第50話 魔法と蛇と白い手
僕は群衆の中で顔をあげた。
ファラオの別荘まで続く人だかり。子供たちを探しに行こうとする大人たちは、焦るばかりだ。あちらこちらで押し合いになっては通行を妨げている。その中でナタやモーセの姿を探すのに何時間かかったことか。
僕がナタに追いついた時、彼らは押し寄せる群衆から逃れて、川縁でしゃがみこんでいた。
疲れ果てたモーセの顔を見れば、僕は心配するナタと同じで、その傍に立つことくらいしかできない。
「何をしてるの?」
なんて聞けなかった。
ファラオの別荘にあったのは子供たちの死体だ。僕は知っている。
モーセもナタもそれを見たのかもしれない。やり切れない気持ちで、怒りに震える群衆を眺める。それ以外にできることがあっただろうか。
「ヘルメス、悪い。リッリに……」
その先をナタは言葉にできないでいた。
僕は、
「知ってる。周りの人が叫んでいるよ。ファラオが子供たちを殺したんだって。事実だったんでしょ」
ナタが言いたいことはわかるつもりだった。ナタやミツハが探していた子供は殺されていて、奴隷たちがファラオを恨む言葉を並べている。
子供を殺されたんだと嘆いている。
だけど、このまま群衆を眺めていて事態が好転するわけもない。僕がナタを探したのは、まさに僕たちも動くべきだからだ。
それはリッリからの指令。
「これ」
僕はナタに白いローブを渡した。
「何だ?」
「ミスラスの巫女衣装」
「知ってる。それをどうしって」
「イザリースの使者として。ナタがファラオと直接交渉しろって、リッリが言ってる。暴動が起きてからじゃ、遅いからって言ってたよ。僕もついていくよ」
「俺に直接交渉しろって、何を?」
「だから奴隷解放のことだと思う。今リッリが民衆をコントロールして、暴動が起きないようにしているよ。その間にファラオと話をまとめてくれってさ」
「話をまとめるって言っても、そんなことが可能なのか?」
「僕たちはミツマの人たちとミツライムから出て行くだけなんだ。だから、出て行くまでの数日間だけ時間を稼げればいいって、リッリは言ってた。むしろ今を逃せばお互いに殺し合いになって、僕たちは彼らを助け出せなくなってしまうかもしれなくて」
「ミツマの人たちを助ける?」
「今がチャンスなんだ」
「俺がイザリースの使者としてファラオと会えばいいのか」
「それしかないよ。カデシュの戦いの時も仲裁をしたのはイザリースだから、上手くやれば時間は稼げるって」
「それもリッリの提案か? 時間を稼いだところで、どうやってミツマの人たちを助ける?」
ナタはここで、やっと僕を見てくれたと思う。それまでは絶望しかない景色だったところにこの話だ。
モーセも絶望の中で、か細い光を見るような目つきで顔をあげていた。
僕が喋るのは、確かにリッリの言葉。
「子供たちを殺したのはヒルデダイトだよ。ファラオと奴隷を戦わせようとしている。ヒルデダイトは数年をかけて下準備をしていたんだよ。子供を攫っていたのもそうだけど、奴隷たちが戦えるように情報の伝達網を整備したりしていた。たぶん武器も配っている。だから、僕たちはそれを逆に利用するんだ」
「利用するって何を?」
ナタには情報の伝達網なんて想像もできないかもしれない。
「ファラオを倒せと命令したら、奴隷たちがそう動くようになってるってことだよ。だからリッリが、カナンへ行けって命令すればどうなると思う?」
僕はそんなふうに言い換えた。
「そんなことが?」
「今、ファラオが敵だって噂が拡散されているよ。ミツライム軍を許すなって、戦えって。でも違う噂を流して暴動にならないようにリッリがやってるところ」
僕は現状をナタに伝えた。
だから、
「ファラオの許可があれば、ミツマの人たちを現実に移動させることが出来るようになると思う。許可があればそれはただの噂じゃなくなるよね?」
僕はそう思う。
僕の声を聞いた瞬間、
ナタは白いローブの袖に腕を通していた。
「他にリッリは何か言っていたか?」
とはその足ですぐにファラオに会う勢いだ。
「一応リッリが流している噂のことなら、少し聞いたかも」
「それは?」
「約束された大地に旅立つときが近くて、その日にナイルが赤くなるって。民衆にそう言ってたから、たぶん合図のことだよ。ナイル川を赤く染めるんだと思う」
「ナイル川ってあの海みたいな場所をか?」
「そ、そうじゃない? でも他にナイル川なんてないし。僕の聞き間違い?」
そんなことが可能なのかって、ナタは言いたいのだと思う。
「リッリが言うなら、そういうことだって、やるだろう」
「やるかな? ナイル川だよ?」
僕だって、考えてみれば不思議だった。
だけど、
「準備はできているってことか――」
ナタはその先を考えていただろう。
「何かある?」
「リッリは俺に時間を稼げって言ってたよな?」
「それは間違いないよ」
「それくらいならできるかもしれない」
言われて、僕は大きく頷いた。
「リッリさんは僕たちにファラオに会って時間を作れって」
僕たちは、止まらない。
「行くぞ」
ナタは歩き出していた。
さて、再び舞台はファラオの御前。
ファラオは貢ぎ物を眺める部屋に居た。そこから動けなかったのは、暴動の知らせがあったからだ。奴隷たちが反乱したとなれば、守りを固めるしかない。部下たちが暴動を鎮圧し暴動を起こした首謀者を捕らえてくるまでの辛抱だった。部屋に護衛達を集めてファラオはその事態を見守っていた。
そこに羊飼いが行ったところで、門前払いもいいところ。
これが「誰だ?」とファラオが声をかけるに至ったのは、
「イザリースからの使者だ」
と告げるナタが巫女衣装を着ていたからだ。
「イザリースだと? そこの者がイザリースの使者だと言うのか」
ファラオラムセス二世は当然知っていた。カデシュの戦いの最後に平和条約を仲介した者たちがいる。そこでイザリースの創造主には会ったことがあっただろう。ファラオから見ればその男は若いが、確かに白いローブを纏っている。その彼の顔や手は創造主と同じで雪のような白さだ。これでは、門番たちも通さないわけにはいかなかったに違いない。
ナタは言った。
「ここにいるモーセの話を聞いてくれ」
そこでやっとモーセは、ファラオに頭を下げた。要求したいことはひとつだ。
「街の中は大騒ぎになっております。奴隷たちが暴徒となっております。ファラオの別荘から、誘拐された子供たちが遺体となって発見されたからです。このままではミツライムは戦争の地となってしまいます。この事態を収めるためにも、奴隷たちを連れ出す許可を私に頂きたい。争うことなく穏やかな日常が戻ることを約束致します」
「馬鹿げたことを言うな」
ファラオは怒っていた。「私の別荘から子供の遺体が出たなどとでたらめを言いおって」それもあるが、「暴徒と化した奴隷どもは始末する。このファラオに反抗したのだ。反抗しておいて何を言うか。そいつらを連れ出すなどあり得ないことだ」気持ちは決まっていた。
「ミツマの者は、もともとミツライムを出て共に国を作る約束をした者たちでございます。私は彼らを案内すべく、すでに創造主様より約束の地を賜りました。私はミツマの者たちを約束の地へつれていかねばなりません」
モーセは創造主の名を口にした。
その名前は、いまだにファラオへの影響力がある。
だが、
「イザリースのあいつらが奴隷どもに肩入れするのか?」
ファラオには疑念があっただろう。「創造主が直接ここへ来るならともかく、なぜお前のような小汚い男がくる? その後ろの男は本当にイザリースからの使者か?」本物の創造主からの言葉ならファラオにも考える余地があるだろうが、それと判断できる材料はナタの見かけだけ。
ここに、兵士たちが耳打ちするのは次のような言葉だ。
「暴動を扇動しているのはあの男ではありませんか。このような時にのこのこやってきて、奴隷どもを引き取るというのです。つい先日もあの男が同じことを言うのを私は見ました。あの男はファラオに断られたからこそ、ファラオを悪人に仕立て上げて噂を流したのです」
これを聞いて、ファラオの目はつり上がる。
説得力があるのは兵士たちからの言葉だけだ。
「モーセと言ったか、気にとめることもない小者だと思っていたが、とんだ食わせ者だ」
もうモーセには、ファラオを止める手段がなかった。
ファラオは命令する。
「蛇どもを放て」と——。
それは護衛の戦士たちの呼称だった。つまりファラオは僕たちを殺せと命令していた。
「ちょっと待ってください」
僕はここで声をあげた。
「ここでやりあうとなったら、それはイザリースへの喧嘩だぞ?」
ナタは言ったが、ナタの言葉はイザリースのものだ。僕かモーセが翻訳しなければファラオには伝わらない。
だから僕は言う。
「僕たちはイザリースの使者です。イザリースの巫女が未来を視ること、ファラオもご存知のはず。僕たちはこうなることがわかっていたから、ここへ派遣されて来たんです。そしてモーセさんはミツマの人です。彼の言葉がなければ奴隷たちは動かせません」
僕は一歩も譲らなかった。
「なおもイザリースの使者を名乗るのか」と言われてもだ。
「イザリースのオーディンが直接ここに来ているんです」
僕はナタに目配せした。
僕は嘘は言っていない。
だからこそ、ファラオのほうにも迷いが生じただろう。
「もしお前がイザリースの使者なら、奇跡が使えるはずだ。私の前で奇跡を見せてみろ」
それだけがファラオが納得する条件だった。
僕はミツライムの戦士たちに囲まれていた。蛇と呼ばれる戦士は黒装束に鋭利な刃物で武装する殺人集団だ。蛇が人間を丸呑みにするように瞬く間に狙った人間をこの世界から消してしまうだろう。
これに対して、
僕は皮鎧程度の武装。モーセさんは重い鎧など着こなせなくて結局羊飼いと同じような衣装だった。
さらに言えば、
「奇跡って具体的に何を?」
僕に使える奇跡なんてない。
「カデシュの争いの祭、確かに私は創造主に会った。あの方が立てば、その背後に太陽の光が溢れた。歩いた道が肥えた大地となって、太陽を求めて花々が咲き始めた。大怪我をした私の盟友が苦痛から解放された。あれこそ奇跡というものだ。だからこそ私は創造主の提案を呑んだ」
そんなお伽噺のような話をされて、
僕は行き詰まる。
僕は当時の話など知らない。
「だったら、少し間って頂ければ――」
赤ずきんの賢者なら連れてくることができる——。
「何を待つというのか」
「ここにイザリースの巫女が同行しています。ただ彼女は奴隷たちに暴動をさせないようにするため街に残っているんです。彼女を呼べば、何かしらの奇跡は見せられると思います」
僕は、リッリなら何かいいアイデアを思いつくだろうと思った。
もし、それで駄目なら、誰にもこの先には行けないだろう。
「その巫女の話を信じろでも言うのか?」
それを言ったのは、ファラオの側近たちだ。「こいつらが犯人だ。逃げようとしているだけではないのか?」という疑念があるらしい。
「僕たちは逃げません」
僕も必死だった。
これを見てファラオは尚も悩んだだろう。
「私に良い提案があります」
言い出したのは大臣だった。「その巫女とやらが来るまで、そこの男にはここに残って貰えば良い。そこの男の腕を私が切断しましょう。その男が生きている内にそこの老人が巫女とやらを連れてきて、男の腕を治せば、奇跡というものを信じましょう」これが条件だと彼らは言った。
ファラオはそれで納得するだろうが、
僕もナタも納得はできない。
切断された腕が治るのは幻想。あるいは誇張というものだ。
「なんでお前らの言うことばかり聞かなきゃならない?」
ナタは白い布で巻いた杖のようなものを手に取った。相手の言うままにしていれば時間は過ぎるばかり。
「杖か?」
誰もがそう思っただろう。他に鉄の剣をもっているにも関わらず、わざわざ杖を手にするのだから、それは魔術が始まる合図のようなもの。
そしてナタが杖を出した時、蛇が来た。
僕は襲ってくる敵に対して、ナタが備えただけだと知っていた。ただ、その敵がファラオの蛇かどうかまではわかってはいなかった。
この場所に蛇は二匹、いや、二種類の蛇がいたと言っていい。
僕たちの背後を追って来たのは、赤い髪を蛇のように束ねたヒルデダイトの将校。シャンシャンと鉄の槍が独特な音色を響かせて、神殿を登ってきていた。
「探したよ」
エキドナは、ナタに並んでいた。ファラオの前ではなく、ナタの横なのだから彼女が話しかけているのはナタだ。
「俺か?」
ナタが備えたのは、まさにエキドナという魔人に対してだっただろう。
彼女が墳墓でミツライム兵士三〇人を一瞬にして切り伏せたのを僕たちは見ている。ナタも実際に彼女と剣を合わせてその実力は知っていた。
彼女の立ち回りはまるで身体が浮いているようにも見えた。独特な足捌きは、遊びのようなものだと思う。
「黒い奴。鳥みたいなのが居たでしょ。あいつと戦いたい。あたしの手下がやれている。それに、ここには他には面白い奴がいなくてさ。退屈だったんだよ。君がそんな目立つ恰好をしてくれていて良かった。やっと見つけることができた」
そんなふうにエキドナは言った。
ただ今はファラオの護衛たちに囲まれている最中だ。
「この状況を考えろ。その話は後にしてくれ」
ナタが言った直後。
シャン
音が止まった。
エキドナは大きく蛇が頭をもたげるように動いた後で、蛇が空を飛ぶかのように跳躍していた。蛇と呼ばれる護衛が八人、空中から蛇に襲われて為す術もなく食い尽くされる。最後のひとりは逃げようとして大きく足をあげていた。地面から蛇の影がするりと這い寄るのが見えたからだ。
だが蛇は空の上だ。
男は首にまとわりつく蛇を払いのけるように手を伸ばすが、その時には槍と腕で首がきめられている。捻るように蛇が動くだけで、男は絶命していた。
「これでいい?」
エキドナはそしてナタに向き合った。
僕はこの時、ファラオを見た。ファラオにしてみれば、イザリースの使者が杖を出したときに赤い蛇のような戦士が出てきて護衛の戦士たちを殺したように見えたはずだ。その赤い蛇がヒルデダイトの将校だと知らなければ、イザリースのほうの護衛だと思い込むこともあるだろう。
エキドナの体術は芸術、あるいは奇跡を思わせるのに十分だった。
ならば今、ファラオはどう出るか。
「お願い致します」
僕は再度要求した。
モーセも同じことを思っただろう。
これを奇跡と思わないのであれば、
「神がナイル川を血で赤くそめあげます。その時、私たちは出発したいと考えております。そのナイルの流れでファラオには察していただきたい」
ナイル川を見ろとモーセは忠告する。
「ナイル川が血のように赤くなるだと?」
確かにそれが起きれば奇跡だ。と、ファラオも考えただろう。
この沈黙は了承と考えて良い。
僕はそう判断した。
「ありがとうございます」
それで今回の謁見は終了だった。
だけど、ナタのほうはそうはいかない。
目の前に赤い蛇がいる。そいつはミツライムの蛇を喰らったが、そもそもはナタやミツハを喰らおうとしている敵だ。
「じゃあ案内してくれる?」
彼女は無邪気な笑みを浮かべるが、あれだけの殺戮をして息を切らしていないところからも、そのおかしさは脅威だった。
だから、
「いや、まだ何かいる」
ナタは、ファラオの横を指差した。ナタで駄目なら、僕も同じように指を出す。今まさに新たな敵が僕たちの前に出てきたところだ。
そこには納得いかないとばかりに怒りを見せるファラオの護衛戦士がいた。
「ファラオは認めても、奴隷が逃げるなどこのミツライム一二闘神がひとり、オジャルは許さない」
これはまあ、赤い蛇の餌食になるだろう。
エキドナがオジャルに飛びかかったところで、
「今のうち」
僕はモーセの手を握って、外へと引っ張っていた。
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