第58話 荒野を行く
バズミットの脅威。それが奴隷とされた人間たちが長きに渡って歩んだ歴史も同じだと思う。
僕は振り返って、何度目かのバリケードが壊されるのを見た。
汗ばんだ額には前髪が張りついて、風ももう感じなかった。披露は限界に近くて、僕は脱力するように歩く。
「逃げるだけなのに、こんなにきついの?」
それを思ったところで、僕に耳を傾ける人はいない。
「捕まったら殺される。考えても仕方ないだろ」
ナタは当たり前のことを言う。
「それは嫌だけど、相手はチャリオッツに乗ってるし、大勢いるし。どんどん追い詰められていると思う。さっきも一緒に戦っていたミツマの人が一人引きずられて行ったのが見えたよ。どうしようもなかったけど」
次は僕がそうなるかもしれない。
「ヘルメス、お前にはある程度、剣の技を教えただろ」
「うん」
僕は呟くように返事した。「戦えたら、戦うよ」とは言ったものの、相手も戦士たちだ。素人が少し剣を教わったくらいで勝てる相手だろうか。
「敵が来るぞ。他の連中が先に行くまで、少し時間を稼ぎたい」
「うん、あれ? それって僕にも戦えってこと?」
「その辺の連中より、ヘルメスのほうが武器を持って戦ってきた経験が長い。頼れるのはお前だけだし」
「そ、そう? なんか僕のほうは、まねっこみたいな感じって言うか、本番で手が動くかどうかわからないけど」
「この先は海だ。そこまで行けばあとは逃げるだけ——」
ナタは僕たちが向かう先を見た。
小さな山を越えれば、きっと海だ。
「ミツライム軍をそこまで誘導すれば、その間にモーセさんたちが逃げてくれるんだよね? 僕たちも海に飛び込んで逃げれば、あとは誰もここには居ない」
「そのはずだ」
「僕が、あともうちょっと頑張れば——」
僕たちの苦労も報われるだろう。そして最後の力を振り絞って、僕はまた歩き出す。
だけど、それをバズミットたちが見逃してくれるわけもなかった。だからこそ、この時代まで奴隷は奴隷であり続けている。
「すまない、死んでくれ」
この時、僕達を追いかけてきたのは、槍を持った兵士たちだ。裸同然の歩兵の中には、奴隷と同じ顔もある。彼らの背後で、「あいつらを引っ捕らえろ」と命令する声があがれば、従うだけの存在があった。
殺人者の彼らが僕たちの前でおじぎするのは、ミツライムの戦士とどこか違っている。
「あなたたちも奴隷の人じゃない?」
僕にはそう思えた。仲間とわかっていながら、その仲間を殺害しようとする顔が彼らにはある。この場合の仲間とは奴隷のことだ。
彼らは余計なことは言わないようにするが、
問いかければ、彼らも胸の内を吐露したいだろう。
「どうしてミツライムの人の言うことを聞いてるんです? あなたたちも酷い目にあってきたんじゃないんですか」
僕には彼らもまた苦しんでいるうように見えた。ミツマの民の苦しみが理解できる人とは、同じように苦しんでいる人のことだ。
だったら彼らを新しい仲間にする方法があるかもしれない。
「僕たちと一緒に戦いませんか? 一緒に奴隷から解放されるんです」
僕は手を差し伸べた。
だけど、彼らを縛っているのは数千年のミツライムの歴史なのかもしれない。
返答はあった。
「俺たちはいいんだ」と。
「酷いことされたんじゃないんですか? 逆らえないから、槍なんて持って出てきたんですよね?」
「これは俺たちの仕事だ。バズミットさんにやられることはあるが、それは俺たちが頭が悪いからだ。バズミットさんはこんな俺たちを気に掛けてくれている。あんたたちにはわからないだろうが、俺とバズミットさんには深い絆があるんだ」
「でも」
僕には意味がわからなかった。
ミツハに言わせれば、
「こいつらは殴られながら笑う」
そういうものらしい。
そしてそれが僕が彼らと会話した最後だった。
「ミツハちゃん?」
僕が手を伸ばした時には、敵として僕たちの前に立った奴隷戦士たちは首を切られて藻掻いていた。むごたらしい死だ。やったのはミツハ。
彼女の剣が血に濡れていた。
「躊躇しては駄目。これがバズミットのやり方だから」
「でも、その人たちも奴隷じゃないの?」
「奴隷の中にも喜ぶ奴らがいるわ。それが愛の表現だとか言って、本気で信じている。そうなると、そいつらはバズミットのためだとか国のためだと言って、非道なことをなんでもする」
「だけど」
「洗脳した奴隷をけしかけるのがバズミットのやり方。やられるほうは手も足も出せないし。わたしはそういうの何度も見てきたから、もう躊躇はしない」
それを言われると、
僕は何も言い返せなかった。
敵と戦ったはずなのに、後味の悪い感触と、喪失感があるだけで、僕たちはどんどん壊れていきそうになる。
バズミットはどこかで笑いながら、僕たちを見て居るだろう。そう思うとまた吐き気がしてきた。
そのバズミットのことだが、
僕たちはこの時になって、してやられたことに気がついた。
「こんなのがいつまで続くんだろ。次もまたこういう敵が来るってことだよね。なんか嫌だ。こんなことなら、直接バズミットと対決したほうがいいよ」
僕がそう呟いた時、
「そう言えば、さっきまではバズミットが手柄を立てるって言って、躍起になって追いかけて来たのに、来なくなってない?」
ミツハがそれに気がついた。
「敵の雰囲気が変わった気がする。チャリオッツに乗った兵士が前に出てこなくなった」
と、ナタも言う。
「バズミットがいない気がする? ナタ、あいつがいない」
バズミットがいない。その事実をミツハが指摘した。
「バズミットがいないの? いつから?」
と僕は考えた。「僕たちのほうに来てないってことは、じゃあ、モーセさんたちのほうには行ってないよね?」それが一番心配することだ。
「あいつらが向こうに行く気配があったらわかるだろ」
ナタは完全に足を止めていた。これまでの足取りを確かめて、バズミットの行動を思い返せば、彼がどこにいるかもわかりそうなもの。
「じゃあどこに行ったんだろ?」
僕は不安だった。
不安なのは、バズミットの顔を思い出せば尚更だ。あの顔は奴隷をあざ笑って、僕たちを見下すものでしかない。長年そうしてきた男だ。
長年バズミットを見てきたミツハなら次のように言うだろう。
「こっちの誘導に気付かれた? あいつはわたしたちを欺いて、痕跡を見せずにモーセたちを追いかけている。そういう奴」
だということだ。
「どうして気付かれた?」
ナタは周囲の状況を確認する。これから僕たちがどう動くかはナタの采配次第。
「地形? この先が海だということはあいつもわかっているはず。だから、わたしたちが誘導する先がおかしいって気がついた?」
とミツハが言えば、
「モーセが行った先も海だぞ」
ナタは答える。
「海を渡る手段は船だった? だとしたら……」
「海を見れば船が見えたってことか?」
ナタはそう言うと、完全に体勢を変えていた。
「どうするの?」
今からモーセたちを追いかけて、間に合うのか。僕にはわからない。
「俺たちも行く」
とナタは言うが、
「船なんて見える?」
僕は当たり前のことを指摘した。
見渡せばシナイ山までは海。その海には人を乗せるような船がない。ギリシャがあってミツライムと交易をしている海には、巨大な船が行き交うが、ワニの海はその海とは繋がっていなかった。ワニの海をどこまで行っても、その向こうには小さな集落しかない。少しばかりの漁をするのに適したワニ船はあるが、これは浮かべた丸太にしがみつくのも同じようなものだった。
リッリは船を回すと行ったが、
「ワニの海に船なんてあった?」
その事実に僕は今さらながらに気がついた。
「アマゾンの海やギリシャの海なら、大型の船だってある。あれを、持って来られるとしたら?」
ナタが問えば、ミツハは絶句する。
「大きな船を持ち上げて大陸を越えて違う海へ浮かべるってこと? どれだけの人数が必要? 荒野の先にあるこの海にそんなことできるんだったら、武器を持ってミツライム軍を押しとどめたほうが現実的じゃない。そういえば、先に行ったモーセたち、とっくに船で移動していてもおかしくないのに、船が見えないなら移動もしていないってことじゃない?」
「船が用意できなかったら、どうなる?」
「荒野はここで行き止まり。この海を子供たちが泳いで渡るのは無理だわ」
答えは決まっていた。
ナタやミツハが海に飛び込んだところで、残ったミツライム兵士はモーセの居る場所へ向かうことになるだけだ。そうなったら、誰がミツライム兵士と戦うのか。
作戦は失敗?
「急げ」
ナタとミツハは僕を置いていくようにして走り出していた。
「陽動なんてしている場合じゃなくなった?」
「バズミットに先に行かれたらまずい」
「うん」
僕たちはここで、逆にバズミットを追いかける立場になった。僕たちの計画には無理があって、追いかけてくるミツライム軍に対して僕たちは少数だった。僕たちの計画なんてすぐにでも水の泡となって消えるような儚い願望だったのかもしれない。
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