第31話 嵐が来る
城塞の上に木材の枠組みが出来上がっていた。この枠組みというのは祈祷につかう巨大な篝火になるだろう。
「もっと薪はないか? 盛大な炎がでるようにしたい」
シェズはまだ納得していなかった。「これ、魔法に使う奴だから。ちょっとでも派手にしないと効き目がでないんだ」と適当なことを言えば、働くのは下っ端の兵士たち。そうして薪が積み上がれば、火をつけた時にその煙はより高くあがることだろう。
「ザッハダエルの兵士さんたち、急いでください」
僕も訴えた。
そもそも火事に見せかけるという話なのだから、もっとそれらしい篝火が必要だった。今はアンドロマリウスに対抗する脅威として火が必要だから、それ以上の火力が欲しい。
「火種はどこ?」
燃えやすいものを盛ってこさせておいて、あとは同時に火を点けるだけ。
「もうそこまで持ってきやりや」
リッリはすでに火種の搬入を指示していた。僕がアンドロマリウスの前で惚けている間に準備は終わっていたらしい。
「薬師殿のところへ火種を」
そんな声と共に、火種は投入され、それは篝火となった。
「これで——」
僕は何を期待していただろう——。
最初は小さくくすぶっていた火も次第に大きくなる。だけど焚火程度の火で一体何ができるだろう。踏みつぶせば消えてしまいそうな火に僕は唖然としただけ。
「これ、こんなんじゃ犬一匹追い払えないよ……」
よく考えればわかっていたはずだった。僕は火に包まれるイザリースと、アンドロマリウスの身体から噴き出す火を前にして火で悪魔を追い払えるなんて妄想していただけなのかもしれない。
「火が着けばそれで良き。火の燃焼というものは、原理は難しくはあらん。人体の成長や回復を促す手順がそのまま応用できやら」
リッリは両手を小さな火に近づけて、「セイズを練るだけ」と答えた。
「どうするのさ」
僕は次第に近づく悲鳴、アンドロマリウスに殺される人たちの怒号を振り返った。
アンドロマリウスが近づいている。王の下へかけよった兵士たちが次々と犠牲になっているのがここからでもわかった。
「ヘルメスはシェズと一緒にしばらくワレを守ってれ」
これが軍師の指令だった。
僕が振り返れば、まさに今その必要に迫られる。
「わ」
僕は背中から回転していきなり伸びた炎を避けた。周囲の兵士たちが一斉に飛び退くほどに巨大な炎がリッリの目の前で巻き起こったからだ。
「うへ」
シェズの前髪の一部も焼けてちりぢりだ。
薪も燃えているが、むしろ石で作られた床までが燃えている。異常な火力だった。
「凄い」と僕が思う前に、
「貴様ら、なにをするか?」
駆けつけた大臣は蒼白。なにしろ城塞を燃やされているのだから。
僕たちを追いかけて来た兵士たちは口々に犯人が僕たちだと告げた。これは祈祷などではないと——。
「奴らが王の祈りの中、勝手に王妃を連れ出そうとしたのです。それで王がお怒りになって——」
こんなあらましもあったかもしれない。
そして彼らはリッリを守るように僕やシェズが槍や剣を構えているのを見ただろう。
剣を向けられて、大臣は、
「奴らは敵だ。さっきからおかしいと思っていたのだ。アザゼル公認の薬師なんて嘘だ。全員であいつらを引っ捕らえろ」と激怒した。
大臣はここへ来る前にアンドロマリウスが食い散らかした残骸を見たのかもしれない。四方から悲鳴も聞こえてくる恐怖の世界で、彼もまた狂っている。
「お前たちさえ来なければ——」
大臣の恨み節。そして共感する兵士たちは多かった。
「来るなら来いよ」
先手を取ったのはシェズ。シェズは、はなっから彼らを味方だとは思っていなかった。どちらかが飛びかかるでもなく戦いは始まっている。
僕はシェズが弾き飛ばした兵士の槍を拾ってそれを振り上げる。
もちろん僕も戦う。
ただ槍ひとつ持ったところで、三人に囲まれていた。シェズの隣にいるから敵も警戒はするが、その一人一人が僕とは体格差のある戦士だ。彼らが本気で来れば、僕はひとたまりもない。
自然に僕は口を開いていた。卑怯かもしれないけれど、僕の武器は言葉以外には見いだせない。
「誰か。一〇の約束を守る人はいないのですか? まだイシュタルとの約束を守ろうとする人はいないのですか? 昔のザッハダエルに戻りたいと思う人はいないのですか」
僕は神を味方にする。そう思って言葉を選んだ。
彼らが罪悪感を持っていることはわかっていた。イシュタルと一〇の約束を守っていた頃の彼らは穏やかで殺人なんかする人たちではなかったと思う。その時の彼らに戻ってくれれば——。
「そんなもん守ってどうするよ。神が俺たちを助けてくれるか?」
僕を笑う声は、イシュタルを笑う声も同じ。僕はさっき同じような台詞をアンドロマリウスからも聞いた気がした。
または、
「俺たちは今までずっとその約束を守ってきた。それがこの様だ」
嘆く声は僕には神様の悲鳴だったか。
僕にはリッリほどの知識はない。だけど、だからこそ言いたいことがあった。なんとなく——。
「イシュタルやアヌンナキがここに帰ってきて、今のあなたたちを見たら、きっと涙を流すと思います。それでもいいんですか?」
僕の声は届いただろうか。神様の泣き顔なんて誰も想像したことがなかったに違いない。
大粒の雨が落ちのが、まるでイシュタルの涙のようで、僕は続けて訴えていた。
「あなたたちや、祖先が大切にしてきた神様じゃないんですか? 大切な人を泣かせるんですか?」
兵士たちは沈黙しまま、この時神様が泣いているのを思う者たちもいたかもしれない。
「ええい、そいつらの言うことに耳を傾けるな。我々はアザゼルとの約束を守り、その役目を果たすまでだ」
大臣は憤慨したがその言葉は空虚だった。
空からはまた別のものも飛んでくる。僕の足元に転がってきたそれは、肉塊。毛の塊にも見えたのは兵士の頭だった。
当然それをやったのは僕たちではない。
「おおおおぉ」
地響きのような声。
目の前を塞ぐ衛兵であっても、アンドロマリウスの行く手を阻む者に命はない。肩から這い出るように伸びた巨大な蛇の頭は、近くの兵士たちを呑み込むし、餌をもとめてまた口を開く。その食欲にまかせて王は前身するのみだ。空腹を満たすために王がすべきことはひとつ。
これは食事のようなものだった。
僕はアンドロマリウスの姿を見たときに理解した。
見える景色はすべてが食事のスパイスにすぎない。おどろおどろしい野原の死体の山も、串刺しにされた人間たちも悪魔にとっては涎がでるような甘い匂いに感じられるのだろう。
そしてもうひとつ思う事がある。
「マリウス王、おやめください」
周囲の兵士たちが逃げる中、ひとり王に声をかけ続ける男がいた。守備隊長だ。「やめてください。兵士たちはあなたの部下ではありませんか。敵ではありません」
そんな言葉も悲痛なだけ。
アンドロマリウスはもはや人間ではなかった。
赤頭巾の賢者は次のように言った。
「イザリースにもエルフの国にも、王などおりゃんせ。それはなぜかといりゃれ。王は奴隷を生む。王からすれば、他の人間は奴隷にしかすぎず。どんなに序列をもたせようとこの真理変わらず。奴隷とは人間ですらなかり。いんや奴隷が人間ならば、王は人間ですらなかりや。その元では一〇の約束など機能せず」
その結末が、今、目の前にある現実だった。
「悪魔」
僕が戦うべきは、おそらくザッハダエルの人たちではなく悪魔なんだと思う。
「これが悪魔か」
シェズにも手がでないほどの力を持つ者。
「王、王よ。考え直してください」
そんなふうに戦士たちが叫んでいた。殺されても殺されても、王を恨むことなく愛情や親しみを兵士たちは口にする。その王を彼らのまえで殺すことがシェズにできただろうか。ひとりが同調すれば、もうひとり、守備隊長に声を合わせる兵士たちが出てくる。誰もが勇敢な兵士だっただろう。
だがアンドロマリウスはその兵士の胴体を握ると、首をねじり切った。
棍棒で腹から吹き飛ばした。
「王よ、なぜ」
それでも守備隊長は王を見捨てることはないのだろう。
「あいつら何でそこまでするんだ?」
シェズは問う。
「だって、あの人たちはカデシュの戦いで国を荒らされて、でも一生懸命みんなでやり直してきたんだ。みんなで傭兵部隊をやって街を再建して、周囲の民族に襲い掛かったときも結局一緒で、ずっと一緒だったから、他に行くところがないよ。もう他に何もないんだ」
僕にはそう思えた。
「こんなのどうしろって言うんだ」
燃えさかる火は勢いをましている。戦っているような状況ではなかった。
なにより、
「逃げり」
赤頭巾の賢者が囁いている。
もはやここに留まることも難しい。
「まだこんなところに居たのか?」
ふいにナタの声がして、
僕は振り向いた。
アンドロマリウスが近づけば、当然ナタも同じ場所を動いて来ることになる。ナタは僕の前に立って、アンドロマリウスに備えて剣を手繰っていた。
ひょっとしたら、ナタ一人ならアンドロマリウスと戦いながらも逃げることができるかもしれない。逆に考えれば、僕が持てる時間は、彼が足止めしてくれている間だけ。
リッリもシェズも逃げろと教えてくれている。
「逃げなきゃ」
僕は本気でそう思った。ザッハダエルの兵士たちがアンドロマリウスに混乱していることも僕たちにとっては追い風——。
「風?」
強い風が城塞を吹き抜けた。
僕が顔を覆うほどの暴風は、突然だった。
視線を逸らすと、逃げ惑う兵士たちの姿が黒煙の向こう側にも見えた。さらに先は死体が串刺しになった死の原野。荒れ狂うような風が死体を薙ぎ払っていく。
僕は咄嗟に空を見た。
何層にもなる黒い雲が地響きをともなって動いていた。
さっき雨粒が落ちてきたような気がしたが、それは嘘じゃない。そんな雨さえも吹き飛ばす風は、もはや嵐だ。
悪魔アンドロマリウスが出たのはそんな夜のことだった。
でもふいに、
「海の匂いがした。なんだこれ?」
シェズが叫んだ。
嵐は遠い海の匂いを持って来てくれていた。魔王の城となったザッハダエルの城塞も匂いが変われば印象も違ってくる。嵐はどんなものでも呑み込んでいく。
雲間に稲妻の光が走った。
沸き上がるような轟音、雷が大地を太古のように叩いたのだと思った。
瞬間、僕は思い出していた。
ヒルデリアの最後の日、僕はシェズと一緒に死を覚悟した。僕は雷に打たれたか、敵の攻撃で小屋が崩れた時に気を失ってしまったらしい。だけど、あの時見た夢は嵐の中で——。
僕は誰かをそこに見た気がする——。
今は目の前。
暴れる白い外套の後ろ姿を僕は見ていた。
嵐の中で、アンドロマリウスに対峙する剣士の後ろ姿だった。彼が持つ鉄の剣は使い古された名剣で嵐を切り裂くような角度を保ったまま。
ナタはもう一つ、白い布を巻いた剣を持っていたが、これは普段使わない杖のようなものだった。もともとはサクローに託された大切なものだということは知っている。風で飛ばないようにナタはそれを右手で押さえていた。
それだけだった。
ただ僕には違う印象があった。
押さえていたが、白い布は風に煽られてめくれかけていた。
ナタが押さえるのをむずがるように震えているようにも見えた。白い布で封印されているのは、イザリースで作られた最後のツルギだと言う。
夢の中と同じ。
あれが夢ではなかったとしたら、
その剣が暴風を呼んでいる——。
僕にはそう思えた。
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