第47話 ファラオとベリアル
最初に異変に気がついたのは、青い衣装の貴族だった。
「なんだあれは、順番待ちをしている連中をどかしている奴がいるぞ」
彼は友人に向かって次に笑う標的はあれだと指差した。「ヒルズパリス、どこの国の連中だ。礼儀も知らない成り上がり貴族がしゃしゃり出てきたか」だが、笑うにはまだ遠い。
「まずいぞ。やめておけ」
ヒルズパリスは、「サルペド」という男を叱咤する声をあげていた。
「どうなさったのです。イーリアのヒルズパリス殿といい、リュキアのサルペド殿といい。顔色がすぐれないようですが、我ら三大貴族に逆らえる者など、このミツライムのファラオ以外に……」
もう一人の腹の出た貴族はそこでやっと振り返ったが、その開いた口はここで塞がらなくなる。
これはヒルズパリスが、「ヒルデダイトの奴らだ」と教えたからではない。
サルペドは、ヒルデダイトという国自体は昔から知っていた。
「ほう、ヒルデダイトと言えば、貴族同盟軍からすれば後ろ盾になる大国ではないか。偶然とは言え、このような場所でヒルデダイトの要人と会うとは何とも光栄なこと。俺も是非その栄光にあやかりたいところだ。挨拶にいかねばなるまいなぁ。ここはひとつ三人で――」
ただし、サルペドもここで言葉を失うことになる。
赤いマントを翻すところ、赤い騎士たちの中心で燃えさかる火のごとく存在する男たちがいた。そこに皇帝アザゼルを見下ろす者はなく、遮る者もない。いや、同じ場所にひとり肩を並べる者がいる。
クジャアザゼルが、
「風変わりな文明だな、興味深いぞ。なあアリーズ」
と振り返るところには、常に輝く髪の青年がいた。
「いずれは陛下の色に染まる国です」
アリーズは火の粉が飛び散るような強い目をしていた。
ヒルズパリスはあまりに若い二人に唖然とした。
「叔父上が、今度のヒルデダイト皇帝アザゼルは私と同じくらい若いと言っていたが、これほどとは」
あまりに住む世界が違う。
生きる世界が違うのか。
ヒルデダイトの皇帝という者はファラオの護衛だろうと遮る者は殺して乗り越えてくる。大騒ぎになるかと思いきや、誰もそれを止める者がいないのならば、時間と共にその場は恐怖という名の静寂に包まれていく。
アザゼルとアリーズを挟んで、護衛をする戦士たちも異形。
蛇の目をした剣士は女性かと思うような美貌だったが、彼に睨まれるだけで誰も動けなくなる。
白い髭の老練な剣士がアザゼルを先導するように歩いていたが、その男がミツライム兵士の肩に手を置くだけで、兵士は簡単に道を譲ってしまっていた。ファラオへの忠誠も忘れて、恐怖だけが兵士を支配しているようにも思えた。
「誰か文句ある奴いる?」
少し離れて笑い顔の道化師だ。「あはははは」と笑いながらミツライム兵士をからかうように歩くのだが、その笑顔を振りまかれた誰もが死んだように硬直する。この世界で道化師は人間あらざる者としか人の目には映らない。笑う者は他になく、違和感だけがそこにあった。
世界がズレていく感触。
ヒルズパリスは身震いして、二人の友人を見た。生きた心地がしない。挨拶に行きたいとサルペドは言ったが、そんな気分にはなれない。「一歩でも近づけば殺される、そう思わないか?」と口には出せない言葉が脳裏をよぎった。
いや、正面から恐怖に飲まれた者がそこにいる。
「パンダマース……」
ヒルズパリスはもう一人の友人の名前を呼んだ。
その男はいきなり泣き始めていた。震えていた。声を立てることを許されずに、嗚咽だけを出しながら近くの柱にしがみついていた。必死に呼吸をとめて、まるで人間ではない何か別の生き物にでもなったかのように――。
ヒルズパリスが知っている貴族パンダマースの姿ではない。
物乞いか。
奴隷か。
それ以下の何かだ。
「何をしている?」
ヒルズパリスが友人に触れたとき、ヒルズパリス自身手の先から足の先まで鳥肌が立った。
柱の陰に隠れようとしてパンダマースは泣いていた。
「僕は貴族なんだ。嫌だ。いやだぁぁ」
それを冷たい目でちらっと見るのは、アザゼルだったか。
瞬間わかったことがある。
今、アザゼルがその口で「お前は豚だったか」とパンダマースに告げれば、それは豚になるだろう。世界はパンダマースを豚として認識することになる。
「カエルか?」
そう問いかけるならば、それは永遠にカエルとして生きていくことになる。
「犬だ」
そんな言葉だけで友人は殺されるだろう。生きながらに何もかもを失って犬と同じものになる。
アザゼルの前では貴族であることも関係ないし、金も名誉も意味をなさない。
あれは悪戯な運命そのもの。
「面白いなぁ。僕たちはただ挨拶に来ただけだよ? だって僕たち平和条約を結んでいるじゃないか」
笑い顔の道化師が言った。「みんなでもっと楽しいことしようよ」と。
ただしここはファラオの眼前。
これが道化師たちの遊びであるなら、こんなことが、ファラオの許可無く許されて良いはずもない。
「無礼だぞ」
黒い偉丈夫のその鋼に似た身体が動く。ファラオを守るのは常にミツライムの神々だった。
ジャッカルは怒り心頭だ。
神聖なオプト祭に紛れ込んでヒルデダイトからきた無法者たちがファラオの前で我が物顔をする。これを許してしまえば、人民からの信頼も消え、ミツライム国の栄光も地に落ちることだろう。
罪人への捌きは死だ。
そう思えばこそ、ジャッカルは鉄の曲剣を手にしていた。並の大人では扱えない大きな剣は神のみが扱える武器。落としただけで人間の首が飛ぶような代物だった。
これを前にして、セアルが一歩前に出ていた。
「我がアザゼルは平和条約を結んだ友好国を訪問されている。礼を欠くのはそちらだろう。なぜ貴様らは我がアザゼルに挨拶しにこない? それともこれが貴様の国の挨拶か」
「何を言わんや。先ほどから貴様らが殺しているミツライムの戦士は、ファラオの宝も同じ」
「アザゼルを愚弄したものを殺しただけだ」
「兵士たちが流した血と涙はファラオが流す血も同じ。ミツライムの神とファラオの力を知れ」
話すことなど他にあっただろうか。
セアルは剣を手にしていた。これも時代錯誤の鉄の剣だ。ミツライムでは見たことのない磨かれた刀身をしていた。
「剣舞でも披露しようというのであれば、私が付き合おう」
蛇の目の剣士は、これを剣舞のような余興だと言う。
どこまでも巫山戯ている。
ジャッカルは思っただろう。
「見えないのか」
これが。
ジャッカルの曲剣が唸りをあげてセアルを襲った。飛び退くのか、怯んで転げるのか。あるいは槍に叩きつけられて地面を這うのか。
容赦はしない。
ジャッカルは、敵の戦意をくじく一撃を放ったはずだった。だが目の前で、、セアルは身体を捻っていた。曲剣の刃を流しただけだ。予備動作もなく、セアルは細身の剣をすこし傾けただけ。ジャッカルの曲剣は地面に吸い込まれるように落ちた。
ジャッカルは大振りしただけだ。それは戦闘で使う技ではない。挨拶代わり――。
挨拶が必要ないのであれば、次こそは殺しに行く。
「ふんっ」
ジャッカルは曲剣を拾い上げて続く斬撃を放った。横に薙げば、相手が左右のどちらに動いても関係ない。当たれば吹き飛ぶだろう。
相手剣士は、女性のような美しい顔をした男だ。肩幅こそあるが、細身の身体にミツライムの神に対抗する筋力があるとは思えない。力で押し切れば、負けるはずがない。
だが剣士はひらりと空中に逃げた。細身であるからこその身軽さがあった。
セアルの赤いコートが跳ね上がれば、まるで薔薇が空中に放り投げられるのを見るようだった。
薔薇には棘がある。
この時、セアルがコートの下のベルトから短剣を引き出していた。小さな剣だ。これが四本、ばらまかれた。一直線にジャッカルを狙うものではなく、回転しながら放物線を描いている。
何のことはない、苦し紛れに刃物を放り投げてくる相手だっただけのこと。
だが、ジャッカルが頭上に投げられた剣を躱そうとしたところで、空中の剣と剣がぶつかって、軌道を変えてくる。
ジャッカルは咄嗟に曲剣を盾がわりにして短剣を弾いた。
「ええい」
小賢しい。
ただそれだけだと思った。
ジャッカルが思ったとき、背中に痛みがあった。
耳の後ろで短剣が地面に落ちる音がする。いつの間にか短剣のひとつが背中に刺さっている。そしてまた別の短剣が、今度は壁に跳ね返ってくる音。違う、剣と剣がぶつかる音。そのどれもが右からも左からも響いてくる。
はっとしたときには、ジャッカルはすでに二〇本以上の短剣に囲まれていた。
床に落ちたと思えば、その短剣はむくりと起き上がって跳ね上がってくる。
誰かが短剣を拾って投げつけてくるのか、それらの短剣は一向に落ち着く気配を見せない。
そしてこれが上下左右から襲い掛かってくるのでは、これはもう剣の檻だ。
曲芸の世界だった。
「小さな剣になど構ってはいられない。切り傷を怖れていては目の前の男に踊らされるだけだ」
ジャッカルはそう思うと、両手で曲剣を持ち身体を前に出した。セアルに近づいて、そのまま切り伏せる構えだった。
その瞬間、ジャッカルは見た。
腕の横に弾かれていった短剣は回転しながら空中で弧を描いてジャッカルの心臓の横に噛みついてくる。これは羽虫のような動きに思えた。剣が意志をもって、ジャッカルの死角から襲いかかってくるのでは話が違ってくる。
大きく身体が傾いたのもこの時だった。
足の腱に短剣が食いついている。これはもはや無視できる切り傷などではない。
ジャッカルが踊れなくなったところで、
セアルが踏み込んできた。それは彼自身が手にする剣の間合いだった。
ジャッカルには為す術がなかった。剣を振ろうにも神にしか扱えない曲剣が意志を持ったように手から離れる。床に落ちたと思えば、今度は刃をジャッカルのほうに向けていた。この世界ではすべての剣はセアルの思うがままだ。
おそらくセアルは剣の先を当てて、床の曲剣を起こしたのだろう。
その瞬間は見えた。だが、だからこそ絶望がある。
巨大な曲剣は神と呼ばれる戦士にしか扱えないもののはずだった。それを剣の先で扱えるというのならば、彼が直接その間合いにおいて剣を振れば、ジャッカルの肉体などひとたまりもないだろう。
ジャッカルにはそれが人間であるようには見えなかった。神でなければ、それは何だ?
世界の歪みがあった。
「死ね」
セアルの冷酷な言葉があった。
気がつけば、それはジャッカルの目の前にあった。
「待て、もう良い。余興は終わりだ」
この時、ファラオが頭を下げた。
同時にアリーズも言った。
「下がれセアル」と。
それはオプト祭の儀式を控えた首都ラムセスでの出来事だった。
「我々はオプト祭を祝してミツライムのファラオに挨拶に来ただけだ。他意は無い。非礼があったなら詫びよう」
アリーズは改めてファラオに向き合った。
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