第十六話 閉幕




 『おまじない』という言葉をオリヴィアはことあるごとに口にする。

 彼女はこの用語を文字情報や言語といったニュアンスと結びついた呪文スペルとは明確に使い分けており、その意味を尋ねると『呪いカース』であり『呪術マジック』でもある、という答えが返ってきた。

 

『なぜわざわざそんな言い方を?』


『だってこの方がかわいらしいでしょう?』


 オリヴィアにはこだわりがある。

 それは、どのような『おまじない』であっても貫かれる彼女の思想だ。

 この時も、オリヴィアの『らしさ』は存分に発揮された。

 誰もが天を仰ぎ、それを目撃する。

 輝き、うねり、編み上げられていく輝くピンク色の光。

 象徴するのは優しさ、慈悲、幸福、そして愛。

 『どでかいハートマーク』が上空に現れ、場の空気を支配していた。


「ほわほわ~ん」


 謎の擬音を口にしながら、カヅェルらしき樽型兜が薄ピンクの光に包まれていく。

 カヅェルだけではない。無数の浮遊する武具、精神を汚染された生徒たち、そして炎に包まれていた多田良心たたらこころまでもが柔らかな薄膜の内側に取り込まれていた。

 暖かいオーラが一帯に広がり、人々の闘争心が薄れていく。

 

「巡れ命、満たせ風よ。留まり続けることなく、されど心侵すこともなく」


 オリヴィアの声がゆっくりと空間に浸透していくようだった。

 簡単に喩えるなら、それは『換気』だ。

 極大呪文によって邪なるものは入れ替えられ、清浄な空気が取り入れられていく。シリアスな空気。殺伐とした空気。剣呑な空気。血なまぐさい空気。悪意や害意に満ちた空気。すなわち、残酷な死を許容するリアリティライン。

 彼方から運ばれてきたのは、本来ならこの場になかったはずの異物だ。

 十二方位の彼方、ありとあらゆる外界から引用された『異世界の空気』がこの場に流れ込み、文字通り空気が変わっていく。

 その影響を最も強く受けたのは、カヅェルではない。

 不思議そうな顔で首を傾げる多田良心たたらこころだった。


「あれ、火ぃ消えた? なにこの風、なんかあったかい」

 

 カヅェルは用意周到だ。彼が直に精神を汚染した少女は、勇吾に対する『闇堕ち工作』が失敗した際の保険である。

 これだけ暴れればどうあがいても周囲から危険視され、疎まれることになる。

 『指標インジケータの代役』。それが多田良心の役回りだ。


『『指標』が破滅して終わるとは限らない』


 これは勇吾が街で出会った転移者の言葉だが、『指標が破滅を回避して終わるとは限らない』と言うことだってできる。

 カヅェルの狙いが上手く行けば、勇吾が『かませ勇者としての破滅』を回避しても同じポジションに心がスライドするだけになってしまう。

 あとは簡単。いつも通りに『殺されないための自衛』を提案するだけ。


「犠牲の上に成り立つ繁栄はここで終わる。風よ、構造おりを壊しなさい」


 その結末をオリヴィアは許さない。

 雰囲気が変わる。紡がれてきた物語は決定的に変質していく。

 明るい色彩を纏った風がさっと吹きつけ、心の背後に抜けていった。


『戦国乱世で無双希望の刀匠女子ですが、ヤンデレ武具たちに死ぬほど愛されて困ってます。私が望んだのは刀剣たちに溺愛される日々ではないんですけど?』


 瞬時に書き換えられる心の『タイトル』。

 変容していくのは物語の脈絡だけではない。

 ヒトとモノ。使う者と使われる物。転倒した主従。

 カヅェルと心の関係性。その解釈を読み換え、再構築していく。

 悪意や害意、支配関係を『ヤンデレモラハラ精神的DV男に溺愛される』と言い換えることにより、そこに(不健全ながらも)愛情という『オリヴィアが考えるほんわかした要素』をねじ込むことに成功したのだ。


「ええ~っ、カーくんって私のこと、そういう感じだったの~? そっかぁ、他の人にちょっかい出そうとしたから、束縛したくなっちゃったんだぁ? ふぅ~ん」


「ばっ、勘違いしてんじゃねーよ! お前なんて別にっ」


 瞬時に甘酸っぱい空気が醸成されていく。

 オリヴィアが実行したのは、ジャンルの変更。

 『バトル』のタグは忘却され、新たに『恋愛』のタグが追加されたのだ。

 ふわふわとした雰囲気と暴力さえもコメディに回収されてしまいそうな空気感。

 あらゆる事態がうやむやになり、おおむねオリヴィアの願う通りのご都合主義が強引に押し通る。追い風を受けた勇吾は即座に動き出した。


「俺は、お前の思い通りには、ならないっ!!」


 今やカヅェルは無力化され、数々の武具はすべて力を失い落下している。

 精神汚染から解放されたクラスメイトたちは直前の記憶が不鮮明になり、混乱していた。勇吾はその隙間に台詞を捻じ込んだのだ。


「みんなの声が、聞こえた」


 ここはクライマックス直前。

 洗脳されていた勇吾が、オリヴィアに抵抗して意識を取り戻すシーン。

 苦しみ、抵抗、友への気遣い、それらをやや大仰な身振りと叫びで表現。

 剣を持つ手を必死に片方の手で押さえつけながら呼びかける。


「みんな! どうにかあいつの支配に抗ってみる! 俺の意識がまだあるうちに、あの石像の額にある宝石を壊すんだ!」


 勇吾が示したのは、部屋の奥で目立っていたオブジェ。

 見上げるようなサイズの女性の像だ。

 状況が状況だったので誰も指摘できなかったが、どう見てもオリヴィアの姿を象っていた。額には巨大な宝石が付いたティアラ。非常にわかりやすい。


「馬鹿な、支配の宝石の位置にいつ気付いたというの?!」


 わざとらしく驚いてみせるオリヴィア。

 勇吾は能見鷹雄や柳野九郎が動き出す前に口笛を吹いた。

 合図の直後、外壁を盛大に粉砕しながら巨大な何かが現れる。

 誰もが既視感を覚えた。オリヴィアが従えていた、変なボードを首から下げた強大な猛禽が再び現れたのだ。しかし、今回は様子が違っている。

 ボードに記されていた文字は、『ステータス』『使い魔:Aランク召喚獣』『使役者:吉田竜太』といったものだ。


「えっ、俺?」


「竜太、あの鳥は俺と同じように操られていたんだ。けど、お前ならあいつを解放してやれる。お前に秘められた、テイマーとしての力が覚醒すれば!」


 言いながら勇吾は小さな笛を竜太に投げ渡した。

 鳥笛と呼ばれる木に穴を開けた簡素な楽器である。


「隙を見て盗んだ。お前、音楽はけっこう得意だったろ」


「勇吾」


 信頼感のようなものを演出すると、竜太は直前のやりとりを忘れたかのようにわかりやすく感動してくれた。根が単純なのだ。

 竜太が意を決したように笛を吹くと、その背後に『翼の王』という簡素なタイトルが出現。即座に巨鳥が主人に反旗を翻す。

 オリヴィアが情けない悲鳴を上げながら空中で追い回されているうちに、他の生徒たちが集まって相談を始めていた。


「どうやって宝石壊そう」「かなり高いよね?」「手でよじ登るのは無理か」


「俺がやってみる! これでも弓道部だからな!」


 任せろとばかりに名乗り出たのは委員長の村上誠司だ。

 精神汚染や身体強化といった神秘的な力を失った弓を手にしながら一歩進み出る。

 それからふと思い出したように背負っていた荷物袋から更に小さな白い袋を取り出す。用意したのは幾つかの道具。素早く白い布を右手に付けてから『ゆがけ』と呼ばれる籠手をその上に装着、手首を紐でぐるぐる巻いて固定する。


「そういや委員長、用意がいいよね。部活でもないのになんでそれ持ってたの?」


「弓道部みんなで集まって記念写真撮ろうって約束しててさあ! これ付けた状態で三十三間堂の外観だけでも撮影したかったんだよ! 本堂は無理じゃん? なんか雰囲気だけでも弓道部要素を出したかったわけ!」


「ごめんそれすげえどうでもいいわ。急いでくれない?」


「訊いたのそっちじゃん」


 ややしょげながら準備を完了すると、弓道部の少年はゆっくりと両足を開き、ぐっと胸を張り、矢を番えて弦に指をかけ、弓を上の方に打ち起こし、左手を前方に徐々に押し開いていき、頭のやや上で両手が並行になった状態から左右に引き分け、


「なげーよ」「丁寧かよ」「映画みたいにしゅぱしゅぱ連射できねーの?」「部活じゃなくて異世界ファンタジーやってんだぞ実戦意識しろや」


 などと周囲から文句を言われながらもめげずに射法八節を丁寧になぞって完全に力が釣り合った『会』の状態に持って行く。

 そして機が熟した瞬間、矢は弓を離れて目標に飛んだ。

 かん、と音を立ててオリヴィア像の鼻あたりに命中。

 額のティアラからは少しだけずれていた。

 たちまち周囲から文句の嵐。


「外れてるじゃねーか!」「おい試合なら負けてんぞ」「大前いちばんてだろしっかりしろ」


「言い訳にしかならないけど、部活で使ってる弓は十五キロの強さだから、これだと引き分けるだけでもけっこうきついんだよー! なんとかギリで使えるけど! もっかいチャンスくれ! 今度こそやれる!!」


 苦しそうな感じの表情を作りつつ、『頑張れ委員長』と内心で応援する勇吾。

 三射目で的中した。

 途端に始まる委員長コール。割れた宝石を見ながら得意げな村上誠司。


「きぃ~くやしいですわ~」


「みんなのおかげで戻ってこられた。本当にありがとう」


 オリヴィアはほどよく間抜けなやられ役を演じつつ負け惜しみを口にして、勇吾は洗脳が解けて問題が全て解決した感じを出していく。

 こういった『活躍シーン』は生徒たちに成功体験をもたらし、クラスの一体感を高める。尺の都合で全員を活躍させるのは難しいが、こういった機会を何度も作っていけば数人ずつに分割して出番を割り振ることは可能なはずだ。

 二人の計画は長期的なものだ。今のところはオリヴィアが離脱すればこの一幕は終了となる。能見鷹雄がまた小石で彼女を狙う可能性もあるが、そこは『オリヴィアの使い魔』である怪鳥が上手く射線を遮っているので大丈夫だろう。


(連絡手段はボードの裏、だよな)


 あの猛禽は『吉田竜太の頼れるペット』としてこれからも振る舞い続ける。

 実際にはオリヴィアに従ったままなのだが、竜太の役に立つ分には困らないし、今後の舞台や諸々の打ち合わせなど、いろんな面で役立ってくれるはずだ。


(実際には、竜太が本当にヤバいドラゴンとかの使い魔を飼いならさないようにコントロールしたいって理由が一番大きいんだけど。ごめんな、活躍の邪魔して)


 罪悪感を押し殺しながら、破滅の回避という本来の目的を強く意識する。

 色々とアクシデントに見舞われたが、終わってみれば全て上手く行ったと言える。

 ひと段落したという安心感がクラスメイトたちにも広がっていた。

 既にだいぶ緩い雰囲気になっており、ほわほわ状態のカヅェルと心が完全に無害になっていることを理解した柳野と能見などは部屋の隅で休憩している。

 何故か仲が深まっている様子で、柳野が何かを言って能見が小さく笑う、という珍しい光景が見られた。勇吾はその事実を『良いこと』だと受け止められている自分がいることに気付く。


(ああ、そっか。やっぱり俺は、みんなを敵だなんて思いたくないんだ)


 勇吾は、友達がいる方に目を向ける。

 心底から嬉しそうな吉田竜太。緊張の解けた表情の辺見颯。涙を流す須田美咲と、貰い泣きしている太田結愛。村上誠司たちも安堵の表情でこちらを見ていた。

 ここに勇吾の死はない。

 友達同士が殺し合う悲しい物語は、もう終わったのだ。

 そうして、破滅を回避するための舞台は幕を下ろす。

 勇吾とオリヴィアの最初の決戦は、希望に満ちた光景で締めくくられた。































「あ~くっそ、台無しじゃねえか。意外とやるなぁこの勇者さま」


 ぬるり、と。

 ごく自然にその男は部屋の入口から現れた。

 ひどくこの場から浮いた存在だった。

 そう、文字通り浮遊している。オリヴィアと同じように。

 大柄な男性が、浮遊したまま滑るようにこちらに近づいてきているのだ。

 勇吾より頭一つぶんは大きいだろう。赤錆色の毛髪はソフトモヒカンの形に整えられ、上半身には鍛え上げた胴体の輪郭がはっきりとわかるインナーを身に着けている。剥き出しの両腕には炎とハンマーを無数の刀剣と骸骨が取り囲むデザインの刺青。彫りの深い顔立ちはあからさまな苛立ちに歪んでいたが、口もとには皮肉げな笑みが浮かんでいた。

 

「やるじゃんお嬢。すっかり騙されたぜ、初手でタカオが殺しに行ったから俺も油断しちまった。ありゃ演出だな? いつから抱き込んでた? 前回からか?」


 初めて見る闖入者だが、一瞬で正体がわかった。

 カヅェル。その本体だ。

 崩れた外壁から離脱しようとしていたオリヴィアは、強張った表情でかつての部下を睨みつけている。やわらかな空気が徐々に変質していくのがわかった。


「認めるよ。大したもんだ。今回はお嬢の勝ち。その勇者さまは見事に破滅を回避してクラスに犠牲を出さずに済んだ。すげえなやっと一勝だぜ。ってことで、このへんで満足したかお嬢? いいだろもう、切りのいいとこで終わりにしようや」


「カヅェル。駄目です。あなたはココロを気に入っていたでしょう? 彼女はあなたにとっての『候補』だったはず。それに、わたくしの方針の正しさはちゃんと証明しました。それは約束が違います!」


 勇吾は状況が理解できない。

 だが、何か知らない事情が二人の間にあり、それがとても良くないものだという予感だけが大きく膨らんでいく。

 本物のカヅェルは面倒そうに息を吐いた。


「まあ最後のひとり分は惜しいっちゃ惜しいが、これまでの蓄積呪力もあるからな。なんせ『三十九勝一敗』だ。回収の頃合いだろ」


「だめっ! やめてカヅェル、おねがいだからっ!」


「じゃ、わりぃが学芸会はここまでだ。ま、いい思い出になったろ」


 全て言い終わらないうちに柳野九郎の刃と能見鷹雄の爪が男に届いている。

 そして、あっけなく弾かれた。

 カヅェルの両手にはいつの間にか白銀の鉄槌と片刃剣が握られている。

 勇吾の目では攻防の様子さえ捉えることができない。

 無数の音、風、閃光、そういったものが三者の間を駆け巡ったことだけは確かだ。

 そしてその結果も。

 柳野九郎の頭蓋が砕けて脳漿が飛び散る。

 能見鷹雄の心臓が貫かれ鮮血が飛び散る。

 誰がどう見ても即死だった。

 

「ああ、聖女サマの加護があったっけな。あれそんな強度ねえだろ。ほい、もっかい死んどけ。心臓と首ちょ~んぱっと」


 直後に始まった奇跡的な蘇生が破綻する。

 生存の希望であった津田守梨せいじょによる祝福さえ否定する、復活した瞬間の殺害によって二人の達人は今度こそ完全に沈黙した。

 誰もが言葉を失っていた。状況を理解できないし、それ以前にどうすればいいのかさえわからない。あの二人をあっさりと瞬殺できるような相手に、どう対処すればいいというのか。だが勇吾が固まっているのを見て、村上誠司が声を張り上げた。


「みんな、壁に開いてる穴から逃げろ!」


「いや逃がさねえよ。このピンクな空気もいらねえな。塞ぐか」


 男の瞳が赤く輝き、床が、壁が、天井が、穴の開いた外壁の向こうに広がる遠景が、絵の具をぶちまけたように塗り潰されていく。

 上書き。あるいは、乱暴な浸食。

 カヅェルはこの場に柔らかな空気を運んでいた淡い色彩や大きなハートのヴィジョンを力づくで粉砕した。

 それらがあった空間に、新しい『空間』を叩き込むことで。


接続アクセス浄界エーリュシオン。『石閉屍殿せきへいしでん』」


 世界は一変していた。

 血のように赤い空、血に染まった地面、四方を囲う墓石の壁。

 まるで、またしても知らない異世界に迷い込んでしまったかのようだ。

 それは地獄だ。

 視覚的な苦痛が閃光となって駆け巡る。

 生徒たちの悲鳴さえ塗り潰す凄まじい騒音が響く。

 怨嗟、怒号、断末魔。

 無数の屍が這いまわり、血を流し、苦悶の声を上げ続ける壮絶な戦場と、その上に突き立つ夥しい数の武器、武器、武器、武器。

 墓地に囲まれた戦場。

 ここで存在を許されているのは屍と武器のみ。

 絶望的な状況は終わらない。

 いまや最大の脅威となった男の足元に、黒い靄がわだかまっていた。

 

「カヅェル。あなたは、間違っています」


 敵を見据えるオリヴィアの顔には悲愴な決意があった。

 勝ち目のない戦いに挑もうとする者の目だということくらい、勇吾にだってわかる。けれど今の彼には止めようとすることさえできなかった。

 闇が形を作り、脅威として具現化する。

 立ち上がり、幼児が粘土で捏ね上げたような黒い人型が蠢く。

 尋常な生命ではありえない。

 だがそれを従えるカヅェルの呼び声は、もっと尋常ではなかった。


「来い、『ザマミロー』! 報復ざまあの時間だ! 存分に呪い、大事だったお友達を喰らい尽くせ!!」


 冗談のような名前だが、もうここはオリヴィアが支配する世界ではない。

 だからそれは本当に『そういうもの』で。


「ザマミロォオオオオォ!!!」


 おどろおどろしい叫びを上げる『黒い何か』に名前があるとすれば、確かにそれしかないのだろう。

 そのとき、一人の生徒がぽつりと呟く。


「天川?」


「え」


 勇吾は呼ばれたのだと思って振り向いた。

 呼んだのは須田美咲だが、呼ばれたのは勇吾ではない。

 彼女が見ているのは、黒い巨体。『ザマミロー』だ。

 信じられないものを見るような驚いた表情で、美咲は一歩踏み出し、震える声で呼びかけた。


「天川? そこにいるの?」


「ダ、シテ」


 驚くべきことに、それは言葉で応じた。

 更には黒い泥の中からゆっくりと人の形をした輪郭が現れようとしていた。

 あの中には、誰かがいる。


「助ケテ」


 それは求めている。

 欲している。

 乞うている。


「出して、ココから、ダシテ、ナンで、ミサキ、閉じ込めナイデ」


 闇の中から浮かび上がる亡者の顔は、誰もが知るものだった。

 手を伸ばして懇願されれば、当然に応じたくなるような。

 哀れな犠牲者で、救われるべき大切な仲間。

 美咲は両手で口を覆い、悲鳴のような声を上げた。


「うそ」


 コールタールのような汚泥にまみれた『誰かの顔』を、勇吾だけが未だに理解できていない。それはどちらかといえば、何らかの写真や絵画のような記録に見えた。


「殺さないで、イタイ、やめて、なんデ」


 無数の顔が、手が、命乞いを繰り返す。

 心臓から血を流し、落とした首を拾おうとして失敗し、髪と髭が伸びっぱなしになったままやせ細り、いずれの結末でも無惨に死んでいく。

 天川勇吾のはめつが、そこに並んでいた。

 

(誰だ)


 反射的に浮かんだ疑問。

 『あれは誰だ』ではない。

 勇吾は既に理解している。

 あそこにあるのは、破滅した自分でしかありえない。

 だから、問わなければならない真実はこうだ。


(俺は、誰だ?)


 


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