第33話 そこに海の民がいた
ザッハダエルは歴史から消えた。
僕たちとザッハダエルの民以外で、その瞬間を見ていたものは少ない。
逃げ惑う大臣も当事者の一人だっただろう。
ザッハダエルの城塞から火の手があがった。最初は火を消そうと翻弄していた大臣だが、風に煽られた火が瞬く間に燃え広がると、もはや焼け石に水。火を消そうとすればするほど煙がまわって、結局火の勢いは増すばかり。ついには城塞を捨てて逃げるしかなかった。
大臣がわずかな手勢をつれて、階段を駆け下りていけば、出会い頭に赤頭巾だ。
人間が通れる場所なんて限られているのだから。いつかは会うだろう宿敵だった。
「貴様」
大臣は唸った。火事の原因を作ったのは赤頭巾の賢者だ。恨みはあるが、それよりもまず赤頭巾の指示で働いている者に怒りを向けなければならない。なぜなら赤頭巾一人で城塞を火事にすることなどできはしないからだ。
火を点けた人間は別に居る。ヘルメスやシェズ。それだけではない。
とは、守備隊長らのことだった。
リッリが風上の窓辺に座って、
「北側の避難が終わったら、すぐにそちらにも火を点けり。盛大に燃やすや」
放火の指示をすれば、
「行け」
守備隊長がこれを兵士たちに伝達していた。
大臣たちが逃げて来た裏手。そこから走ってくる見知らぬ兵士がいれば、彼らは「向こうにも火をつけて、壁に穴をあけてきました」と守備隊長に報告する。
大臣自身はその向こう側の火が消せなくて逃げて来たところだ。大臣が兵士に指示していたのは「火を消せ」だった。
「火を点けたら、豪快に燃え上がりました」という報告は何か矛盾しないだろうか。
そして「よし」と頷く守備隊長の男。
その守備隊長に賢者が囁くは魔法の言葉か。
「これで火が回りやすくなりや」
これを聞いた時。
大臣は猛烈に腹が立った。
「我々が火を消そうとしてもなかなか消えないのは、まさか、お前らが火を点けて回っていたからか?」
驚愕の事実だ。消す人間と、広げる人間がいれば、それはいたちごっこ。
火など消えるわけがない。
そして大臣からすれば、裏切るような真似をしていたのは守備隊長たちだ。
「ザッハダエルの兵士がなぜ裏切り者の言うことなどを聞くのか?」
大臣は大声をだした。
守備隊長は、大臣に対して剣を構えていた。
「我々はもう人を殺さない。昔のように平和に暮らすことを望んでいる。王の遺言で我らは彼らに運命を預けることにした」
「それはたわごとか。お前ごときが王の遺言などと」
「勇者様が我々を解放してくださる」
守備隊長はリッリを庇うように動いた。「悪いが、このザッハダエルの城塞は燃やしてしまう他ないんです。わかってください.大臣。ここにザッハダエルがある限り、我々はザッハダエルの人間にしかなれないのです。そしてそのザッハダエルの人間ってやつは世界を敵に回した悪魔の使いです。我々がザッハダエルの人間をやめるためには全てを灰にするしかないんです」というのが彼の理屈。
そんな下っ端の意見に大臣は頷かない。
「今さら何処の民族が我々を許すと思うのか。皆殺しにされるぞ。やられる前に我々でやるしかない。もう過去には戻れないんだぞ」
「戻れなくても、償う方法はあります」
「何を馬鹿なことを言う。我々はアザゼルに選ばれし民族。その我々が誰に何を償うというのか」
大臣は憤りを覚えた。肺が苦しいのは、怒りからのことだけではない。火がどんどん迫っているからだ。
ここで、
「よし、ワレも逃げりや」
赤頭巾が立ち上がったところで、会話も最後だった。
大臣は、「裏切り者たちを始末しろ」と言いたいが、もはや多勢に無勢。守備隊長の手勢のほうが数で上回る。そればかりか、このまま同じ場所に留まり続ければ焼け死んでしまうだけだった。
さらに言えば、城塞から出たところで大臣にはもう帰る場所がない。主たるマリウス王ももういない。
これは敗北だった。
「ぐぬぬぬ」
ここから大臣が考えることはいたって普通だ。
「王の亡骸を集めろ。棺桶にいれて、我々もここを出る」
大臣はそう指示した。
「ここを出てどこへ行くのですか?」
「城塞を追い出されればヒルデダイトに逃げ込むしかない。ザッハダエルに刃向かう者は、つまりヒルデダイト国の敵だ。この敵の情報をアザゼルに伝えることができれば、ヒルデダイト本国から裏切り者どもを討伐する騎士団が出るだろう。この騎士団がそこの赤頭巾を八つ裂きにしてくれれば私の溜飲もさがるというもの」
「この城塞は見捨てるということですか?」
「いずれ取り返しにくる。だからこそ、王の亡骸を運ぶのだ。王の威厳は失われてはいない。いつか必ず王は復活する。その時が復讐の時だ」
これは大臣が吐く呪いのような言葉だった。
大臣は自分で言いながら、
今さらのように気がついた。
このまま賢者を行かせてはならない。
アザゼルに報告すべき情報をできるだけ集めることが今となっては重要なことだった。名前すら知らない相手を討伐してくれと言ったところで笑われるだけ。
だから大臣はリッリを追いかけた。
「お前はなぜザッハダエルを狙った?」
大臣はリッリの背中に問う。
「なんとなく……」
そう、リッリは薬師として偵察に来ただけなのに、気がつけば城塞が燃えていたのだと言った。
「いや、そういうことではない。お前らはどこの民族だ?」
もともとザッハダエルに恨みを持つ民族は多い。そのいずれか、あるいは近隣においてザッハダエルを狙っていた民族でもいたか。大臣はその名前を知りたいと思った。その名前さえわかれば、報復は必ずできる——。
これにはやれやれと、賢者が失笑する。
どこの民と言われても、リッリからしてみれば個人でやっていることだ。ナタもヘルメスもシェズも同じ民族ではない。集まって仲良くしているだけと言えば、大臣は信じただろうか。
さて、それはどのような民であろうか。
この地上にアザゼルの軍勢が滅ぼすような民はいないのだから、きっと海にあることだろう。
「うむ、ワレは、そう――。海の民でありや」
口笛を吹くようにリッリはそう告げた。
「海の民だと? その名前忘れはしないぞ。貴様ら、今日の不始末のこと、覚えておけよ」
大臣は大臣で、最後にそう言い残した。
これで遙か昔のカナンで起きた悲劇の幕はおりたか。
ザッハダエルの城塞はかくしてより炎上することになる。
この光景を偶然見たと言う者もいるだろう。ただし居たとしてもそれはまともな人間ではない。
殺戮の丘に集う者は人間でなければ獣たちだったか。
「こっち。城塞の上から海側へ行く道は見えていた。先に出た戦士たちがどこに向かったかはわからないけれど、この道の先のはずだよ」
僕はシェズを先導する形で、馬にしがみついていた。
名も無い漁村まではまだまだ遠い。
丘を越えれば、分岐する道が見えるはずだった。
シェズは道がわからなくて、僕の後ろをついて来ていた。だが、道の先に人影が見えれば、僕とシェズの位置は入れ替わる。相手が敵だった場合、僕はシェズの背後に隠れなければならなかったからだ。
丘を越える手前で、
僕は手綱を緩めた。
前に出るはずのシェズは、僕を追い越すことなく、こちらも手綱を緩めていた。僕たちが想定していたのは、ザッハダエルの兵士たちに追いつくことであって、向こうから大挙してやってくるとは思ってもいなかったからだ。
「あっちから、なんか大勢来る?」
僕は慌てて、シェズのさらに背後に周り込む。気休め程度に、この状況の可能性を考えるならば、
「城塞が火事だって気がついて戻って来たってこと?」
僕が振り返れば、焼ける城塞が見えていた。黒い煙はさらに高いところまで登っていた。
だが、多くの兵士たちは燃える城塞を見て足を止めた。逃げる場所がなくなって慌てふためくのは、アンドロマリウスに追いかけられていた時の僕たちと一緒。
「火事だからって助けに戻ってきたんじゃないの?」
僕はザッハダエルの兵士たちが悲鳴をあげる姿に疑問を持った。
「なんかおかしいな」
シェズも首をかしげるのは、その光景。
ザッハダエルの戦士たちは隊列もなく、ただひたすらに逃げて来ただけだったということだ。
シェズはザッハダエルの戦士を相手にはしない。その背後に何かいることを察知しただろう。
僕も同じように丘の向こうを凝視していた。
兵士たちが逃げてくるなら、彼らの背後にも何か居るに違いなかった。アンドロマリウスのような悪魔が出たなら——
それを考えるといまだに背筋が疼いてしまう。
狼の遠吠えが聞こえた。
ひとつ聞こえたかと思えば、右から答えるように別の狼が遠吠えをあげる。
左からも狼の遠吠えが聞こえてきた。
「狼?」
ザッハダエルの兵士たちを襲っていたのは狼。複数の群れだ。
「狼が人間を襲ってる」
シェズはそう確信して、剣を握りしめた。相手が獣であるならば、ザッハダエルの兵士を区別して襲ったりはしないだろう。つまりはここにいる僕やシェズにも襲い掛かってくるに違いなかった。
数千人という人間が悲鳴を上げて逃げ惑う。それを追いかける狼とはどういうものだろうか。
イザリースのサムライも怖いと思ったが、これはもっと恐ろしいものに違いない。
やがて丘の向こうから狼に追われる羊の集団のように、さらなるザッハダエルの兵士が走って来た時。追ってくる影が丘の上に同時に見えた。
黒ずんだ影は低い姿勢のまま、兵士たちに飛びかかる。
狼のシルエットは人間を食っている姿だったか。
僕はさすがに武者震いした。
「やってやる」
シェズは剣を軽く振った。いつでも戦えるように肩を温める程度にだ。
だけど、僕には出す武器がない。
「狼に言葉なんて通じないですよね?」
だったら僕にできることは、食いちぎられないように腕や足に力を入れることくらいだろう。狼が僕に噛みついたら、その間にシェズが狼を叩き切ってくれることを祈るだけ。
嫌だし、
痛そうだけど、
僕は覚悟した。
「あれ?」
そう思ったのは、
「ヘルメス。大丈夫だった? 帰ってこないから心配してたんだぞ」
こんな子供の声が聞こえたからだ。
「キイ君?」
それはシロで遊んでいた子供のこと。漁村ではラファエールを配るのを手伝ってくれていた。子供の声が聞こえるのが不思議だった。
「そこに居るのは、ヘルメスとシェズか。ナタやリッリ先生はどうした?」
よく見れば、逃げてきた兵士たちの中にジンさんが居た。漁村を手伝ってくれていた身なりのまま、槍だけを持って飛び出してきたらしい。
「お城燃えてる?」
そのジンさんの背中にキイ君がちゃっかりしがみついていた。
僕はその二人の無事が確認できただけで、胸いっぱいだ。
「襲われてたんじゃないんですか? ザッハダエルの兵士がファラエールを奪いに行くと言って出たので、僕たちは連れ戻そうと思って」
三人が三人とも相手に質問だけをする奇妙な状況だった。
「まずはナタとリッリ先生は無事か。教えてくれ」
ジンの声が一番大きかったと思う。
だから僕も、一つずつ質問に答えていきたい。
「ナタとリッリは城塞に残って、民を避難させているはずです」
「民を避難だと? 城塞に火をつけたのはお前らか?」
「はい。あの城塞は放棄します。ザッハダエルの民はいろんな人たちから恨まれているので、一度隠れてもらうんです」
「そんなことをあっちの王が許したってことか?」
「王はもういません。王の遺言で今は僕たちが兵士に指示しています。でもそうなる前に村を襲いに行った兵士たちがいたんです」
「俺たちのところに来たあの盗賊みたいな奴らか?」
「盗賊みたいなのがそうなのかもしれません。そっちはもう大丈夫なんですか?」
「お前らがザッハダエルにつれていかれた後、俺たちのところに狼の傭兵団を名乗る連中が来た」
「狼の傭兵団?」
「キリーズでお前らが頼んだ傭兵じゃないのか? そんな話をしていた」
「あ」
僕は、「本当に来たんだ」と思い当たった。
リッリの依頼でユッグ・ドーという商人が仲介してくれた傭兵団だ。団長が変わり者だということで、来るかどうかがわからなかったけれど、実際に来てくれたならば心強い。
「俺は今、あいつらを案内してここまできた。ここまで来て、城塞が燃えていたから心配になったんだ」
と、ジンは答えた。
「そこに傭兵団いるぞ」
キイ君が背後を指さした。
だけど丘の斜面の向こうは見えない。さっきからちらちらと狼のようなシルエットが見え隠れしているだけ。だが傭兵団が優勢となれば、その全貌が丘の上に現れるのも必然だった。
丘の上に傭兵団が立つのは、そこで状況を把握しようとするからだ。そして同時に、傭兵団はこれ以上の戦闘は無用と判断して動くのをやめていた。
丘の上にザッハダエルの戦士とは違う獣のような身体付きの戦士たちが並んでいた。十数人といったところだろうか。なぜそんな人数の傭兵団が千人もの兵士たちを追い込んでいるのかはわからない。文字通りどちらが狼で、どちらが羊だったか、それだけの差だっただろう。
その中心に馬から戦場を見下ろす者がいるならば、思い出さなければならない。商人が自分以上に変わり者だと呼んだ者のこと。
傭兵団を束ねるのは変人だと言う。
「あれが狼の傭兵団?」
僕はジンに問う。「挨拶してきてもいいですか?」と聞いたのは間違いだっただろうか。
「挨拶は無用だそうだ。無愛想な連中で、ろくに会話もしない」
「でも、僕たちが雇った傭兵団ですよね?」
「それを聞いていなかったら、傭兵団だなんて思えないが?」
「違うんですか?」
「人殺しを専門とする集団に見える。味方ならいいが、敵だったらと思うとぞっとする」
これがジンの感想だった。
「傭兵団の団長ってそんなに怖い人なんです?」
「誰が傭兵団の団長かもわからない。何をしでかすかもわからない。村に居たら仲間が子供を食い殺すかもしれないからっていうんで、キイもここに連れてきたくらいだ」
それを聞いて僕は丘を見上げるに留まった。
見えるシルエットに団長らしき姿はあっただろうか。
僕には、それが少女のようにも見えた。黒いローブで顔をかくしても笑う口元はわかるし、柔らかい身体で馬に揺られるその仕草は隠せない。
「狼の傭兵団……」
それが僕とあの人の最初の出会いだった。
「どういうことじゃ?」
馬上で黒いローブの少女は周囲を見渡した。そこは噂通りの地獄絵図だ。だが追い込んできたザッハダエルの兵士たち以外には人影はない。いや、二人ほど馬にのって彷徨う戦士の姿があったが、これは案内役のジンが駆け寄っていけばシロのサムライに準ずる戦士であるとわかる。
続いて確認するところでは、
「薬師と護衛三人が城塞に連行されたと聞いた。その後にラファエールなる薬をねらって城塞からわんさか兵士が出てきたところまではわかる。これは絶望的な状況だと思うところよ。なのにわしは今、ザッハダエルの城塞が落ちているのを目撃しておる」
不思議な光景だった。
「あたしらが来る前にどっかの傭兵団が片づけたか?」
少女の隣に控えた女性剣士は鍛え抜いた身体で傍に立っていた。強風に馬が煽られたとしても剣士の足だけは大地に根をはったように動かない。顔には狼を模す入れ墨。その風貌も狼を思わせた。
なのに、口を動かせば狼の戦士たちより馬上の少女のほうが年長のようにさえ見えただろう。
「他に傭兵団などおらんよ。わしの目にはジンと一緒におる二人以外何も写っておらんし、わしの耳にもそれらしい声は聞こえてこん」
「聞いた話だと城塞に連行されていったのは四人。ならその四人で城塞を落としたか?」
「あり得ぬ。と言いたいところじゃが、わしがいれば可能じゃな。わし抜きでやるとすれば、勇者が四人は必要じゃ」
「では単なる事故か」
「いや」
少女は顔を上にあげて、鼻を風に当てていた。
「あいつらが勇者?」
「か、どうかはわからぬ。ま、そのものの真の姿を見定めるには、目の前の木を見るよりも森全体を見ることが肝要じゃ。狼の教訓よ」
それは何を意味することか。
「あたしは狼ほど目がよくないし鼻もきかない。で、どういう状況か教えてくれないか」
「ふん、少し懐かしい友人の匂いがしおるわ。オリハルコンの匂いか、さてさて嵐の匂いか」
少女は振り返った。
彼方先の空。未だ分厚い雲が流れていて太陽の光は届かない。だが雲間から差し込む光はあった。
嵐が去れば、そのあとには青空が広がることだろう。
そこに狼の傭兵団がいたかどうか。どこの商人に尋ねたところでその正体はわからない。数多ある傭兵団も付き合いはないという。
僕が村に戻ったところで、すでにそのような集団はなく、どこへ消えたともとんとわからなかった。
わからないと言えば、
海の民と聞こえたは、これも煙のような話。
ヒルデダイト帝国に逃げ延びたザッハダエルの戦士たちは口々に海の民に襲われたと伝えたようだが、そのような民を知る者はなし。
民間に勇者の伝説が残るのみ。
すべては時代もわからない遠い昔の話だが、海の民が最初に現れたのはまさにこの場所この時のことだっただろう。
「森の賢者と城塞の蛇王」おわり
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