7
月光の園を出てから一時間ほど山道を下ると、田畑の多い町並みの一画に明らかに長年放置されたと思われる外観のマンションが数棟建っていた。渡されたメモにはそのうちの一棟が記してあり、しかもそのマンションの駐車場には先客がいた。白いバンの前で電子タバコを吸っていたのは首にしたはずのブライアン山田だった。
「待ってましたヨ、タカユキさーん。ちゃんと言われた通り準備したんで、ワタシのクビは繋がりましたね?」
「ああ。もう帰っていい」
彩が降りるよりも早く車外に出ていた孝幸は、ブライアン山田の肩を軽く叩き、それから後部座席のドアを開けた。
「車椅子を準備してくれ、島崎君」
「は、はい」
慌てて降り、反対側のドアを開けて車椅子を取り出す。折り畳めるようになっているコンパクトな物とはいえ、女性の彩からすればそれなりに重量がある。見かねたのか、ブライアン山田がやってきて手伝ってくれると、彼はいつものようにニコニコとしながらこう言った。
「でも何故ですか? こんな廃墟にグランドピアノって。何かの撮影?」
「さあ。私は知らない」
どういうことだろう。
「とにかく業者を説得するの、大変だったんですカラ。ちゃんとクビ、撤回しといて下さいネ」
チャオ。という陽気な別れ言葉を残し、ブライアン山田はバンに乗って行ってしまう。
「では、行きましょうか、先生」
「何だ? うまい酒があるんだろうな?」
「ええ。特別なものがちゃんと準備してあります」
車椅子の背に回り、石塚が乗ったそれを、孝幸が押して歩き始める。彩はてっきり自分がその役回りだと思っていたので驚くと共に、何か言いようのない不気味な感覚が持ち上がった。
エンジンを切り、鍵を掛けたことを確認すると、彩もその二人の後に続いた。
マンションといっても一ヶ月ほどで建てられるような出来合いのパネルを張り合わせたような造りのそれだ。見上げると元は白かった壁には蔦が這い回り、酷く汚れていた。玄関は半分ドアが外れ、足元にはガラス片が散らばっているが、孝幸は気にせず入っていく。ここは彼が知っている場所なのだろうか。
一階はテナントスペースになっているようで、大きな空洞になり、窓ガラスは全て割れてしまっていた。その中央に一台の真っ黒なグランドピアノが鎮座している。
「へえ。懐かしいな。これがお前の準備したその“特別”ってやつか」
石塚は頷くような素振りでそう言うと、車椅子から立ち上がり、用意されたグランドピアノの前に歩いていった。足元には空き缶やビニール袋、何かの端切れや明らかにゴミとしか思えない物ばかり散らばっていたが、そんなもの目に入っていないようだ。抵抗なく踏み締めて歩き、近づくと、蓋を開けて鍵盤に触れた。音は調律済みのようだ。施設にあったオルガンとは違う。ドから順番に鍵盤を叩いていき、オクターブを終えると含み笑いを漏らしてから両手で思い切り鍵盤を叩きつけた。
「これだよ、これ!」
これまでで一番大きな声、それも生きている喜びに満ちた生命力のある張りのある声でそう言うと、石塚は椅子に勢い良く腰を下ろし、そのピアノを弾き始めた。力強い和音から高速の指使いでトリルを幾つも重ねる。フランツ・リストのピアノ曲に多い。リストの曲はピアニストではない彩でも難しいことは分かる。おそらくそのどれかだろう。施設ではしみったれた認知症の高齢者にしか見えなかった石塚は、その外見から想像できないほど繊細で情熱的な演奏を披露した。
「フランツ・リスト、スペイン狂詩曲作品二百五十四。スペインの舞曲から取り入れた独特のリズム、テンポ、それに右手のオクターブを超える十度の重音が弾くものを怯えさせる難曲の一つだ。リストは幾つも教えてやったが、こいつが一番苦労してたなあ。お前は他人の感情なんて理解できないからな。悲しみしか、理解できない。そういう才能だ」
孝幸はただ黙って、石塚の演奏とお喋りに付き合っている。彩からはそう見えた。
それからも何曲か石塚はピアノを弾いた。香美村孝幸のそれには遠く及ばないものの、流れるような指使いと時に激しく、時に繊細なそのタッチはどこか面影があった。
――彼が孝幸の師だ。
そう確信するのに充分な技術と演奏だったと言える。
一息ついた石塚は「酒が欲しいな」と漏らして彩を見たが、彼女は何も指示を受けていない。孝幸の方を見ると、彼も特に何か準備している様子がなく、それどころか車椅子を持ってピアノへと近づいていき、無言のまま席を変わるよう促した。
「な、何だよ。酒はどうしたんだ? 孝幸よ。俺の言うことを聞かないとお前は駄目になる。最低の、クソみたいな人生しか歩めなくなる。それでもいいのか?」
しかし彼は答えない。ただ黙って深呼吸をすると、いつものようにピアノにそっと指を置いた。旋律が、流れ出す。
その幾つかの音だけで車椅子に乗ろうとしていた石塚は孝幸を振り返った。それから、幽霊でも見たかのような表情で座ると、そのまま動かなくなってしまった。
シンプルな曲だ。明るく、テンポよく、飛び跳ねるような単純な旋律。今まで石塚が弾いていたような技工を求められる曲とは異なり、彩には練習の曲のように思えた。
「クレメンティの、ソナチネ……三十六の一」
掠れた声は石塚のものだった。
指の体操のような曲はどんどんテンポを速くする。それが洪水のような音の流れとなり、彩の目の前に不思議な光景が広がった。
ピアノの前にはまだ小学生くらいと思しき男の子が座らされ、曲を練習している。その傍らに立つのはまだ四十台くらいに見える石塚だ。右手には酒瓶が握られている。石塚は男の子がミスをする度にそれで背中や頬を叩く。何度も何度も叩く。ミスが重なれば倍叩く。言葉はほとんどない。ただ繰り返し同じ部分を練習させている。
男の子に、表情はなかった。
続いて彩もよく耳にするあの曲が流れてきた。エリーゼのために。
よく知っている、耳馴染みの良い、少し物悲しいメロディは、けれど不協和音を伴い、胸の下から突き上げる衝動を感じてしまう。
悲しみ。
辛さ。
苦しみに、悩み。
人生のあらゆる局面で目の前に訪れる負の感情が、次から次に湧き上がってくる。
それは彩だけではなく、石塚も同様なようで、声にこそならないものの「なんで」と唇が動き、目には涙を湛え始めていた。
次はベートーベンのピアノソナタ第十四番嬰ハ短調、通称「月光」だ。重苦しい旋律が胸を刺す。石塚は遂に堪えきれなくなり、嗚咽した。
「どうして俺は幸福の家庭に生まれなかった! 音楽の才能に恵まれなかった! 父親はヤクザに殺され、母は知らない男をいつも家に連れ込み、俺はずっと押入れで、擦り切れたテープレコーダーが奏でるクラシック音楽を聞いていた!」
それは、告白だった。石塚扇太郎という人間の後悔の人生の告白だった。
彼は確かに恵まれない境遇の下で生まれ、育った。酒と暴力の父、男に頼ることしかできない母、金はなく、たまに母を抱きに来る男がくれる菓子パンだけがご馳走だった。そんな暗い人生の中で、音楽だけが彼を支えてくれた。
隣に、子どもたちのための音楽教室をやっている音大卒のお姉さんがいた。彼女は石塚のことを気にかけて、色々と世話をしてくれらしい。そして、彼はいつしか、彼女を愛し、彼女のピアノを愛し、音楽を愛するようになった。
そのお姉さんは結婚し、遠くに行ってしまったが、ピアノを続けていればいつか会えるかも知れないと、バイトで必死に貯めた金で電子ピアノを買い、必死に練習をした。全て独学だ。学校に行く金なんてなかったし、そもそも学がない。運送業のバイトをしながら空いている時間を全てピアノに費やした。
やがて、転機が訪れる。
バンドに誘われたのだ。キーボードができる、というだけで、ほとんど会話もしたことのないような、自分の父ほどの年齢のおじさんたちとバンドを組んだ。そのバンドは奉仕活動を行うグループに入っていて、各地の施設を回り、ボランティアの演奏を披露していた。それでも石塚にとっては天国のような時間だったらしい。
そんな中で光を見つけた。それが孝幸だった。彼は孝幸を、自分の身代わりとして引取り、教育した。そう。彼にとってはあれは“教育”であり、自分の人生のやり直しだったのだ。
石塚扇太郎にとって、香美村孝幸は人生最後の賭けだった。孝幸の才能は疑いのないもので、成功の舞台にさえ立てれば後の人生は約束されているはずだった。
しかし、その成功のレールから彼だけが、石塚扇太郎だけが外れてしまったのだ。
「……いつも、俺だけが取り残される。俺は何も悪くない! 悪いのは世間の奴らだ! 俺の人生を台無しにした神様のクソ野郎だ!」
既に石塚の顔面は崩れ、涙で覆われていた。
それでも尚、ピアノは鳴り止まない。続いてはピアノソナタの第八番ハ短調「悲愴」だ。スローテンポの悲しみが、僅かな希望を伴って奏でられる。本来なら絶望だけで埋め尽くされていない旋律のはずだった。なのに、今、孝幸が披露しているそれは、どの音にも悲しみが溢れている。満ちている。
彩は泣くことをやめられなかった。
石塚の人生への同情ではない。
孝幸の人生への共感でもない。
ただただ生きることの儚さに、圧倒されたのだ。
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