第43話 空を飛ぶ蛇とキマイラ

 僕は、縫いぐるみの王様が檻の上で笛を持つのを見た。


「なんで?」

 変な声が出た。


 こんな時冷静なのはナタくらいなものだ。


「お前、なんでそこにいる?」


 それは捕まえてミツライムの兵士に引き渡したはずの男だった。

 ムルムルはもはや逃げも隠れもしない。


「わしが貴様らなどに捕まえられるとでも思うたか。わしを誰だと思っておる。大賢者ムルムル様であるぞ。先日はわしが油断しただけじゃ」


「お前、捕まっていたはずだろ?」


「捕まっていたことになっているだけじゃ。まあ、人目を忍んで大人しく反省でもしようと思ったが、こうなってしまえばその意味もなかろう。わしのことを知る貴様らを抹殺すれば、わしは改めて自由じゃ」


「つーか、なんで出てこられるんだ。どうやって逃げて来た?」


 ナタが知りたいこと、

 これにリッリが即答していた。


「グルだったりや。ウバル将軍とその男は繋がってり。すべて人攫いり」


 これを指摘されて、

 ムルムルはにんまりする。


「どうしてそうなるの? グルってどうして?」

 僕が疑問を投げかければ、リッリの杖が僕の頭上で跳ねた。


「ウバル将軍はナタが剣士だと知ってりや。殺人鬼が教えたから知ってりぃ?」

「そっか、蛇の男もムルムルも殺人鬼」

 

 ならば、

「じゃあ捕まえても無駄ってことか?」


 ナタの結論。ナタはキマイラには見向きもしなかった。「ジャガールをやったのもお前か?」それだけが知りたいと言った。


「あのエージェントのことか。あやつらはわしの顔を見た。あとあと都合が悪かろうて」


「なんの都合だ?」

「ここから先は貴様の知ることではないわ」


「お前を捕まえたのは失敗だったってことか」

 ナタはそれを思っただろう。


「おっとっと」


 そこでムルムルは殺気を躱すように踊る。脇役のように身体をひねって奥からこの殺戮劇の主役を呼び出した。「貴様らが強いのはもう知っておる。しかし、貴様らではもうわしには指一本触れられんわ」とは、ムルムルにとっては用心棒にもなる戦士の登場だ。


 ムルムルは守るのは、知性の無いキマイラではない。


 シャン

 シャン

 シャン


 軽い金属が踊る音。鉄の槍だった。切っ先が口を開く蛇の形で、そこに刃のある輪を絡ませている。これを持つのは長い赤髪を蛇のように結った少女だ。赤い制服は足元に広がるドレスのようにも見えるが、まぎれもなく戦闘装束。


 反対側に同じように蛇の形に頭を結った男が現れる。これは以前ナタが戦った鉄の爪をもつ男だった。


「エキドナ、あいつらだ。鉄の剣をもっている」

 男は少女に注意を促した。


「あたしの出番ありそう?」


 エキドナと呼ばれた少女は足を大きく広げるとそのまま、片足を頭上まであげてストレッチをする。これは戦闘前の準備運動。僕にもわかる通りで、この二匹の蛇には上下関係がある。


「俺がけじめをつけてくる。一度戦った相手とは決着をつけなければならない」


 爪の男がエキドナの前の頭を垂れた。これは、「俺に戦わせてくれ」と懇願する行為だ。


「いいよ、あんたの獲物だし」

 それがエキドナという少女からの許可だった。


「おい、オルトニス。お前、わしを守るためにそこにいるのではなかったのか?」


 ムルムルはそれはそれでおかしいと口を挟むが、エキドナとは顔を合わせることもしない。ムルムルも気軽に文句が言えない相手、それがエキドナという少女だ。


 結局、「くふふふ、どちらでも同じことか」と笑って、ムルムルは僕たちに向かい合っていた。


「どういうこと?」

 僕は涎をたらすキマイラに迫られ、蛇の男に睨まれて、身動きとれなくなっていた。


「まあ良い、わしには可愛い合成魔獣がおる」


 ムルムルが笛を口にあてて持ち上げると、キマイラの首も持ち上がる。


 笛の音に歌声を乗せるなら、次のような文句になるだろうか。


「子供は純真じゃ。どの色にでも染まる。その点、おまえらは脳も筋肉も凝り固まって利用価値もない。わしの芸術作品、キマイラの餌になるくらいの使い道しかなかろうて」


 笛を吹けば、音が鳴った。

 細い音色だった。


 猛ったのは、キマイラ。笛の音は恐怖心も警戒秦もそぎ落として、

「食え」

 とだけ伝達する信号のようなもの。


「いけ」

 ムルムルがそう言うだけで、怪物は一瞬で跳躍した。


 狭い洞窟内だ。怪物と僕の距離はもともと近かった。だから僕は剣を構える時間もなく、ただ口を開いて呼吸を止めただけ。

 恐怖を通り越して、絶望も通り越して、僕は死地にいたる。


「はっ」

 と思いだしたように呼吸することができたのは、キマイラの爪が僕に届かなかったからだった。


 叩き落としたのはシェズだ。


「勝手にうごくんじゃねえ」と言いたいところだろうが、これはこれで手に残る感触には不満がでるとシェズは剣を見上げた。「あれ? 斬れてねえぞ」とは鉄の剣で思いっきり叩いたのに、まるで手応えがないことだ。


 キマイラの顔の大きさは人間を丸ごと呑み込めるほどはあるだろうか、腕は熊の足ほどあって、ひと掻きするだけで普通の人間なら腹から引き裂かれてしまうだろう。分厚い毛皮の下には鉄の鎖と格闘した筋肉だ。シェズの鉄の剣でも斬れるものではない。


「くふふふ」と笑っていたムルムルだが、すぐにこちらも不満声が出た。


「なんという馬鹿力じゃ」とは、キマイラを一撃で殴り飛ばしたシェズのパワー。


 飛びかかってくるなら殴り返すまで。そして相手が怯めば、そこに剣を叩き込む。これがシェズの喧嘩剣術というものだった。


「オルトニス、あの馬鹿力から仕留めろ」


 ムルムルは鉄の爪男に命令する。男は未だ飛びかかれないでいた。壁に張り付いて僕たちをキマイラとで挟む位置を取るが、さっきからナタと睨み合ったままだ。一度だけシェズのほうを見やるが、ナタを放置してキマイラに近づくのはオルトニスにとって危険が大きい。目の前の剣士がその時どう動くかを考えると迂闊に動けなかっただろう。


「キマイラ」

 ムルムルは今度はキマイラに命令する。「食い尽くせ」と。


 キマイラはシェズに殴られたところで、闘争心に火がついたようだった。

 これを受けるシェズもまだまだやる気。


 一方で、オルトニスが狙うのはナタばかりではない。リッリや僕といった羊のように柔らかくて無防備な人間もそこにいるのだから、これを利用する方法でも考えていたのだろう。


 襲う者と守る者。

 どちらが先に動くか、緊張の一瞬。

 

 動いたのは、

「やるじゃん」

 エキドナだった。


「何処へ行く?」


 ムルムルは護衛が背中を向けたところで引き留めた。だが、これで足を止めるエキドナではない。「ちょっと、あたしも身体動かしてくるよ。次はあたしの番だろ? その前に少し準備運動」そういうことだ。


 僕は、エキドナが槍をついて飛び上がるのを見た。腰に鉄の輪をくくりつける赤い帯がドレスのように広がったかと思えば、コウモリの羽のように畳まれる。そして彼女は壁を蹴って僕たちの背後に回っていた。


 あとには、シャンっと音が壁に残されるだけ。


 エキドナの速さの前では、僕たちが剣を構えて立ちはだかったところで意味がない。簡単に頭上を越えられてしまっていた。


「蛇が飛んだ」

 そう思った。


 ナタは目で追いかけるだけ。それもそうだろう。エキドナが向かった先には三〇人のミツライム人兵士がいる。そこに僕たちが守るべき人がいるわけでもない。この状況ならオルトニスを警戒しつつ、シェズを援護してキマイラから処理したほうがいい。


 僕も何か協力できれば——。


 ここで、ムルムルからは絶叫だ。


「やめろ、おい、やめろや。やめてやめてぇ」


 それがあったからこそ、エキドナは事前に動いたに違いなかった。

 ナタが間合いを詰める以前にキマイラとシェズの勝負は決まっていた。


 キマイラがシェズに噛みつこうとしたが、シェズがそれを殴る。だがそんなことで怯むような猛獣ではなかった。シェズの頭をかみ砕こうと顎をあけたところで、その首周りにシェズが腕を回している。


「これ無理」

 そう言って彼女は剣を投げていた。


 だが問題はここからだ。


「おい、わしの可愛い猛獣が死んでしまうだろうが」

 

 ムルムルが慌てたのは、シェズがキマイラの首を締め上げたからだ。


「これでどうだ」


 シェズはなおも力をいれる。完全に極まるとキマイラには藻掻く術もない。飛び散る唾液と掠れる呻き声。これに変わって飼い主が声をあげるのが断末魔だ。


 キマイラの尻尾から生える蛇が牙を剥いたが、

 リッリに杖で叩かれてはしょげるだけ。


「キマイラを作るのに何年かかったと思っておるんじゃ。それをお前。何をやらかしてくれとんじゃ」


 ムルムルは地団駄を踏んだ。剣も槍も通さないキマイラが首に腕を回されてそのまま締め上げられてしまうなんて想像もしていなかっただろう。頭蓋が割れる音がすれば、毛皮の中身がぐちゃぐちゃになっているだろうことは見ればわかる状態だった。


「次はどいつだ?」

 シェズはそうして立ちがある。さすがに息はあがっていたがまだまだやれると彼女は言った。


「ふえやあぁぁぁ」


 ムルムルはシェズに睨まれて、また絶叫する。


 だが同時にそこで背後から地響きがあった。壁や天井が崩落して一気に洞窟を潰す音。とは、これを予見して動いて居る蛇がいたことを忘れてはいけない。


「さっきのあいつか。出口を塞がれたか?」


 ナタは振り返った。咄嗟に走ってエキドナを追いかけても、もはやすべては土煙の中。

 煙の中を出れば、そこは青空の下。天井が落ちて、地面は道なき山だった。

 

 エキドナは出口を塞いではいなかった。山のようになった通路の上にしゃがみこんで、槍を傾けていただけ。

 それが、シャンとなれば、また地面が崩れる。そうしておいて、彼女は涼しげな顔で言う。


「そっちはどう?」


 彼女の瞳に映るは、仲間のオルトニスか。


 エキドナが言いたいことは、僕にもわかった。


 三〇人の兵士皆殺し。


 その間に、オルトニスは何人の敵を殺したのか? 


 エキドナのは、これを問う声だ。


 瞬間、オルトニスは発狂するような声を出しただろう。


 走った。


 天井が崩れた今、オルトニスの身体能力を生かす戦場が生まれたと言える。そして敵となる僕たちは悪い足場で剣を振るうことを余儀なくされる。これで僕たちはオルトニスに勝てるだろうか。


 勝てるか以前に、僕はさっきからおろおろしていただけなんだけど……。


 オルトニスが行くのは地面ではなかった。壁を蹴って狙うのは僕たちの頭上だ。人間は誰だって頭上からの攻撃には弱い。地を這う昆虫だって、突然飛び上がればもはや恐怖は何倍にもなる。たぶん、オルトニスの動きはそれと同じ——。


 戦場が広くなったことで、僕やリッリに隠れる場所がなくなっているのがここでは致命的。


「ひっ」

 と僕は身を屈める以外、出来ることがなかった。


 オルトニスが狙うのは僕たちの弱点。ナタやシェズではなく、僕かリッリ。パーティの要となる者なら尚良いのだろう。


 赤頭巾の頭上を目がけて、オルトニスは飛び込んでいた。


 この頭上からの飛び込みに対して僕は無力だ。


 蛇を初めて見た人間はことごとく蛇に丸呑みにされるが如く死ぬ。誰も頭上から襲われたことがないから、唖然とするだけ。


 赤い戦闘衣装の少女は三歩下がる。


 エキドナは目の端にオルトニスを捕らえて手を引いた。壁を駆け上って蛇が飛べば、お互いに邪魔をしない。暗黙のルールがあるようだった。先に飛んだほうに優先権があるとは蛇の戦士たちが伝統的に従う鉄則だろうか。だからオルトニスの邪魔をしないようにエキドナは場を開けていた。


 そして彼女が思うのは、旅人とオルトニス、強いのはどちらかということだけ。


 似たような動きはリッリにもあった。リッリは杖を頭上にあげる動作でしゃがみ込む。寸前のところでオルトニスの爪を躱して、あとはナタが戦うその邪魔をしないように小さくなっていた。


「ふーん」

 実際のところ、エキドナが興奮したのはここからだったと思う。


 動いたのはオルトニスだけではない。蛇を見て動いた剣士がもう一人、ナタの横にいた。


 黒いコートを払うようにして剣を広げたのは、ミツハ。


 ミツハはオルトニスに併せて走っていた。


 走ったかと思うと鳥が羽ばたいて垂直に飛び立つような跳躍だ。コートをはためかせて、飛んだ先は空だったか。


 僕も空を見上げていた。

 

 僕たちは見上げた先が空か海かを見失っていた。なぜなら、そこには鳥の姿がある。鳥でなければ海の中にあって、水中にでも浮かんで太陽の光を浴びるかのような優雅なミツハの姿だった。


 オルトニスのそれが飛び込みならば、ミツハのは飛翔。


 ミツハの動きは、一陣の風を捕まえた鳥が空を支配するのに似ていた。すでに人間が飛べる高さではない。そんな空に彼女が到達していることに僕たちの心が躍った。


 誰にも奪われることのない自由奔放さは、強者の特権だ。だが強者でも、目を奪われることはある。


 そんな顔をしたのがエキドナだった。


「へぇ」

 言葉がでないほどに、見とれていた。


 美しく優雅。

 そして血が沸きたつほどに、それは強さだった。


 オルトニスは空中では無力だ。爪は虚空を斬るばかりで、鳥には当たらない。何かが飛んできたと思った時には、すでにオルトニスの身体が回されていて、どこが空でどこが大地かすらわからなかっただろう。彼の足が動かなかった。鳥が羽ばたくように両手をひろげたなら、それを眺めるしか選択肢はない。それが空の上——。


 ミツハはオルトニスとすれ違い様に身体を回転させた。素早く手をいれて彼の身体をねじり、剣を差し込む。身体が沈み込めばその重さを剣に乗せて、そしてより上空へと自身の身体を跳ねさせる。


 それで終わっていた。


 風が吹き抜けたようなものだ。


 オルトニスは力でも間合いでも負けないはずだが、空においては関係ない。それに気がついたとき、オルトニスは地面にねじれた首を激突させていた。


 空から舞い降りるようにして、ミツハが地上に戻ってくるまで、

 僕は空の支配者に見惚れていたと思う。


 それは人間同士の争いと言うよりは、天使たちの狩りと言ったほうがしっくりくる光景。彼女の人間離れした技、それはなぜか、シェズの殺人斧が僕の目の前を掠めた時と同様に僕を震えさせた。


 結果は地面に転がるオルトニスの変死体を見ればわかる通り。一瞬で、これ。


「え?」


 彼女が敵だったなら、僕は死を覚悟しただろう。だけど味方だとすれば、僕はとんでもない武器を手にしたような気分だ。


 でも、それでも振り返ると僕は凍り付くように動けなくなる。敵に対して優勢になったかと思いきや、


「面白い動きをするね。その戦い方、初めて見たよ」

 エキドナは地べたで動けなくなったオルトニスの傍に居た。オルトニスの破壊された身体を見て、何が起きたかを彼女なりに把握しただろう。


 このエキドナという少女は怪物だ。


 この時、僕には、エキドナが横を歩いたという印象はなかった。彼女は歩いて、オルトニスの屍に近づいたのだろうが、まるで地面を踏んでいない。草も石も踏みしめて歩かない。そんな動きがエキドナにはあった。オルトニスは蛇のように思える体術をもっていたが、エキドナのは空を飛ぶ蛇だ。


 エキドナが死体を見たのは悲しむためではない、戦士の傷跡から相手の技を読み取るためだった。オルトニスは弱いから負けたのであって、そこに悲しむ余地は微塵もない。だが戦士ならば、負けながらにも戦士としてのあり方がある。戦士の体に残る破壊の痕跡は、より詳しくエキドナに敵を教えただろう。



 オルトニスは助けを求めない。


「これを見てくれ、こんなふうに俺は死ぬ」


 それを伝えるように手足を動かしたのが彼の最後だった。


 オルトニスのそれは儀式だ。死を迎え、新たな戦士に生命を繋ぐがごとき儀式。


「ふーん」

 それを受けて、エキドナは槍を握りなおした。


 シャリン


 音がすれば、そこは天上天下に唯我独尊。エキドナはただ戦うために立ち上がる。


 僕は気圧されていた。以前チイ先生の殺気に気圧されて鳥肌が立ったことがある。チイ先生のような明確な殺気を感じないのに、エキドナを前にすると身体が震えるのはなぜだろうか。


「おい、なんでお前、竜翼章のバッチをつけてんだ?」

 シェズにとってはそれは歯がゆい事実だっただろう。煙たかった周囲が晴れてくれば、エキドナの赤い戦闘意匠の胸に竜翼章が見えた。


 竜翼章と言えば、数ヶ月前まではシェズも同じ勲章を持っていた戦士だ。そんなヒルデダイトの英雄が遙か遠いミツライムにいる。


「このバッチ? これつけてるとさ、何でも許されるからね」


「お前って、エリゴスの仲間?」

 それはシェズの両親を殺してシェズを罠にはめた残虐非道な男の名前。


「なんであんな奴?」

 エキドナは、「遊びたいだけ」と答えた。


 ただ言葉通りには受け取れない。


 三〇人いた兵士は皆殺しにされていて、その上に彼女は立っているのだから。


「どっちでもいっか。あんたがその気なら、あたしが相手になる」

 これはプライドの問題だとシェズは剣を手にする。だけど僕から見てもシェズのは無謀な行為。怖い物見たさというものだ。


 僕にはシェズがボコられた外苑公園の戦いを想起させるだけだった。


「悪いけど、あたしはさ。そっちの鳥みたいな奴とやってみたいんだ」

 そんな笑顔でエキドナは跳躍していた。


 空中に振り上げたエキドナの槍はオリハルコンの輝きを持って流星のような閃きになった。


 シェズがそこに居ても居なくても関係ない。それが剣士でも戦士でも関係ない。流星が直撃しようものなら、生きていけるものはいなかっただろう。


「危ねえって」

 でも、まだシェズには息があった。曲がった鉄剣を地面に投げ捨てて、這いつくばるだけなのだが……。


 この時にシェズが生き残れたのは必然。


 だって、隣にナタがいる。咄嗟にナタが剣を合わせて槍の軌道を変えていた。


「エージェント殺しって、こいつか?」

 それは僕に翻訳を求める声だった。


 だけど、僕が答えるより、


 エキドナが地を這うように飛びかかるのが早い。蛇のように右に左にと揺れたかと思えば、噛みつくように槍が地面を抉るのは一瞬。


 必然的に、ナタはミツハを守るように動いただろう。


 僕には激しく剣と槍が交錯する戦闘にしか見えなかった。


 お互いが一〇歩歩くまでにどれくらい撃ち合ったか。ナタが勝てると思えたところで、エキドナはにゅるりと体勢を変えるし、エキドナが待ち構えたところにナタが入れば、僕も目を覆いたくなるような際どい場面もあった。


 一進一退。


 その上で、もう一度ナタは問う。


「ジャガールをやった奴は、こいつか?」と。

 それは最終確認だ。ナタはまだ迷っていたのだろう。剣にもそれが出ていた。


 だが、エキドナのほうも似たような状況だったかもしれない。


「うざいな」

 エキドナが警戒するのはミツハだ。ミツハがさっきから息を潜めてエキドナを殺すタイミングを見計らっている。そんな息づかいがあった。この状況下では、エキドナだって下手に動くことができないらしい。


 それに、もう一つ。エキドナが吐露するのは、

「厄介な奴がいる」ことだ。


 そのために、時間が経つごとに彼女は僕たちに近づけなくなっていた。

 たぶん、ナタのことだろうと思うけど、僕にとっては会話を差し込むチャンスだった。


「あのー」

 エキドナに話しかけたところで、


 赤頭巾はこのタイミングを逃さない。

「逃げりや」


 僕は引っ張られていた。


「逃げるの?」


「敵が一人だと思わりんことなや。逃げるが上策」


 言われて、僕は周囲を警戒した。確かに、僕はエキドナだけを追いかけてしまっていたが、この場所には他にもムルムルやその他の仲間がいるかもしれない。


「外にいた兵士たちが集まって来た。もうあいつらに任せようぜ」

 ナタも賛成らしい。ここで得たいの知れない相手と戦うより、様子を見たほうが無難だろうとの意見だ。


 地盤崩落を見てかけつけてくるミツライム兵士たちがいるなら、対処は彼らに任せたほうがいいだろう。

 

 リッリが走って、ナタが走ると、僕もミツハも追随した。他の全員が走り出すと、シェズも慌てて追いかけてくる。


 つまり、全員がこの瞬間に逃げ出していた。


「えー?」


 最後にそんな声をだしたのは、ムルムルだ。僕が聞いたのは小さな悲鳴らしきものだったが、彼にしてみれば痛恨の悲鳴だっただろう。待ち伏せして、キマイラまで用意したのに得られるものがなかった。


「祟りの時間じゃ」などと宣言したのに、これ。


 旅人四人とエージェントは逃げていく。


「エキドナ、お前は戦闘の天才じゃろ。殺戮趣味の殺戮狂。こんなものだったか。あいつらを逃がすな」

 ムルムルは叫んだ。


「ちょっと身体が重いんだよね」


 瓦礫の隅でエキドナは僕たちを見送っていた。


「何をいっておる。オルトニスが殺されて悔しくはないのか。お前が殺したミツライム兵士はわしが懐柔してあやつらを包囲させておったものじゃ。それを全員殺してしまいおってからに、この始末どうしてくれおる?」


「あいつらどうせ役に立たなかったよ。ほんと、役に立たなかったな」


「そんなことを言っておるのではない」


「それに、あんな奴初めて見た。うん面白かった」


 エキドナは満足したように背伸び。

 すべては準備運動にすぎなかったか。


「何を寝ぼけたことを言っておる。寝起きみたいなことを言いおって」

 ムルムルは地団駄を踏んだ。つまりエキドナは最初から遊んでいるだけで、ムルムルに協力したわけではなかったのか——。


「ムルムルの護衛。約束は果たしてるじゃん。君、まだ生きてるでしょ」


 あっけらかんとして言われても、ムルムルには納得できないことがある。

 だが、


「よく見ると——」


 そこでムルムルは唖然とした。「お前、なんかいっぱいデバフ喰らいまくっておるな。それでよく動いておれるな? どいつに?」という事実。


 こうなると、

「えー?」

 ムルムルは少し考えて、現実を疑ってみた。

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