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 あれから三十分後、彩は車の運転席に座り、ハンドルを握っていた。後部座席には石塚扇太郎が、折り畳んだ車椅子と一緒に座っている。助手席には香美村孝幸が、腕組みをしてじっと目を閉じている。

 山道を指示された通りに走っていたが、後ろで適当なことを喋っては一人笑っている石塚に彩だけが相槌を打つという重苦しい空気が車内を満たしていた。


 どうやって話をつけたのかは分からない。孝幸が施設の事務長という人物と十分ほど部屋に籠もっていたと思ったら「大丈夫になったよ。三時間だけ貰えた。充分だ」そう言って珍しく孝幸は楽しげに口笛を吹いた。自信はないが、その音はドミソの和音になっていたように思う。


 外出許可を得たのはいいが、これから一体何が待っているのかについて彩は全く知らされていない。緊張はその所為とも言えたが、ともかく貰った手書きのメモとスマートフォンのマップを見合わせ、山を下ったところにある四階建ての住宅を目指している。

 だから普段なら決して点けないラジオを入れた。とても小さな音だったが、軽快なジャズが途切れるとDJがニュースを読み上げる。


「昨日行われました稀代の天才ピアニスト香美村孝幸の帰国公演は大成功に終わり……」

「天才ピアニストだってよ。おい、聞いたか? 天才様よぉ」


 何が気に障ったのか、石塚は何度も「天才様」と口に出す。けれど孝幸の方は目を閉じたまま、何も返さない。


「何だよ。寝ちまったのかよ。じゃあさ、そっちの姉ちゃん。こいつがどうやってその“天才様”になったか、知ってるか?」

「私はまだ付いて三年なので、雑誌なんかの記事でしか彼のことは知りません」

「それじゃあ教えてやろう。こいつに初めて会ったのはある児童養護施設だった。そこじゃあどのガキも死んだような目をしながらへらへらと笑みを作って挨拶をしてくる。けどその中で全く笑うことのないガキがいた。それがこいつだった」


 彩はこれまで孝幸の口から家族について聞いたことはない。そもそも彼が話さない話題は触れてはいけないものとして扱ってきた。それでなくとも孝幸は応答の取捨選択の偏りが激しく、かなり気まぐれだ。機嫌は常に浮遊する風船のように安定せず、一度機嫌を損ねてしまうと数日から長ければ一週間や十日は平気でほとんど会話をしないこともあるくらいだ。だから彩から何か話題を振ったりすることはほぼなかったし、彩自身、あまり家族とは縁深い方ではないこともあり、そもそもの話題の一つとして彼の家族について知ろうとは思わなかった。

 だから石塚の話で、どうやら施設出身の孤児らしいということが分かり、自分の中でパズルのピースが一つ嵌った感じがした。


「その当時俺は音楽で啓蒙活動をするって連中に世話になっていて、まあ仕方なく付き合いで色々な施設、それこそ病院や老人ホーム、保育園や小学校、それに児童養護施設みたいなところを沢山回った。でもそういう場所でちゃんと音楽を理解してる奴なんてほとんどいないし、こっちだってそこまで真剣で演奏しなくてもいいっていう思いでやってた。だがな、こいつは俺の仲間連中がリズムから外れたり、音程を外したりする度に、舌打ちをしやがった。演奏が終わってから問い詰めると『下手な演奏だったから』と言いやがったんだ」


 つまり出会った当初から音楽に関する何かしらの才能はあったらしい。それがどういう経緯で身についたものか、石塚も、また当時の孝幸自身もよく分からなかったと語った。


「ともかく、その頃俺は自分にいくら力があっても音楽の正規ルートから外れた身分で、もうどんなに頑張っても日の当たるステージには戻れないことが分かっていた。市民演奏会で楽しむなら構わないが、俺にとってそれは音楽じゃない。だから、これはチャンスだと思った。神様が音楽のために努力してきた俺に与えてくれたチャンスだと。すぐに手続きをしてこいつを引き取ったよ。別に愛情も何もない。子どもなんて嫌いな俺が、ただ何か持ってるっていう確信で、こいつを拾い上げてやったんだ」


 石塚の話にも孝幸は顔の表情筋が全く動かない。瞬きすらしない。ただじっと目を閉じている。話を聞いているかどうかは分からない。そもそも何を考えているのだろう。


「愛想もねえし、ほとんど自分から喋らない。けど、ピアノにだけは反応した。どの楽器でも良かったんだが、俺はずっとピアノをやっていたから家にはピアノ以外の楽器がなかった。やらせてみたら全然下手でな。耳だけはやたら良いみたいだったが、そんな奴らは山ほどいる。耳が良いのは才能じゃない。ただ偶然、耳が良い方に振り分けられただけだ。才能ってものについての考え方は色々あるだろうが、俺はこう思ってる。神から与えられたものとか、生まれ持ったものとか、そういうものじゃねえ。本物の才能ってのはな、原石のことだ。それは磨かれるのを待ってるんだよ。ちょっと光ってるだけじゃ、それがどれくらいのもんか分からねえだろ? だから才能っていうのはそれを磨く人間との出会いが必要不可欠なんだよ。つまり、こいつにとって俺は人生の必要不可欠だったって訳だ」


 それからは厳しいピアノ漬けの日々だったようだ。

 彩には才能が何なのか分からない。確かに香美村孝幸のピアノは天才のそれだろう。けれど彼が決して努力をしていない訳ではないし、生まれ持ったものだけでそれが成し得ているとも思わない。でもそういったもの、他人より光る何かしらというのは誰しもが持ち得るもので、それが大きく目立つことになった人間についてだけ“才能”という言葉はあるように思う。

 そういう意味では確かに香美村孝幸は才能の人だった。

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