第45話 羊飼いは夢を見る
夏が過ぎようとしていた頃、僕たちはまたシナイ山に登っていた。
村に立ち寄ると、モーセは羊と共に出かけているという話があったので、僕たちはここでも焚火を囲んでいる。
シナイ山の頂に煙があがれば、それはモーセへの合図。
僕たちはミツライムに行って、モーセの一族を探してきた。
きっとモーセはカナンに行って、流行病の患者を診てきたことだろう。
これで僕たちの交わした約束は達成されることになる。
あとは僕がモーセにミツライムで起きたことや知り得た情報を報告をするだけなのだけど……。
「ミツハちゃんはこの後どうするのさ?」
僕は焚火の傍に座り込んで、モーセが来るまでの時間を潰していた。
僕が声をかけたミツハという少女がミツマの一族だった。
「攫われた子どもを取り返したいから、ミツライムに戻ると思う。結局あの事件は未解決だし」
彼女は僕を毛嫌いしていたが、今では普通に話してくれる。
ただ、 僕はまだ警戒はされていて、彼女は少し離れたところで立ったままだけど。
「ミツライムに戻ったら殺されるじゃん。だったら僕たちと一緒に行こうよ」
と、何度誘ったかわからない。だけどそれは僕たちが別れるまでだ。その別れは今日かもしれなかった。
「モーセって人に会わせたいって言うからここまで来たけど、正直なところ、わたしだってミツライムに残ってる知り合いが心配だし」
それを言われると僕は強引にはなれなかった。
「うん」
でも今日はいつもとは違う。
「あんたのほうはどうするんのよ。神様を探す旅なんでしょ? ミツライムには神と呼ばれる人がいるけど、あんた会わずに逃げてさ」
ミツハのほうから誘いみたいな文句があった。
「うん、あれね」
僕は口ごもる。
「はっきりしなさいよ」
「うん、僕ってさミツライムの将軍殺しの一味として指名手配されてるよね? たぶん。もうミツライムには行けないよ」
ミツライム兵に囲まれた経験は、何度思いだしても気持ちいいものではなかった。少し違えば殺されて居たのは間違いなく僕だ。
次に同じ目に合えばきっと殺される。
幸運は二度もない。
そう思うから、ミツハの提案には全力で首を横に振るしかなかった。
神を探す旅と言い換えれば僕は失敗したのかもしれない。
「はぁぁ」
ため息だった。
ちなみに、
「ナタはどうするの?」
ミツハはこの時、興味本位で僕の護衛にも声を掛けていた。ナタは一応僕の護衛だったはず。
「俺? 俺はたぶん、アースガルドに行く。あっちにイザナミがいるはずだし、ブラギダスティもいる。ヴァルキリーたちもいるしヒルデダイトの思うようにはならないだろ。とは思うが、心配と言えば心配だから」
ナタがここに居る理由は単純。
逃げ延びたところに魔王城があったので、それを攻略したら病人が増えた。それで医者を探しにシナイ山に来たというだけで、本来はアースガルドに加勢に行くべきだっただろう。
僕は神様を探しながらナタと一緒に旅をするだけ。
だって、神様なんて何処でどうしてるかなんてわからないし。探しようがない。
「イザリースを滅ぼした火の神だっけ」
ミツハはその行く先を思っただろう。「ヘルメスが行くところってミツライムよりやばそう?」それは僕が考えたくもない本質だったかもしれない。
そんな話をしていると、
やがてモーセが山を登って来る。
僕は気を取り直して、モーセに手を振った。未来には不安しかないけれど、今日ばかりはお祝いしてもいいはずだった。
僕たちは約束通りミツマの一族を見つけてきたのだから。
「モーセさーん、ちょっと遅くなってごめんなさい。話すと長くなるんですけど、僕たちミツライムで追われることになって、途中のピラミッドに隠れることになったんだけど、リッリさんがなかなか出てこなくて」
僕は、とりあえず言い訳から。
リッリは僕の隣で赤頭巾の下には不満顔。
ピラミッドから引きずり出したのをまだ根に持っているのかもしれない。
「私が待った四〇年に比べれば、うたた寝程度の時間です。まずは無事に帰ってこられて何よりでした」
モーセは白い髭を挟むように両手を前に出していた。その手で僕の手を掴むのは、今までにない感謝の表現だ。
「どうされたんです?」
カナンへ行くことを嫌がって疑心暗鬼だった頃のモーセではない。
「カナンであなたたちの活躍は聞いております。ノウルの古城やザッハダエルを救った英雄として」
「いえ、ちょっと待ってください。そんな大げさな」
「大げさではありません。世界を救ってくださるオーディン様に、不老不死の薬を調合できる巫女様——」
それはナタやリッリのこと。
「それ、やっぱりおおげさです」
僕がつっこむと、
そこでモーセは、ここで人数が増えていることに気がついただろう。
「そちらの女性は?」
それこそが僕たちが報告すべき案件だった。
「僕たちが探してきたミツマの人です。ミツハちゃん」
と、僕は紹介する。
ミツハからは、相手を探る冷たい目があった。
「あんたがモーセ? なんであたしを探しているのか、聞いていい?」
初対面では警戒されて当然。
「わたしは四〇年前にミツライムを追放された身です。ミツライムを出てみんなで新しい国を作る約束をしていました。だからこそこんな山で四〇年も兄弟たちを待っているのです。ミツマの者たちがわたしたちを追いかけてくるのを待っていたのです」
「それ本当?」
「今は山の麓に集落がひとつあるだけですが。それでも私は四〇年待ち続けた」
モーセは火を囲んで、少女を見つめた。この四〇年の重さと思いは少女には伝わらないだろう。なにしろ少女はまだ二〇年も生きていない。
続けて、
「なぜミツマの者たちはここへやって来ないのか、わたしはそれが知りたい」
モーセは深く考える。モーセを裏切って、「ミツライムで幸せに暮らしているというのなら、それでも良いのだ」どんな理由でも受けとけるつもりだと彼は言った。
「ミツマの人間はあなたのことを知らない。知っている人がいるのかもしれないけど、わたしは誰からもあなたのことを聞いたことがないわ」
ミツハでは四〇前の事情はわからない。
モーセはこれを聞いて落胆した。
いや、これがミツマの人間か?
むしろ、そんな疑問があっただろう。
「お前の父親は何と言う名前だ?」
モーセは問う。
「ハルキル」
そんな名前はモーセの記憶にはなかった。
「では母親は?」
「ミルカ」
それもモーセの記憶にはない。
渋る顔をすると、ミツハは次のように言ってため息をついた。
「どうせ、奴隷の名前だし仕方ないわ。どうもおかしいと思ったのよ。奴隷階級のミツマなんて探している。そんな人間がいるっていう話。人違いで悪かったわね」
それは心のどこかでお互いに覚悟していたことかもしれない。
「奴隷か」
モーセはそこで口を継ぐんだ。ミツライムは広い、確かにミツマといえど、同じ名前の人間や民族が居たとしても仕方のないことだった。それを全て把握しているかと問われるとモーセには言葉がない。
どれくらい沈黙しただろうか、僕は何も言えなかった。
ナタもリッリも同じように沈黙したままだった。
僕たちはモーセが望む情報を持ち帰ることはできなかったのかもしれない。
だが口を閉ざすのは人間だけ。
全ては人間の都合だ。
空にはまた別の都合がある。
空を飛ぶ鳥は常に自由だった。
ミツハは立ち上がると、口笛を吹く。彼女は「ちょっといい。機嫌をそこねると後で面倒だから」と言った。
誰の機嫌をこねるのか。
モーセは思っただろうが、次の瞬間には頭を抱えていた。
空から降ってくるのは火山弾のような物体だ。それが羽を広げるとモーセの目の前からすべての景色が吹き飛んでしまう。
「おぉ」
巨大なハヤブサだった。これにはモーセの従者ヌンでさえも肩をすくめて動けなくなる。
「あなたはそんなに大きなハヤブサを手なずけているのですか」
おそるおそるモーセは尋ねた。これは奴隷ではない。それを半ば確信していた。
だから、
「なぜ」と言ってしまう。
「なぜ、あなたは奴隷なのでしょうか。あなたはいつでもそのような運命から逃げ出せるはずだ。そんな力を持っていれば、誰があなたを奴隷などと言いましょうか」
これには、ミツハも窶れた顔をした。
彼女が答える理由はモーセに理解されるだろうか。
「父や母だけじゃない。みんなあそこにいるんだから、わたしだけが逃げても仕方ないじゃない」
「みなで逃げればいい。奴隷でいるよりもよほどそのほうがいいだろう。奴隷は所詮人間ではない。あなたは人間らしく生きるべきだ」
「見えている人だけじゃない。大切な人が他にもいるってお婆さまが言ってたわ。わたしは詳しく聞かなかったけれど、誰かが人質にとられているような感じだった。それでわたしの父も母もずっと奴隷。みんな奴隷なんだから、もうどうしようもないじゃない」
「それがファラオのやり方です」
モーセは頷いた。「奴隷を手なずけるために、人質をとっているのでしょう」ミツライム人なら奴隷相手にそれをやるだろう」と。
ここで呟いたのは、リッリだった。
「その人質とは、それらにとって奴隷になるよりも大切な人のことかや?」
話を聞いていて、興味をもったのが、「人質」だ。ミツハの一族が歴史的に奴隷なら疑問もないが、人質で奴隷にされているとなれば、少し気になることがあると言う。
ミツハたちを奴隷にし続ける、それはどのような人間だろうか。
ミツハは知らないと言った。
「お婆さまが好きだった人じゃない? 笑っていれば、誰かがちゃんと幸せになれるからって口癖のように言ってた。ううん違うか。奴隷になってるのはみんなだし。みんなが納得するだけの理由があるんだと思う」
「誰かか」
「わかるのはそれだけ」
「笑っていれば、誰かがちゃんと幸せになれるか——」
「まるで呪文みたい」
「良い言葉だ。わたしの人生もそんなものだったのかもしれない。わたしもよく姉にそんなことを言われたものだ。四〇年、わたしはちゃんと笑えていただろうか。それを考えると、奴隷といえどミツハの祖母には感心させられる。その祖母の名は何と言うのか?」
モーセは、せめて同じ苦労人として名前だけは知っておきたいと思った。
「祖母になんか興味あるの?」
「ここであなたと出会ったのも何かの縁であろう」
ミツハが、
「ミリアム」
と呟いた時、
確かに、モーセの目から涙が溢れた。
ふいに流れた。
ミリアムが言ったという言葉。それを聞いた時、モーセはなぜか自分のことのようにしっくりと来た。そして彼女の名前が気になったわけだが、それは偶然などではない。その名前の懐かしさよ。
「どうした?」
ナタは泣き崩れたモーセに歩み寄った。
僕も突然のことで言葉がない。
ただこうなるとモーセは背中で嗚咽をだすように震えるだけだ。会話などは当分できなかっただろう。
「なにがありや?」
赤頭巾の賢者もいきなりのことにびっくりしていた。
答えたのは従者のヌンだった。常にモーセと共にあって、モーセがいなくなった後はおそらく彼がミツマ一族をこの地で待ち続けるつもりだろう青年だ。
「ミリアム様の名前は聞いた事があります。モーセ様の姉の名前がミリアム様でした」
それくらいのことは、ミツマ一族を待つ者としては知っていて当然のことだっただろう。
「だとすりや、ミツマ一族が人質に取られているというのはモーセらのことでありん?」
リッリは首を傾げた。
しかしここで僕には、不思議に思う事がある。
「ミツハちゃんの祖母が庇っていた人質がモーセさんってことはないんじゃない? モーセさんはずっとミツライムに見つからないように隠れてここに住んでいたわけだし。ミツライムのファラオはここにモーセさんがいるなんて知らないはずだよ」
「いや、もう見つかっておりや。ミツライムの軍隊が四〇年もここに気付かぬはずもなきゃり」
賢者は杖を絞るように持った。
「見つかってた?」
「四〇年も襲ってこない理由を考えるべきであったりや」
つまり、
「ここに居る人たちは隠れているつもりだったけど、そうじゃない。最初から人質として生かされていたってこと? そして四〇年も来るはずのない友人たちをモーセさんは勘違いして待ち続けたってこと?」
僕は全てを繋げてみた。
モーセも気付いただろう。
「この四〇年、私はずっと待っていたのだ。羊とともにずっと彷徨っていた。いつか約束が果たされる日を夢みていた」
「ああ」
知っているとナタは頷く。
「四〇年……。この四〇年、ずっと兄弟を苦しめていたのは私だったのか」
モーセのこの問いかけに僕は何も答えられなかった。
モーセが倒れかかってきたので、彼の身体を支えるのが僕にできる精一杯だった。その老人からは、「あぁぁぁあ」という嗚咽が出るばかりで、もう言葉にはならない。
「辛いよな。それ」
ナタはもうモーセたちを見てはいなかった。
四〇年という時間は僕でさえ直視できるものではない。
「今さら後悔しても時間が戻るはずもなりや、これからどうするかが重要であり」
モーセの待ち人は来ない。来たのはミツハだけだ。
これ以上待っていても他には誰も来ない。
事実はこれだけ。
賢者は知恵を出す。
「それはカナンに行ったであろ。あの地は暮らすのには良い場所なりや。ただ人が居ぬ。人手がもっと必要になりや。それにこことは違ってミツライムの監視もなきにして、彼の地に移住すればよかろ」
まあ適当な提案だ。この時は誰の耳にも入らなかったか。
だが、そうなるとナタは言葉を換えた。
「ミツハはどうする? モーセがミツハと同じ一族であるなら、これは再会という話だ」
ミツハが行動にも影響がでるかもしれない。
「どうするって言っても――」
ミツハは困った顔をするばかり。「いきなり親戚だって言われても。予定は変えられない。ミツライムには攫われた子供たちがいるわ。放っておけない」それはミツライムに戻る未来だ。
ミツハにとって、問題はまだ何も解決していなかった。
「でも親玉は倒したじゃん」
とシェズは言うかもしれないが、
「親玉はあれではない」
赤頭巾は指摘する。「ウバルというや将軍も使い捨ての駒よ。何千人という子供が監禁されてりや? それを隠蔽するとなりゃあ、相当な組織が動きや、将軍だけでなんとかなりう問題でもなき」とは、
「ファラオとか言う奴が絡んでいるってことか?」
ナタの推測するところも同じだっただろうか。
これには賢者は首を傾げた。
「ファラオが関与するりゃとな、もっと賢い方法がありやと思わりんが。それに将軍は言うてり、子供を外国に売り飛ばすとかなんとか、あれは自分のことでありん?」
「そんなこと言ってたか」
「その方法を知っている様子あり。さらにはヒルデダイトの竜翼章まで絡んでくり。取引相手がヒルデダイトということも——」
「だとしら、黒幕は今のところわからないにしても、この後もずっと奴隷は子供を攫われ続けるのか?」
ナタの疑問は、次に肯定される。
「止める者がおらん」
リッリのひとことだった。
ただ肯定できない者もいる。
「わたしは子供たちを取り返す。攫われた子供たちのことを思うとここで引くわけにはいかないから」
ミツハが意志表示していた。結局、それ以外の生き方を彼女は知らないと言った。
モーセも声を合わせた。
「ミツライムで何が起きているというのだ? 子供が攫われているというのは本当のことか」と。
僕は頷く。ミツハの代わりに説明すれば次のような内容。
「もう何千人もの子供が連れ去られてるんです。被害にあってるのは、ミツマの人たちで——」
「であれば、私もその子供たちを助けてこよう。もはやここで待っていても仕方のないことです。せめて兄弟たちの助けになれば」
この二人の声だけであれば、相手は軍事大国ミツライムのことだ。
歴史の何が変わるだろうか。
僕はモーセに事件のことを教えて少し後悔した。手伝うなんて冗談でも言えるものではない。
リッリは、別の意味でため息だった。
「モーセ、それは死ににでも行くつもりなりや?」
理由はあとずけのようなものだろう。
これを言い当てられても、もはやモーセは退かない。
「これまで私を支えてくれた兄弟たちのために、私はどうしても何かしたいのです」
「それはファラオに直談判でもして奴隷を解放してやりとか、子供を返してくれりと思うてそうやり……」
リッリが言えば、
モーセは何も答えない。
賢者曰く、
「ファラオに直接お願いしてはなりん。ファラオはエージェントなるものを組織して奴隷たちのために子供らを探してり。一応そういう体裁を整えてりや。そこから子供が出てきたらおかしかろ。そんなことをすれば戦争になることもあり得り」
と告げる。
「戦争とは名ばかりの虐殺であろう。神は逆らう者に容赦はない——」
モーセは結末を知っていた。
「ミツハはどのように子供らを助けるつもりかわらりぬが、それをやったところで民が真実を知るようなことがあれば、やはり戦争になりんや」
リッリは杖の先で焚火の中でか細くなってきた火種を起こした。
「どういうこと?」
ミツハはたぶんその先を考えてはいなかっただろう。
「子供らを助けるのはそう簡単な話ではなき。故にわれも手がだせんやり?」
「助けたら戦争になるって、それじゃあ子供たちを助けてはいけないってこと?」
突きつけられた現実にミツハは呆然だった。
「同時に戦争を回避する手立てが必要なや。戦争になれば、もっと大勢が死にせり」
「だからって、このまま子供たちが攫われるのを止めなければ、わたしたちは兄弟が居なくなってしまうわ。どっちにしてもわたしたちは——」
ミツハはどうしようもなく俯いた。「なんとなくわかってた。でも、どうせわたしたちには生きていく場所なんかないから——」それは寂しい台詞だと思う——。
「これが四〇年待った末の現実だというのか。ファラオを敵に回した時点で、我々には最初から生きる場所などなかったのだな。四〇年みなに辛い想いをさせただけだったか」
モーセもまた覚悟を決めただろう。以前より重い荷物を背負った顔が険しくなっていた。
「やめてくださいよ。行けば死ぬと思います。でも行かなかったら——」
僕は当たり前の事を述べた。「何の解決にもならないけれど、できればみんなで違う方法で生きて居てほしいです」と素直な言葉だ。
ミツハにもモーセにも幸せな人生があってもいいと思う。
でも、
「やっぱり。あんたは嫌い」
それがミツハからの別れの言葉だった。
「知らなかったほうが幸せなこともありんせ」
そこからは彼らの生き様だとして、リッリが口を閉じた時——。
僕は自分の無力さを思った。
どんなに勇者だとか英雄だとか名乗っても、助けたい人が助けられるわけじゃない。
勇者ってどんな人だっただろう。僕は何もかもを見失ってただ惚ける——。
雲が流れて、
僕はナタが立ちあがるのを見た。
風を震わせる黒い髪。
透き通るような白い手。
その人が言う。
その瞬間を僕は忘れないだろう。
空が動いた。
あるいは時代が動いたと表現したほうが良かっただろうか。
「俺たちもミツライムに戻るぞ。俺がモーセの約束を叶える」
それは僕が言いたかった台詞。一人ではどうしても言えなかった言葉だった。
そして、僕はどうしてか笑いたくなった。
「馬鹿もんがぁ。奴隷解放とか言うてりやが、そんなことができれば、ミツライム国は崩壊も同じなりょや。意味分かっていってり?」
赤頭巾の賢者は慌てて立ち上がる。そこに風が吹き込んでいた。
「子供たちを取り戻せば、戦争になるなら、そこにつけいる隙があるだろ。可能性はあるよ」
「子供らがミツライム国内に居るとは限らりぬ」
「あとは行ってみなきゃわかんねえ」
ナタは遠慮なく続ける。「シェズはどうする?」と。
「相手がミツライム? 上等じゃん」
シェズは僕の護衛という役職をほっぽり投げたらしい。
「ヘルメスは?」
それを聞かれて、
僕は不満げな顔をしてみせた。
「ナタはミツライムの言葉喋れないでしょ。僕が翻訳するしかないじゃん。いつも一緒なのに、今さらそれ聞く?」
いつかミツハにも言われたことがある。世界のどこに行っても危険はつきものだと——。
だったら背中を押されるまま走ってみるのもいいかもしれない。
ナタはそしてモーセに向き合った。
「兄弟がここに来たら、国を作るんだろ? だったらその時はカナンに行け。いろんな国を集めてみんなで協力して新しいイザリースを作る。みんなで支え合う国だ」
それを言われて、モーセはしゃがみ込むように頭を下げていた。四〇年待った先でやっと開けた運命に感涙はどれほどか。
「バカみたい」
ミツハの感想はそれだけ。でも僕から顔を隠すのは、嬉しい顔を見られたくないからだと思う。
そして最後に、
「リッリ、知恵を貸してくれ」
ナタは赤頭巾の賢者の手を引いた。
「それはいつぞやのカデシュの戦いを知ってり? あのミツライムと戦争かや?」
「できることをやるだけだ。彼らは新しいカナンの民だから、彼らのために」
これを言われて、赤頭巾は蹲る。杖の端が揺れたと思えば、彼女も笑っているように見えた。
「海の民とはワレながらよく言うたりや。友人が増える一方で忙しくなりき」
とは、誰のことだったか。
これを以て、今。
シナイ山の頂で焚火を囲う勇者たちが立ち上がっていた。
僕もだ。
僕も立ち上がった。
第三章おわり
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