かつての勇吾はありのままの自分として自然体で振る舞っていた。期待された『できる奴としての天川勇吾』をやっていれば肯定されたし、自分の事を好きでいられた。


「何だったら『お前いけすかねー』とか『さいきん調子こいてね?』とか言われたこともあったくらい、どっちかっていうとナルシスト寄りだったかな」


「あら、過去形?」


「いや、それは」


「ご安心を。わたくしもです。与えられた形は慈しむもの、磨き上げた美は誇るもの。誰かに肯定される表現者になろうとするならば、まずは己を肯定し、あり方の正しさを確信せねばなりませんよ」


「いや俺、べつに表現者とか目指してないけど」


 言いかけて、それさえごまかしだと気付いて口ごもる。

 嘘というよりも、感情を隠すことが習慣になっていることは間違いない。


「目指してないっていうか、何かになりたいって気持ちは、少し前まであったし、今もなくなったわけじゃないんだ」


 漠然とした感情は、曖昧な形でしか説明できない。

 だがこの世は己の進むべき道を確信している者ばかりではない。

 勇吾の年齢なら、なおさら。


「半端なんだよね、俺。バスケに本気で打ち込んでる全国レベルの選手にはぜんぜん太刀打ちできなかったし。何かになりたいとか、よくわかんなくなってて」


「より広い世界を知って、壁にぶつかったと? ですが、それならより自分を高めてまた挑戦すればいいだけのことでは?」


「簡単に言うなあ。けどそうだな。結局は言い訳なんだよな、これも」


 ドライなオリヴィアの反応にややたじろぎながらも同意を示す。

 迂遠さを好まないのは彼女の気質だろう。

 彼女のまなざしは勇吾のごまかしを許さない。ある意味で無遠慮で暴力的な態度を、けれど勇吾は不快そうにするでもなく受け入れていた。

 

「そういう挫折にもきっかけがあってさ。中学最後の試合で俺がバカみたいなミスして、すっごく頑張ってる仲間をケガさせちゃったんだ。漫画の主人公みたいなやつだった。俺は、そんな奴の大事な勝負を邪魔した。最悪だろ」


「あなたが奮起してその彼のぶんも頑張れば良かったのでは? その後も全て勝利していけば後悔などなく終われたでしょうに」


「前から思ってたけどオリヴィアさん強すぎ、王者か? って感じなんだけど」


 この流れから出てくる返しが慰めではないことに勇吾は心底から驚いていた。

 彼の感覚では、共感や慰めから前向きな応援に繋げるのが『当たり前のコミュニケーション』だったからだ。階級とか世界の違いとかを超えた、根本的な性格や人間性の面における凄まじい断絶がある。


「王位などは分家の者が担うべき務めでしょう? わたくしはいずれ血族を束ねる当主となる身ですから、王になる予定はありません。いちおう、西方六カ国と低地国家連合のうち三つの公国、あとは金錐帝国の王位継承権を有してはおりますが。せいぜい戴冠の承認と祝福をして回る程度でしょうね」


 オリヴィアはよくわからないことを言い出した。不思議なことを訊かれたような表情になりつつも、やや得意げに見えるのは自らの地位を誇らしく思っているからだろうか。勇吾は相手の性格がよくわからなくなって困惑した。


「あー、クロウサー家ってハプスブルク家みたいな感じなんだっけ」


「おおむねその理解でかまいません。もっとも、わたくしには『自由奔放な近親婚』なんていうドラマチックな舞台の上演をしてまで民に寄り添う自信はありませんが」


「いや、ほんとーに強者って感じだよね」


 やや引き気味に笑う勇吾だった。

 彼の瞳には尊敬さえ浮かんでいる。

 遠すぎる存在には、そのような感情を抱くしかない。


「俺はそんなふうにはなれないよ。主人公みたいな『本当に凄い奴』の邪魔者になったり、悪役になったり、そういうのが怖くなって、ずっとこうなんだ」


「誰かを傷つけるのが怖い? それとも、誰かに責められるのが?」


「それは、どっちもだけど」


 オリヴィアは頬に指先を当てて、少しだけ考え込むように目を閉じた。

 目蓋が持ち上げられたとき、瞳に宿っていたのは強烈な光。

 勇吾を焼くための熱だった。


「思うに、あなたは『相手の価値』を尊重し過ぎている。あるいは、内心の劣等感や嫉妬を『優しさ』という表情で塗り潰しているのですか?」


「どういう意味だよ」


「その顔です。わたくしはそれがもっと見たい」


 思わず出てしまった、という感じの苛立ちをオリヴィアは見逃さずに掬い上げた。

 『してやられた』ということに気付いた勇吾は何とも言い難い表情でオリヴィアを睨む。ここでわかりやすく激怒できないのが勇吾で、そこに付け入ることができるのがオリヴィアだ。そういう少女のずるさに、勇吾は更に感情を逆撫でされていく。


「心の迷いは振り切るべきであり、心の弱さは克服すべきです。恐怖は可能性を閉ざします。それであなたは幸せになれますか?」


「何が言いたいのか、よくわからないな」


「嫉妬と羨望は醜い感情ですが、美しさに昇華できると言っているのです。自分にないものを見たとき、人はどうあるべきでしょうね?」


 舌打ちを堪える。勇吾は遂に眉根を寄せた。

 それはオリヴィアが『わかったような言動』をするからではない。

 オリヴィアが、勇吾自身でさえ明確にすることを避けていた内心を言語化しようとしたからだ。彼の心には暗いものなんてなくて、誰からも好かれる天川勇吾の外側と同じように綺麗な空白だけがあるはずだった。

 けれどはっきりと他者から定義されてしまえば、それは形になってしまう。

 実在するとわかった問題には、向き合って対処しなくてはならなかった。


「強者の自覚があるのなら、迷うべきではありません」


 オリヴィアはいつだって真っ直ぐだ。

 逃避も回避も許すくせに、選択と決断にはごまかしを許さない。


「勝利とは誰かを退けること。向上とは誰かを見下ろすこと。自負とは誰かに妬まれること。これらの『善き前進』を過度なナイーブさで否定すれば、より良い未来を目指す意思を腐らせてしまうことになります。これは傲慢な開き直りでしょうか?」


「いや、勝ちたいって思うのは自然なことだ。それで恨まれるなら仕方ないし、相手が『次の試合でリベンジしてやる』って言ってきたら『受けて立つ』って答えればいい。俺だって逆の立場ならそうする」


「それでいいのです。失敗は繰り返さなければいいし、失点は取り返せばいい。それはあなた以外にとっても同じことです」


 反論しようとした勇吾は、こちらを見つめ続ける瞳を前に言葉を失う。

 『それが通用しないケース』を例示することも勇吾にはできた。

 けれど、それだって『ごまかし』に過ぎないのだ。

 オリヴィアの瞳には剥き出しの感情が浮かんでいる。

 彼女はずっとそうだった。そういう見せ方と演出が抜群に上手な少女だった。

 その技術を持っている彼女の方法論は傾聴に値する。


「いいですか? あなたが主人公の物語を台無しにしたとしても、それは次に再起する物語の序章でしかありません。勝利と敗北の機会が誰にでも開かれているように、主役と悪役になる機会だって誰にでもあるのです。悪役は次の舞台では主役になり得るし、主役はいつだって悪役に堕ちていい」


 オリヴィアは一貫している。彼女はずっと同じ話を繰り返していた。

 勇吾はそのことにようやく気付き、思わず笑ってしまった。

 あまりにも都合のいい理想論で、救いのない悲劇や悪趣味な喜劇の存在を否定するかのような理屈だったけれど、彼女の示す世界は幸せに満ちている。


「悪役令嬢、こだわるね。本当に好きなんだ」


 オリヴィアは朗らかに、無邪気な子供のような笑顔で肯定した。

 それこそ問うまでもないことだ。

 彼女はその生き方を心から楽しんでいる。


「二次創作、パロディ、勝手な続編。そうした思考は罪でしょうか。それでも空想は止められない。主役にはその後の人生があります。悪役にも、もしもの可能性が広がっている。勝利と敗北の先にある未知は、あなたにだってわからないはず」


「そうかな。そうかも」


 オリヴィアを前にすると、勇吾はこんなふうに丸め込まれてばかりだ。

 それを少しだけ心地良いと感じている自分がいることに、彼は気づき始めていた。


「勇吾さん。わたくしはできることならあなたにも楽しんで欲しいと思っています。『かませ勇者』という、悪役であり主役でもあるその立ち位置を、心からの感情で演じてみせて欲しい」


「できるかな、俺に」


 不安はある。未来はなにひとつわからない。

 本当に破滅してしまうのだろうか。友達との絆は失われてしまうのだろうか。

 希望は、まだ残っているのだろうか。

 それでも、とオリヴィアは言ってくれた。


「もし、あなたの中にある暗い感情が溢れそうになったら。どうかわたくしがいることを思い出してください。あなたには悪役令嬢ヴィラネスがついております。恐ろしい破滅から誰かを救い、希望をもたらす変身ヒロイン。それこそが悪役令嬢の本分なのですから」


「そういう、もの?」


 勇吾は内心で首を傾げた。

 いま、そういう話をしていただろうか?


「人の願いの数だけ悪役令嬢がいるのです。クラスメイトたちとの対峙。クエストの改変。勝利と敗北のドラマ。これからわたくしたちが出会う悪役令嬢たちも、いずれは変身ヒロインとしての自覚を持つようになるでしょう」


「え?」


 いい話っぽかったのに急激に雲行きが怪しくなってきた。


「悪役令嬢の数は、可能性の数。今は敵同士でも、いずれはきっと。わたくしの希望である『ヴィラネスファイブ』が全員揃えば、全ての『ザマミロー』を浄化することだってできるはず!」


「ヴィラ、ファイ、えっと、ザマミローって何?」


「それは闇の世界からの刺客。あるいはもっとも原初的な呪いの感情。忘れ去られた墓地の底から蘇り、光の世界を歩む誰かの足を引こうとする『なんか黒くて悪そうで器物に憑りついて暴れたりする感じの恐くて危ないやつ』のことです」


「また何か胡乱なことを、いやまて、ちょっと看過できない。なに、もしかして『ファイブ』って言った? オリヴィアさん以外に四人?! 増えるの?!」


「ユーゴさん。初めに五人と定員を決めているということは、追加戦士込みで六人になる展開を示唆しているのです。言葉の裏を読みましょうね」


「どういう理屈? 意味が全くわからない」


「みんなのおうえんがまっていますよ」


「マジでちょっと手加減してくれない?」


「さあ一緒に進みましょう! 叫んでもいいですよ?」


「人の話をさあ!」


「冗談です」


「冗談に聞こえないんだよな。常に本気で言ってるよね?」


「ええ。わたくしにとって悪役令嬢は人生。演じること、変身することは幸福そのものですから」


 話が脱線し続けているのか軌道修正されたのかすらわからない。

 勇吾は迷い込んだ異世界などよりも、オリヴィアとの会話の方がよほど異世界じみていると思った。


「わたくしが悪役令嬢を好むのは、きっとそれが異質な他者の内面に対する想像力に根差した空想だからなのでしょう」


「それって、誰かを念頭に置いてる?」


「敵を」


 端的な、それでいて冷たい現実。

 勇吾とオリヴィアには敵がいる。

 けれど、それで終わるのは悲しすぎる。


「あり得たかもしれない『もしも』。それを形にしたいと願う心は、とても優しい」


 言葉はどこか気恥ずかしくて、勇吾が素直に受け止めるためにはそれなりの勇気が必要だったけれど。

 オリヴィアが『悪役令嬢』という言葉をどれだけ大切にしているのか、勇吾は既に知っている。彼女は、その言葉を使って相手の心に触れようとしていた。

 その愚かしさを、今は暖かいとさえ感じる。


「それでも、多くの物語には障害が、悪役が必要です。ならば、せめてその在り方が少しでも救いのある優しいものであってほしい。結局、わたくしはそんなわがままを押し通したいだけなのでしょうね」


 取るに足らない、ささやかなやりとり。

 勇吾は確かに何かを得て、オリヴィアは大切な何かを伝えた。

 たとえその先に待つ未来で何が起きるのだとしても。

 その記憶だけは、揺るぎなく輝き続けるだろう。

 今ではないいつか、ここではないどこか。

 霞むような記憶の片隅に、その一幕は密やかに仕舞われていた。




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