第56話 追撃
ミツライムという国が僕たちの知らないところで戦場になったとしても、
僕たちにとっての脅威は以前変わっていなかった。
僕たちはカナンに行く。
そして、
その僕たちには追っ手が迫っていた。
ミツライム軍の別働隊だ。
日が昇る前の街道沿いには、うっすらと霧がかかっていた。ミツライムからカナンへと続く道の途上。ミツライム軍の兵士たちは、宿場街を占拠する形でベヒモスの命令を待っていた。
かき集められた戦車は二〇〇両ほど。戦士たちは八〇〇〇人という規模だ。
「朝まで待って、これだけか?」
ベヒモスは鼻息を荒げた。
それは鉄の鎧の内側から湯気となって、獣の牙となった兜の隙間からあふれ出る。周囲からは鉄の肉体を流れるのは血ではなく蒸気なのだと思わせたことだろう。
ベヒモスの隣の戦車に乗り込むのは、バズミットという戦士だ。もともと処刑台に立って奴隷たちの首を斬っていた士官は、切れ長の目でミツライムの軍勢を見ていた。彼は奴隷を狩るのに人数は必要ないと話す。
「動けるチャリオッツの数は少ないですが、奴隷を狩るのには十分です。奴隷どもはミツライムを出るために徒歩で移動しています。ベヒモス様、一刻も早く追撃の許可を」
「追撃か、しかし」
ここでベヒモスはさらに白煙を吐いた。
まだ問題がある。
「やつら、一体どこに行きやがった?」
最大の問題はこれだった。追いかける奴隷の民はどこにいるのか。
「カナンに向かったことは間違いないかと」
バズミットは自慢のムチのしなりを確かめながら歯を剥き出しにする。「歩けずに町医者の世話になろうとしていた病人どもを捕まえて拷問にかけましたところ、かなりの人数がカナンへ行ったと白状しました」これは男が奴隷の口を無理矢理開かせて聞いた話だ。
「カナンへの街道には昨夜から兵士を走らせている。なのに誰も奴隷どもを見ないのはなぜだ。どこの詰め所にも奴隷どもは来ていないと言う」
「奴隷が数千人連なって首都ラムセスから出たのは事実」
「ではどこだ?」
ベヒモスは荒れてた。
これに拍車をかけたのは、首都ラムセスからの救援要請だ。
「ベヒモス様。アヌビス様から首都ラムセスへ兵を戻すように依頼がございます」
これを聞いたベヒモスは、まさに足を引っ張られるような気分だった。
「アヌビスは海賊相手に何をやっているか。首都防衛に必要なだけの兵士は残しているはずだぞ」
「それが海賊どもはどんどん増えております。アヌビス様によればおそらく周囲の盗賊や海賊がこの機に乗じて調子にのっているものと。さらには噂ではございますが、明日にももう一〇〇隻の敵船がやってくるという話も」
「このミツライム相手に、雑魚どもが仲良く手をつないでいると言うのか」
ベヒモスは首を捻った。
ガキン
ガキン
と音がすれば、怪物の身体が捻れていく。これは鎖に繋がれていた猛獣がその鎖を引きちぎる音にも似ていた。
そこへもうひと言だ。
「アヌビス様によれば、奴隷たちのほうは首都ラムセスからミツライム軍を移動させるための陽動ではないかと話されております」
「これが陽動だと?」
考えれば、完全にベヒモスの動きは止まっていた。
海賊と奴隷が連携しているとは考えたくもないが、そう考えると辻褄があうのも事実。
「敵は海の民を名乗っており、どこの民族ともわからない連中です。このようなことは今まで一度もありませんでした」
そこに出てくる奇妙な言葉。
「海の民?」
ベヒモスには嫌な予感があった。「どこの民族でもないとは、奴隷どもの言いそうな言葉だ」ならば奴隷たちとの繋がりはあると考えたい。
カナンへの街道沿いに奴隷の姿が見えないのならば、
「奴隷どもの行き先はカナンではない」
ベヒモスは街の外に広がる荒野へと目を向けた。「カナンと見せかけて、まだその辺りに潜んでいる可能性もあるということか。海賊と呼吸を合わせて背後からミツライムを襲うつもりか、こしゃくな」この思考に至ると、次の指示は素早い。
と、同時にベヒモスは動けなくなっていた。
「兵士に荒野を散策させろ。奴隷どもがどこに潜んでいても必ず見つけ出せ」
これらの報告を聞くまでに数日はかかるだろう。
ただ一日もすればまた状況も変わっていた。
再びベヒモスが動き出したのは、一日経った昼間のことだった。
ベヒモスが木陰で仮眠をとっていた時分。鉄の鎧を着たままにするのは、いつ奴隷たちが襲ってくるかわからないからだった。陽射しは木陰の隙間から差し込むが、ベヒモスの鉄の身体を突き抜けることはない。何が起きようともベヒモスは悠然と海に浮かぶ島のようにそこにいただろう。
そうしてうとうとしているところに、三つの報告があった。
ひとつは、「アヌビス将軍により、ラムセスで抵抗していた奴隷どもの反乱が完全に鎮圧されました。我々の勝利です」というものだ。
寝起きにこれを聞かされて、ベヒモスは憤慨した。
兵士は驚いただろうが、
「奴隷どもの反乱などそもそもなかったことだ。何を喜ぶことがある」
これは大地の怒りのようなもの。
これに関連して、
「海賊どもの船」に関しても進展がある。寄り集まってきた犯罪者たちは二日も戦えば、財宝が手に入るかどうか実感として理解できるところがあるだろう。多くが落胆してミツライム軍から逃げていく有様だ。加えて、当初から海を囲んでいた海賊船も少なくなっていた。集まっていたのは実質異国の傭兵たちであって、殺し合いなどしたこともない人間たち。しかも戦闘の継続に必要な備蓄もないのであれば、どこかで逃げ出すのも必然だ。
これをミツライムの兵士たちは、
「海賊どもを蹴散らして、ミツライム軍の歴史的大勝利です」と報告した。
後方の憂いなし。
ベヒモスが思ったところに、三つ目の報告がある。
奴隷どもが歩いてミツライム兵士の目を眩ますのは所詮無理な話で、見つかるのは時間の問題だった。
つまり、ベヒモスが知りたかった情報があった。
「奴隷どもを見つけました。奴隷どもはワニの海に向かってまっすぐに荒野を進んでいる様子です。ミツライムから離れつつあります」
これの意味するところを、ベヒモスは考える必要がなかった。
兵士たちは口々に噂しただろう。
「所詮は奴隷、どこかで海賊の噂を聞いて、この時とばかりに逃げ出したのだ。卑怯な奴らだ。我々が海賊が戦っている間に我々の背後から堂々と去って行きやがった」と。
ベヒモスの答えはひとつ。
「海賊団が敗退したのであれば、標的はひとつ。もう追いかけて殺すのみ」
地響きがあった。
思わず兵士たちが立ち上がれないくらいの揺れは何を意味するものか。
「全軍突撃する。奴隷がミツライムを去ることなど許されぬ」
ベヒモスの角が揺れ動く木をなぎ倒して起き上がった。あらゆる動物が一瞬で同じ場所で起き上がり大地を蹴るなら、その振動はミツライム全土をも揺らしただろう。
遙か先——。
僕はミツライム軍の遙か先で、その揺れを感じて振り返っていた。
次の日には、
荒野のただ中でミツライム軍の戦車部隊が砂塵をあげるのが見えた。
もともと戦車が通るような道ではない。ミツライムの首都から離れてどこの村に続くでもない荒野。ここをミツライムの戦士たちが行進する様は異様だった。
軍の狙いは誰の目にも明らかだ。
僕達。
「あいつら本当に来たぞ」
ナタは鉄の剣を片手に、バリケードの前に立つ。
このバリケードは、粗末なものだったが、僕たちにとっては追ってくるミツライム軍を迎え打つための最後の砦のようなものだ。
僕の隣に立つのは黒いコートの少女。
「昨日の朝、ミツライムの斥候を始末したけど、やっぱり他にも居たみたい。わたし達を追って来ている」
ミツハも剣を出していた。彼女が持つのは小ぶりの剣。刀身こそ短いが殺傷能力は高い。斥候をやったように敵の急所を狙うような戦い方には向いている。
他にはバリケードを囲むようにミツマの戦士たちが二〇人ばかり。もともと奴隷であったために、まともな武器を持たない状態だった。これで数千人の老若男女を守ろうというのは苦しい。
「やっぱり、ファラオは心変わりしたってこと?」
僕はその事実を確かめたかった。
バリケードを構築するだけの時間はあったし、ある程度の覚悟はできていたけれど、実際にミツライム軍を前にすると怖い。
「誰が心変わりしても同じことだ。どっちみち、ヒルデダイトが後ろについている」
と、ナタは言う。
「もう一度僕が話して、僕たちを追うのをやめるように説得することってできないかな?」
「それを話す相手がどこにいる?」
「どこって――」
僕は遠いラムセスの都を思う。そこになら、ファラオも将軍たちもいるだろう。
「ここに来ているのは、俺たちを殺そうとしている戦士たちだけだ」
このナタの言葉を裏付けるように、
ミツハは次のことを教えてくれる。
「あれはバズミットだ」と。
「バズミット?」
「奴隷を拷問したり処刑していた男。もう何千人となく人間を殺している。あいつは奴隷が相手なら、子供でも笑いながら殺すのよ」
「そんな人が僕たちを追いかけてきてるってこと?」
僕はこの時になって初めてチャリオッツに乗る敵をみた。
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