第十五話 友達が信じられないの?




 役に没入し、己の心を曝け出す。

 演技の訓練は、自らと向き合う時間でもあった。


(闇は、最初から俺の中にあった)


 漆黒の鎧を身に纏った勇吾は、黒く立ち上るオーラと共に一歩を踏み出す。

 勇吾は激情を両の瞳に滾らせ、白刃を高く掲げた。

 その敵意が向かうのは、かつての友人たち。


「魔王様より暗黒のエネルギーを与えられた彼は、『墜ちた勇者フォールンルミナリー』となったのですわ! オーッホッホッホッホ!!」


 即応。既に悪役令嬢モードに変身済みで待機していたオリヴィアは、混沌とした状況であるにもかかわらず、迷いなく『流れ』に乗った。

 多田心ただこころは意外そうに眼を見開いたが、面白そうに成り行きを見守る構えだ。

 彼女が操る武具は踊るように生徒たちを翻弄し、戸惑う様子を楽しむかのように生かさず殺さず苦しめ続けている。


「どうしちまったんだよ、天川!!」


 そう叫んだのは彼の友人である辺見颯へんみはやてだが、サーベルを手に勇吾と斬り結ぶその動きからは迷いが消えつつあった。

 武具から伝播するのは『勇吾を殺せ』という声。

 精神を汚染するかのような衝動は微弱だが、敵意や状況に反応して使い手の心を誘導していく。勇吾が攻撃してくる以上、『自衛のために応戦するのは仕方ない』という道理が優先されることになる。


「戦うしか、ないのか。くそっ、勇吾!」


 吉田竜太よしだりゅうたは中学時代から勇吾と付き合いのある友人だった。彼を助けたいという動機は救出チームの中でも強かったはずだが、状況が彼の甘い判断を許してくれない。

 彼は『クエスト』に命じられるままに捕縛し、『餌付け』と『しつけ』を繰り返して調教テイムした一体のグラスエイプを従えていた。

 迷うように小さな猿型生物を見て、「行けるか、ゴブ吉?」と問いかける。

 獣のつぶらな瞳には主への親愛と忠誠。

 力強くうなずき、棍棒を握って主と共に走り出した。

 直後、ブーメランが脳天に直撃してグラスエイプは即死。 


「ゴブ吉ーッ!」


「聖獣じゃないとマジで弱いな」


 戻ってきたブーメランをキャッチして腰のホルダーにしまう。

 破滅の未来で見た『伝説の獣』とは比較にすらならない。

 もちろん、グラスエイプを最初にテイムするように誘導したのは勇吾だ。

 顔色ひとつ変えずに死が横たわる光景を見る。

 感情が凍り付いたように、その冷ややかさは変わらない。

 ただ、その内側で煮え滾るものが瞳から溢れ出しつつあった。


「俺は、未来を視た」


 斬りかかった辺見颯の剣を払い、吉田竜太の刺突を躱す。

 淀みなく動く足は殺陣の訓練そのままに運ばれていき、剣は狙い違わずに相手の武器を強打していった。背中のマントが見栄え良く翻るように、身体が円弧を描いて移動する流れ。観客は共演者でもある。直に刃を交える二人だけでなく、同じ友人グループであった女子二人にも『闇堕ち勇者』の姿を印象付けていく必要があった。

 『現時点では敵うはずもない、格の違う強さ』を演出。

 厳かに、低めに抑えた声で台詞を紡ぐ。


「お前たちは、俺を必ず裏切るだろう。醜悪な嫉妬。俗悪な生存本能。口では友情や絆などと綺麗ごとをのたまいながら、都合が悪くなればあっさりと切り捨てる!」


「なに言ってんだよ、やっぱ本当に洗脳されてんのか?」「俺はそんなことしない! 友達だろ!」「そうだよ、私は天川の味方だよ!」「天川、変になってるよ」


 雑音だ。アドリブで次の台詞を微調整する必要性さえ感じない。

 想定されたテンプレートしか言わない彼らは、やはり『クラスの友達』をなぞっているだけなのだろう。たまたまそこにいたからそれらしく振る舞っているだけだ。


「友だと? なんと愚かしい言葉か。光? 愛? 勇気? そのようなものに価値などない。力こそ全て。お前たちに殺されるというのなら、俺の方からお前たちを殺すまでだ。魔王様の掲げる闇の教えこそが唯一絶対の真理なのだ!」


 台本通りの台詞だ。そこには真実の感情がある。

 勇吾がクラスメイトたちに言いたかったこと。

 叩きつけたかった怒りを、刃と共に突きつける。


「辺見。お前にはどうしても帰らなくてはならない理由があるんだろう? 大事な大学生の彼女がいるもんな。犠牲が必要なら俺や他の連中を何人殺したってかまわないと考えているはずだ。違うか?」


 それは厳然たる事実だ。だから状況が変われば勇吾を殺すこともいとわない。

 確信をもって告げられた言葉。その気迫があまりにも真に迫っていたから、言われた当人も誤魔化すことを忘れて一瞬だけ呆けてしまう。

 確かにその通りだと、辺見颯の内心が同意してしまったからだ。


「確かにいちばん大事なのはそうだけど、だからって!」


 それでも理性に従って反論しようとしたが、勇吾は聞く耳を持たない。

 彼が次に剣の切っ先を向けたのは、もうひとりの男子生徒。


「竜太。お前はよく俺の親友みたいなアピールをしてるけど、中学の時にお前が俺に告白してきた女子の連絡先聞いてそのあとこっそり付き合ってたの知ってるからな。それも一回じゃないだろ。三人だよな? 俺は便利だったか?」


「ばっ、いやちが、確かに中学の時はそうだったけども! あれは慰めてるうちに流れでっていうか、俺も最初はそこまで狙ってたわけじゃなくて」


 慌てた竜太が弁解しようとするが、それに対しては勇吾以外の面々からの反応の方が手厳しかった。


「お前それはないわ」「え、吉田くん」「竜太それほんと? サイアクなんだけど」


「あの、ですね。最初は確かに言う通りなんですけどぉ、今は反省してるっつーか、勇吾に対してもこう、付き合いが長くなるとこう、な?」


 勇吾は取り繕うような言い訳を無視した。

 続いて怯える女子ふたりに鋭い眼光が向かう。

 共に『婚約破棄される令嬢』というクエスト。

 太田結愛おおたゆあは料理に毒を盛ったという疑惑で、須田美咲すだみさきはいじめの教唆と扇動の疑いで、それぞれ婚約を破棄されている。

 そして、最終的には『毒殺』と『周囲に始末を任せる』という形で勇吾に破滅をもたらすことになるのだ。


「須田に太田。お前たちも同じだ。誰もが裏切る。俺はもうお前たちを見限った。誰も生かしはしない。誰も残しはしない。さあ構えろ。この極大呪文で滅び去れ!」


 マントと共に躍動する。立ち位置の調整を含めた移動で友人たちを射程内に。

 凄絶な殺意が迸る。仰々しい身振りと舞踊にも似た手振りを交えた詠唱が始まる。


「陰湿な画策、卑劣な謀略、非道な暴虐」


 オリヴィアに教わった『極大呪文の詠唱』は幾つかの種類が存在する。

 丸暗記は得意な方だ。内容が文脈に即していれば台詞の中に組み込むことは難しくない。勇吾はいま、物語の中にいるのだから。


「知らぬふりする厚顔無恥、己が手を汚さぬ狡猾老獪、全ての所業が言語道断」


 長々とした『呪文』は運命を始めるための合図。

 王子、勇者、あるいはそれ以外の素敵な男子の配役。

 高みから落とし穴に突き落とされる、逆境の演出。


「須田美咲! 並びに太田結愛! お前たちとの婚約を破棄する!!」


 婚約破棄の極大呪文。

 それはオリヴィアから「これは『オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ』といって、わたくしの世界で理論上は最も強大なおまじないとされているものです。仰々しく詠唱して、不発の面白さを演出して下さいね」と言われていた持ちネタのひとつ。路上では盛大にスベリ倒して物凄い空気になっていたので勇吾は使いたくなかったのだが、精神汚染されて闇堕ち状態のため使うしかなかった。

 沈黙。

 長い、間があった。

 事故にすら思える空白。だがこれは台本にある『意図された不発』だ。

 この状態の勇吾は、『まだ』極大呪文を使うことはできない。

 だから何も起こらないはず、だった。


「う、うう、ひっく」


「は?」


 勇吾の深刻そうな表情が一瞬だけ緩み、心配そうな顔を見せそうになってしまう。瞬時に気を引き締めて無感動な様子に立て直す。

 とはいえ内心は驚いたままだ。

 これは『仰々しい詠唱をした極大呪文が不発に終わる』というコミカルな演出だ。

 威圧感に満ちた演技を続けていたシリアスな勇吾がシリアスなまま行うギャグ。

 友人たちに隙を見せる意図もあったはずで、想定される対応にはツッコミや嘲笑、疑念や激昂などがあったのだが。

 何故か、須田美咲がぼろ泣きしている。


(いや、何で? 神殿でクエストの『婚約破棄シーン』を見せられた時にだって呆然としてるくらいじゃなかったか?)


 同じくショックを受けてはいたらしい太田結愛は泣くほどではなかったようで、心配そうに友人に寄り添って慰めている。


「ご、ごめんなさい、わたし、いじめとか、そんなつもりなくって」


「美咲、気にしないで! 天川も言わされてるだけだって! 本気じゃないよ!」


「くそ、精神攻撃かよ!」


「あの女! 勇吾になにさせてんだてめえ!」


 よくわからないが、オリヴィアが悪いということでグループの意見はまとまったらしい。そして勇吾には知らない何らかの事情が背景にあることが窺えた。

 それにしても、と勇吾は考えに耽る。

 須田美咲の悲しみ方は本物に見えた。


(俺の知らない事情に対して、そんなに罪の意識があるのか) 


 それとも、勇吾にあらためて婚約破棄を言い渡されたことが苦痛だったのか。

 いずれにせよ後者の重さは大したことがないだろう、と勇吾は判断していた。なぜなら彼女はより優れた相手がいればそちらを選ぶ。そして勇吾をその相手に『始末』させる程度の情しか抱いていないはずだ。


「うーん、やっぱりまだ激辛バレンタインのこと根に持ってんのかなぁ。気にしないって言ってたけどやっぱジョロキアはやり過ぎだった?」


「当たり前だろ他二人はわさびで俺だけなんでジョロキアなんだよ」


 美咲に比べると個人的な付き合いがあるわけではない太田について言えば更に距離が遠いと言っていい。明るく誰にでも距離の近い絡み方をするタイプだが、逆に言えば誰に対しても似たような距離の置き方をしているということ。

 ある意味では、いつでも優しい笑みを浮かべている勇吾に近いのかもしれない。


(あらためて思い返すと。薄いな、みんなと俺の関係)


 教室での会話。季節ごとのイベント。休日の外出。

 ばかばかしいおふざけに、真面目な進路の相談。

 そういった他愛ない思い出は確かにある。

 だがそれは、相手に害をもたらさないという確約をしてくれない。


『友達が信じられないの?』


 ふと、誰かの言葉を思い出す。

 あれはいつ、誰に言われたんだっけ。

 思い出せないまま、勇吾は感情を沈めていく。

 深く深く、取り繕った仮面の奥底に届くまで。

 そして勇吾は、小さく呟いた。


「タイミング、合わないな」


 尺の調整が必要だった。

 アドリブの内容は決めてある。

 アクションシーンだ。剣を構え、友人たちに斬りかかった。




 勇吾が舞台の中心で悪役を演じる一方で、その周辺では浮遊する武具が乱舞し、他の生徒たちが錯乱した様子で手にした刃を振り回していた。

 ある者は友を疑い震える切っ先を向け、ある者はおちょくるような鎧兜の群れを追い払おうと長物をぶんぶんと振り回す。

 一歩間違えば同士討ちで全滅しかねない状況だ。

 たとえるなら決壊寸前の堤防。

 それをかろうじて怪我人が出ないように堰き止めているのは能見鷹雄だった。

 小石を弾いてクラスメイトの首筋に迫る刃を弾き、手を伸ばして短刀の軌道を逸らし、武器を自分に向けた状態で転倒した者を立たせてやる。


「よそ見してんなよっ」


 それを、柳野九郎の斬撃を躱しながら並行して行い続けている。

 さしもの能見鷹雄も顔に余裕がない。

 無数の裂傷が全身に刻まれ、かなりの流血を強いられながらもどうにか持ちこたえている。落ち武者の如き気迫の刀使いから距離をとった暗殺者は、ひとりの女子を睨みつけた。


「多田、お前の仕掛けだな? 今すぐやめろ、死人が出るぞ!」


「多田? それは白人が勝手に聞き間違えて呼んだ名前。『わたしたち』の本来の名は『多田良たたら』。一族の祖は製鉄を生業としていた」


「は、白人? 何を」


「あーごめん、委員長がいると通じるからつい。冗談冗談。まあ元ネタはココロちゃんも知らんけどね~。ネットが悪いよネットが。あ、ちなみに~良心りょうしんちゃんって呼んでもいいよ?」


 へらへらと笑いながら多田心は言った。

 本人の言葉が虚言でないとするなら『多田良心たたらこころ』と呼ぶべきか。

 先ほどから能見鷹雄は心に攻撃を仕掛けていたが、その全てが彼女の持つ刀剣によって防がれていた。柳野九郎と戦いながらとはいえ、それがどれだけ異常なことか。

 心は敵意をまともに受け止めようとせずにひょい、と後ろに下がった。


「あ~私ね~男子のバトル展開に割り込んで無双するタイプの女子ってちょっと空気読んだ方がよくね? って思ってて~いやそういう作風に文句付けるわけじゃないけどここは男同士でギラギラしていくヤツじゃん? みたいなね。でしゃばりはノー、壁になってたい自分がいる~というわけで私は空気なので消えますね」


「では女子と戦いなさい」


 突風が吹きつける。

 直後、きらきらと輝くカラフルなヘアアイロンを手にしたドレスの少女が勢いよく突っ込んできた。

 衝撃。低空を飛翔してきたオリヴィアのヘアアイロンを、心の槍が受け止めている。力強く槍が振り払われると軽い身体は飛んでいき、上空で停止した。


「女の相手は女って? わーお、少年バトル漫画でよくある配慮だ」


「あいにくと未履修ですわね」


「異文化交流ってむずかし~ね」


 険しい表情のオリヴィアと対照的に、心は締まりのない笑顔のまま。

 槍を手にした少女の周囲には相変わらず無数の武具が浮遊している。

 オリヴィアはその中のひとつ、樽型兜を睨んで言った。


「趣味が悪いですわよ、カヅェル。『刀匠ココロ』を解放しなさい」


「あ、バレた?」


 兜が振動すると同時に、心の口が動く。

 少女の声に、人工的な響きがする男の声が重なっていた。


「ま、演技指導はお互い様じゃん? そりゃお嬢には一歩劣るかもしんねーけど。勇者さまを『和解とかムリ』って絶望させんのには十分だろ」


「やはりそれが狙いでしたのね。女性の心をもてあそぶなんて」


「けっこー大変だったぜー。こいつのヤバさを世間に出していいレベルにまで抑えて勇者さまの心を折る程度の凶悪さに調整するの」


「え?」


「ん?」


 何かが噛み合っていない気がしたが、オリヴィアには尺の都合があったので流すことにした。同時進行している芝居の状況に耳を傾けながら気を取り直す。

 敵はおしゃべりな兜、カヅェル。

 オリヴィアは宿敵を見据え、戦意を手のヘアアイロンに込めた。


「あなたは精神汚染のおまじない『夜鳴き刃』の達人です。最初の回からおかしいとは思ってはいましたが、『バスの運転手』もあなたの仕業ですね?」


「え~何の話~? ココロちゃんわかんな~い」


 とぼけるカヅェル。向けられていた敵意が更に剣呑になる。

 オリヴィアの目から容赦が消えた。

 

「カヅェル、あなたはわたくしを裏切り、誇りと魂の一部を奪いました。もはやあなたを許す理由はない。わたくしはもうあなたを見限った。誰も生かしはしない。誰も残しはしない。さあ構えなさい。この極大呪文で滅び去るがいいですわ!」


「はぁ? 何を、え? いまは使えないだろ? 不発ギャグとか?」


 本気で困惑した様子のカヅェルを無視して、オリヴィアは詠唱を開始する。

 極大呪文。それは詩歌のように流麗に響く。


遥か彼方からFrom far,夕べの方、朝の方からfrom eve and morning

 十二方位の風吹きめぐらす彼方の空からAnd yon twelve-winded sky,

私を織りなす生命のもとがThe stuff of life to knit me

 ここへ吹き寄せたBlew hither; 私は今、ここにあるhere am I.


 風が巡る。言葉が重なる。

 見えないものは確かな質感を伴ってそこに現れつつあった。

 詠唱に呼応するようにふわりと浮き上がるオリヴィアのほうき髪を見て、カヅェルと共にある少女の表情が変わった。


「ココロ、詠唱を妨害しろ! ありゃやべえ!」


 兜に命じられるままに無数の武器が牙を剥く。

 矢弾となってオリヴィアに向かうが、大半の刃は巡る風の障壁に阻まれて届かない。それを見たカヅェルがカタカタと激しく震える。一方で心の表情には喜色。


「なんかやべー! 使えないとは思うけども! 万が一はったりじゃなかった場合はお嬢のガチオルガンローデが来る! ココロ、防壁をなんとか突破できねえか?!」


「おっけー。なんか盛り上がってきたじゃん?」


 ぺろり、と心は舌なめずりをした。

 手のひらから抜いたのは、普通の刀というにはやや短めで、脇差と言うには大きすぎる刃。大脇差と呼ばれる、六十センチメートルほどの刀剣だった。


「オカルトなら君の出番だ。行くよ、『にっかり青江』」


 心は長い槍のしなりを推進力に変えて跳んだ。

 刃を手に上空のオリヴィアに肉薄する。

 詠唱は途中。ヘアアイロンを手繰るように動かして突風を吹かせるが、心の勢いはまるで減じていなかった。


さあNow――、一息の間、私はとどまるfor a breath I tarry

 まだちりぢりにならずに――Nor yet disperse apart-


 一閃。

 オリヴィアを守護していた無色透明な障壁があっけなく破壊された。

 勢いのまま飛び掛かった心の一撃をかろうじてヘアアイロンで受け止めたオリヴィアだったが、直後に態勢を崩して落下していく。

 床に直撃せず、浮遊したままではあったが、腹部を押さえて激しく咳き込む。

 心の拳が正確に横隔膜を打撃していたのだ。


「いが~い。オリヴィアちゃんって体術あんましだね? 変身ヒロインとしても悪役令嬢としても流行りじゃなくない?」


 心は勝者の余裕を見せながらゆっくりと浮遊したまま倒れているオリヴィアに近づいていく。長い呪文詠唱は中断された。圧倒的な優位を確信したのか、カヅェルは安心したようにカタカタした震えを止める。

 大勢は決した。確信の直後に、それは起こった。


疾く私の手をとり語り給えTake my hand quick and tell me,

 君の心のうちをWhat have you in your heart.


 詠唱が引き継がれている。

 朗々と響くのは男性の声だ。

 舞台の中央。漆黒のマントを翻しながら舞い踊るように剣を振るうその少年は、『ファンタジーの戦い』という物語に没入するようにその詩を歌い上げる。


さあ話し給えSpeak now,私が答えようand I will answer;

 君の助けとなるようにHow shall I help you,さあsay;


 勇吾の詠唱を耳にしたカヅェルは愕然とするしかなかった。


「なんで解除されてんだ?! ココロっ!!」


 心は言葉よりも早く走り出している。無数の刀剣が射出される速度よりも早く、空間や大地を縮めるかのごとき異様な間合いの詰め方で勇吾に刃を向けた。

 神速の斬撃。脅威の身体能力。超常の反応速度。

 それらを併せ持つ心は、ゆえに真横から叩きつけられた暗殺者の不意打ちを予想していたかのように完璧に防ぎ、


「油断大敵」


 ぬるり、と滑る床に足を取られて転倒した。

 柳野九郎による負傷から滴る血、苦戦による脂汗、その他よくわからない『ぬめぬめ』した大量の体液。

 能見鷹雄はそれらの分泌量を意図的に増やし、罠として設置していたのだ。

 即座に受け身をとって立ち上がろうとする心だが、それより早く暗殺者が口を開閉してカチカチと音を鳴らす。打ち合わせているのは歯ではない。もっと奥だ。


「燃えろ」


 ごう、と少年は火を噴いた。

 鮮烈な赤色が大量の油に着火して、得体の知れない液体に塗れた心はたちまち火だるまになった。さしもの心もこれにはたまらず、転がって消火に専念する。

 決定的な隙。

 暗殺者が稼いだ時間は、呪文を完成させるのに十分だった。


風の吹きめぐりゆく十二の方位へEre to the wind's twelve quarters

 果てしない道へ私が旅立たぬまにI take my endless way.


 天川勇吾は暗記していた。

 それは彼にとってはたやすいことで、本来ならば不発になって空気を凍らせるだけのつまらない芸でしかないはずのもの。

 だが、いまこの時に限っては違う。

 それを、二人だけが最初から知っていた。




 戦いの前。街での準備期間、勇吾たちは何度も作戦会議を重ねた。

 その時にオリヴィアが重視していたのは、他でもないカヅェル対策だ。


『いいですか勇吾さん。カヅェルの仕掛けによっては、クラスメイトやあなたまでもが支配されてしまう可能性があります。そうなれば彼は宣言通りにあなたたちに殺し合いを強制するでしょう』


 だが精神に干渉する術は強力だ。

 勇吾とて、オリヴィアがいなければ完全に支配されてしまっていただろう。

 現状、クラスのほとんどに対して影響力を及ぼせるであろうカヅェルに対抗する手段は本当にあるのだろうか?


『今のところは不確定要素が多く、未来を完全に予測することは難しい。そこでカヅェルの攻め手を誘導します。こちらの演出をあえて『闇堕ち勇者の改心』としておき、彼が計画の乗っ取りをしたくなるようにする』


 そこで、オリヴィアは方針を絞った。

 単純な計画を見せつけることで、勝負の内容を『先に決める』のが狙いだ。


『あの男はわたくしから奪ったおまじないの力、『秩序成型レイス・オブ・アース』によって、想像力の及ぶ限りにおいて無尽蔵に『特別な力をもった器物』を作り上げることができます。その基本能力は二つ。持ち主の精神汚染と能力拡張』


 オリヴィアは愛用しているヘアアイロンやコスメ、ブローチなどのアクセサリ類を見せながらそう言った。こうした『おまじない』のための道具はその力で作り出したということらしい。残念ながら、もう新しく作ることはできないとのことだったが。

 分家に奪われた力。

 そのひとつはいま、カヅェルの手にある。

 逆に言えば、相手の手の内はこちらに筒抜けというわけだ。


『カヅェルの精神汚染は『夜鳴き刃』というおまじないによって発動します。これは武具を媒介として、彼の使い魔である『知性武具』たちが実行している。この『心を持つ器物』は自律的に思考を行い、持ち主が知らないはずの熟練の技を実行させることができます。達人の武術やおまじないが自在に使えるようになるのです』


 オリヴィアたちが用いる『おまじない』には簡単なものから高度なものまで多種多様だ。極大呪文はその頂点に位置しているため、今の勇吾たちに扱える代物ではない。だが、『強さの先取り』を可能とする知性武具があれば話は別である。

 『力が欲しいか』と囁く以上、彼らは持ち主に力を与えることが可能なのだ。


『逆に言えば、精神汚染の影響を受ければあなたは一時的に強くなれるということ。本来なら知性武具は転移者たちを助けるためのものですからね』


 オリヴィアの計画を乗っ取ろうとするカヅェル。

 そのための手駒を、こちらが奪って使う。

 相手の裏をかき、利用し返すという作戦だった。


『まるで将棋ですね』


 なぜか得意満面な表情でオリヴィアがそう言っていたのが印象的だった。


『これから、わたくしのおまじないの一部をあなたに預けます』


 与えること。預けること。授けること。行使を許すこと。

 それが『エジーメ家』の最も強い力なのだと彼女は語った。


『天より聖油を滴らせ、聖なる加護を与える権能。名を『混沌希釈スケール・オブ・ヘブン』。エジーメ家に伝わるおまじないのうち、わたくしは選りすぐりの九種を独自にアレンジして使用しています。力を奪われ、天職やスキル、クエストを付与する力は失われました。ですがわたくしがいま保有する力なら分け与えられます』


 それが極大呪文。

 自分一人では扱えない、手に余る力。

 オリヴィアだけでも、勇吾だけでも無用の長物でしかない。

 だが、もうひとつ条件が揃えば?


『あなたと知性武具の『おまじないの力』を足し合わせてもぎりぎり使えるかどうか、という極大呪文。それを精神汚染状態の時に自動で『構える』設定にしておきます。そうすれば知性武具は力を使い果たして沈黙するはず。精神汚染のおまじないを維持することができなくなり、あなたは解放される』


 ところどころ理屈と用語がよくわからなかったが、オリヴィアの言葉には確信があるようだった。それが可能なことであるなら、試す価値はある。


『安心して下さい。『自分のHPが五十パーセント以下の時』には回復を優先するように、『敵が回避または防御姿勢の時』には発動しないように設定できます。その他にも細かく条件分岐の指定が可能なので確認しておいてくださいね』


 相変わらず、よくわからない点は増えていくのだが。


『そして最も重要な条件は、『わたくしとの協力詠唱で発動すること』です。極大呪文の欠点は詠唱の長さ。わたくしはこれを複数人で協力することで解消しています。コーラス式は練習時間が足りないので、リレー式でやりましょう』


 重要なのはタイミングだ。

 尺の調整と打ち合わせ。演技をしながら共演者の動きを見て、呼吸を合わせること。そのために必要なのは場数と経験。

 実際に舞台に立ってみなければその感覚は掴めない。

 誰かと演じる。誰かと協力する。誰かのペースに合わせる。

 それは、必要に迫られてすることではあったけれど。


『わたくしがあなたの世界の参照詩を紡ぎ始めたら。ユーゴさんが引き継いで完成させてください。わたくしの言葉が途切れても、あなたさえ無事なら』


 練習は思いのほか楽しかった。

 繰り返しは上達に繋がり、蓄積は思い出に変わる。

 ただ同じ場所にいただけだ。やるべきことをやっただけだ。

 他の誰が相手でも、似たような感情は抱いただろう。

 けれど、それでも。


『敵が勝ちを確信した時がチャンスです。本番では想定を超えるアクシデントに見舞われることもあります。けれど、わたくしたちは舞台を完遂しなくてはなりません』


 それは意地のようなものだ。

 単にやってきたことが無駄ではなかったのだと証明したかったのかもしれない。

 それは執着じみた感情で、格好の良いものではなかったけれど。

 他愛のない全てを、『無駄ではない』と勇吾は叫びたかった。

 闇を、怒りを、憎しみを仮面にして。

 完璧な表情を作りながら、少年はいつも通りの天川勇吾を完遂した。

 そうして、オリヴィアと勇吾の極大呪文が完成する。

 最高位の竜の名を冠した滅びの呪文。

 無限の拡張性を有するがゆえに、術者によって姿を自在に変えるおまじない。

 時には術者の心をそのまま映し、その名さえも詩文に変えて。


「『風の十二方位ウィンズ・トゥエルブクォーターズ』!!」


 それは、異界の摂理を束ねて織りなす至高の神秘。

 重なる声が、破滅と再生を循環させていった。

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