第52話 赤い川のほとり
川が赤く染まっていた。
僕たちがファラオから逃げるようにして外を歩いた時にはもう夜で、昼間から子供を探して歩いただろう奴隷たちも疲れた顔をするばかり。そんな中でのことだった。
僕たちが川縁に引き寄せられたのは、民衆の声がふいに川のほうで大きくなったからだ。暴動かと思ったけれど、少しばかり色が違う。
暴動を心配していた僕は、そんなことさえ忘れてしまっていた。
ナイルに押し寄せる水は、僕の心のざわめきなんて一瞬にして流してしまう。
ただ、赤い。
最初は黒いのかと思ったが、篝火に照らされる水面は赤で、川底からあがってくる赤はなおさら赤く渦巻いていた。
「ねえ、ナタ」
僕は友人の名を呼ぶ。どうやってこんなことができたのか、誰がやったのか。そんなことばかりが頭をよぎったが、出てくる言葉は短い。
「今なの?」
川が赤くなると言ってファラオを驚かせようとしていたはずなのに、実際に衝撃を受けたのは僕だ。
少し歩くと、血の匂いは辺りに充満して、川縁からは女たちのすすり泣く声が聞こえていた。若い男たちは川上にあるファラオの別荘を襲撃するのだと息巻いていた。だから、その血の匂いがどこからするのかはわからない。
何が起きているのか、これから何が起きるのか。
誰も知らないに違いなかった。
ただ、
「川が赤く染まっている」
これは事実。
「リッリは、まだ町医者のところか?」
白い外套から顔を出したナタが、モーセの前を遮って動こうとした時、
「わからないよ」
僕はまだ呆然としていた。
「ここに来る前、ヘルメスはリッリと一緒にいたんじゃないのか」
そんなこと言われても、
「僕がナタと合流する前まではね。川が赤くなる前までさ。でも今はわからない。だって、リッリがずっと同じ場所にいるはずもないだろうし」
彼女が何をしているのかなんて僕にはわからない。探そうとして周囲を見ても、騒いでいるのは奴隷たちだけ。
ただ、走る男たちの中には、ファラオへの怒りに駆られる者ばかりではないことがわかった。彼らが口にするのは希望——。
「ファラオの神殿に行ってみよう。来ているのではないか。我々を救うあの方が」
そんな声だ。
奴隷たちが他の奴隷を誘っている。そして声は広がっていった。
でも、
「我々を救うあの方?」
その表現に、僕は違和感を覚えた。
「どうした?」
ナタはまだリッリを探しているのだろう。
「ううん、なんかあの人たち、ファラオの神殿に行くみたいなんだ」
「襲撃か?」
「違う、救う方が来ているって言ってる。救世主だってさ」
「それは――」
「ヒルデダイトのアザゼルのことかな? そういえば、まだヒルデダイトのアザゼルって出てきてないよね」
僕は数日前のアリーズの演説を思い出す。あの場所にまたアリーズやアザゼルが立つとでも言うのだろうか。彼らなら、きっとそこに民衆を集めるだろう。
「あいつら、何をする気だ?」
「僕たちも行ってみる? なんか放っておくと駄目な気がする。それにアザゼルの演説なら、リッリさんも聞きにくるかもしれない」
僕は走る奴隷たちを追うように動き出していた。ナタとどっちが先に走りだしたかはわからない。
そもそも僕がリッリに任されていた仕事。ヒルデダイトに動きがあれば、報告する。そんなことを僕は思い出していた。
「そこにいるのは、本当にヒルデダイトのアザゼルであろうか?」
それは少し遅れてついてくるモーセのひとことだった。
歩いていけば、噂話は次から次に増えていく。人が人を呼ぶのなら、そのたびに民衆はそれぞれの口実を並べていた。
そこにアザゼルを求める声はない。
「違う?」
「さっきすれ違った若者が、奴隷から解放される日が来たと――。アザゼルが約束したのは子供の奪還ではなかったか」
「僕もさっきからそんなふうに聞こえてます。子供たちを取り返すことが奴隷から解放されるってことなのかと――」
「いや、どうにもこれは――」
ヒルデダイトの演説を聴きにいくような流れではない。
モーセはそう言いたいのだろう。
「川が赤くなった。予言通りじゃないか。あの方が来られるんだ」
そんな言葉があって、僕はふいに立ち止まった。
アザゼルの演説に川が赤くなるなんてあっただろうか。川が赤くなると言ったのはリッリだ。そしてそれを吹聴したのは僕やナタ——。
「どういうこと?」
僕が振り返った時、
そこにまた新しい噂が出る。
「モーセが帰ってきた。四〇年前我々がミツライムの外へと送り出した希望の光が戻って来た」
若者たちが歓喜の言葉を口にしたのを僕は聞いた。
「モーセ」
その名前は忘れられたと思っていた。なのになぜか、ミツマの人々はその名前を呼ぶ。しかも赤い川を見て、モーセを呼ぶ。
僕は隣で不思議そうに耳を傾けるモーセを見たが、そのモーセには誰も見向きもしない。名前は呼ぶのに、目の前のモーセは見えていないらしい。
奴隷たちの言う、「モーセ」とは架空の英雄だっただろうか。
「ファラオの神殿に行けば、そこに何があるというのか」
モーセは僕の意見を聞きたいと目配せするけれど、僕にはまるで思い当たるところがない。
ミツマの人たちの間で、伝説上の人物モーセがいたという話は聞いたことがない。彼らがモーセを知って居れば、僕たちがこんなに苦労することもなかったはずだった。
そうしていると、
僕は突然ナタに引っ張られた。
「この先にリッリがいるだろ? あいつに聞いたほうが早い」
仕掛けたのがリッリなら、彼女に聞けば事情はわかる。それが結論だった。
そのリッリはと言えば、ファラオの神殿前に人だかりをつくって演説の準備だ。丁度数日前、ヒルデダイトのアザゼルが宣言をした場所には赤頭巾。離れたところからでも、それがリッリだと僕にはわかった。
ただ同時に、僕は心配にもなる。
「大丈夫なの、その衣装って、ミツライムの人に目をつけられない? ウバル将軍を殺した犯人だって――」
リッリの前に出た僕は、そんな質問を小声でしていた。
今日まで隠れたり変装していたのは、過去にウバル将軍を殺害した件で指名手配されているだろうからだ。人が集まるこんな場所で、目立つ恰好をするのは不安になる。
「ワレはイシュタルの巫女なりゃ同時に、イザリースの使者でありゃり? それがこのローブ」
「イザリースの使者なら、それはさっきナタが――」
僕はたった今、ファラオの前でナタがイザリースの使者だと名乗ったことを思いだした。だとすれば、ナタと共に行動するリッリもイザリースの使者ということになるだろうか。
「ナタがファラオに紹介したりなら、もはや隠れる道理はなきに等しき。イザリースの巫女らしく振る舞うが、ことを上手く運びやり」
リッリは杖をかざして、篝火を煽った。
いよいよ英雄の登場だと言わんばかりに――。
「じゃあ、僕も変装しなくていい?」
僕はもともと勇者たるべき冒険者――。
「着替える前に、やるべきことがありゃ」
リッリは僕をおしのけて、モーセに歩み寄っていた。
「リッリさん?」
僕が怯んだのは、
「主役の登場なりゃ」
とリッリが民衆に紹介したのが――。
「僕?」
のような気がしたからだ。でも、リッリの杖は、僕に「さっさと退け」と言っている。つまり、
振り返ると、当然そこにはモーセがいて、これまた不思議そうな顔をしていた。
「これは一体?」
この物語の主役はモーセだ。
「どういうことです?」
と、僕は一応説明を求める。モーセにしてもいきなり英雄として紹介されても困るだろう。経緯が分からなければ、かける言葉を選ぶこともできないのだから。
賢者もその辺はわきまえていたか。
「ヒルデダイトとの初戦をワレが制したりや」
これが真相だ。
「初戦って? リッリさん、ヒルデダイトと戦ったりしたんです?」
「ヒルデダイトが奴隷をコントロールするシステムを構築しやり、それにワレが気付いて新しい指令をばんばん流しやり? するとどうなりゃ」
どこでどんな戦争があったやら。
リッリは続けてその苦戦の時間を語っていた。
「しやりやヒルデダイトも応戦しやり。壮絶な噂の流し合いバトルりょ。そして、ついにワレが初戦を制したり。モーセが奴隷を解放しやりやいうて、もう街の誰もが知っておろが」
「噂ってすごい。さすがリッリさん」
「ファラオの許可が得られたのなら、あとはミツマの民を連れてミツライムを出るだけのこと」
ここでリッリは、「ところで、ヘルメスにほうはどうなりゃり」と僕たちの報告を待っている。
「ファラオは迷っているみたいです。でも川が赤くなればって言ったら、納得してくれたような感じで――」
僕はそこまで言って、振り返った。
川はすでに赤かった。
「やはり今しかなき」
リッリは確信しただろう。
その確信の根拠はどう見たって赤い川だ。あれを見たら、誰だって奇跡を信じてしまうに違いない。
「あれって、あの川の水を赤くしたのはリッリさん?」
僕はやっぱりそれが気になった。
さすがにこれを民衆の前で答えてしまっては興が削がれるというもの。そこは手品と同じでネタは隠すもの。
「偶然などではなき」
リッリはごまかすように、しかし強く答えた。
「ひょっとして、セイズってやつですか?」
「四〇年前のこともモーセのことも、まだ記憶してり民がいりゃりや。それは嘘でなき。それが四〇年想わなきや、この結末もなし」
これはモーセへの返事だったかもしれない。
今起きている問題は川が赤くなったことではなくて、
いよいよミツマの民をカナンに連れて戻るということだ。
「私の四〇年が無駄ではなかったと言われるのか」
と、モーセは聞き返した。
「うみゅ。ならば、すぐに民衆の前に立てりゃり。出発は明朝。ファラオの気が変わらぬ内が吉」
リッリはモーセの背中を押していた。
柱の並ぶ高台に立ったモーセは、群衆に囲まれた。
僕は柱の陰で彼の言葉を聞く。
神から使わされた救世主はかく語れり。
「私は帰ってきた。四〇年前、ミツライムを追放されて私は今日まで彷徨い歩いたが、ついにここに帰ってきた」
年老いたモーセの叫び。この声は兄弟に届くだろうか。「兄弟たちとミツライムを出て新しい国をつくろうと約束していた。その約束を果たすために私は来た。私は今日、神との約束をここに持って来ている。新しい国を作るため、約束された地へ、あなたたちを案内しにきたのだ」
それはモーセが四〇年思い描いた夢の続きのこと。いつか叶うと夢見た物語。
確かに答える歓声はあった。
だけど、ここに集まる奴隷たちは、モーセを歓迎しに来た者たちばかりではない。
「ファラオを倒せ」
そんなコールがあった。すでに狂気は街中に溢れていて、暴動とも歓喜とも思えない異様な雰囲気だ。
「ファラオに攫われた子供たちを助け出せ」
誰かが言えば、この声は次第に大きくなる。モーセの声よりも遙かに大きい声だった。
「ファラオに敵意を向けてはいけない。それをすれば、二度と我々はミツライムから出られなくなる」
モーセは訴えたが、奴隷たちの怒りは高ぶれば高ぶるほどにどうしようなもない。
「子供をそのまま置いて行けとあなたは言われるのですか?」
これを言われるとモーセは辛い立場に立たされた。ファラオには奴隷が暴徒と化す前に彼らをミツライムから連れ出すと約束している。ある意味そのために奴隷を連れ出すという口実を僕たちは得ている。
「子供のことは、神やミツマの戦士たちに任せよう。ここは我々の住む世界ではない。このまま我々は奴隷として生きていくことはない。ミツライムを脱出することをまず考えるのだ」
モーセには、それを言うのが精一杯だっただろう。一度はこれで悲願が達成されると考えたが、むしろこれは苦難の始まりだったのかもしれない。
「それで良きや」
リッリは壇上の下で頷いていた。「ここに集まった者が全て味方と考えるほうがおかしかり」というのが彼女の持論だ。
「なんかモーセさんの向こう側でみんな言い争っていますけど、そのままで良いってことです?」
僕は小さな声で確認してみる。
「連れて行ける者だけを連れていきゃんや」
「子供たちを助けたいってのは僕にもわかります。みんな子供を助けたいだけなんです。でも、そんなに時間がないってのもわかってます。僕が説得してみましょうか」
僕ができることはそんなことくらいだろう。
「できることはミツハらがやってくれちぇりる」
リッリが言って、
僕はこの時、ある事に気がついた。
「そういえば、ミツハちゃんはどこ?」だ。
こういう時、モーセと声を合わせてミツハが真実を民衆に説明してもいいはずなのに、彼女の声はここにはなかった。
「ミツハは敵を追いかけり」
とリッリ。
「敵?」
「ワレが情報戦を繰り広げたりや、敵は焦り、ワレを捕まえんと探しやり。直接口を封じに来やりや」
「そっか、敵の邪魔をしていたら、そうなりますよね。大丈夫だったんですか?」
「それよ。ワレを探し出して黙らせようとしてり」
「ってことは、ミツライム軍が来たんです? それともヒルデダイト軍? ヒルデダイトはミツライムの軍隊を利用してましたよね」
「ノンノ、軍隊が来れば犯人が自分ですと言うようなものやり。やっと敵が尻尾を出したりや。今まで隠れておった敵がついにエージェントたちの見える場所にきたり、これの意味するところがわかりや?」
賢者は、「これはエージェントでありやミツハの仕事。任せておいてよかろ」という。
「隠れていた敵が見えるところに出てきた?」
ナタは周囲を見回した。
僕も顔をあげたが、ここにいるのは子供を失った奴隷ばかりだ。
「敵は奴隷たちの中にも居るってことか」
それをナタに言われて、僕は初めてこの状況が理解できた。
「ここに敵がいる? 仲間だとか味方だと思っていたところに?」
今ここに集まっている奴隷たちの中にも敵がいる。
「モーセが民を連れ出そうとすれば邪魔してくる。だけど子供を助けようとしても邪魔してくる。つまり最初から、ここで何をしても駄目だってことか」
とナタ。
「さっきから子供を助けようって言ってる人がいるけど、実際にその通りにすると、逆に妨害してくるってこと? 助けなかったら助けなかったで妨害してくるし、つまりこれって、ヒルデダイトの描いた予定通りにするだけで、僕たちに何もさせないってことだよね」
だからこそ、
「まずはどうやっても、ミツライムを離れることが先決」
リッリは、「明日の朝、最終段階決行やんや」と断言した。
ここにきて、事件の全貌が僕にも見えてきた。
奴隷の協力者を追いかけたミツハによれば、彼らは奴隷から解放されたい一心でヒルデダイトに協力したという。
僕たちがモーセの演説を聴いていた頃、
ミツハはそれを犯人たちの口から聞いていたらしい。
逃げ帰った奴隷たちは、隠れ家で吉報を待つ彼らのリーダーに逃げた理由を説明しただろう。
「敵には強い戦士がいます。赤い髪の女です。ミツライムの者ではありません。それにあのミツハが同じ場所にいたんです」
シェズを前にして生き残れる戦士は少ない。「奴らを殺すなら、もっと人数がいる」というのが彼らの報告になった。
「ミツハがいただと? この数ヶ月何処を探しても見つからなかったあの女が?」
「見間違えるはずがありません」
「奴はウバル将軍を殺して逃げたと聞いている。なぜ今戻ってくる?」
奴隷たちが集まる中、リーダーたる男は険しい顔をした。「隠れて俺たちのことを探っていたのか?」と考えてしまうのは当然だった。
ミツハがウバル将軍を殺して逃げるのなら、同じミツマ一族や奴隷の自分たちを頼って来るしかない。だが、自分たちからも姿を消すというのはどういう了見か考える必要があった。
「俺たちのことが疑っているなら、始末するしかない。もし俺たちのことがバレたら――」
奴隷たちは次のようにも言う。
「あいつは戦士の一族だ。奴隷は奴隷でもやっかいだぞ。ジャガールと一緒にあの時に死んでくれていれば――」
それを言った時、
彼らは窓から黒い鳥が飛び込んできたのを見ただろう。
振り返った男は顔面から剣をまともに受けて絶命する。エージェントの黒いコートが重力に逆らって舞うのは、超絶な技の痕跡だった。
リーダーの男はナイフを構えて叫んだだろう。
「ミツハッ」
その間に、エージェントは平然と二人目の男を殺している。
飛ぶ鳥と一緒で、男たちにその黒い姿を捕まえることはできなかった。必死に部屋から追い出そうとするが、当然ながらミツハの剣は迷い鳥ではない。
「あんたが裏切っていた?」
そんなミツハからの質問はあったが、その答えに彼女は興味を持っていない。
何を答えても、殺されるという結末は見えていた。
だがみすみす殺されるリーダーではない。
「違うんだ。聞いてくれ」
ナイフを放り投げた。これは対話の構えだ。ミツハが羽を休める鳥のように一瞬留まれば、もう少し言葉を重ねてミツハの戦意を削ぐしかない。
背中を見せたら殺される。
あるのはそんな空気だけだった。
「俺たちはヒルデダイトと取引をしていた。悪いのはファラオだ。子供を攫ったのもファラオだ。ヒルデダイトは我々に武器を与えて支援してくれる。我々でファラオを殺し、我々は奴隷から解放されるんだ」
「じゃあ、なぜ子供を攫わせた? 子供たちを攫っていたのはあんたたちだ」
その答えをミツハは知りたがっていた。
「他の奴隷どもが俺たちの言うことを聞かないからだ。奴隷のままでいいなんてぬかす奴もいる。俺たちが奴隷から解放されるには、ファラオを倒すという強い意志が必要だった。このまま子供たちが大人になったところで、奴隷は搾取されるだけだしな」
「なぜ子供を殺す?」
「殺したのは我々ではない。子供を殺すなんて聞いていなかった。外国で戦士として使うと聞いていた。戦い方を覚えれば、いずれは俺たちの手助けだってしてくれると。そうだ、あんたにヒルデダイトの取引相手を教える。真相はあいつから聞けばいい」
言った時には、ミツハの剣が首にめり込んでいた。そこから先の言葉はもう続けられない。
男はミツハの怒りを感じただろう。
彼女は戦士だ。
子供の頃から戦闘術を叩き込まれた、ミツマ一族のしかるべき戦士だった。
その戦士と殺し合いをしたのなら、結末は二つしかない。
どんな理由を並べても、
あるのは戦士の死か、敵の死だ。
「俺たちは奴隷だ。奴隷に未来なんてないじゃないか。殺すべきなのは、ファラオとヒルデダイトだ」
男は最後にそう言いたかった。
「奴隷から解放されることだけを夢見て何が悪い」
と恨めしい目をくれてやる。だが、ミツハの回答は短い。
「わたしはわたしを殺そうとした者を殺すだけ。そうして闇の中でほくそ笑む者を許さない」
ミツハは今一度振り返って民衆に断言する。「こいつらは、子供を攫っていた連中の仲間だから始末した」と、それはエージェントの言葉だった。
集まってくる野次馬たちはこれで納得するだろうか。
「なぜグレゴリーやボーゼスを殺したんだ?」
今までは誰もが奴隷仲間だっただろう。裏切り者と知らずに彼らと暮らしてきた仲間は多い。だからこそ納得できない目があった。
ミツハは答えない。
誰か嘘つきで、誰が味方かはわからない。
さっきの男が絶命前に喋ったことが本当のことかどうかもわからなかった。
これから先、誰を殺せばいいのかわからない。
あるいは仲間と思っていた誰もが敵なのかもしれない。
騒然とする現場では、
「あんたはミツハか? ウバル将軍を殺して逃げたのもあんただろう」
そんな非難の声もあがったが、
「ファラオの別荘から子供の死体が出てきた。ウバル将軍は殺したけれど、子供たちは助けられなかった」
それを言えば、誰がそれ以上ミツハを追いかけることができただろうか。
彼女自身、納得できなかった。
一体誰のために戦って、誰の子供を助けようとしていたのか。それすらわからなくなっていた。
ミツハに石を投げようとする奴隷がいる。悲鳴をあげる奴隷も居た。ただ、民衆の多くは傍観するだけ——。
「やめなさい。奴隷は笑っていればいいのよ。余計なことに首をつっこむんじゃあないよ」
そんな声が聞こえて、
ミツハは母親の声を聞いた気がした。
あれは誰のために笑えと言った言葉だったか。
「笑っていれば、誰かが幸せになれる」
そんな言葉だった気がして、
ミツハは振り返った。
誰のために、何のために戦えばいいのかわからなくなった今、笑うことだけならできるかもしれない。
そして母も祖母も同じように振り返っただろう。
笑ったに違いない。
誰かのために――。
その誰かって――。
ミツハは思いだした。
モーセだ。
つまり、
あれがミリアムの言葉であるなら、彼らはそうやってモーセひとりを助けていたことになる。そこにずっと希望を見ていたのだろうか。
こんな状況の中に正解があるとすれば、それはきっと祖母や母の言葉の中――。
そしてナタも同じように言わなかっただろうか。
助けるべきはモーセだと――。
ミツハは風を感じた。
生まれた時から感じていた。同じ方向に吹き抜けていく風。それはどこへ続く風だったか。
両手を広げてみれば、
父親の言葉も重なってくる。武芸や飛び方を教えてくれたのは父親だ。その父親が隣で囁くような気がした。
「風を捕まえるんだ。飛ぶのは今だ」と――。
そんな体術の基礎。
「捕まえた――」
気持ちが交差した時、
ミツハはナタを追いかけて走り出した——。
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