第32話 とある勇者の伝説

 咆哮があった。

 

 弱肉強食は自然の摂理だ。

 強い者が常に生き残る。


 強き者は弱い者を喰って自らの血や肉に変えていく。魚がプランクトンを食べるように。その魚を獣が食い、その獣を人間が喰う。貴族が奴隷を喰い、その貴族を王が喰う。


 この嵐の中で立っていられたのは、アンドロマリウスただ一人。


「貴様らを殺して私は新しい世界の王になろう」

 以前の弱いザッハダエルの王はいなかった。


 アザゼルが王を支配する神なら、王とは人間の支配者であるアンドロマリウスのことだ。


「誰も生かして帰さぬ。わたしは日に二人の人間を喰らおう、いや貴様らは家畜も同じだ。私がそれを喰って何がわるい」


 強き者が弱い者を喰う。

 殺す。


 それが世界の本質だと彼は言った。


 守備隊長の男は、そんなアンドロマリウス王を見て耳を塞ぎたくなっただろう。


「もうおやめください。我々がいなくなったら、誰がザッハダエルを繁栄させることができるのですか。今日まで共に戦ってきた我々の顔をお忘れですか?」


 もはや逃げ場がないと守備隊長は座り込んだ。手が震えるほどに怖いだろうが、彼の背後には守備隊の兵士たちがいる。その兵士たちのさらに奥、階段を降りていけばザッハダエルの女や子供たちもいるだろう。


 その全てを見境なくアンドロマリウスは喰う。


 だから守備隊長には逃げる場所がなかった。


「王妃よ、天の神よ、どうか我らと我らの王をお守り下さい」

 最後には祈るだけだ。祈りの言葉は、「天の神、アヌンアキよ」とその名を呼んだ。それは古き神様の名前だったか。


 アンドロマリウスは命令する。


「お前も喜ぶが良い。我が民なら笑ってみよ。私が生まれ変わったことを喜べ。私は今とても楽しいのだ。人間を殺すのはこんなに楽しい」


「笑えません」

 拒絶は死の宣告を受け入れたのも同じだった。守備隊長は明確にアンドロマリウスを否定した。王を否定して生きていけるザッハダエルの民がいないのなら、それは死と同じ意味だった。


 事実。


「裏切るか、ならば死ね」

 それがアンドロマリウスの口から出た。


 だが、それと同時に守備隊長の前に立った剣士がいる。


 天が響いた。


 雲の向こうから、低く唸る雷鳴の轟き。空をバリバリと破るような、獣も逃げ出したくなるだろう重低音。こんな中では悪魔の声も人の声も守備隊長には聞こえなくなる。


 僕にも彼らが何を言っているのかは正直わからなかった。


 耳鳴りがあった。


 なのに剣士が喋っている言葉はわかる。


 ずっと一緒にいたからなのか、空から降りてくる轟音が言葉なのかは、僕にもわからない。

 雷が地平を震わせる音しかないのに、それがあたかも声であったかのように僕には思えた。


 剣士は言った。


「ここにいる奴らはお前のことを信じているぞ。仲間が死んでもお前のことをずっと気にかけている。お前にとっても、こいつらは一緒に戦ってきた友人たちじゃなかったのか?」


 白地に赤い太陽の光が描かれたローブの剣士だった。薬師の助手だと思ってたが、王の前にたつとその素性は窺い知れる。

 ナタはただの剣士ではない。


「貴様は誰だ? 貴様さえ来なければ、こんなことにはならなかった」


 王は激怒した。「我が民が私を怖れるのも、アザゼルを裏切ったのも、すべては貴様らのせいだ」と棍棒を振り上げた。赤頭巾の賢者が真実さえ言い当てなければ、マリウス王は耳を塞ぎ続けていただろう。


 真実を暴くのは誰だ?


 剣士は名乗った。


「名乗る名前なんてねえよ」


 暴走ストームは悪戯好きな子供につけられたあだ名のようなものだ。それをもってナタがオーディンと名乗ることはない。

 そして次の質問は剣士からだった。


「ザッハダエルの王よ。これがお前の選んだ生き方か?」


 王はこれを慕う者たちを無残に殺しておいて、その上に立っている。人間を殺して串刺しにした光景はザッハダエルの景色そのものだ。


 王は返事をしなかった。


 できるはずがない。


 それらは雷鳴の声であったにすぎない。これが人の声に聞こえたのは、僕の幻聴だっただろうか。


 剣士は片膝をついて腰を落としていた。王に礼儀よく挨拶する。剣士は王の眼前に鉄剣を置いて、静かに語る。

 白い外套は巫女の様式があって、それは祈りの所作にも思えた。


「どんな生き方をしようとそれはいい。お前だって随分苦しんだんだろう。お前が、自分の生き方をそう決めたのなら、それでいい。お前の友人たちが教えてくれた。ザッハダエルの王は優しい王だと聞いた。自ら船に乗って傭兵として働く良き王だと聞いた。頼もしい王だと聞いた。王妃を愛した幸せな王であったとも聞いた。それはすべて過去のことか」


「生まれ変わったのだ」

 誰に返答することもなく、アンドロマリウスは叫んだ。


「哀しいことがたくさんあったけれど、お前はそんな姿になってもまだ慕われ続けている。お前が選んだ道がどんな道であったとしても、それはきっと幸せに続く道なのだろうよ。俺も祈ろう。その生き方にサチあれよ」


 剣士がそれを言った瞬間、

 守備隊長は涙した。すべてはマリウス王が優しい王であったからこそ続いて来た道だった。そこに間違いはない。なかったはずだ。


 これは運命だったのか。

 

 ただ、だからと言って悪魔が姿を変えるわけではない。


「黙れ」

 王がその筋肉で空気を揺らして剣を振り下ろしたとき、


 守備隊長は目を閉じていた。


 僕も同じだ。


 目を閉じた。


 もう世界は終わったのか。

 そう感じた。


 ただ目を閉じる瞬間見えたのは、剣士だ。


 ナタは、曲がった杖のようなものを口元にそっと近づけた。鉄の剣のかわりに手にもったのがそれだ。巫女が祈りをささげるような落ち着きのなか、一切の音も出さずに剣士はその封を解く。

 

 剣士は最後に告げていた。


「だけど、俺も生き方を決めた。この道は譲らねえ」


 それは城塞の上に直接落ちた雷撃の残照だったのかもしれない。


 空から落ちる轟音があまりに近すぎて、

 僕は耳を手で覆っていた。鼓膜の震えが止まらない。


 頭の中を直接雷が駆け抜けるような衝撃があった。

 

 いや、確かに落雷はあった。


 あったからこそ、アンドロマリウス王の動きがとまっている。守備隊長がいまだに殺されていないのは、何かが悪魔を遠ざけているからだ。


 雲の上から世界を破るように滑り降ち、街を焼く火、それが目の前にあったと思った。


 おそるおそる目をあけてみれば、嵐に流される雲。景色が目まぐるしく変わっていく。暴風が横殴りにやってきて、僕は床に這いつくばらなければ座ってさえいられない状態だった。


「何がおきたの?」

 

 空に雷の光はない。


 それはすでに落ちていて、城塞の上で眩しく輝いていた。目を焼くような激しい光がただ一点に留まっていた。


 剣士が口元に持ったそこに、落ちたはずの雷がひとつの形を成している。

 剣士が手にするそれは稲妻の光か、剣なのか。


 剣だ。

 剣士がそれを振り払えば、鋭い切っ先が空気を切った。


 風が唸り、アンドロマリウス王は立ち尽くした。


「嵐がきた」

 王はそれをふいに思いだしただろう。


 ザッハダエルに嵐がくるのはいつぶりだろうか。


 アンドロマリウスは倒れる直前に庭を見た。王妃と歩いたその方角、するとどうだ。王妃を連れて歩いた野原には魚でも焼くかのように半壊した人間の残骸が並べられ、花が咲いた花壇には人間の手やら足やらが埋められている。


 なんと酷い世界になったものだ。

 嵐が来るなら、願いたい。


 この不毛な世界をすべて暴風で吹き飛ばして、もう一度青い空を返して下さいと。


 たとえどれほど家が破壊されようとも、畑が荒らされようともかまわない。私の命でよければもっていくがいい。


 王はそうして、ただただ嵐を望んだ。


 僕はそんな王様を見た。


 守備隊長が倒れたマリウス王の傍に駆け寄った、

 それを感じて。初めて僕は顔をあげてみた。


「マリウス王」


 嘆く兵士の声に涙がにじんでいた。何があったかを僕は見ていない。あの風の中で目を開けるなんてできなかった。雷の中で目を開けるなんてできない。


 だから僕が見たときには、全てが終わった後。


 アンドロマリウスの身体から生えていた蛇がのたうち回っていたが、喉元まで割けていては人間を食うこともできない。アンドロマリウス自身は腕もなく、胴も二つに裂けて立ち上がることさえ二度とできなかっただろう。


「嵐ってやつは、いつも突然来るんだ」

 マリウス王は獣の皮膚となった口を震わせながら、守備隊長に答えた。


「正気に戻られたのですか?」

 そんな声ももはやマリウス王には聞こえてはいない。


 王は意識の狭間で遠き日を夢見て呟くだけ。


「復興した街も実りの多い畑も、嵐が全部もっていってしまう。酷い話だ。だが、王妃は私にこういうんだ。誰かが不幸でも誰かにとっては良いことなのだと。嵐が過ぎれば豊かな作物が実る。海に魚が戻ってくる。壊れた家は私が作り直せばいいだけだ。そんなことで、たったそんなことで、私たちは幸せだったじゃないか」


「王よ……」


 王を囲う者たちは、すでに王の命がないことはわかっていただろう。

 だからこそ、守備隊長はその王の首を抱きしめていた。


 やがて王はそのことに気がついただろうか。


「教えてくれないか?」

 最後の問いかけがあった。


「私に答えられることなら、何なりと」


「嵐が来たんだ」


「わかっております。わかっておりますとも」


「あの方が戻ってこられたのだ」

 マリウス王は目を閉じた。「もう何も見えない。見えないからこそわかることがある。だから私に教えてくれないか、あの方はどんな顔をしていらっしゃるのか」それが見てみたいと王は呟いた。


「あの方とは——」


「わたしには雲しか見えない。雲の向こうにあの方がいらっしゃるというのに——」


 僕もアンドロマリウス同様に空を見上げていた。

 そこには白い封の杖から伸びる白い影がある。アンドロマリウスを斬った剣士もそこにいる。


「雲の上のそのまた上の——」

 アンドロマリウスの言葉はそれで最後だった。


「——アヌンナキ。神が?」

 守備隊長は空を見上げただろう。


 それが彼らの別れだった。


 シェズも空を見上げていた。


「雷が落ちたのか?」

 アンドロマリウスが斬られた瞬間を見た者はいない。その光を直視すれば目がつぶれそうだったからだ。

 だから僕も間近で見たわけじゃない。


 でも、

 アンドロマリウスの傍に立って、その生涯を見届けた剣士がいることを知っている。その人は、死者を見送るように寄り添う巫女のような装いでただただそこに立っていた——。


「ナタ——」

 夢じゃないとすれば、リッリも見て居たはず——。


 あの剣士は本当にナタだっただろうか。

 僕は咄嗟にリッリにも意見を求めた。


 そのリッリはといえば、

「ほう」

 と考え込むようにしてアンドロマリウスの切り裂かれたもうひとつの胴体に近寄っている。


「これって、見てました?」

「火種なや」

 賢者は指で示す。


 アンドロマリウスの肉体であった心臓から火が引き出ていた。「これが原因っぽ。セイズの禍々しい渦がみえやり」というのは、アンドロマリウスが姿を変えた原因がそこにあるということらしい。


 火はすぐに消えてしまったが、

「これがアザゼルの仕込んだ種か?」と言いたい気持ちは理解できる。


 僕はイザリースで火の神を見た。

 あの火が忘れられない。

 イザリースを焼いた火が忘れられない。

 最後に残った火種にも同じ感覚を覚えた——。


 ただ決定的なことは僕にはわからない。セイズと言われてもそれを感じる力も今の僕にはなかった。


「種とはセイズのことであってますか? リッリさんはセイズってものが見えるんですか?」


「セイズは感じるものよ」


「その火って火の神の力?」


「火の神というものを知らぬ。しかるにこのセイズの色は忘れぬ。犯人に会えばわかりんす」


「じゃあ、さっきの嵐の時、あのセイズって何です?」

 少し強引かもしれないけれど、僕はあの時のナタについて聞いてみた。あれが人間じゃないとすれば何なのか——。


「むう?」


「なんか凄くなかったですか。雷とか落ちてきて、きっと嵐の神様かなんかが来てくれたんじゃないかって思うんです」


「うんにゃ、とくにそれらしきセイズはなかったりや。嵐は嵐よ。凄まじい嵐ではあったりや。ワレの多重結界が一瞬で吹き飛んでしまいやり。雷も雷りょ。セイズが籠もるのはいつものこと。時に人間が扱うより大きなセイズが溜まる場合もあり」


「でも、マリウス王が最後に言ったんです。あの人が帰ってきたって」


「今となれば死人に口なし」


「神様にセイズがあるとすれば、その色ってリッリさんにも見えるものなんでしょうか」

「うみゅ、それは確実。セイズとはそういうものよ」


 リッリは、一瞬止まったがすぐに立ち上がっていた。

 続けて賢者は次のように指示てくる。


「人の感じ方はそれぞれりや。それはそうと、出て行った兵士たちを一刻も早く連れ戻さねばならぬ。それにここの後始末もせねば」

 それが当面の大問題だった。


 僕は神様を捜していた。嵐の神様に会ったのではないかと疑問を持ったが、この話はもうしばらく胸の内にしまっておこうと思う。


 ただ守備隊長は僕の疑問に答えるように、この時僕たちに教えてくれていた。


「あれは王からの遺言だったと思います。我々は父親の代からずっとやりなおしの日々でした。王と一緒に汗を流して今日まで生きてきました。王は、嵐が去ったなら、またやりなおせるとおっしゃった」


「はい、僕もそうしたほうがいいんじゃないかって思います。まだやりなおせると思うんです」


「あなたに我々の運命を委ねてもいいのでしょうか」


「僕?」


「王はあなたたちに、アヌンナキを見たのだと思います。だからこそ、我々はあなたたちをアヌンナキの代理人として指示を仰ぎたい」

 言われて、


 僕は、「とんでもない」と手を振った。


 だがそこはリッリの計算が早い。

「よかろ」

 と少し背伸びして上から見るこの顔。


 するとどうだろう。


「ザッハダエルは一度滅びることとしやり。この城塞は王の亡骸と共に燃やしてしまえり。それらはワレの同胞として名を変えて生きりゃ」

 こんなリッリの指令が通った。


 その時の生まれ変わったかのような顔をする守備隊長が僕には忘れない——。


「いいの? それで」

 と僕。


「あとはそれのことよ」


「それって、その目線からすると僕のこと?」


「勇者として活躍してもらわねばなりぬ。何もせぬのに勇者の再来とか、わらかしすぎりや?」


「ちょっと、それ言わないでよ」


「であるからして、シェズと早馬を走らせて、出て行った兵士たちを連れ戻してきやれ。ワレのほうはナタがおればもう十分。そっちも一刻を争う仕事なりゃ」


 言われて、僕は大きく頷いた。


 僕が振り返ると、

 守備隊長の号令があった。


「勇者様に馬を」

 それはどこか別の世界のようで、僕にはもどかしいかけ声だった。

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