第51話 ヴァステト神

「夜眠れなくなると、お母さんが羊の数を数えればいいと教えてくれるんだ。でも僕は思うんだよね。殺した子供の数を数えても同じだよね? これできっと僕もみんなも良く眠れると思うんだ」


 笑い顔の仮面を被った道化師は、屋根の上に座っていた。


 見下ろせば死体の山だ。

 見上げれば、もう夜だった。


 今日はこのまま眠ってもいいかと思うが、壁の向こうは騒がしい。子供を探す奴隷たちとミツライムの兵士が押し問答だった。いずれ彼らはここへやって来るだろう。だが、彼らも子供の数を数えればきっと気持ちよく眠ってくれるに違いない。


 そうならないかもしれない。

 いや、そうあるべきだ。

 仮面の道化師はそう考えると立ち上がる——。


 近くの屋根に飛び乗る気配がある。

「ついに奴隷が壁を越えたかな? あの程度の壁ならそろそろさ」

 だとすれば、招待された彼らへの挨拶は必要だろう。

 

「悲鳴は朝を告げる鶏の声のようなもの。折角見ていた楽しい夢が覚めてしまってはいけないね。だって、みんな眠っているだけなんだ」


 そう教えようと思って、振り返ってみればそこにいたのは猫。「うん、夜だからだ」道化師は納得した。


 だが直後に反対側で呼びかけられていた。


「随分派手にやってくれたなぁ」


 気だるそうな女子の声だった。見れば黄金のネックレスで着飾った少女のような姿がある。すらりと伸びた手足は音もなく屋根を踏みつけて、猫のように四つん這いになった状態だった。そして不思議なのは白い髪と赤い目だ。


「あれえ?」

 道化師は、「いつからそこにいたっけ?」と問う。


 猫の気配は感じたが、彼女が同じ場所に飛び乗ってくる気配はなかった。声をかけられるまで気付かなかったのは迂闊というべきものだ。


 迂闊ついでに言えば、道化師は逆に彼女に忠告されたのだと思う。


「夜は俺の世界だ。それを知らないということは外国から遊びにでも来たか」

 赤い目の女子の視点はどれほど高い場所にあっただろう。そんな声だった。


「僕としたことが失敬。つい全部殺しちゃったと思ってさ。まだミツライム人が残ってたんだね」


「あまり図に乗るなよ」

 そこで女子は猫のように首を伸ばした。道化師がどのような人間からは周囲を観察すればわかるだろう。その殺し方に性癖が出る。


「僕が図に乗ってると思う。まだまださ。さて勘違いは、どっちかな?」

 道化師はわくわくしていた。


 女子はため息をついただけだったか。

「ここに居た子供、こいつらってヒルデダイトに売り飛ばすって話だったが? それを仮面の青年。君が殺したってことでいいのか」


「そんなことまで知ってるんだ? あぁ。ミツライム人にはそんな話をしていたかな? 僕たちが戦争で使うから、奴隷の兵隊が必要だってね。それを売ればミツライム人も大もうけさ。でも現実にはもっと楽しい話っ」


 ここで道化師は女子に襲い掛かった。楽しい話を嗜むのは自分ひとりでいいからだ。特等席があるとすれば、そこで道化師と猫が仲良くしている理由はない。


「楽しい話は他にもたくさんあるんだよ」

 と道化師は教えてあげたかった。


 たとえば、指先で相手の心臓を抉っても途端に死んでしまうわけではない。だが心臓がないのだから、それはそれで相手は面白い反応をするだろう。


「いひっ」

 道化師は笑った。すれ違い様に振り抜いた腕はムチのようにしなって、相手から臓器を抜き取った。この指先に相手の心臓がある。


「その楽しいことってのは何だ?」

 女子はすれ違った後で、屋根の上に座り込んでいた。膝をたてて話を聞いてみようかと首を捻った姿勢だ。これもきままな猫のようで、道化師には不思議だった。


 心臓を抜かれては、血液が回らないし呼吸もほぼできない状態だろうに、そんな気配は目の前の猫には微塵もない。


「んにゃあ」

 と女子は道化師に催促する。


「にゃあ?」

 ここで道化師は自分が掴んだのが子供の心臓だったことを知った。というか、猫が口の中で咀嚼しているのはそういうものだ。「なんで食ってるんだい」と言いたくもなる。


「俺は少し機嫌が悪い。昼間から人間どもが騒ぎやがってあまり眠れていないんだ。んあ、ワインのように発酵させていたのがその辺にあっただろう。俺の夜食をこの辺に隠しておいたんだが。君、あれをどこにやったんだ?」


「寝ぼけてるのかい? 僕は道化師だよ。ワインを出せと言われれば、そうだね。できないこともないけどさ。少し僕のステージを披露しようか。ワインをご馳走するよ。ワインはワインでも血の味がするもので良ければね」


「それだ」

 女子は道化師を睨みつけていた。「それをよこせ。そいつで今日は機嫌を直してやろう」と言う。


「調子狂うね」

 道化師も座り込んだ。「もっとこう泣き叫ぶとか怒り狂うとかあるじゃん?」そういう喜怒哀楽を求めたかったが、猫からはそれが見えてこない。しかも負けるとは思わないが、勝てるとも思えない。こんな相手は初めてだった。


 やる気がない。

 ひとことで相手の態度を変換さうればそういう感じ。


 面白い話とは違うかもしれないが、ここはひとつミツライム人の知らない話をしてみるのもいいだろう。


 道化師は語った。

「奴隷の子供を攫わせていたのは、僕たち、ヒルデダイトの人間さ。ミツライム人はビジネスだと思ってよく働いてくれたよ。でもさそうじゃないんだ。初めっからこうやって殺すつもりだったんだ。なぜって。殺せば親は恨みをもって武器を手にする。ファラオに殺されたと思えば、ファラオにだって武器を向ける。ライオンに殺されたと思えば、ライオンにだって噛みつくよ。子供は戦えないけど、大人は戦える」


「奴隷どもがミツライムの軍隊と戦うのか?」


「そうさ。港に来ている船に武器がわんさかと積んであるよ。全部奴隷に配るんだ。何が起きるだろうね」


 ここであえて、

 猫は欠伸をしたようだった。


「ただで武器をやってどうする。奴隷が金を持っているようには見えないが。無益ではないか?」


「血のワインがたくさん振るんだよ。戦争をさせるんだ。そしてヒルデダイトは奴隷を支援する。武器が足りなくなれば武器を供給する。兵士が足りなければ兵士をね。そしてファラオも支援するのさ。両方を支援して僕達がこの戦争を牛耳るわけさ。奴隷からもファラオからも絞りとれるものを全部絞りとったら、あとはワインみたいなものさ」


 つまり道化師はこう言いたい。

「君の国はそれで終わるよ。すべてが終わる。ねえ悔しい?」


 猫はやっと目が覚めたと足を伸ばしていた。

「君はファラオにも武器や兵士を売ろうというのかい?」


「まあね、殺し合って貰わないといけないから。君が言うように武器はただじゃないんだよ。その武器だって戦争がなければ無用の長物さ。戦争あっての武器ってこと。そして同じ場所に僕たちが求める対価もある」


「楽しそうな話ではある」

 と、猫はすくっと立ちがある。「その話、俺にも一枚噛ませろ」とは何のきまぐれだったか。


「え?」


「君たちさ、世界中で悪さしているだろ。それくらいは俺にもわかる。世界中で同じようなことをやっているのなら、その全てを俺にもやらせろ」


 猫は飼い猫のように閉じ込められていただけだ。ずっとその外へ出る機会を狙っていた。


 道化師は考え直した。

「いいよ。うん、なんかわからないけど」


 ただ道化師には本当にわからないことがある。「でも僕と殺し合わなくていいの? 僕たちは敵だと思うけどさ」そうしようと思っていたのに、この気持ちをどこに向ければいいのだろうか。


「殺し合うだろうさ。だがそれは一番最後でいい。そのまえに少し遊んでいかないか? ここは窮屈でいけない」

 猫はそう言った。


「そういうこと? だったら、僕も賛成だよ」


 道化師は即答した。


「ところで」と道化師が呟いたのは、この猫の名前だ。相手はまだ名前も分からない猫だった。


 ここで騒ぎが大きくなれば、その名前もおのずとわかる話になる。


 壁の外が騒がしくなったのは、壁得の下を越えて血が川のように流れたからだ。血が溢れた途端悲鳴が響き渡っていた。血はいずれ川に流れ込み、川の水をも赤くするだろうか。


 思っていると、

「アイニー」

 そんな呼び声があった。ロキの道化師を呼ぶものでないのなら、それは猫を呼ぶ声だ。


 猫は不機嫌だ。


「その名はここでは呼ばない約束だ」


「すまん、ヴァステトラミア。フェニキアの読み物ばかり漁っていたせいで、ここがミツライムだということを忘れていた」

 ヴァステトとは神の名前であるに違いない。それは残虐な神であったか。


「それでアガレス、君の用事は何だね」

 ヴァステトラミアは屋根の下に降りた。もう屋根の上でおしゃべりしているような場合ではない。もうすぐ奴隷の大人たちがここに突入してくるだろう。それを見越して彼女は動いている。


「川が血のように赤くなっている。何が起きたのかわからない。一応お前には報告しておこうと思ってな」


 アガレスという男はカラスを肩に留まらせていた。このカラスは死体の山の中でもそれが当然であるかのような顔をしている。それだけで彼らの残虐さも窺い知れるところだった。


「血で染まったということではないのか」


「そんな規模ではない。ナイル川がすべて真っ赤だ」


「なるほど」

 ヴァステトラミアはそこで道化師を呼ぶ。


「ロキの道化師とやら、これは何の仕込みなんだ?」

 全てがヒルデダイトの策略だと思われても仕方のないところだが、こればかりは道化師にも判らなかった。


 ただ道化師には思い当たることがある。


「僕の友人がそろそろ創造主を殺している頃だよ。もし殺せていたら、この世界は崩壊に向かうはずさ。太陽が消えて、大地から血を吐き出し崩れ落ちるんだ。もしかしたらナイルのそれも世界が流す血なのかもしれないけれどね」


「にゃあ?」


「いやそれよりもさ。君のことを、さすが神って褒め讃えたほうがいいのかな。どうして僕がロキの道化師だって知っているのさ。今、僕のことをそう呼んだでしょ?」

 最後にはロキの道化師も真っ青だった。


 思った以上だ。

 道化師も、この神は危険だと認めるしかなかった。

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