第13話 天上天下にひとつだけの
「お前ら、バカか」
蹲っていた赤い髪の女子が、晴れた顔を膨らませて血を吐くようにして、呟いた。やっと呼吸ができるようにはなったらしいが、それは動かなければという条件つき。
目も腫れていて、彼女は僕を見てはいなかった。だけど助けられたことくらいは分かっただろう。
「まだ生きてる?」
僕は彼女を励ましたかった。そうしなければ、このまま呼吸をやめて彼女は死んでしまいそうだったから。
「あたしのことはほうっておいて、逃げろ」
言葉にならない声だが、たぶん彼女はそう言ったのだと思う。
「一緒に連れて行くよ。こんなところにいたら駄目だ」
「オーガは生かしておかない。それが普通だから」
「君はオーガじゃない。騎士になりたかったんでしょ?」
「騎士だった。そう思ってた」
「だったら」
「でもわかってた。オーガを殺す度、これって本当にオーガなのかなって。でも殺さないと、殺されるし。オーガを庇ったらオーガじゃん。だから考えないようにしてた」
「どうして考えないのさ、こうなるってわかってたら」
「殺しただけ、わかるよ。おかしいって。でも後には引けないじゃん。辞めた瞬間に騎士じゃいられなくなって、全部失う。友達も全部消えるんだ。記憶も何もかも消える。オーガのことなんて誰も思い出したくない」
「消えるわけないよ」
「消えるんだ。あたしが他人をそうしてきたから」
「そっか」
僕は言い返せなかった。結局オーガに苦しんでいたのはオーガだけじゃなかった。
「あたし……」
思うところがあっただろう。シェズはわっと泣きだしていた。だが、レッドプラエトリウムからオーガ認定されたことが運命そのものだ。「もう無理なんだ」と彼女は嘆いた。
奪って来た命の数だけ、彼女には重い現実になっただろう。
「無理じゃない。夢は諦めなければ、いつか叶うよ。君のお母さんだってそう言わなかった?」
僕の言葉で駄目なら彼女の母親の言葉だと言い換えたが、
それはさらにシェズを泣かせる結果にしかならなかった。
「ごめん、あたしは駄目だった……。どんなに期待されても、もう駄目だった。おかしいこといっぱいやってきた……」
それは両親への贖罪だろうか。
殺してきた人への謝罪だろうか。
「やめてよ。君って力もあるし、僕より全然強いじゃん」
「でもオーガだ」
「オーガじゃない。君は君だって」
「お前らは違う。あたしを助けてくれた」
「僕も同じ人間だよ」
「勇者だって言ってた——」
「あれは嘘。じゃないけど、いつかそうなりたいってだけ。君と一緒だよ」
僕は目線を下げた。なんとか彼女に生きる希望を持って欲しかった。
彼女は息を切らして時々血の混じった唾を吐く。そうしなければ呼吸がとまると苦しんでいた。
そんな中、
「ありがと。お前、本物の勇者だ。たぶん。だから、あたしみたいなのに絡むとろくなことにならない。だからもう、行けよ」
彼女は僕にそう呟いた。
「置いていかないよ」
僕は全力でそこだけは否定する。「勇者だったら、君を見捨てて行くなんてしない」それが僕にとっての勇者だった。
「お前らまで殺される」
「殺されたりなんかしない」
僕はそれも否定した。「イザリースの創造主は、アースガルドとヴァナヘイムで戦争が起きたときも、みんなが手を繋げる世界を夢みて、そしてそれを成し得たんだ。ヒルデダイトがミツライムと戦争した時もそうさ。必ず未来に続く道はある。勇者ってその道を見つけ出す人なんだ。今日だってそうさ。僕は未来に続く道を考えるよ」
僕自身言いながら、自分に何ができるか考えた。
シェズが僕を勇者だと言ったから、そんな気分になっただけなのかもしれない。
僕は何かしなきゃって思ったんだ。
そして、
思いついたのはナタが困った顔をするような策。
「僕たちはラバシリ王子に会いにきた。伝えて欲しい。イザリースのオーディンが会いに来たって」
これを大声で叫んでいた。
「おい」
ナタはそれはまずいのではと言うが、
「もうナタのことがバレているから関係ないよ。むしろこの状況を利用するんだ」
僕は状況がどう転ぶかわからなかったが、今より酷い状況になるとは考えなかった。
現実は過酷だ。
「それはご苦労なことだ」
僕がシェズに話しかけている間、騎士たちは包囲網を形成して、小屋に突撃する準備をしていた。騎士たちからすれば、追い詰めた敵をいたぶる最高の瞬間だっただろう。
「ラバシリならすぐそこにいるだろ」
笑う声があった。
「直接話したい」
僕は要求する。
「勝手に話せ」
男は冷酷な口調だった。「その小屋は生首を収集しておく小屋だ。イザリースの巫女やサムライの首が並べてある、よく棚の上を眺めてみろ」これがラバシリ王子を見つける方法だと男は告げた。
僕はその時まで、小屋を振り返らないようにしていた。小屋には棚があって、そこには無数の人間の頭が並べられていたからだ。見たくもない現実がそんなところにあった。
僕は泣かない。
イザリースが消えたその日だって、僕は泣かなかった。盗賊に襲われて仲間死ぬのなんて日常のことだった。同じ子供連れの商人と知り合って、仲良くなったこともある。だけどその商人も子供も殺された。そんなことはしょっちゅう。だから涙なんて流していたら、旅ができないことを知った。
なのに、棚を見上げると、
目から涙が溢れてきた。
「あ——」
声が枯れた。
僕に幸せを約束してくれた人がいる。僕のお父さんもそうだ。そしてラバシリ王子もそうだった。僕たちが怯えなくてもいい世界を作ると彼は言った。
目の前の光景は、
もう二度と彼が目指す世界が来ないことを物語ったものだ。
その人が目指した、僕たちが幸せになる世界はもう来ない。
ヒルデダイトが始めたこの戦争を収めるために、僕たちはラバシリ王子の力が必要だと思っていた。その可能性もすでになくなっていて、僕たちは悪夢の世界に取り残されたことを知った。
知りたくもない現実をただただ知った。
これからどれくらいの人間がヒルデダイト軍によって殺されるかわからない。そんな絶望の日の扉が開いた瞬間だったと僕は思う。
「ナタ」
僕はナタを呼んだ。「見ちゃ駄目だ」と言おうとしたが、もう遅い。
「ラバシリ」
ナタも泣いていたと思う
。
「僕たち二人になっちゃった」
僕は何を言ったら良かっただろう。
こんな状況で、外にいる男と騎士たちが笑っていた。いよいよ突入するのだと人手を集めていた。盾を並べた戦士たちを先頭にして戦士そのものを壁にする作戦。
どんな剣士でも肉の壁には抗えない。僕たちは小屋に入ったことで、逃げ場がなくなっただけのことだ。ここからは一方的な蹂躙だと男たちは怒号をあげた。
「だから言ったんだ」
シェズは諦めたように虚ろだった。
「世界ってこんな色だったっけ?」
ふいにナタが言った。棚の上を見上げて、そこにならぶイザリースの巫女達の顔を眺めていた。
あまりの惨状に、僕は顔をあげることができなかった。
外なんて見ないようにした。
だって、希望がない。
この小屋には怒声と絶望だけ。光はどこからも差しては来なかった。
「ラバシリがさ。俺に待ってろって言うんだ。ラバシリだけじゃないみんながそう言う。俺に剣を教えたくせにチイだって俺をサムライにはしたくないらしい」
ナタは涙が落ちないように上を向いていただけなのかもしれない。そんな声の色だった。
「平和な世界を作るって、みんな頑張ってた。だからナタには戦わせないって、チイ先生から聞いたことがある」
「ラバシリはそんな夢みたいなことばっかり言ってた」
「戦争もなくてみんな平等で奴隷もない世界って夢だったのかな」
僕は平等に奴隷が王によって支配される世界を知っていた。王がいなくて一〇の約束によって成り立つ世界がイザリース以外にないことも知っている。
「ラバシリ王子ってそんなやつだったの? いい奴じゃん。あたし全然知らなかった。知ってたら……」
シェズが最後に夢を見ようと言った。
「でも、もう待っていても、そんな世界は来ない」
ナタが告げる事実が僕には重かった。
「ああそっか、全部嘘だったんだ」
シェズがその実態を言い当てた。
僕は言いたい。
「嘘じゃないよ。ラバシリ王子が目指した世界もイザリースも全部嘘じゃない。みんなで目指したんだ。みんなで目指したからイザイースがあったんだ」
「でも泡みたいに消えた。あたしの未来が全部消えたみたいに」
「シェズは黙っててよ。僕は諦めたくない」
嫌だ。
僕の頬から大粒の涙が落ちた。
嫌だと言ったところで、僕には力がなかった。だから悔しさも涙に滲んで出た。
「待っていても来ない。一〇年後も一〇〇年後も、みんなが夢みた世界は来ない」
ナタはふいに言った。「待っていても来ないんだ」と寂しそうな声には、僕を流せる響きがあった。
「ナタもそんなこと言わないでよ。ラバシリ王子だって確かにその場所を目指したんだ。それってあるってことだよ。幻なんかじゃない」
「誰かがその場所を踏まなければ、全部幻に消えるってことだろ」
「そう、そうなんだ。僕たちはラバシリ王子が約束した世界を忘れない。忘れるもんか。生きて誰かに伝えなきゃ。もし生きて居たら……」
「俺たちで行くしかない」
ナタは強い口調になった。
「行くって?」
僕はナタの姿を追いかけた。ナタは棚の巫女たちに一礼をする。しゃがみこむような深い腰の落とし方だった。
その背中に、僕は畏怖を覚えた。
「ヘルメス、お前がいけ」
なんてナタが言い出す。
「みんなで一緒だよ」
「俺は一緒にはいけない」
「なんで?」
「一緒には行けないが、だからこそ連れて行くことはできる。連れて行くだけだ」
「どういうこと?」
僕はナタの背中を見ていた。「駄目だ」と言いたくなる気持ちをぐっと抑えた。そこにナタの覚悟があって、この気持ちは僕が抗えないほど強い。
それがわかったから、僕は震えた。
ナタは白い杖のような棒を抱えて、その封印を解くように指を這わせた。
これは一瞬の悲劇だっただろうか。
「触れるな」
僕の頭の中でラバシリ王子が言う。棚の巫女たちの首が一斉に叫んだように思えた。
触れるな。
触れるな。
触れれば——。
「ツルギに触れたら、人間じゃいられなくなる」
それは禁忌だ。
僕は実際にツルギに触れたクジャ王子を見たことがある。あの悪魔の顔こそが、ツルギに触れたものの末路。だから叫ぶような声がでた。
「駄目だよ。人間じゃなくなったら、イザリースにいられなくなる」
同時にやっとナタが言う「行けない」の意味がわかった。
「人間をやめる。それでもいい。だけど絶対にあの場所にお前を連れて行く——」
ナタの意志は僕の声をはね除けた。
瞬間、
僕には世界が変わったように思えた。
白い雲が出た。
僕の周囲が雲の包まれた。
頭上を雲が覆った。
現世と遠い世界を結ぶ雲の層が幾重にも重なって見えた。
「何?」
僕は振り返る。
現実世界が遠のいて見えた。
「火竜弾をぶちこめ。燃えてもいい。オーディンの首ならつりが出る」
「早い者勝ちだ。中にいるのはオーガだ。皆殺しにしろ」
「突撃だ。ネズミ一匹逃がすな」
騎士たちが怒号をあげて僕たちに遅いかかってくる。
それは世界のほんのひとつにしかすぎない。
僕がいる場所からは遠い雲の向こうのことのようにも思えた。
「ヘルメス。もうすぐイザリースだ。イザリースという場所は、やっぱりあったんだ。夢じゃないぞ。もうすぐイザリースなんだ」
「お父さん?」
それは昔の話だ。僕の手を引く父親の背中を見た気がする。でもなぜ雲間にその世界が見えるのだろうか。
雲には未来も過去も現在もない。
雲は絶えず形を変えていろんなものを僕に見せてくれる。いや、僕が勝手に見ただけなのかもしれない。
でも、最後には全部流れていくんだ。
「ねえナタ。怖いよ」
僕が手を伸ばそうとしたとき、目の前に落雷があった。
僕の耳はつんざく音のせいで何も聞こえない。まるで世界が静まり返ったようにさえ思えた。
小屋の壁が吹き飛んで屋根の破片が空に持って行かれてしまう。雷の一撃がすべてを破壊して、そこから風が吹き込んできた。反対側の壁を押し倒して吹きすさぶのは暴風。
空では黒い雲が渦巻いて、見渡す限りの嵐の夜だ。
そしてまた雲間から鋭い閃光が走った。大地を直撃する稲妻の光に、僕は頭を抱えた。
僕の目の前での落雷だ。
肌が震動して、その衝撃の深さが僕の心臓にまで伝わって来る。
小屋の壁が燃えだした。その向こう側を囲んでいた騎士たちも同様だったか。逃げる暇さえもなく、彼らは自然の驚異の前に絶命していた。
「ナタ——」
僕はなんとかその姿を追いかけようとして、炎の向こうに剣士の姿を見た。落ちた雷がまだそこにある。剣士が手にしているのがまさに空を駆け巡るそれだ。
見たこともない光は地面に重さとなって伝わっていた。大地が揺らぐほどの力だった。
「誰?」
僕はその剣士の穏やかな表情を見た。大切な人を失った哀しい顔でも悪党を憎む顔でもない。迸る光を写す瞳は神々しくて、彼が空を見上げれば、ふいに雨が四散し、黒い雲はその剣士に道をゆずるように空に留まることを選んだ。
それは一瞬の錯覚だったのかもしれない。
僕は雨に叩き起こされた。
どれくらい気を失っていたかはわからない。
気がついた時、僕はシェズに覆い被さるようにして、小屋の瓦礫の下だった。
落雷があったのは事実だ。頭が重くて、まだ耳鳴りがしていた。
小屋は全壊してあちこちが燃えているところだ。雨の中で消える気配はない。僕たちが焼けていないのは不幸中の幸いだったか。
「ナタ」
僕は咄嗟に友人の名を呼んでいた。
ナタは僕の傍にいた。その手には白い封印のある剣。封印が解かれたように見えたが、その刀身を僕は見た記憶がない。ナタはもうひとつの剣をたぐり寄せて敵を警戒していた。
稲妻を剣にして戦う剣士。あれは夢だっただろうか。
「生きてるか、ヘルメス」
言われて、僕は瓦礫から這い出した。
「ナタこそ大丈夫だったの?」
「なんとかな」
ナタはそう言って周囲を見回した。
「あいつら。そうだ僕たち囲まれていたよね?」
僕がおそるおそる窺うのは、掃除屋と呼ばれる騎士たちのことだ。彼らは僕たちを殺そうとしていたはずだった。
「道は切り開いたぞ」
「道?」
「今のうちに、逃げようぜ。ここにいると敵が集まってくる」
ナタは表情のない声で言う。剣を振っている内に剣の事にしか興味がなくなるのは、いつものナタのこと。
「うん」
僕はそれ以上のことは聞けなかった。ナタが本物のナタかどうかなんて、人間の僕にはわからない。触れてはいけないものを触れたかどうかなんて、聞けなかった。
それに周囲に転がる焼けるような死体だって、どんな死に方をすればそうなるのか——。
だけどそれを質問したいラバシリ王子はもういなくて、
僕は雨降りしきる夜の中、棚のあった場所を探すばかりだった。
ラバシリ王子と最後に会った時のことを鮮明に思い出すことができる。
彼は僕にナタを連れて行くように言った。創造主の居る未来を託すと彼は僕に囁くようだった。彼が選んだ剣士は名のあるオーディンでもなく、サムライでもない。
ラバシリ王子が最強だと認めた剣士、それはケニングもないオーディンのこと——。
時代は最悪だった。
悪魔が表れた時代のことだ。
ラバシリ王子が予測した以上に狂った世界がやってくるのだろう。だけど、僕はラバシリ王子の意志を受け継ぎたいと思う。いろんな民族が手に手をとって暮らせる世界をつくって行きたい。
だって道は開かれた。
僕は、あなたのような勇者になれるだろうか?
その答えはいつか僕の知らない後世の誰かが出すのだろう。
「俺たちを襲って来た暗殺者のやつはどうする? ボコボコにされてたほうの」
ナタは、「あいつまだ生きてるな」と足元の現実に興味津々だった。
「連れて行くよ。怪我が治るまではね。だってなんか放っておけないよ」
それはついでの話。
最後に、
これは決別と出会いの物語だった。
今始まったばかりの僕の物語。
見送ってくれるラバシリ王子や巫女たちの姿はないけれど、感謝は絶えない。
僕を勇者として拍手で迎えてくれる観客も今はいない。
だけどやっぱり、
この場所を去る前に、
僕は振り返ったその場で深く一礼した——。
第一章「ヒルデリアの悪魔たち」おわり。
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