第十九話 組体操の頂点から落ちて首の骨を折る、一生休み




 果たして、裏切ったのはどちらだったのか。

 閉じた『ゲート』の痕跡は既にない。

 勇吾は神殿内部の中空をぼうっと見つめていた。

 冷静になるにつれて、自分のしでかしたことへの後悔が膨らんでいく。


(召喚者はオリヴィアだった。けど、俺は彼女の言い分をもっと聞くべきだったんじゃないのか。何か、事情があったのかもしれないし)


 あの時はそんな余裕がなかった。クラスメイトがいる場で話せる内容かもわからなかった。それでも、勇吾は選択を間違えたと感じている。


(騙されてた? 違う、そうだとしても、オリヴィアのふざけた言動は『ふざけてなかった』はずだ。彼女は真剣に馬鹿みたいなやり方で俺を助けようとしてくれてた)


 状況だけ見れば、勇吾は間違った行動はとっていない。

 実は『諸悪の根源』であった召喚者オリヴィアに攫われ、操られていた勇吾は友人たちの奮闘によって正気を取り戻し、真実を知って反抗の意思を示すべく一矢報いた、という構図である。

 その後、今井北斗が乱入してきてわけのわからないことになりはしたが、クラスメイトたちからすれば勇吾は間違った行動をしたわけではないのだ。


(そうだ、状況としては当初の狙い通りだ。俺に追放されたことになった皆が復讐する物語じゃなくて、クラスが結束して困難に立ち向かう物語になったはずだ)


 今井北斗や津田守梨たちの動きがよく理解できないという点は気になるものの、死んだと思われた能見鷹雄と柳野九郎も無事に救出できた。多田良心も憑き物が落ちたかのように大人しくなっているし、兜のカヅェルからは悪意を感じない。


(今井は置いてけぼりだけど、協力してたっぽい津田さんは心配してないな)


 目の前の危険はひとまず切り抜けた。

 だが、残った問題が多すぎる。

 本物のカヅェルという恐るべき脅威。

 更には勇吾を戦慄させた『ザマミロー』という怪物。

 そして、勇吾が傷つけてしまったオリヴィアの安否。

 考えなければならないことだらけでどうしればいいのかもわからない。

 

(ブーメランはオリヴィアの腹部を貫通していた。普通に考えれば致命傷だ。けど、たしか能見に額を撃ち抜かれた時には『聖女の涙』っていうブローチを使ってダメージをなかったことにした、って言ってた。あれがまだあるなら)


 そこまで考えて、勇吾は記憶の光景に違和感を覚える。

 オリヴィアは、あの時傷口を押さえていたが、果たしてあれは本当に傷を負っていたのだろうか? ブーメランが貫通していたら、普通は大量に出血しているはずだ。

 血は出ていなかった。

 どころか、指の隙間から向こう側が見えていた気がする。まるで、オリヴィアの服の内側には最初から腹部が存在していなかったかのように。


(そんなこと、あるわけが)


「みんな無事みたいだね。まずは天川を無事に救出できたことを喜びましょう」


 考え込んでいた勇吾は唐突に現実に引き戻された。

 さほど時間は経っていない。

 意識が戻らない二人は部屋の隅に広げられた毛布の上で寝かされている。

 その他の生徒たちは互いの無事を喜び合い、勇吾にも『良かったな』と声を掛けてくれていた。すぐに切り替えて表情と喜びを分かち合い感謝を述べる台詞を並べていく。我ながら薄っぺらいと内心で自嘲しながら、それに慣れつつもあった。


(あれ?)


 ふとした違和感。

 二つに分かれていたクラスメイト達は、再会したことで教室内のいつものグループでまとまっていた。勇吾たちのグループ、藤田太陽ふじたたいようという男子生徒を中心としたサッカー部グループ、能見鷹雄が所属するおとなしめの男子グループ、村上委員長を中心とした弓道部グループなどだ。

 その中で、神殿に残っていた者たちの様子に小さなひっかかりがある。

 具体的にどう、とは言えない程度だが、勇吾は何か妙な感じがした。


(何だろ。なんか、目が合わない? けど、なんか見られてる気がする)


 気にし始めると引っ掛かりは大きくなった。

 女子の方からも、自意識過剰かもしれないが視線を感じる。

 もともと女子から顔をじろじろ見られたりすることはよくあるから、あまり気にしないようにはしていたのだが、どうも神殿に残っていた『クエスト対処チーム』が勇吾に向ける視線がおかしい気がした。


(いや、あれだけのことがあって、『助け出された』わけだから注目されるのは別におかしなことじゃない。そのはずなんだけど)


 理由もなく、胸がざわざわとしている。

 黒々とした感情が沸き上がりかけたが、すぐに内心の疑念を否定した。

 当面の危機は去ったのだ。今の時点でクラスメイトたちを疑うのはやめよう。

 勇吾の不安を払拭してくれる好材料もちゃんとあった。

 親友の吉田竜太が笑顔で肩をばしばしと叩いてくる。少し強すぎたので隣の辺見颯がたしなめる。須田美咲と太田結愛は瀬川莉子との再会を喜び、それから無事な勇吾を再確認して喜びの涙を流していた。


「勇吾が無事で良かったよほんとに! トリ吉もこれからよろしくな!」


 竜太の肩に乗った猛禽はオリヴィアから奪った(ということになっている)使い魔だった。今は普通の鷲のようなサイズになってしまっているが、主人が命じればすぐさま巨大化することができる。なかなか便利で優秀な怪物モンスターらしい。


「本当に大変だったね。あの危なそうな男もそうだけど、天川に化けてた不気味な怪物にも気を付けなきゃ。あれくらいなら騙されないけど、もっと天川そっくりに化けられる偽者が出てくるかも」


 声を掛けてきたのは場の中心となっている聖女・津田守梨。

 『救出チーム』の窮地に駆けつけてリーダーシップを発揮し、絶体絶命の状況から全員を生還させた立役者。

 もはや誰もが認めている。彼女こそがこのクラスの中心なのだと。


(けど、どうやってあんなことを? わからないことが多すぎる)


 勇吾は津田守梨が傑出した意志力と行動力を持っていることを知っている。

 だがそれを踏まえても先ほどの活躍は異常だった。

 ザマミローに対する説明も、どこか用意されたものであるように思えた。

 勇吾はあれが偽物などではないと確信している。確かに守梨の立場からはそう見えたのかもしれないが、そこも少し妙な感じがした。


「でも安心して。聖女の目はそういう虚偽を看破できるの。私がいれば偽者の天川と本物の天川を区別できるよ。ちなみにこの天川はしっかり本物です!」


 冗談めかした言葉に周囲の空気が和む。

 勇吾は調子を合わせつつ、膨れ上がる違和感を処理しきれずにいた。

 守梨の言葉に対する疑念。

 どうも勇吾には、今のが『用意してあった説明台詞』という感じがしてならない。

 それは、勇吾が普段から『薄っぺらな笑顔』で生きていたから気付けた些細な違和感だった。オリヴィアと共に演技の世界に没頭していたことも大きい。


(津田さんは自分を演出する方法を知ってる。それはコミュニケーション能力が優れているってだけかもしれない。単に、ザマミローの存在を『ただの人に化ける怪物』とすることでみんなの不安を和らげようとしてるのかも)


 自分を説得させる言葉を探そうとして、勇吾はそれが既に彼女を疑い始めている証拠だと気付いた。理由や思考は後付けだ。

 勇吾は、ただ何となくで恐怖を感じていた。

 そう、それは予感だ。

 致命的な気配。否が応でも磨かなくてはならなくなった、破滅を回避するための第六感が働いているのだ。


「とりあえずみんな、疲れてるだろうから休憩にしよう。実はこのあたりで食材を集められたんだ。それに瀬川さんのおかげで『道具箱』からお菓子とかインスタント食品とかも取り出せたんだよ。簡単な食事を用意するから、楽しみにしてて」


 歓声が上がった。空腹を覚えることはないとはいえ、温かい食事は安心するし、舌と味覚への刺激は生きている実感を蘇らせてくれる。


「それから、多田さんはどうもけっこう重めの洗脳をされてたみたいなの。聖女の力で呪いを解けると思うんだけど、少し時間が必要なんだ。申し訳ないんだけど、安全のためにちょっとだけ離れた場所で休んでもらってていいかな?」


 守梨の行動におかしなところはない。きちんと納得できる理由が用意されているし、それが周囲に不快な印象を与えないように配慮されている。

 こんなことを思うのはおかしいと、勇吾は自分でも思っている。

 だが、あの黒い怪物を見た瞬間に蘇った断片的な記憶が、目の裏でズキズキと鈍痛を訴え続けている。何か、思い出さなくてはならないことがあるかのように。


「この神殿には地下室があるんだけど、少しだけそこで待っててくれる? あ、軟禁みたいな扱いで本当にごめんね。けど、洗脳の効果が残ってると暴れたりするかもだから。多田さんを操ってた『呪いの兜』から話も聞きたいし、ね」


 守梨の声がひどく冷たく感じる。

 すっとこちらの意識の中に入り込み、信頼と安心を抱かせる理知的な言葉。

 それは時に、どこまでも合理性を突き詰めていく。残酷なほどに。


『それでは開票します。先生、いいですよね?』


 ぞっとするような、知らないはずの声が脳裏に響く。

 その正体が掴めないまま、勇吾はもどかしさを抱えて笑顔を作った。




 しばし、時間は穏やかに過ぎていった。

 神殿の裏手には宿舎などの居住区画が並んでおり、勇吾たちはそちらに移動して身体を休めていた。『料理上手』のスキルを持つ太田結愛を中心に、採取した木の実や果実、更にレジ袋に入った野菜や総菜、レトルト食品などを使ってちょっとした調理をしているようだ。


(なんでお菓子とか携帯ガスコンロとかあるんだろう)


 準備がいいことに天然水のペットボトルまで用意されていた。

 おかげでお湯を使ってレトルト食品やカップ麺などにはすぐにありつけたし、気の早い杭川合くいかわあいなどは既に口をつけている。ついでに言えば、品ぞろえは全体的にお好み焼きチヂミ餅炒めトッポギなどに偏っていて商品のラベルは明らかに日本語ではない。瀬川莉子の道具箱アイテムボックスから出てきたんだろうな、ということはわかるが、改めて見るとあまりにも便利過ぎる。


(やっさんと能見はまだ起きてないか)


 気を失ったままの二人は仮に医務室とした部屋で寝かされている。

 今は治療者たちが看病しているはずだ。

 『クエスト対処チーム』の面々に建物の中を一通り案内してもらったあと、生徒たちは食堂にやってきていた。勇吾は配られたバターワッフルを食べながら、クラスメイトに囲まれた中でじっと考え事をする。


「じゃーん、例のグミを手に入れたぞ!」「品切れ続出のやつだ」「いつの流行だよ」「動画配信する?」「どうやってだよ」「俺きなこ味のチップス好き」「きなこそんなにうまいか?」「これラマンチャで買ったことあるわ」「ドンキの店名出さない配慮のためにラマンチャって言うやつはじめて見た」「言ったら台無しだろ!」


 騒がしい空気は嫌いではない。勇吾は笑顔で雑談に混ざりながら、久しぶりの安心感を満喫していた。こういった時間は嫌いではない。

 カヅェルのことや今井北斗の事は心配ではあるが、津田守梨の説明でひとまずクラス内の不安は払拭されていた。


「探索中に今井くんと渡辺さんがすっごく強くなれる方法を見つけてくれたの。あとでみんなに共有するね」 


 別行動中の四人に関しては引っかかる点が多い。

 考えようとすると頭に靄がかかったようになるのだ。

 特に旗野詩織に関しての記憶には本能的な忌避感と目の裏の痛みを強く覚える。


(逆に言えば、明らかに何かがあるってことだ。俺が思い出せない、洗脳とか催眠とかされてる感じの何かが)


 確かめなくてはならない。

 あのザマミローの正体といい、今の勇吾には知らないことが多すぎる。

 もう一度、オリヴィアに会うべきだ。

 勇吾には確信があった。自分が攻撃しておいて、とも思うがあの一撃で彼女を殺害したという実感はない。というより、彼女はダメージを負っていなかったのではないかとさえ思える。


(竜太の使い魔になった、トリ吉だっけ。あの首から下げられてるボードが通信装置になってるはずだ。こっちから連絡してみよう)


 なんとか鳥好きをアピールして竜太にトリ吉との触れ合いを許してもらおう。

 そう決意して竜太に話しかけようとしたとき、ふと肩を叩かれて振り向く。


「や、ちょっといい?」


 瀬川莉子からの呼び出しだ。

 仲の良い須田美咲と太田結愛がじっとこちらを見ており、目が合った美咲が顔を赤くしてばっと視線を逸らす。ぐいと手を引っ張られて、莉子に導かれるまま人気のない場所に。クラスメイトたちがからかいまじりの声をかけてくるが、莉子は「お花を摘みにいってきますわ~」と返事をしてまともにとりあわない。


「お花ってなんだよ」


「さあ? なんとなく出てきた。それより、ちょっとお話があって。美咲のことなんだけど、後で時間作れない? 二人きりで話してあげてほしいの。ほら、色々ショックなことがあったって聞いてさ」


「ああ。そっか、そうだよな。謝っておかないと。太田にも」


 演技とはいえ、彼女たちを傷つけたことに変わりはない。

 反応は過剰だった気がするが、泣かせてしまったことに対する謝罪は必要だろう。


「いや結愛はべつにいいの。まあその辺も含めてさ、なんかいい感じのシチュを作りたい、みたいな? 謝罪ついでにプレゼントとか用意したりとか~」


「この状況でプレゼントはちょっと無理かな」


「そこで私のアイテムボックス。これ、商品とか持ってくるのはポイントを投入しないと無理なんだけどさ。何かを『売却』してポイントに変換できんだよね。なんか価値あるものを売ってよ。そしたら女子が喜ぶ感じのプレゼントを用意してあげる」


 そうして、瀬川莉子はずいっと勇吾の腰の後ろあたりに回り込んだ。

 既に舞台衣装の鎧は脱いでいるし、化粧なども落としてはいるが、持ち込んできた武器がひとつだけあった。オリヴィアから渡されたブーメランだ。


「それ、ぼちぼち価値がありそう。売ればそれなりのポイントになるよ」


「いや、でもこれはいちおう武器で」


「武器とか洗脳される危険があるんでしょ? 呪われてるアイテムは売っちゃえ!」


 予想以上の強引さで莉子はブーメランを素早く掴んで、突如としてもう片方の手に出現した救急箱程度のサイズの『道具箱』に入れてしまった。


「はーい、あとはもう逃げらんないぞ! 覚悟を決めて美咲に愛のこもったプレゼントを選ぶのだ! オススメはこのへん!」


「え、ええ」


 強引過ぎて軽く引いていた勇吾だが、莉子には悪気はないのだろう。

 元々、太田結愛と瀬川莉子の二人は何やら勇吾と須田美咲の仲を誤解している節があった。何かと二人きりにしようとしてきたり、美咲をやたらと励ましていたり、勇吾に好きなチョコレートを訊いてきたり。

 回答そのままの手作りチョコレートが贈られたあたりで『そういうノリ』になっているんだろうなということは察しがついたが、美咲とは部活が一緒だから仲が良いというだけで本当に恋愛がらみの関係ではない。


 『ないない、絶対ありえないから。いまは部活で精いっぱいだから誰かと付き合う余裕ないよ! 彼氏とかいない!』


 と当人から強めに念押しされているし、破滅した光景では勇吾は美咲に切り捨てられている。世の中には心変わりという概念があるのだが、それにしたってあの冷淡な目はかつて好きだった男に向けるものではありえない。

 過去にちょっとでも好きだったのなら少しくらい同情するものだろう。


(こんな世界に来るまでは、もしかしたら俺のことが気になってたりするのかな、なんて自惚れてたけど。まあ可能性はゼロだな)


 好かれていたとしても、せいぜい好みの芸能人の代替品だろう。

 勇吾はこの世界に来てからだいぶ人間不信をこじらせていたが、この件に関しては相当なトラウマに近い精神状態になっていた。


(そもそも、俺が好きなのは)


 そこまで考えると、また目の裏が痛んだ。

 思考を悟られないように表情を作りながら表面的には莉子に調子を合わせる。

 女子グループの盛り上がりに水を差すのも悪いし、なんとかやり過ごすことにしようと決めて無難なプレゼントを選び、莉子に取り出してもらった。


「よっし、これでこっちの用事は完了。で、実はそれとは別に内緒の話があって」


 歯切れ悪そうに目を逸らした莉子は、道具箱を持ち上げて勇吾に見せてくれた。 


「この『道具箱』はアイテム型のスキルなんだけどね、中がワープゲートみたくなってて、繋がった先から色々取り出せるの。あのへんのインスタント食品とかお菓子もね。で、応用編でもうひとつの使い道があって、手をこうやってぐいって入れると」


 勇吾は目を瞠った。手品のように、腕が中に入り込んでいく。

 底を突き抜ける様子はない。まさに『四次元ボックス』というわけだ。


「中に入れるし、ぐいって掴んで引けばワープゲートを引っ張り出せる」


 言葉通り、箱から出てきたのは『空間の歪み』としか言いようのない円環だ。

 莉子が手でいじりまわすと、それは少し離れた場所と繋がったワープゲートとして機能し始めた。身軽に跳躍した莉子が瞬時に勇吾の背後に着地する。


「さっき助けに来れたのはこれか」


「そう。知り合いがいるところなら行けるんだ。ああいう使い方も便利なんだけど、もうひとつ激ヤバな機能があって」


 そして、莉子は指先でゲートをとん、と叩いた。

 次の瞬間、閃光が勇吾の目を眩ませる。

 様々な色彩が目を焼くようだった。

 行き交う人混み、自転車、車の排気音、ビルディングが立ち並ぶ現代的な風景。

 そして、馴染みがないけれど存在はよく知っている隣国の文字と、飛び交う聞き取れない言葉。日本語でも英語でもないが、テレビなどで聞いたことがある響き。

 あり得ない光景が、その先に広がっている。


「これ、元の世界に戻れるんだよね。私だけで申し訳ないんだけど」


「は?」


『クラス転移で私だけ元の世界に戻れてごめん、ただし韓国限定!』


 ばばーん、と瀬川莉子の背後に浮かぶ謎文字列タイトル

 なぜそんな限定的なんだ、という疑問が真っ先に浮かぶ。

 だがよく考えるとそんなことを言っている場合ではない。


「隣の国ならなんとか日本にも行けるよな? 俺たち全員で」


「あーそれむり。なんだっけ。げんてーじょうかい? を展開してる私しか通れないし、実体化ポイントだって足りないから、だったかなぁ。そもそも、長時間あっちに滞在するとアストラル体? が霧散しちゃうんだって」


 言っていることが全く理解できない、というより莉子自身もよくわかっていないようだった。誰かから聞いた説明をそのまま口にしているだけに聞こえた。


「んで、これちょっと見て欲しいんだけど」


 莉子が取り出したのは、携帯端末スマートフォンだった。

 この世界に来てから充電できなくなってすぐに使用不可能になったはずだが、莉子の端末はしっかりとフル充電されているようだ。

 元の世界に戻れるのなら、そういうこともできるのだろう。

 だが、そういった細かい思考は次の瞬間に全て吹き飛んだ。

 莉子が画面に表示したのは、日本のネットニュース記事だった。


「何だよ、これ」


「ね、ヤバいよね」


 思考が凍り付く。勇吾は、黒い怪物の中に自分の顔を見つけた時と同じか、それ以上の衝撃を受けていた。

 莉子が示した真実。それは、現実で起きていた決定的な事故の報道だった。


「バスの、事故?」


 記事の内容が頭に入ってこない。思考が情報に追い付いてくれない。

 感情が、理解を拒もうとしている。

 バス、事故、高校生四十名、引率の担任教師、バスの運転手、重傷者多数、意識不明の重体。莉子は勇吾が記事の下まで目を通したことを確認して、別のニュース記事も見せてくれた。日にちが下るごとに■■の数が増えていく。

 そう、数が。


「なんかさぁ、私ら死んでるっぽい」


 夥しい数の死者を出した、大規模な事故。

 運転手の長時間労働に関する問題提起や労働環境の改善、若い命が数多く失われたことに対する悲しみの声などが叫ばれ、原因究明や責任追及が急がれ、しばらくはニュースやワイドショーを騒がせ、そして次第に忘れられる。


(オリヴィアはこのことを、知っていたのか?)


 ふと、勇吾は思い出した。

 この世界に来てから、自分たちは一度たりとて生物に必須の営みをしていない。

 食料や水を摂取したあとに、排泄欲を覚えたことが全くなかったのだ。


「この世界でうんこを出すには、畑中のスキルが必須ってコト?」


「いや知らん、なにそれ」


「俺も言っててわけわからん」


 馬鹿げたやりとりは現実逃避だ。

 それどころではない真実が、勇吾の前に屹立している。

 オリヴィアと話がしたいと強く思った。彼女ならきっと何かを知っているはず。


(いや、それだけじゃない)


 それは思いつきのような希望だった。

 彼女の真摯な気持ちに嘘がなかったとすれば、自分たちは最下層に辿り着けば本当に元の世界に戻れるはずだ。彼女が残酷な真実を告げなかったのが勇吾に対する配慮なら。そしてありもしない希望をちらつかせて勇吾を利用するようなことをしていなかったとしたら。もしかしたら、勇吾たちは生き返ることができるのではないか?

 

(なら、俺のしたことはむしろ)


 死者なら同意なしに異世界に連れてきていいわけではない。

 過酷な運命に立ち向かうことを強制していいわけではない。

 だが、それでも彼女が『生き返るチャンス』を与えてくれたのだとすれば。

 オリヴィアは、勇吾にとっての恩人ということになる。

 仮定に仮定を重ねた希望的観測で、『そうだったらいい』という思い付きでしかなかった。間違っているかもしれない。それでも勇吾はその考えに縋りついた。

 絶望的な現実。だがそれは、今の勇吾にとっては希望になった。


「だからごめんね」


「え、何が?」


 失ったと思っていた光を見つけた。

 そう思って、密かに気分が盛り上がりつつあった勇吾は、瀬川莉子の声で我に返る。目の前にいる女子は、珍しくひどく落ち込んだ表情をしていた。

 俯いた莉子は、暗い声で語り始める。


「私さ、このままは困るから。死にたくないんだ、本当の韓国旅行に行きたいし、家に帰りたいし、将来やりたいことあるし」


「うん。だよな。俺もだよ」


 希望の存在を教えてあげるべきだろうか。

 勇吾は迷った。この考えが間違っていた場合、彼女を更に絶望させてしまうかもしれない。逡巡していた勇吾は、顔を上げた友人の表情を見て意外に思った。

 目に力がある。彼女は、希望を失っていない。

 それなのに、ひどく悲しそうな顔だった。


「私たちは、何をしても生き残る。ううん、生き返ってみせる。そのためなら何でもするよ。本当にごめんね。何言っても許されることじゃないけど」


 莉子は泣いていた。涙を流し、声を震わせ、天川勇吾の顔をその目に焼き付けようとするかのようにじっと見据えている。

 それから小さく「ごめん美咲」と呟いて、手にした箱から何かを取り出した。

 

「天川、私たちのために生贄になって」


 衝撃。火花。激痛。

 闇。即座に視界に光が戻る。

 意識が薄れたりはしなかったし、目は見えたままだ。

 だが身体はいつの間にか倒れており、全身の筋肉が硬直して動けない。

 そのまま何かで口を塞がれた勇吾は、信じられないものを見た。


「ありがとう、瀬川さん。つらい役目を任せちゃってごめんね」


 しゃん、と錫杖の音が鳴る。

 勇吾を見下ろしているのは、クラスで一番小柄な少女。

 津田守梨の姿は、かつてなく大きく、威圧的に見えた。


 



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