第四章 エクソダス
第46話 ミツライムの祭典
ミツライムの繁栄はナイル川によってもたらされた。
川を遡った遙か奥地の高原において降り注いだ雨が、ナイル川を下る。すると、一〇月頃にはそれが濁流となってミツライムの土地を呑み込む。
川の氾濫を待って、人々は農耕を繰り返す。ナイル川によって運ばれてきた肥沃な土、これが豊かな実りとなって国を潤していた。
故に年に一度、川が氾濫する時期においては誰もが祭りに興じる。これがミツライムでの習わしだった。オプト祭と呼ばれる祭儀では、人は神に感謝し、ファラオに貢ぎ物を捧げて一年の息災を願う。この時ばかりは、首都ラムセスからナイル川上流のアメン大神殿に至る全ての街が祭り一色だ。
「こっそり上陸してもばれないのでは? 祭りですごい人だかりです」
僕は小舟の上から首都ラムセスを臨んでいた。まさにオプト祭が始まろうとしているのが見て取れる。
ミツライムに到着したのは昨日のことで、僕は首都の雰囲気ががらりと変わったことに驚くばかりだった。
オプト祭は次のようなものだ。ナイル川を遡った場所にアメン大神殿がある。ここにある御神体をファラオの祭儀場へと移す。これは洪水の季節を乗り越えるための儀式だった。御神体はスフィンクスの並ぶ道を通り、オベリスクを抜ける。このときミツライムの英雄が並び、民衆にとっては遙か遠い存在であるファラオもその姿を見せる。
民衆は朝から晩まで踊り明かし、ファラオを歓声で迎える。沿道には料理から装飾品まで世界の全てが並び、あらゆる国の商人が集まるのが毎年の光景。
世界で最も壮大な祭りだった。
「聞いていた通りの騒ぎよう。これがオプト祭やり」と、賢者はこの時期のミツライムを説明していた。
さすがに目立つ赤頭巾は畳んでカバンの中、今はボロを被ったリッリ。賢者が考える計画はここからだ。
「ファラオに謁見するならオプト祭の前であろうと考えたりが、思惑通り。これなら上手くことが運びそうなりや。すでにこの人だかりなり。指名手配されてりワレらも上手く隠れることができやり」
ボロ頭巾リッリは、小舟から頭を出した。
「隠れる必要がないのはいいが、それはあいつらがいなかった場合のことだろ」
ナタはギリシャの貴族風衣装。海路を旅してきた商人という設定だった。それでも商人として振る舞えないのは、たぶん警戒すべき敵がそこに居るからだ。
目の前には、海から入ってきた各国の船団が港を埋め尽くす光景がある。宝石を散りばめた海の国々はもちろん、遠い異国の船もちらほらそこに確認できた。中でもヒルデダイトの大船団は目を引くものだった。一際大きな帆船を中心にして、黒光りする軍艦や真っ赤な高速艇が一〇隻ほど連なる大船団。
「ヒルデダイトですよね、あれ」
僕は船団にキマイラの旗が翻るのを見た。
「ヒルデダイトなんてそんなに怖い?」
ミツハはここに来て僕たちがあまりにヒルデダイトを気にするのを不思議に思っただろう。
「怖いというか、僕たちは、あっちでも指名手配されてるから」
僕はその原因に目配せをする。
シェズだ。
「ん? そんなことあったっけ」と彼女はとぼけるが、やがて思いだしただろう、その顔が、「くしし」と笑い始めていた。
「そう言えば、シェズはヒルデダイトの首都にいたんだっけ? ナタってそんなに有名人だった?」
ミツハはそこで事情を知ることになる。
「ごめん。そう言えばそうだった。あたしがナタとヘルメスの手配書を書いたんだった。あれのせいで、ヘルメスの人生はもう積んでたんだった」
それを思いだしたとシェズは呟いた。
「笑い事?」
ミツハは唖然とするが、
僕は笑い飛ばしたい。
「シェズが書いたのが不幸中の幸い。どっちみちあんな手配書じゃ僕たち捕まんないし」
「美形に書きすぎた?」
シェズは見栄っ張りだ。ミツハが見て居ないことをいいことに、絵の才能があったかのように振る舞う。
「あれは宇宙人かなにかだよ。あれで人間は捕まらないってナタも言ってたし」
僕はありのままの事実を伝えるだけ。
「下手?」
この意図はミツハには十分伝わっただろう。
だがヒルデダイトの騎士というものは往生際が悪いものらしい。
「少し現実と違うところはあったかもしれない」
「少しじゃなかったよ」
「ちょっとだけだっただろ」
「全然顔違ったし」
「そんなことないし。なんならお前の顔をあの絵と同じようにだってできる、それでそっくりだ」
実力行使だとシェズは手をすり合わせていた。
「絵の才能ないって認めてるじゃん」
僕は悲鳴に近い声を出したに違いない。シェズに肩を掴まれると、もはやどんな運命からも逃げられなくなる。
ただ、そこで雷のように落ちてくるのは、いつも、りっりの杖。
「今隠れておりや。騒ぐなや。ばぁかもんが」だ。
オプト祭が開かれるのはアメン大神殿であり、さらにナイル川を登った場所だった。見れば一部の船はナイル川を旅してアメン大神殿を目指す動きをしている。
ファラオもまた祭りの最後の時期には首都を出てナイル川を登らなければならない。だからこそ、オプト祭が始まる今、世界中の王や金持ちがここに集まっていた。祭りが始まる直前のこの時期なら、ファラオはまだラムセスにいる。
ミツライムの人々にとって、最も華やぐ祭りの瞬間はむしろ今かもしれない。
「ひとつ聞くけど、本当にファラオに会いにいくわけ?」
ミツハは揺れる小舟から、遠く霞むように見えるファラオの神殿を眺めた。
さっきからナタも同じことを気にしていただろう。
「警備も厳しそうだ。ヒルデダイトの連中もいる」
僕たちの最初の目標はファラオへの謁見だった。
成功するかどうかは賢者の知恵次第。
「ファラオへの謁見なりやから警備して当たり前りゃん。して、ヒルデダイトがいやりやからワレらも紛れこめり」
リッリは今は赤頭巾ではない。ボロを頭巾にするボロ頭巾。
僕は問う。
「ファラオへの謁見って、直談判みたいなものでしょ? 周りの人たちは祝福に来ているのに、僕たちそんなことして大丈夫? 以前にそれをやったら戦争だって言っていなかった?」
僕はその作戦の結末を想像できなかった。
「むしろ今だからこそ、直接言いたいことも言えりや。奴隷を解放してりゃ? なんて普通に言えば槍でつつかれり。なれどオプト祭に集まって来たバカが一人何か言ったところで、気にとめる人間がいやりや?」
「バカって僕たちのこと?」
「良いかや。人攫いの真犯人を見つけやりやも、下っ端をつついたところで出てくるのは犬の糞のようなものなや。上をつついてみなければ、実体はわかりぬ。奴隷解放も、どの辺りに問題があるかを把握することから始めやりや。どちらにしてもファラオの反応を見てみることが重要でありん。ここでファラオを怒らせたところで問題はなき。ワレの目的はひとつ情報を得ることにあり」
そんな風に言われても、
「ファラオを怒らせて様子を見る作戦?」
だと分かっていれば、ファラオへ謁見する役回りは避けたいところ。
「話はモーセがしやりや、それは護衛だけしてりゃ良き」
ぴしゃりと言って、リッリは僕の背中を叩いた。
「僕?」
「ワレやシェズは変装にも限界ありき。ヘルメスの体格なら無難に変装できりや? それにその顔ならファラオもバカが来たと納得すり」
「ファラオが納得する?」
そんなに僕の顔は――。
「とりあえずモーセが待ってり、すぐに変装してけ」
リッリは僕にも貴族風の衣装を投げてよこした。
背中を叩かれた僕は、その勢いでモーセと出かけることとなる。
気が重い話になるが、これは買い物とか食事ではない。貢ぎ物を携えてのファラオへの謁見だった。
アメンという太陽の神を纏うかのように黄金で着飾ったファラオが座すところ、ミツライムの屈指の戦士たちが並び、美しい召使いの少女たちが花とその美を競い合うように飾られていた。来訪者の視線が交錯する中でその輝かしさはまぶしいばかり。
ファラオは王の中の王。
それに比べて、通りすがりの貴族たちは次のように僕を噂する。
「あれはどこの貴族だ?」
「なりあがりの商人ではないか? 変な猿が混じっている」
華やかな衣装を着た金髪の貴公子が笑っていた。ミツライムでは見ない衣装や顔、それらはギリシャやイーリアからの来訪者だ。仲の良い三人組で今回のオプト祭を見に来たらしい雰囲気がある。
貴公子の隣で、青い衣装の貴族も同じように笑った。
「東の果てに仙人とかいう者がいると聞いた事がある。それとも猿の神を祀っていたか」
「あいつらを捕まえて、めずらしい猿として連れて歩くのも一興かな」
最後に膨らんだ腹を衣装の中に無理矢理ねじ込んだような青年貴族が、今にも笑いだしそうな顔で僕を見てくる。
「ハズい……」
モーセの隣を歩く僕は手にした貢ぎ物で一応、顔を隠すようにする。目立たない化粧のはずが、逆効果。身元がバレないようと厚く塗ったおしろいの上から眉毛を描いてほっぺを赤くしただけなのに。
僕とナタは荷物を運んでいた。ファラオに捧げる穀物や黄金などだ。これをミツライムの兵士たちに渡すと、晴れてモーセを筆頭にしてファラオへの謁見となる。
「カナン王国シナーイからおいでになったモーセ殿」
兵士が謁見する者の名を呼ぶ。
これでやっと、モーセはファラオの前に立つことができた。
僕はファラオを見た。だがすぐに、ファラオの右にミツライムで神と呼ばれる戦士ジャッカルが控えていることに気がついた。一際大きな黒き身体は力の象徴だ。ジャッカルの犬のような兜は視線を合わせずとも誰をも睨んでいるように見えたし、精悍な体つきはどんな体勢からでもファラオに仇なす者を仕留める。そんな神の姿を象った彫像にさえ思えた。
モーセは座り込み、自己紹介をする。
その間、僕は背後にも気を配った。
「カナン王国シナーイなんて聞いたことがないぞ。とくにあの猿顔、さっきからきょろきょろしていて、僕の飼い犬のほうがよほど上品というものだ」
肉をほおばりながら、さっきの腹の出た貴族の青年が喋っていた。彼らはファラオに謁見するための順番を待っているところだろうか。「飼い犬で思い出したが、これを食べたら、さっそく奴隷闘士を漁りに行こうではないか。奴隷同士を戦わせる例のコロシアム、そろそろ我が国も勝たなくてならないからな。わざわざこんな遠い国に来たのもこれのためであろう」彼らはもともとファラオに興味があるわけではないらしい。
「ああ、その話か。奴隷漁りは、貴殿らに譲るよ。ゆっくり見ていってくれたまえ」
金髪の貴公子が余裕の笑みを浮かべれば、その他の二人は首を傾げる。
「どういうことだ。先日までは誰が一番強い奴隷を探し出すか競争すると言っていたのではなかったか」
と、青い衣装の青年が食い下がった。
「悪い。叔父上の口利きで、巨人族が手に入るかもしれん。少し金はかかりそうだが、今度のコロシアムはそれでいこうと思っている」
「狡いぞ、ヒルズパリス殿」
三人はいつしか大声だった。周囲の参列者の注目を浴びてしまっては、ファラオの機嫌をそこねていないだろうかと気になったのだろう、三人はそして黙った。
そうして僕が背後に気を取られている間に、モーセのほうも大方話が終わっただろうか。
ファラオは、モーセの前で表情を変えなかった。
「モーセとやらの言い分はわかった。奴隷の子供が攫われている件。我が国で子供が攫われているのは事実だ。子供を救うというのなら、私だってやっている。すでに将軍に命じて調査させている。これに関連して我がミツライムのエージェントが二〇人ほど殺されているのだ。もう奴隷だけの問題ではない」
淡々とした口調だ。
モーセにとって本題はその先、
「子供が攫われる件も問題ですが、我が一族は、もともとミツマの民。歴史を紐解けば、これは奴隷ではないのです。私は安息の地を見つけたのです。彼らと共にミツライムを出て行きたい。許可していただきたいのです」
相手ファラオの態度は変わらない。
「奴隷が勝手に出て行くことなど許されるはずがない」
ファラオは、「奴隷は奴隷なのだ。それを決めるのはミツライム人である我々だ」とだけを言う。
「そこをなんとか」
「もう良い、さがれ」
ファラオは箒でゴミを掃くようにして手を振った。これでモーセの謁見は終了となる。
それ以降は、モーセが何を話そうとしても、ミツライムの戦士が立ちはだかって壁になった。
「次の者、前へ」
ファラオの側近が声をあげると、次に謁見する金持ちたちがやってくる。そうなれば、そこにいる誰にとっても僕たちは邪魔になった。
モーセは大きくため息をついて、身を翻した。自分の気持ちはファラオには届いていない。現在のファラオであるラムセス二世が生まれた時には、すでにミツマの民は奴隷であって、それは王家の者が王を引き継ぐのと同じく当たり前のように引き継がれたものだ。モーセとはそもそも価値観が違っている。
「ある程度は予想通り?」
僕は少し安堵した。「むしろもっと騒ぎになるかと思っていたけど」とは、安心して帰路につけると思ったところがある。
これにはナタも拍子抜けだっただろう。
モーセも落胆の色を隠せない。
「リッリ殿は何かしらのリアクションを期待していたのだろうが、我々はまるで相手にされておらん。騒ぎになっては困ると思っていたが、相手にされないことのほうが問題であった。これほど空しいものとは思わなかった」
しかし、
「リッリのことだ。次の作戦があるよ」
ナタはもう振り返らない。
ただ、収穫めいたものもある。
「巫山戯るな、順番だそ」
「割り込みとは卑怯な」
そんな声があがったのは、まさに僕たちが神殿を去る直前。
神殿を放浪するだけ僕たちとは違って、ここで大いにミツライム人やファラオへの来客を驚かせた者たちがいる。参列する貴族たちを震え上がらせて、順番など関係なしにファラオの前に出て行ったのは、ヒルデダイト帝国の皇帝だった。
僕が彼らに会うのはイザリースの落日から数えて二度目になるだろうか。あの時は、燃えさかる火に急かされて状況観察などできなかったが、これは敵を見定める良い機会になるかもしれない。
僕は距離を置いた場所で、振り返った。
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