第三章 羊飼いの約束

第34話 シナイ山の羊飼い


 キリーズの港を見下ろす高台にある小さな店。店主のユッグ・ドーは、再び旅にでも出ようかと画策でもしているのか、自身で使う剣や盾の手入れに余念がない。


 店のカウンターに研石を置いて、剣を滑らせていく。店の小窓から差し込む光が刃に当たらないように、「ドアを閉めておいてくれ」と言ったきりだ。もう客である僕のことも見ていなかった。


「それは売り物なんですか?」

 と僕が聞けば、


「これは俺の愛用の剣だ。こういうものを使うのは、別に旅をする時だけじゃない。物騒な世の中だからな」

 と返事がきた。


「ヘルメス」

 と僕は逆にユッグ・ドーに呼びかけられる。


 ユッグ・ドーは商売人だから、この時になったやっと、僕が何かを探していると察知したのだろう。「まだ何か用事があるのか? あんた新米の冒険者だろう。装備品でもお探しかな」ときたもんだ。


「僕は狼の傭兵団への報酬を預けにきただけですけど」


「それはもう預かった。心配しなくていい、確実に狼の傭兵団へは俺が届けてやる。しかし、さっきから俺の剣を見ていたが、こういうのに興味があるのか?」


「僕もそろそろちゃんとした剣が欲しいかなって、でもそれとは別の話なんですけど」


「別の話?」


「さっき、リッリさんが忙しくて来られないって言いましたよね」


「それは残念だが、別に報酬のやりとりだけだからな。あんただけで十分だろ。学者が時間に追われるのは理解してやれる」


「リッリさんは、実はザッハダエルの病人たちを看てまして手が離せないんです」


「なんだ、結局あいつらも助けてやってるのか。そう言えば、酷い状況だったって言ってたな」


「だから、リッリさんの助けになる便利で使えそうなアイテムがないかって思ったんです」


「ポーションとか薬草とか、その辺りか?」


「疫病とか流行病とか言ってました。怪我をした時とは対処が違うみたいで、治すのにかなり時間かかるみたいなんです。お湯を沸かして消毒して、タオルも頻繁に替えて看病して」


「流行病は困るな。いろんな場所を旅してきたが、村によっては流行病にかかると、隔離して病人を殺すなんてところもあった。結局、病気を移されると、村の人間がみんな死んでしまう」


「そういうの治せるポーションとかあるんですか?」

 僕は少し期待した。


「あるわけないだろ、聞いたこともない」


「ですよね」


「この店に流行病を対処するようなアイテムはない。仕入れる予定もない。たとえばイズーナが配るリンゴを食べれば永遠の命が貰えるとか、そういう話は聞くが、実物を俺は見たことがない。永遠の命が貰えるなら疫病も克服できるってことだろう。そんな商品があれば言い値で売れるんだろうが」


「イズーナって?」


「イズンとかイザナミとかいう。イザリースの主だろ」


「ああ、イズンとか呼ぶ人いますね。そっか、あの人なら……。でも、疫病は他人に移るんですよね? 永遠の命を貰っても、ずっと移り続けるとか?」


「ああ、やっぱり駄目か。でもイザリースになら流行病を治すそういう薬がありそうだ」


「イザリース……」

 僕はため息をついた。


 だってイザリースはもう無いのだから。


「イザリースで駄目だったとしても、ひょっとしたら、ヒルデリアとか、ミツライムの首都ラムセスに行けば特効薬が見つけられるかもしれない」

 こちらのほうが希望があるだろうと、ユッグ・ドーは言う。


「あります?」


「王侯貴族ってのはなんでも集めたがる。まあ、そんな薬があったとしても、王侯貴族が興味を示すのは剣とか鎧のほうか。だったら、行っても無駄に終わる気がするけどな」


「やっぱりそういう薬はないっぽい?」


「そういう薬があれば、ヒルデダイトやミツライムで流行病が蔓延するなんて、あるわけがないしな。たびたび流行病の話を聞くってことは、そもそもそんな解決方法がないってことだ。いや、ちょっと待てよ……」


 そこでユッグ・ドーは考え込んでいた。


「僕もミツライムで流行する病の話は僕も聞いたことあります。やっぱり人が多く集まるところでは怖いものなんですよね」


「そのミツライムに流行病専門の医者がいたような気がする。あれは何十年も前の話だったか。昔はそういう奴がいたから良かったなんて言う話だ」


「専門医? 今はいないってことです?」


「今はな。ミツライム方面によく出かける同業者も病気になったら一大事だと話していた。でもそいつは運良く凄腕の医者に巡り会えて助かったという話だったか」


「凄腕の医者?」


「シナイ山だ。なんでそんなところに専門知識を持っている医者がいるんだっていう話をした記憶がある」


「シナイ山って言うと」


「簡単に言うとカナンからミツライムに行く途中にある山だ。ザッハダエルを越えてさらに南だな」


「そんなところに? 医者がいるんです?」


「どんなものかはわからないが、興味があるなら行ってみたらどうだ?」


 ユッグ・ドーはそれを言うと、剣を磨く手を止めていた。この時の彼は僕たちが本当にシナイ山に行くとは思ってもいなかっただろう。続けてタバコを持ち替える手には、遊びがあった。



 その二〇日後、

 僕たちはシナイ山の麓で、海を眺めて惚けることになった。


「シナイ山ってここだろ?」


 ナタは僕の背後で岩山を見上げる。彼は僕の護衛をしてくれる剣士だ。彼が白い巫女衣装を着ると、まるで僕が従者のように見えるけれど、彼は僕の護衛役。


「あたしたち何しに来たんだっけ?」


 こう続けるのはシェズだ。赤い髪が少し伸びた女子、僕よりも一回り体格が良い。もともとヒルデダイトの竜翼章の戦士で、彼女が大きな手で鉄の剣を振れば大地が揺れるほどの威力が出る。一応彼女もいろいろあって今は僕の護衛をしてくれていた。


 だけど見ての通りで、ナタとシェズ。護衛というより、二人で僕をからかって遊んでいる。


「まるで僕が悪いみたいに言わないでよ。ユッグ・ドーさんから聞いたんだ。この近辺に流行病に詳しい医者がいるってね。でも証拠は最初からなかったよ。だから、リッリに確認したよね? 本当に行くのって」


 僕にも責任があるなら、それはリッリにもあると指摘した。


 そのリッリとは、赤頭巾のエルフ。少女のように見えるが、きっと僕より何倍も長生きしているに違いない。


 リッリは言う。

「まあ、期待半分よ、話には尾ひれがつくりょ」と。


「じゃあ、最初から医者なんていない、ってわかってたの?」


 そう、僕たちはこの近辺の村を一通り回った後だった。「どこに行っても医者なんて知らないってさ。もうこれじゃあただの徒労だよ。歩き疲れちゃった」というのが現状だった。


「それはワレに言うたりや。ミツライムに疫病を専門に診る医者ありと。ここを通り抜けてミツライムに行けば、首都のラムセスに行けり。ラムセスまで行けば医者くらいは確実におりょよ」


「ここが駄目なら、ラムセスまで行くつもりだったってこと?」


「当然」


「ミツライムって、海の向こうだよ?」

 僕はそしてまたため息をついた。


「すぐそこよ」

 リッリは杖を振り回す。


 カナンからミツライムまでは分かりやすい道が通っていた。昔カデシュの戦いの時にミツライム軍がヒルデダイトを目指した道のりだ。


 だけど、シナイ山はその道から外れたところにある。南に行けば、ギリシャの海とはまた違う海を眺めることができた。その海をミツライムとは違う方向に周り込んだ先。


「目の前の海を渡ればミツライムなのに。迂回しなきゃいけないの?」

 これが僕の言いたいことだった。


「船ならあれに」

 リッリが杖を指すのは、水辺で遊ぶ子供たちのこと。



 その海は直接キリーズやギリシャに通じる海ではない。この時代のギリシャ周辺では海洋探索も始まっていて、高速船や帆船が行き交う文明航路があった。


 それに比べると今僕たちが見る海は質素だ。船らしき船はない。丸太が海岸沿いに浮かんでいて、そのひとつに子供たちが乗っていた。微笑ましい光景だが、リッリは子供たちと同じようにして丸太に乗れと言う。


「冗談やめてよ。あれを船と呼んでいいの?」


「遠くを見てみよ。村人もみんなあの船で移動してり」


「あれは丸太に乗る達人だよ。そこの子供なんかさ、あぶなっかしいよ?」


 僕は今にも転覆しそうな船を指差した。

 丸太が海に浮かぶその狭間に、丸太に似た船があった。子供たちがしがみつくが、押し寄せる丸太が船の進路を塞いでしまってる。


 丸太船がひっくり返るのに時間はかからなかった。


「ほら、素人が乗るとああなるんだよ」

 僕がそう言いかけた時、


「助けてやり」

 と赤頭巾が杖で僕の背中を押していた。


 おかげで僕の服はびしょびしょで、雑巾のように絞るといまだに水が滴り落ちる。突然海に飛び込むことになって虚ろな目をした僕とは対照的に、僕が助けた子供は、赤頭巾の妖精や異国の剣士たちに囲まれるとそわそわしていた。


 男の子だ。


 ただ話しかけようとしても言葉が通じないので、結局は僕が翻訳することになるわけだけど——。


「大丈夫だった?」

 とりあえず、挨拶から。


「大丈夫」

 男子は足をさすって、顔を歪めた。


「歩ける?」


「歩ける」


 立ち上がろうとして、また座るのは歩けない証拠だ。それでも強気なのは、僕たちが得体の知れない旅人だからなのかもしれない。


「痛いなら、診てあげようか。そこにいるリッリは怪我を治すの得意だから」


「いい、いらない」

 これは敵意なのか。男の子は僕たちにはそれ以上近づかなかった。きっと本音も語らないのだろう。


「怖がらなくていいよ。痛いときはみんな一緒だし。リッリはね、何百人もの怪我人を診てきた本物の医者なんだ」


「医者なら間に合ってる」


「ここに医者なんていないよね?」


「モーセのじいちゃんがいる。モーセのじいちゃんは何千人もの病人を治してきたんだ。凄い医者なんだ」


「何千人って、この近くの村にはそんなに人はいないよね?」


「ずっと前、旅をしてきた商人が病気になったときも、じいちゃんが治したんだ。その商人も、じいちゃんが凄い医者だって褒めてた」


「ふーん」


「だから、お前らの世話になんかならないぞ。帰れ」

「どうしてそうつんけんするのさ。せっかく助けてあげたのに」


 僕は、最後には独り言。


「もう放っておいてやれよ。ヘルメスは嫌われてるんじゃないか?」

 シェズはそんな風に言う。


 ただリッリはこの時首を傾げた。


「医者?」


 それは僕たちが探していた言葉だった。「そのモーセとやらはどこにおりや?」というのが次の疑問だが、


「じいちゃんは、羊と一緒にその辺」


 男の子の、その言いぐさだけが手がかりになる。


「近くの村の人? さっき聞いた話だと医者なんかいないって言われたけれど」

 僕はさらなる情報を引き出そうとするけれど、村で拒絶された話をすると男の子は口をつぐんでしまっていた。


「ふんっ」


 こうなると村の大人たちと同じ。


「そこの村に医者がいるの?」

「よそ者には教えない」

「なんでさ」


「なんでも」

「教えてくれなくても、探しちゃうよ?」


「お前たちに探せるもんか」

「さっき、羊と一緒にいるって言ってたよね?」


「いわない」

「あの山の上からなら見える?」


 僕はシナイ山を見上げた。山の上に立てば周辺が一望できるだろう。羊の群れも見えるはず。


 すると男の子の態度はまた頑なになる。


「あの山には登るな」

「どうしてさ」


「じいちゃんがめちゃくちゃ怒る。俺たちが遊んでいただけでもすっとんできて、殴られるんだ」

「なんで?」


「知るもんか」


 男の子はそこで立ち上がっていた。立てるほどには痛みが引いたらしい。それで、「どうだ」と言わんばかりの顔。


「ふみゅ、怪我は大事なさそうで良かったり」

 とリッリは安堵するが、


 むしろ僕は苛立っていた。男の子はお礼も言わずに去るつもりだろう。僕たちが困っているのも見て見ぬふり。


「少しくらい教えてくれてもいいのに」

 僕は、「どうします?」とリッリに何か良い方法がないか尋ねていた。このまま男の子を帰してしまっては大事な手がかりが失われてしまうかもしれない。


 リッリの返事はすぐだった。

「場所を変えり」だ。


「もう一度村に行ってみます? モーセさんの名前を言えば、村の人の反応が変わるかもしれませんし。駄目かもしれませんけど」


「シナイ山に登りやれ——」

「そこを登ったら、怒られるって。登らないほうが……」


「登ったら、モーセとやらがすっとんできやり? 探す手間が省けり」

 リッリは杖を持ち上げて、ついてこいと催促していた。




 老人の名をモーセという。白くて長い髭をたくわえた賢人だ。この時は、山頂で遊ぶ子供たちをこっぴどく叱ってやろうと息巻いていた。

 モーセはそうして赤く照り返す岩山の道を進んで来た。


 荒野に賢人があるというのは、まあおかしな話だ。ただの羊飼いがどうやって知識を得ると言うのか。


「あなたがモーセさんですか?」

 僕たちはシナイ山の頂上付近で焚火をしながら、しばらく談笑していた。そんな中でも彼の足音は聞き逃さない。


「あなた方は?」

 モーセは突然の来訪者に戸惑っただろうが、「この煙、子供の悪戯かと思ったが……」そんなわけでもない。


 煙を出すのはリッリに指示されたことだった。


「僕たちはあなたが流行病に関して詳しい知識を持っていると聞いてやってきたのです。あ、僕はヘルメスって言います」


 それを聞いて、

 モーセは肩を落としただろうか。


「流行病? そんな知識を探してどうするのです。あなた方はただの旅の方でしょうか?」

「病気の人がいて困っているんです。だからここまで旅をしてきました。普通の旅人って言えばそうかもしれません」


「ただの旅人であるなら、私に用事はないはず・私は役には立たんでしょう」

「普通の旅人だったら駄目ですか? でしたら、僕は一応商人もやってます。それにそこにいるリッリさんも医者です」


 そういうことではないらしい。


「時々あなたのような方が来る。どこで聞いたのか、疫病に詳しいだろうと、その知識を教えてくれと言ってくる。だが、それは私の父親のことでしょう。その父親も二〇年前には亡くなりました」


「父親? あなたは詳しくないのですか?」


「父親から少し話を聞いた程度です」

「それでも僕たちよりは知識をお持ちですよね?」


 僕にとってはそれでも良かった。


 モーセにしてみれば、やんわりと断りたかったところらしい。


「さあ知識と呼べるかどうか。私の父親は若い頃にどこか遠い国で病人たちの世話をしていたそうです。それも四〇年前の話ですが」


 彼が持っている知識は四〇年前の父親の知識であって、今の自分のものではないと言う。でも、僕はそんなこと気にしない。


「僕たちはザッハダエルの城塞のほうから来たのですが、多くの人が流行病で苦しんでいます。少し話を聞いてください」


 少しばかりの良い知恵があればリッリが喜ぶ。それだけのことだった。

 僕は迷わず、モーセの手を引いていた。

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