第54話 ベヒモス

 僕たちがミツライムを出た、同じ日の朝。



 いまだにミツライムの首都では奴隷たちの襲撃が続いていた。モーセが民を連れていったことは知れ渡っていたが、だからと言ってモーセと違う選択をした奴隷たちが武器を捨てるかと言えば、それは違う。


「食物庫、川向かいの武器庫を焼き払ってきた。ミツライム軍のチャリオッツのほとんどを川に沈めたと報告がある。俺たちは勝てるぞ」


 次々にあがる報告に奴隷たちの戦意は勢いを増していた。


 ヒルデダイトが武器を供給している今、

 戦うことを選んだ奴隷たちは意気揚々。


 たとえ、

「あっちの連中がミツライムから逃げたって言う話じゃないか、僕たちはどうするんだ? 全員で戦えば勝てるって話じゃなかったのか?」


 この問題を誰かが提起したところで、


「逃げた奴らのことなんか知るか、もうやるしかない」

 逆においつめられたと奴隷たちは槍を手にする。


「目の前のミツライム軍の関所を落とす。ここを拠点にすれば、俺たちだけでも戦える」

 残された奴隷たちは全員一丸となって戦うだろう。




 ミツライムの王であるファラオはその日も外へは出られなかった。厳重な警護の中、夕刻を待っていた。

「どうだ。暴動はそろそろ収まったのではないか?」


 様々な噂が飛び交っているのをファラオは知っていた。だがどれもこれもファラオの目で確かめたわけではない。どれだけ悩んでも玉座に座っているだけでは答えは得られない。


 そこでファラオはついに立ち上がった。


「なぜミツライムの戦士たちが苦戦しているのか?」

 さすがにファラオも首を傾げた。この原因を知りたいところだ。


 大臣たちが説明をしてくれるが、それもどこまで信じていいのか。

「奴隷たちは武器を奪い自分のものとしているのです。こともあろうか、ミツライム人民の子供を人質に取り、立て籠もるなどしています。我が兵士たちはこれに苦慮しております」


「まともな戦闘ではないと言うことか。しかし、奴隷どもが子供たちを人質に?」


 ファラオは嘆いた。


「奴隷どもは狡猾です。子供を盾にするだけでなく、我が軍のチャリオッツも破壊しているようです。卑劣な奴らです」

 苛立ちを隠せない部下は、奴隷をののしる。彼らはあることないことを口にするだろう。

 

「子供と言えば、奴隷たちの子供が攫われていた事件があったな」


「奴らはファラオが子供たちを守っていたことも恩も忘れて、犯人が我々だとほざいております。許せることではありません」


「子供は結局のところ、見つかったのか? 攫われたままか。それが暴動の引き金になっているのかもしれない。子供たちさえ見つかれば誤解も解けるだろう。この件、ヒルデダイトのアザゼルが子供を見つけると豪語していたが、あれはどうなったのか」


「攫われた子供が今さら出てくるとは思えません。今日までエージェントたちを動員してあれだけ探したのです。生きて居るなら、すでに我々が見つけているはず。これは策謀だと推測します。最初からファラオを犯人にすべく誰かが子供をさらっていたのです」


 白熱する議論があった。

「奴隷どもに指示を出している者は誰なのか?」

「子供が攫われている時期に、怪しい動きをしていた者がミツライムに居たか?」

 そんなことが次々と議題になる。


 そんな中、

「噂を流したのは、モーセという者ではございませぬか」

 誰が言ったか、モーセの名前があがっていた。


 モーセが怪しいとなれば、否定するものはもはやミツライムにはいない。なぜならモーセと彼を知る者は朝早く首都ラムセスを出たからだ。


「あの男が?」

 これが大いにファラオを悩ませることになった。

 

 ただ悩むのはファラオばかりではない。


 神々も同様にミツライムを憂うだろう。


 この時、神殿が揺れた。それは神の到来を意味する響きになった。


 果物や料理で満たされていたファラオの神殿に集まっていた小鳥や小動物が一斉に逃げ出した。

 護衛の兵士たちもよろめくほどで、これがしばらく続けば何が起きたのかとファラオも顔をあげることになる。


「神が荒ぶっている。何かが近づいている」

 それが何かと問えば、


「ベヒモス様です」


 それを囁く部下たちは武器を持った奴隷よりもその怪物に対して怯えた表情をしていた。


「ベヒモスだと? あの怪物をこの首都に呼び込んだのか? あれは大神殿を守っていたはずだ。大神殿を放置してここに来たというのか」


 ファラオは一瞬自分を見失って唖然とした。怪物が命令を無視して動いたというのなら、それはすでに大惨事だ。何が起きるのか、ファラオにもわからない。


「このような状況です。神がファラオのためにベヒモスを呼んだのです」


「やつが私のために動くのか? ベヒモスにはアメン大神殿の警護を任せていたはずだ。だいたい昨日今日で駆けつけることなどできるわけがない。ベヒモスが何をしに来た?」


「ヒルデダイトのセアルという者。彼の戦士の演舞に不満を持つ者たちが密かにベヒモス様を呼び戻していたのです。加えて、先日の蛇の件。もはやベヒモス様でなければファラオをお守りすることはできないかと——」


「いや、あの男は神をを殴るような怪物だぞ」


「ですが――」


 そこで言葉は終わる。

 大地が揺れ、果てにある海と大地の境目が崩れ落ちるような感覚があった。誰もが息を呑むのは、そこにベヒモスという怪物がいるからだ。


 その咆哮は確かに、ファラオの耳にも届いた。


「これがミツライムだと言うのか」


 英雄ベヒモスは昼下がりの穀物庫を前にして憤慨した。ここでも奴隷たちが占拠した倉庫を砦にしてミツライムの兵士と戦っている。ミツライム軍は貯蔵された穀物を取り返そうと必死だが、相手は奴隷のくせに武器を持っている。戦局は膠着状態だった。


「なぜミツライムの戦士が奴隷相手にてこずるのか」


 ベヒモスのため息は深い。「心配してアメン大神殿から戻ってみれば、この惨状。ミツライムの神々は俺にミツライムを救えと血の涙を流したということか」


 それが川が赤い理由だったか。


 ミツライム兵士はベヒモスに頭を垂れるが、戦士の誇りまで失ったわけではない。彼らが名誉のために説明するならば、これは次のような状況だった。


「奴隷どもは、異国の戦士より厄介です。我が国、我が都市の急所を知りつくしています。我々が気付いた時には武器庫が焼かれ、弓矢を持ち出すことができませんでした。事前に盗み出していたのか、奴隷たちが弓矢で武装しています。盾を集めようとしましたが、そちらにも放火されており。この状況下では……」


「それでも世界に覇をなした国の戦士か」


 怪物の声はミツライム兵士を脊髄から震え上がらせる響きになった。


 ベヒモスが腕で大地を叩けば、大地の縁が揺れて地響きが起きる。

 この揺れ。ミツライム全土の民は、ベヒモスがアメン大神殿から駆けつけてきたことを知るだろう。


 ベヒモスが穀物庫を前にして巨体を動かせば、また大地が揺れた。

 普通ならば地震だと騒ぐところも、そこにベヒモスがいるのでは意味は異なる。彼が地面を怒りでねじ伏せるから、大地が揺れている。


 ベヒモスは鉄の鎧で武装していた。その腕はゾウのように太く、胴は人を呑み込むカバのようで、頭はサイを思わせた。槍で目を突かれても角度があれば顔には届かない構造になった兜だ。これはどう猛な怪物を思わせる形になる。突き上げる角を見れば、どんな動物もこれにはかなわない。


 怪物の影は太陽を背にして大地に潜むが、これがキリンなのか、シマウマなのかがわからない。むしろすべての動物が集まった姿がベヒモスというものだ。


 動物の集団。

 ベヒモスを形容する言葉があるとすればそれだった。


 ベヒモスが立ち上がれば、民家が倒壊し、穀物庫のいくつかが大きく潰れた。彼の足音ひとつがすべての動物の足音と同じ。

 巨大な鉄の怪物が民家の屋根をなぎ倒して前進すれば、木は揺れ、小鳥は逃げ出してしまう。


 そんなものが近づいているのだから、穀物庫に立て籠もった奴隷たちも顔が真っ青だ。


 ゴォォォォ。


 空と地平の狭間でベヒモスの吐息が反復している。


 地鳴りが響くと、ベヒモスの周囲から鳥や人間、獣の全てが逃げ出していく。


 ベヒモスは怒っていた。


「首都ラムセスを護るジャッカルはどうした? アヌビスは何をしている。ヴァステトはまだ寝ているのか。なぜ奴隷どもを好き勝手にさせている。ミツライムは今日まで世界最強の大国だった。それがこれほどなめられては、体裁も威厳も保てないではないか。王者は常に王者でなければ意味がない」


 ベヒモスは穀物庫に手を伸ばした。

 そこにあるのは、まるで砂浜の城だ。


 ゾウの指先に触れれば、建物は吹き飛ぶようにバラバラになった。


 奴隷の戦士たちは槍を何重にも並べてこの怪物に突き入れていくが、鉄の皮膚の前にすべてが折れていくだけ。


 ベヒモスの首が穀物庫に突っ込んで、角でドアをこじ開ける。あとは、ベヒモスの手が奴隷をひとりひとり掴んでいく。


 掴んだ時には、奴隷は骨を砕かれて死んでいる。


 動物の集団が、蟻の世界を真上から見て破壊するのに似ていた。


 殺されていく奴隷たちは、殺されていくことにさえ気付いていない。そんな圧倒的で一方的な虐殺になった。


「奴隷どもはこれだけか?」

 逆らったことを後悔させるのだとベヒモスは言った。


「川向こうの詰め所が奴隷に襲われていると、援護の要請がありました」


「他には?」


「他にと言いますと、大勢の奴隷が今朝ミツライムを出て行くのを見ました。約束の地があるとか言っておりました。奴らがミツライムに戻ってくる心配はないかと思いますが」


「逃げられたということか?」

 鎧の深いところから、ベヒモスは兵士たちを見た。


「このような状況でありますので、奴隷を隔離する必要があったと聞いております。これはファラオが許可したものであると」

 これに、ベヒモスは鉄拳で答えた。地面に叩き込めばゾウの足跡にもなる。


「悲しい」

 大地の叫びに似ていた。


 同時に、ベヒモスは周囲の兵士を叱咤する。


「ミツライムは最強の国。これまでも、これからもだ。奴隷にふさわしい地が他にあるはずがない。あのような連中に逃げられることなどあってはならない。奴隷がどれだけ集まろうとも、それは脅威ではない。ファラオが取引する相手ではない。ファラオに逆らえば俺が粉砕する。それだけではないか」


 これを言い換えると次のような言葉だ。


「奴隷に逃げられたとあっては、世界の笑い者になるだけだ。ファラオが許したところで、俺は許さない」


 ベヒモスは完全に穀物庫を破壊した。


 そして巻き上がる土煙、


 血の臭い、


 木片の飛び散るところ、水しぶきに似た飛沫。


 粉塵の中、

 鉄の身体を引きずるようにして、怪物は振り返った。


「川向こうの奴隷どもを殺したら、ファラオに会いにいく。逃げた奴隷どもも全て殺す」

 そう怒鳴った。


 そして、今、ファラオは神殿の揺れに立っていられないほどだった。


 それはつまり、

 ベヒモスが階段を上がってきただけのことだった。

 その鉄の巨体がぬっと表れた時、神殿を包むような轟音がある。

 

 ベヒモスが鼻息を荒げた。それだけのこと。


 今のベヒモスは鉄の兜で顔を隠しているが、その中はすでに人間ではない。神か化け物だ。部下たちはベヒモスのことを神をも殺す怪物と形容することがあったが、まさにその通りだとファラオはこの時、確信した。


「よく戻って来てくれた。お前が暴動を鎮圧してくれたことを嬉しく思う」

 ファラオは怪物を立って迎えた。


 だがこれは暴動の終わりを意味しない。


「奴隷を逃がしたというが、本当のことか?」

 ベヒモスは、「なぜ」と問う。


「あれは仕方なかったのだ。イザリースから使者が来て、赤く川を染めてしまった。暴走する奴隷たちを引き離すというから許可を出した。そうしなければ、暴動はまだまだ続いていただろう」


「ナイルの神が血を流したからこそ、俺がここに来た。川を赤く染めたのは母なるミツライムの神だ。イザリースなど何の関係もない」


「しかしイザリースの男は私の前で、川を赤くすると宣言したのだ。それに蛇を……」


 その先をベヒモスは聞かない。


「奴隷どもに逃げられた国としてミツライムが笑われてしまう。そんなことは俺には許せない。俺が許したか、神々が許したか」


「だが今さらそれを言ったところでどうなるわけでもない」


「奴隷の反逆も許すことはできない。反逆されて黙っていることなどできようか」


「どうするつもりだ」


「奴隷どもを追いかけて殺す。皆殺しにする。反逆も逃亡もすべてなかったことにする、奴らはミツライムの歴史には必要のないものだ。始末をつけてくる」


 そのような決断を迫られて、ファラオはまだ迷っていた。


「待て」

 言ったところで、歴史が変わることはない。次々に舞い込む悲報は後を絶たない。


 そして、この時ふたつの報告があった。

 ふたつ。それは、この国の運命を変える大事件。


 そのひとつは、


「大変です。奴隷どもが邸宅に侵入し、あろうことかファラオのご子息である王子を殺害しました。妃は護り通しましたが、このような結果になり我々としましてはどのようにファラオに報告してよいか――」

 傷だらけの兵士が階段の下で大臣に報告する声が聞こえていた。


 瞬間、ファラオは歩いた。その詳細を誰かが耳に運んでくるのを待っていられるような気分ではない。


「なんだと?」


「ファラオ」

 大臣は今飛び出しては危険だとファラオを押さえつけようと言うのだろうが、そんなことはファラオには関係なかった。


「奴隷どもが息子を殺したというのか?」


 誰の入れ知恵か、次のような言葉も聞こえてくる。


「モーセとか言う男の仕業でございます。イザリースからの使者というのも出任せでしょう。ヒルデダイトの者に確認しましたところ、すでにイザリースなどという国はなく、ヒルデダイト帝国に併合されているとのこと。ではイザリースの使者とはどのような人物のことを言うのでしょうな」


 こんなことをファラオの耳元で語った者がいた。それらの者はどのようにでもイザリースを否定しただろう。そもそもイザリースからの使者がないことは事実なのだから。


「欺されたというのか?」

 ファラオは愕然とした。


 脱力したとき、さらなる振動があった。


 ナイル川が飛び散るほどの揺れだった。


 これはゆっくりとベヒモスが起き上がったことにある。


「俺は行ってくる。ファラオの血に手をかけたことを奴隷どもに後悔させてやろう。アヌビスとヴァステトも連れていく。ミツライムの神々の力を思い知らせてやろう」


 その背中は動く島のように悠然としている。

 ファラオにはこれを止めることができなかった。


 しかしここで二つの目の報告がある。


「ファラオに報告があります。海賊団です。海に海賊船が出ました。港から救援要請が出ております。奴隷と戦っている場合ではありません」

 新たな敵だった。


「海賊などに屈するミツライムの戦士がどこにいる?」

 ベヒモスはそう言うだろう。


 オプト祭をねらって来る海賊は後を絶たない。報告するまでもない些細なことのはずだった。


 だが、

「見たこともない大船団です。奴らが要求しているのは、財宝ではありません」

 兵士が訴えるのは普通の海賊ではない。「奴らが要求しているのは、ファラオとこのミツライムです」これは国獲りだ。


「何を言っている?」

 ファラオは階段をかけおりて、海が見える場所に立った。「このミツライムを相手に戦争をしかけられる国などないはずだ」そのはずなのに——。


 時すでに夕刻。


 海岸沿いに集まった海賊船一〇〇余り。


 ミツライム海軍に対して威嚇する太鼓の音をあげていた。海岸沿いで燃える街並みは何を意味したものか——。

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