第57話 ムチを振るうバズミット

 バズミットという男。奴隷たちから巻き上げた富が血肉になり肥えていたが、その肉体は奴隷たちの暴力を通さない鎧のようなもの。たぷたぷの肉付きは、まさに支配者の象徴だった。


「おはよう」

 そこに害虫が居たとしても何気ない朝は変わらない。いつものように踏み潰せばいいだけだと疑わない自信の表れ。それがバズミットからの挨拶だった。


 チャリオッツの上から、奴隷たちの返事を促している。


 奴隷を管理する男からの挨拶。ただの挨拶でさえ奴隷たちにとっては恐怖だっただろう。


 これに、

「おはようございます」と返せば、それは相変わらず私たちは貴方の奴隷ですと認めるようなものだ。そこから始まるのは、奴隷への虐待。報復と見せしめ。挨拶を認めたなら、その先も認めたようなもの。

 

 バズミットの挨拶を無視すれば、挨拶の出来ない人間こそが奴隷なのだと諭されることだろう。


 バズミットと交わす挨拶だけで、僕は卒倒しそうな感覚に襲われていた。

 僕は彼の前で、いまだに「勇者」だとは名乗れない。


 彼は仲良くしようとでも言うように微笑む。だけどそれは身分を確認するようなもので、僕にはただ吐き気がするだけだった。


 いや吐きそうになったのは事実だ。


「ラムセスに残っていた老人や病人をわざわざ連れてきたの?」

 それはミツハがバズミットに返した言葉だった。


 彼女は黒いコートから剣先を出して臨戦態勢。


「ああ、案内させていたんだ。彼らが是非案内したいというのでね。我々は友人ではないかね?」

 とバズミット。


「相変わらずクズ」


 とミツハが言うのは、バズミットの後方に問題がある。チャリオッツには鎖が繋がれていて、それが奴隷の首や足に繋がっている。これを引きずって来たのがバズミットだった。


 当然ながら、引きずられた人間の肉体は削げて肉片となって大地に散らばったことだろう。人間の形をしているのが不思議な状況だった。


「私は今気分がいい。奴隷ども、今ミツライムに戻ってくれば、貴様らの罪は百叩きで勘弁してやろうじゃないか」

 これはバリケードから出てこいというバズミットの警告。


「ここから先には行かせない」


 それだけだとミツハは言い放つ。


「奴隷が私に口答えする気か?」


「私たちはミツマの人間だ」


「奴隷であろうが」

 バズミットが凄みを利かせると、数十年奴隷だった誰がこれを否定できただろう。


 僕がどれだけ叫んでも、その事実は変わらないだろう。

 答えたのはナタだった。


「奴隷はもうやめたんだ。わかれよ」

 僕はこれを翻訳して繰り返す。ただその必要があったかどうかはわからない。


「お前らは?」

 そこでバズミットは改めて、僕たちに向き合っていた。「そういえば、ファラオをたぶらかした男がイザリースの使者を名乗る白い手の男だと聞いた。お前か?」と言うのが彼の認識。


「俺たちはファラオと取引しただけだ。約束をやぶったのはそっちだぞ」


「我々をだましたのだろう?」


「俺がイザリースの使者だというのは本当のことだ」


「だが、そこにミツハがいるじゃないか、奴隷の女だ」


「俺の友人だ」


「そいつはウバル将軍を殺した奴隷戦士。そいつとつるんでいるのが反逆者たる動かぬ証拠であろうが」

 バズミットは激昂。突如として顔色を変えていた。


「ウバルが子供を攫っていた」

 そんなふうにミツハが言えば、


「貴様らは将軍を侮辱するのか。長きに渡ってミツライムの繁栄を支えてきた栄光ある将軍の人柄を汚すことは、神への冒涜にも値する」

 ということだ。


「ウバルって奴が子供を攫わせていたのは、俺たちが確認した」

 ナタは言ったが、これもバズミットには届かない言葉だった。


 最初からバズミットは奴隷を殺すために言葉を吐いているだけで、僕たちの言葉なんて聞くつもりはなかっただろう。


「あいつらの口を塞げ」

 そうバズミットが命令すれば、もはや僕たちに反論はない。


 ミツライム兵士が襲いかかってくるだけだった。


 僕たちは二〇人ほどで、ミツライム軍を阻んでいた。言い換えれば、僕たちだけがミツライム軍の眼前に取り残された状態だ。こんな場所で僕が生き長らえたのはナタやミツハがいたからに他ならない。


「剣を取れ」

 ナタは僕にそう言った。


「うん」

 僕は答えたが、


「ついてこい、はぐれるなよ」

 そう言われると自信はなかった。


 だけど、はぐれた瞬間に敵陣に取り残されて未来はなくなるのだから、僕に選択肢はない。


 僕はナタの背中を追いかけた。


 ナタが切り伏せる敵のさらに下を潜って、迫り来るミツライム兵士の横を駆け抜けた。


 ナタは敵の剣や槍の切っ先目がけて走るのだから、僕にとっては鳥肌もの。いちいち足がすくんで、追いかけるのが遅れる。だからこそ、敵兵の身体にぶつかり、右に揺さぶられ、左に引っ張られながらも僕は走ることになった。


 吐き気がした。


 恐怖で喉が締め上げられる思いだ。

 気絶でもしたら、そこで死ぬ。それだけを思って、僕はナタを追いかけていた。


 ナタは僕と同じ状況で、涼しい顔をしていたと思う。敵の槍が掠めたと思ったが、ナタにはまだ余裕があるような表情で、驚くこともない。敵と間合いが離れれば、こちらの攻撃も当たらないのだから、当然と言えば当然だろうか。


 それが剣士の間合いだった。


 僕の感想は次の通りだ。


 二度とこんな場所には来たくない。


 これが勇者に必要な経験だと言うのなら、僕は決して勇者にはなれないだろうと思う。ナタのような身のこなしは天才だからこそできるもので、僕のような凡人には無理だからってこと。今にして、身にしみてわかった。


 そして、

 逃げる僕の背後には、奴隷を監視する目がある。まさに僕を奴隷だとしか見て居ないバズミットの目だ。それを僕はどうしても否定できなかった。


 バズミットはきっと僕を笑っている。

  

 一方でバズミットの表情は曇り始めていた。


「おい、てめえら何をやっている。ウバルをやった奴隷戦士と白い手の男を逃がすわけじゃないよなぁ?」

 それは味方への鼓舞というより脅迫だった。


 バズミットが率先して奴隷を追いかけていたのは、奴隷をいたぶるのが趣味というだけではない。ウバル将軍がいない今のミツライムにおいて功績をあげることは身分に直結する。ウバル将軍を殺した奴隷戦士と、ファラオを欺した白い手の男を始末すれば、バズミットが新しい将軍となる日も来るだろう。


 そんな皮算用があって、バズミットは興奮していた。


 だが、実際にはナタやミツハを止めることができない。彼らは適当に暴れて逃げてしまうだけ。


「チャリオッツで轢き殺せ」

 そう叫んでみたものの、バリケードを迂回すれば、


「止まれ」

 慌ててバズミットは踏みとどまった。


 バリケードの向こう側にあるのは落とし穴の痕跡。奴隷戦士たちでも穴くらいは掘るだろうし、彼らがチャリオッツに対抗する手段は限られている。それくらいは、すぐに予想できた。


「そんなものに引っかかるか」

 と思うが、そうしている間にナタやミツハはさらに奥へと走って行ってしまう。



 バズミットはいらいらしていた。


「落とし穴などと原始的な罠。奴隷どもの時間稼ぎだ。だが、チャリオッツを落とすための穴など、そうそう掘れるものではない。多少足を止めても、すぐに追いつける」


 奴隷を見つけた時には仕事が終わったと喜んだものだが、そんな自分を慰めるための言葉が必要だった。部下に対しても、自分と同じようにはやる気持ちがあっただろうが、これをなだめなければならない。


 バズミットは奴隷を管理してきた身分だった。とくに犯罪者ともなれば、いろんな浅知恵を使ってくるものだ。犯罪者でなくとも逃げる奴隷は、姑息な知恵を使って逃げようとするもの。


 故に、バズミットは相手の観察を得意とする。


 職業柄、バズミットは罠の中身にも興味があった。穴の深さや、その底に用意されたであろう殺人器具、これを知れば、おのずと敵の次の行動も予想できる。


「奴隷どもを追いかける前にその落とし穴を塞ぐ草木を退けておけ。ベヒモス様がここを通られる時にわかるようにな」

 と指示をして待つ事数分。


 またしてもバズミットのいらいらは募る。


「落とし穴など見当たりません」

 それが部下からの報告だった。


「見ればわかる。草や木の枝でカモフラージュしているだけだ」


「そうとわかれば、チャリオッツで追いかけましょう」


「いや、落とし穴には違いない。あいつらの逃げっぷり、あれはまさに落とし穴を回避し、我らを誘いこむような動きだった」


「しかし、見ての通りで——」


「小賢しい。敵は巧妙に落とし穴を隠している。ひとつがフェイクだとして、もうひとつもフェイクとは限らない。落とし穴と見せかけたところで、本物の落とし穴に誘い込む罠よ。本物は数カ所くらいか。我々はその全てが落とし穴であることを警戒して動く必要がある。奴隷のくせに、めんどくさいことをしやがる……」


 バズミットはそれを思って憤慨した。



 同時にバズミットがここで違和感を覚えたのは偶然ではなかった。


「追いついたと思ったら、また逃げやがる。奴隷どもめ」


 それを思ったところで、バズミットは首を傾げた。


 常に奴隷を追いかけ、ウサギを狩るように罠をしかけてはめていたのがバズミットだ。その時の楽しさがここにはない。

 からかうように奴隷が周囲を走っているのが気になった。


「奴隷?」


 奴隷と長年遊んできた男からしてみれば、奴隷の表情を見れば奴隷の考えていることなどわかりそうなもの。


「これが奴隷か? あんな顔の奴隷なんて居たか」


 そんな思いがバズミットの脳裏をよぎっていた。白い意匠の剣士と、エージェントであるミツハが立ちはだかったとしても、その背後にいるのは奴隷でなければならない。なのに、どうにもそこに奴隷の顔があるようには見えなかった。


 奴隷の服を着ているのに、まるで戦士。


 ここに、

「バズミット様。前方に、前方に巨大なバリケードです」

 そんな報告があれば無性に腹が立った。


「おかしいだろ」

 バズミットは、報告してくる兵士の頭を殴った。「奴隷ごときに、何を慌てている。お前は奴隷に出し抜かれるバカか。一度でも出し抜かれてみろ。奴隷になめられるような奴は俺が殺す。自分で対処しろ。その程度のことで俺を頼って来るな」それがこれまでの日常だったはずだが、そうなっていないことが不愉快だった。


 奴隷を支配する者が、奴隷との知恵比べで負けることは許されない。


 そんなバズミットだからこそ、奴隷を長年観察しいたぶってきた男だからこそ、わかることがあった。

 つまり、相手が奴隷であるなら、表情に載る皺ひとつで相手の考えていることがわかる。これがバズミットの特技とでも言うべき能力。


 わかるからこそ、彼は僕たちの目的に気付いたのだろう。


「あいつら……」


 バズミットは、笑い顔を隠せなかった。僕には見えない場所で、確かに彼は笑っただろう。見る者全てに恐怖という感情を思い出させるような歪な笑い顔で彼は笑う——。

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