第二話 転移したらかませ勇者だった件
柔らかな風がそよぐ。
屋内だというのに、それはするりと勇吾の耳に滑り込み、静かに震え始めた。
彼の前に突然現れた少女、オリヴィアの声だ。
(この神殿内は監視されており、その対策として今は大気を操るおまじないであなたの鼓膜に直接干渉しています。返事は視線を上下に動かすだけでかまいません)
オリヴィアの唇は動いていない。戸惑いを覚えつつも、言われた通りに視線を動かすことで肯定の意思を示す。間を置かずに耳の中で振動。感覚としてはイヤフォンをしている状態に近い。
(職分け帽子によって天職とクエストを与えられた生徒たちは、あなたも含めて既にこの状況を作り上げた元凶の洗脳下にあります。『帽子』と『神殿』を管理する血族集団に対し、無条件の敬意と信頼を抱くようになる簡単な催眠暗示です。クエストの進行と上級職への転職を契機として完全に使い魔となり支配下に置かれます。あなた自身とご友人たちを助けるためにわたくしの指示に従ってください。まずあなたの洗脳を解除しますので、抵抗しないように)
早口での説明な上に唐突な情報開示であったにもかかわらず、勇吾はなぜか無条件でその言葉を信じられた。オリヴィアの自信に満ちた佇まいや高貴な雰囲気から自然と尊敬の念を抱いていたこともあり、何の疑問も抱かずに言葉に従うことを決める。
オリヴィアが出し抜けに突飛なことを行っても、一切の抵抗を考えない程度には勇吾は彼女に全幅の信頼を置いていた。なぜそうなるのかについて考えようとは思えない。そういうものだからだ。
周囲のクラスメイトたちはそうではない。悲鳴さえ上がっていたが、勇吾は『いったいみんなは何を驚いているんだろう』と不思議に思うだけだ。
具体的には、オリヴィアは強引に手を引いて勇吾と唇を重ねていた。
突然のくちづけに、勇吾の思考が停止する。
その場にいるほぼ全員が完全に固まっていた。
長いようで一瞬のキス。嚙み切られた唇から血が流れ、淡く輝いてぱっと散る。
(何してくれるんだ、この女)
不快感と違和感。身体の奥深くに手を突っ込まれて探られるような気持ち悪さ。何かをされた。後悔と共に従うべきではなかったと怒りが沸き上がる。なぜこんな得体の知れない女の言うことに疑問を抱かなかったのか。
無条件の敬意と信頼が雲散霧消し、謎めいた存在であるオリヴィアへの疑念と不信感が反動のように膨れ上がる。直後に理解できたのは、今のキスによって勇吾にかけられていた『元凶による洗脳』が解除されたということだ。
(あれ?)
(わたくしへの信頼が消え失せたかと思います。まずはその事実をもって、こちらの誠意と本気を受け入れていただけないでしょうか)
オリヴィアの唇が離れ、小さく『ごめんなさい』と動いた。
驚いて飛びのいた勇吾は手で唇を拭おうとして、左手の薬指に指輪が嵌っていることに気づく。外そうとしても外れない。というか、実体がなかった。
平然と全く同じデザインの婚約指輪を見せびらかしながら、全ての行動が唐突な少女オリヴィアは「婚約成立」と小さく呟き、勇吾にだけ聞こえるように続けた。
(運命とは呪縛。破滅の未来をもたらすほどの強力な呪縛には欠点があります。破滅は、より強力な破滅によって干渉可能なのです。このように)
オリヴィアが手を一振りすると、周囲に幻惑的な光が散る。
直後、光の中から出現した鎖が勇吾の首に絡みつき、まるで飼い犬にそうするかのように首輪状に変形して拘束する。
(捕まえられた! いや、それだけじゃない)
オリヴィアのもたらした光は得体が知れないが、勇吾に害をもたらすわけではなかった。むしろ、首輪を付けられるのと同時に何かを押しのけてくれている。
それはオリヴィアが作り出した光の鎖とよく似ているが、別々の人物から繋がっている。発生源は勇吾がよく知るクラスメイトたちだ。
『破滅した未来』の記憶が脳裏を過ぎる。
神殿内で幾つものグループに分かれて不安や当惑の表情を浮かべているクラスメイトたちの中でも、職分け帽子によって困難なクエストを提示された三人が勇吾を凝視している。鎖は三人の女子生徒の胸から伸びているように見えるが、どうやら勇吾とオリヴィア以外には見えていないようだった。
(さっき、喋る帽子に『悪役令嬢』とか『婚約破棄』とか言われてた三人だ)
馬鹿げたシチュエーションと役割だけを強引に押し付けられた三人を見ながら、オリヴィアがそばにいる勇吾にしか聞こえないほどの小声で鋭く呟く。何かの指示のようでもあり、明確な意図が込められた発言のようだと勇吾は思った。
「
偶然だと思うが苗字の並びが似通っておりさながら田園のようだ。
このうち太田結愛と須田美咲は仲が良くいつも一緒で、勇吾ともよく話す間柄だった。身を寄せ合って困惑する二人の視線がふと勇吾とぶつかりそうになったとき、また声が聞こえた。
(これから茶番を行いますから合わせて下さい)
そんなことを言われても困る、と文句を言いたかったがそれよりも素早くオリヴィアの独り芝居が開演していた。既に役に入っている。またあの変な高笑いだ。
「オーッホッホッホッホッホ! 身の程を知らない田舎貴族風情が、このわたくしを差し置いて殿下と結ばれようだなんて、なんて恥知らずなのかしら!」
明確に三人の『田園の悪役令嬢』たちを意識して語り掛けている。
意味不明な前提であっても、あからさまな侮蔑と悪意を向けられれば人はむっとする。たとえオリヴィアが日本語を操っていなかったとしても表情や雰囲気で『馬鹿にされている』ことくらいはわかっただろう。それほど過剰でコテコテの演技だった。
案の定、三人は怯え、困惑しつつも明確に反感を抱いているようだ。
その感情に呼応するかのように、オリヴィアは更にヒートアップしていく。
「殿下の寛大さに触れて舞い上がってしまったのね、哀れなこと。けれどわきまえなさい。彼はこのわたくしの婚約者です。婚約破棄などするまでもなく、はじめから彼の視界にはわたくしだけしか入っていませんの」
『なにこいつ』という反発の視線がオリヴィアに集中する。既に舞台の中心にいるのは彼女だ。これ以上ないほどに『不快な悪役』を演じているオリヴィアは観劇者にとってはあからさまに『
(なんとなくオリヴィアの狙いがわかってきた)
いつの間にか、三人の女生徒から勇吾に向かっていた細い鎖の行き先がオリヴィアに変化している。おそらくあれは破滅の運命だと勇吾は直観していた。
先ほど幻視した破滅の未来で、勇吾は三人のクラスメイトにそれぞれ別の形で『見返されて』いた。『ざまぁ見ろ』というわけだ。
クエストによって設定された役柄ではあるが、勇吾はどうやら王子様であり彼女たちの婚約者であったらしい。
(実際にそういうことがあったわけじゃないけど、職分け帽子によって与えられた『
勇吾という愚かな婚約者によって婚約破棄された三人は、それぞれが波乱万丈の物語を紡ぎ、困難を乗り越えて全く別の男性と結ばれる。
(全員ものすごい強くてかっこよくて俺より身分が高かったな)
そして、彼女たちは勇吾の目の前に現れて『あなたに抱いていた気持ちは本物の恋じゃなかった』とか『私の運命は私が決める』とか『今さら私があなたに未練を残していると思いましたか? お生憎様』とか言い放つのだ。
みっともなく追い縋る勇吾が彼女たちの傍に立っていた強く美しい男に一蹴され、情けない悲鳴を上げて腰を抜かしたり逃げて行ったりするという結末だ。
(みっともなく追い縋るとかそういうのは、俺に仕掛けられた『
ぞっとさせられる想像だ。
須田美咲の時は逮捕された上、生涯にわたって幽閉され心を病みつつもどうにか自殺できる程度で済んだ。
これでもまだマシなほうだ。
太田結愛と多田心の恋人には殺されているし、二人もそれを黙認している。
なんとなく三人の中での勇吾に対する扱いが透けて見えるようで陰鬱な気分になるが、そもそもの原因はクエストによって押し付けられた『理不尽に婚約破棄してくる傲慢な王子』という役柄が憎悪の原因だ。
(まだやってないことで三人を恨むのは良くない、冷静になろう)
いずれにせよ、今のところ三人の憎悪はオリヴィアに向かっている。
傲慢な悪役令嬢は勇吾に首輪をつけて所有権を主張していた。三人の女子生徒たちにしてみれば、オリヴィアは偉そうな態度で婚約者を好き勝手に扱っている不快な相手だ。態度からすると、オリヴィアの方が立場が上ということになっているはず。
おそらく最上位の貴族、あるいは王族。
「オーッホッホッホッホッホ!!」
ゆえに見返してやりたい『敵』が入れ替わる。三人の女子生徒が破滅させるべき相手は、腹の立つ高笑いを続けているオリヴィアに他ならない。
(即興の演技で、素人悪役の俺の立ち位置を一気に奪った! 露骨かつ下品過ぎて一歩間違えば子供だましになりそうな演技プラン、なのに佇まいだけでギリギリ『高貴な令嬢』のラインに踏みとどまっている。この人、すごい役者だ)
思わず感心して見入っていると、ぐいと鎖を引かれてつんのめる。
倒れ込んだ勇吾の頭を無造作に踏み付けたオリヴィアの雰囲気が変わった。
またしても勇吾にだけ聞こえるほど小さな呟き。
「
更なる異変。職分け帽子の示したクエストによって『無能ゆえに追放』とされていた八名の男子生徒たちの運命もまた変化し始めたのだ。
捕縛され、哀れにも踏みつけられた『勇者』。
本来なら強者と見なされるはずの『クラス唯一の当たり天職とスキルの持ち主』を制圧するオリヴィアは、その場では絶対的な強者である。
誰もがそのことを再認識した次の瞬間、場の空気が変質した。
轟音と衝撃が建物を揺るがす。悲鳴と怒号が響き、クラスメイトたちはたまらずにその場から退避していく。
神殿の外壁を粉砕しながら、巨大な猛禽類がその場に乱入してきたのである。
異世界に存在する多種多様な怪物、その一体が現れたのだ。
驚くべきことに、それは明らかにオリヴィアに従っていた。浮遊する少女の背後に控え、周囲を威嚇するように高らかにキーキーと鳴いていたのが、彼女が手を一振りしただけで大人しくなったことからそれは明らかだった。
(いやなんだこれ)
というか、見上げる様な巨大怪鳥の首の下に何か書いてある。
『ステータス』とか『使い魔:Aランク召喚獣』とか『使役者:オリヴィア』とかそういった仰々しいゲーム的な説明や非常に大きな数値が記された表示板が怪鳥の前面に取り付けられているのだ。物理的に。
(ほんとに何? 学芸会?)
変なボードをロープなどで首の下に吊り下げた巨大猛禽。明らかな脅威であるにも関わらず、安っぽい舞台のセットみたいな『ステータス表示』が気になって怖さに集中できない。真剣に死の恐怖を感じさせて欲しい。
「クェエエエエエ!!!」
感じさせてくれた。怪鳥の放つすさまじい声に間近にいた勇吾の身が竦み上がる。
周囲のクラスメイトたちの大半も同じ心境のはずだ。
オリヴィアが纏う空気の質が、より重く、物騒なものに変質している。
血と暴力の匂い。強者の雰囲気。威圧的なステータス表示。数字は圧倒的だ。
ジャンルが女性向けの恋愛ものから急に男性向けのバトルものになってしまったかのような急展開に、誰もついていけない。
混乱に追い打ちをかけるように、オリヴィアがまた胡乱な台詞をまくしたてる。
「先ほどの口づけで彼はわたくしの奴隷と化しました。魔王様からいただいた愛の秘薬を口移しで飲んだ勇者様はもはや人形も同然。わたくしの許しがなければ赤子にも勝てないひ弱なおもちゃです。愉快ですわね、オーッホッホッホッホッホ!」
急に出てきた魔王とかいう設定に、いつのまにか王子様から勇者様に置き換えられている勇吾の立ち位置。両立させてもいいものなのだろうか、それは。
(いいのかもしれないけどジャンルが変わってる。これは男子向けの演技だ。強かったはずの勇者が、更なる強者によって既に噛ませ犬化してる。さっきと似たロジックで敵意を集めようとしてる、のか?)
「これでこの国の実権はわたくしのもの! 成長する前の勇者をこうして骨抜きにしておけば、魔王様は労せずしてこの世界を支配できる。わたくしは家畜となった人類の管理者として君臨するのですわ~オーッホッホッホッホッホ、ゴホッゴホッ」
大仰な身振りと説明台詞、さらには調子に乗って全ての企みを暴露してしまうというやや間抜けな悪役ぶりをコミカルさを交えて演じ切ったオリヴィアを勇吾はちょっと尊敬し始めていた。展開がかなり強引で周囲の役者と合わせる気が全くないのはマイナスポイントだが、明朗な滑舌と発声、堂々たる振る舞いの存在感は図抜けている。紋切型とはいえ、このレベルの演技が彼女の年頃でこなせるのは相当なものだ。
(けっこう間抜けなところもあるし、あとからきっと痛い目を見るタイプなんだろう。先の展開が期待できるのは必ずしもいいことばかりじゃないけど、『ああ、こいつは後からぎゃふんと言わされるんだな』ってわかるのはけっこう見やすい)
不快な悪役はストレスを発生させるが、『このストレスは後から解消される』という保証があるのなら観客は『なら許してやるか』となる場合がある。
(絶妙なバランス感覚と演技プラン。後出しで親しみのあるキャラクター性をアピールして間抜けなコミックリリーフや改心したライバル役に転向も可能な絶妙な方向性の広がり! を匂わせた上で男子の意識を『真の敵』に向かわせた! 上手い!)
異常な展開に慣れてきた勇吾のテンションはちょっとおかしかった。
正直ついていけないので、驚き役とか解説役を脳内で演じて退屈しのぎをしていたというのもある。別に同時並行でオリヴィアの囁きが耳元で響いてくるのが少しむずがゆく、意識を逸らしたかったとかではない。
(このまま離脱します。合図と共に、わたくしに攫われてください)
おかしな一幕の裏で、既にそういう段取りが決まっていた。
ふわりと浮き上がったオリヴィアは、謎めいた力で勇吾まで浮遊させて巨大な怪鳥の背中に移動する。勇吾は周囲で強い風が渦巻いていることに気付いた。彼にしか聞こえない音といい、彼女は大気や風などを操れるようだ。
高笑いと共に勇吾を連れ去ろうとする悪女オリヴィア。
「おい、待てよ!」
その姿を見たクラスメイトたちはようやく怪鳥出現の衝撃から立ち直ったのか、口々に勇吾の名を呼んだり悲鳴を上げたりし始める。
真っ先に勇吾の名を呼んだのがとりわけ仲のいい友人である
(そのうち二人とは知らないうちに婚約して婚約破棄して断罪されたけど。ていうか未来では全員と敵対しそうなんだよな。マジかぁ。ていうか竜太、もしかして中学から俺のこと嫌ってた?)
激しい痛みにうずく内心とは関係なく、状況は推移する。
「オーッホッホッホッホッホ! 天職を授けられたばかりのひよこさんが必死にぴよぴよ鳴いても無駄ですわ~。もっとも、東の森を抜けてわたくしのお城に辿り着くだけの実力があるのなら、少しは遊んで差し上げてもよろしくてよ? 魔王様の手をわずらわせるまでもなく、この私が捻り潰して差し上げますわ~!」
丁寧に次の目的地と推奨される実力水準を提示したオリヴィアは怪鳥に何事かを指示し、破壊された壁の穴から飛び立とうとする。
そうして、いちど全ての状況がリセットされようとしたその時だ。
ひとりの男が、風よりも速く駆け抜けていく。
「おっさん?!」
誰かがとても失礼なあだ名でそのクラスメイトを呼んだ。
事情があって留年しており、あまりクラスに馴染めていない頃に自己紹介として『なんならおっさんって呼んでくれや』と口走ったために延々と『若い奴らについていけないおっさんのロール』を続けている人物だ。
さすがに『おっさんという呼び方はちょっとどうか』と思った勇吾は『やっさん』というあだ名を提案してみたのだが、浸透度合いはそこそこである。
「無駄ですわ」
「そいつはどうかな」
オリヴィアが手を一振りすると立っていられないほどの暴風が吹き荒れるが、おっさんこと柳野は手にしていた得物を一振りする。
刀だ。この異世界で目覚めた直後、偶然に発見したキャンプ地に放置されていた大量の槍や刀剣、弓矢といった武器の山。それらのおかげで勇吾たちは怪物の跋扈する異世界でかろうじて生き延びることができたのだが、柳野はずっと日本刀を使っていた。『柳野のおっさんは剣道部員だから』と自然に流していたが、今にして思えばその刀の扱い方は奇妙だった。
まるで、真剣の扱いに慣れているかのようだったのだ。
「ふっ」
短い呼気と共に刀が振り抜かれる。
信じられないことが起きた。
柳野の斬撃が、吹き荒れる風を両断したのだ。
(それだけじゃない。オリヴィアの言葉が正しければ、俺以外のみんなは変な帽子で洗脳されてるはず。その信頼の対象にはなぜかオリヴィアが含まれてたっていうのに、やっさんは明らかに敵意を向けることができてるみたいだ)
洗脳が効いていないわけではない。
信頼と敬意があっても刃を向けることができる人格であるというだけだ。
そのことを、勇吾は既に知っている。
刹那。
勇吾の首が、ごとりと落ちる。
鞘から刀が抜かれる瞬間を、最強だったはずの勇者はついに目で捉えることができなかった。風音すら遅れて聞こえるほどの剣速が理解を置き去りにし、何もわからぬままに傲慢な勇者の首は自らの足裏を床から眺め、
そこで、勇吾の意識は現実に立ち返る。
鮮烈な、あまりにも生々しすぎる斬撃のビジョン。
勇吾は己の最期を幻視していた。
(死?! 俺、いま、何を、殺される予感、なのか、あれが?)
呼吸が止まる。
首を押さえ、自分の頭部と胴体が繋がっていることを確かめる。
浅く短く息を吐き、吸う。
暴れ出しそうな心臓の鼓動が周囲にばれないかどうか不安になりながら、勇吾は必死に平静を装っていた。
先ほど見た未来よりも更に克明なリアルな死のイメージ。
(なんだ、これは)
勇吾は目を疑う。柳野九郎の背後、頭のすぐ後ろあたりに何かが見える。
それは幻影か、あるいは正気を失った勇吾の妄想だったのか。
あたかも何かの『タイトル』のように。
重厚な音と共に、存在感に満ちた文字列がお洒落なフォントで表示されていた。
『転生した無双の剣豪はクラス転移した異世界で全てを両断する』
意味はまったくわからない。ただ、不吉な予感だけを勇吾は感じ取っていた。
『主人公に倒されるかませ勇者としての本能』が、その文字列を背負った者が持つ運命に恐怖しているのだ。
柳野九郎は、オリヴィアを殺し得る。不吉な予感に駆られて警戒を呼び掛けようとするが既に遅い。壮絶な悪寒と破滅の気配が膨れ上がり、弾けた。
本気になった柳野の速度を、勇吾もオリヴィアも完全に見誤っていた。間合いを詰める瞬間も、刃を振るう予兆も、まったく見えなかった。
目で追えぬほどの神速。
硬質な音が響き、いつのまにか怪鳥の頭を駆けのぼった男が鋭利な刃をオリヴィアに突きつけていた。
(違う、振り抜くつもりだったんだ)
目で追えないほどの速度で振るわれた刀は、首を切り落とす寸前で停止していた。直前で『あるもの』に阻まれて停止していたのである。
「な」
さしもの柳野九郎も驚きに言葉を失っている。
くるくると巻かれていた豪奢な髪の毛。
『マジカルヘアアイロン』とやらで作り出した縦ロールが盾のかわりとなり、オリヴィアをぎりぎりで生かしていた。
九死に一生を得たオリヴィアはやや青ざめながらも咄嗟に手を振った。すると猛烈な風を受けて柳野が大きく吹き飛ばされる。暴風が直撃したにもかかわらず、見事に空中で反転して態勢を立て直しているから凄まじい。
(縦ロールがなかったら即死だった! 未来の記憶がごちゃごちゃし過ぎて混乱してたけど、だんだん思い出してきた。やっさんは天職とかスキルとか関係なく、この時点で出鱈目に強いんだ。そうだ、もう一人!)
怪鳥の背からクラスメイトたちを観察する。
勇吾はある要警戒人物を探していた。この時点で恐ろしい戦闘能力を持つ人物がもうひとりいるからだ。
(竜太たちが手前、藤田たちのサッカー部組が真ん中、委員長たち弓道部組が後ろの方。くそ、他の男子が散らばってて探しづらい。冬馬さんは吹奏楽部組と一緒か。女子はだいたい津田さんグループと立川さんグループを中心にまとまってるけど、あれ、アトリの奴どこだ? 旗野さんと渡辺さんもいない?)
ひとつの違和感に勇吾が気を取られた直後、たん、と小さな音が響いた。
振り返る。ゆっくりと、オリヴィアの身体が傾いでいく。
額に穴。即死だ。
勇吾の視線がふたたびクラスメイトたちの中を探る。
いた。神殿内部の端、並んだ柱に寄りかかるようにして腕組みしている男子生徒。
いつもは教室の隅、窓際の最後尾で机に突っ伏して寝ている無口な少年。
卓球部であるということ以外にはとりたてて特徴のない彼の名前は
「ふん、茶番だ」「興味ないな」「はずれスキルか。与えられただけの外付けの力に価値など感じられないが」「クエストか。世界を救いたいというのならお前たちは好きにしろ。俺は俺で勝手にやらせてもらおう」
そんな調子で常にクラスの中心から外れた位置で腕を組んでいる孤高の一匹狼といった感じの人物だった。勇吾はその組まれた腕の先端部分を注視する。
親指が伸びて、まっすぐにオリヴィアを向いていた。
まるで、何かを弾いて射出したかのように。
未来の知識で『そういうことができる』と知っていなければ、まず気付けない。
能見は親指で小石を弾いただけでオリヴィアを殺害してのけたのだ。
『最強暗殺者は爪を隠して生きていきたい~異世界転移したクラスメイトが弱すぎて守ってやらないと詰むんだが?!~』
腕を組んだまま「ふん」と呟いた能見鷹雄の頭上に、またあの文字列が浮かぶ。
(終わりだ)
全ての超常的な力を無にする、天職やらスキルやら不思議な力やらとは全く関係なく、ただ元から強いだけの二人。
彼らと敵対してしまった時点で、オリヴィアの死は回避不能だったのだ。
あるかどうかも不確かな希望が潰えた。絶望に染まりゆく勇吾の目の前で、オリヴィアの死体から生気が抜けていく。そのとき、少女の胸元でブローチが輝きを放った。閃光が収まるのと同時に状況が一変。オリヴィアの頭部の弾痕が消え失せ、胸元のブローチが砕けている。
死んでいたはずのオリヴィアは不可思議な力で蘇生していた。
困惑する生徒たちの中で、いち早く
(まずい。動け、何かしないと今度こそ終わる!)
一か八かだ。柳野がそうであるように、この世界で生き残るために男子生徒たちの大半は武器を手にしていた。勇吾も例外ではない。
腰の鞘からナイフを引き抜いて、自らの首筋に押し当てて叫ぶ。
「くそっ、手が勝手に! お前の仕業か!」
憎々しげにオリヴィアに向かって叫ぶ。自分は操られている、意に反して自分で自分を人質にとっているのだとアピールするように。
「みんな! 俺のことは気にしないでくれ! まずはみんなの安全を最優先にっ」
言い終わらぬうちに怪鳥が羽ばたく。
勇吾はなにもわかっていないふうを装って能見の射線上に立ちはだかっていた。今はクエスト序盤。まだ彼の恨みを買って殺される段階ではない。
柳野も同じように手を出しあぐねており、その場を逃れようとするオリヴィアと怪鳥を見送るしかできない。
「勇吾!」「天川ー!」「いやあああ!」「天川くーん!」
いずれ勇吾を殺すことになるクラスメイトたちが口々に彼の名を呼ぶ。
遠ざかっていく破滅の光景を見送りながら、飛翔する怪鳥の背で勇吾は隣のオリヴィアに声をかけた。
「助けてくれてありがとう」
「わたくしが言うべき台詞ですわね、それは」
顔面蒼白で首元を押さえていたオリヴィアは、恐る恐るといった手つきで額に触れた。どっと脂汗が滲み、美しい
浅い呼吸と震える指先。
破滅を肌で感じる瞬間の恐ろしさを、勇吾はよく理解できる。
「悪役を買って出てくれたことくらいは理解できる。それから、命をかけてくれたことも。だからありがとう。いい演技だったと思う」
しばらく複雑そうな表情で勇吾を見つめていたオリヴィアは黙りこくったまま呼吸を整えていたが、やや時間を置いてから小さく呟いた。
「それも、わたくしの台詞です。観客席と共演者が良く見えていましたわね。視野の広さは武器になり得る。あなたの役者としての今後に期待します」
(これ役者の話だったっけ。そうかな。そうかも。そうか?)
何もかもがわからないまま、ひとまず死は遠ざけられた。
二人にとって、これが最初の『破滅の回避』。
これから幾度となく演じられることになる、命がけの茶番劇。
その最初の幕が、ゆっくりと下りていく。
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