第7話 首都ヒルデリアの闇
僕は商人ではない。
子供の頃は商人の父親に連れられて旅をしてきたけれど、今の僕はウズメ姫と契約した冒険者だ。
特別な使命を持つ者を商人とは呼ばない。
一二柱の神を探す人を戦士とは呼ばない。
だからウズメ姫は僕のことを、
「勇者」
と呼んでくれた。
この心地よい響きは、何日寝ても耳から離れなかった。時々思い出すのは、そんなことで——。
「なんでヘルメスはにやけてるんだ?」
時々ナタは僕のことをいじる。「また勇者の夢でも見ているのか。それが勇者の顔だったか」とか、「ウズメ姫はヘルメスを手なずけるのが上手いな。勇者とか言ってやれば勝手に舞い上がるんだ」なんて事実を平気で突きつけてくる。
「分かってるけどさ、そこまで言わなくていいじゃん。こういうのは気分が大切なんだよ」
「気分でそんなに変わるか?」
「大違いさ。たとえば、今だって、僕たちは怪しまれないように行動しなきゃいけないんだ。結構難しいよ。気分って顔に出るから」
僕は轍を乗り越える馬車の上で、舌を噛みそうになって慌てた。藁の束を積んだ荷馬車の上からは路面が見えない。なぜそんな場所にいるのかと言えば、
「何か見えるか?」
とナタが馬車の下から僕を見上げて確認してくるこの現状。
「ヒルデリアの街ってあんまり覚えてないけれど、こんなもんじゃなかった? ヒルデダイトが戦争を始めたなんて思えないくらい。とくにおかしいところはないよ」
僕たちはヒルデダイトの首都、ヒルデリアにいた。「怪しいと思ったら、僕から声をかけるよ」というのは、隠れるようにボロを頭からかぶったナタは顔をを出せない。
ナタは雪のように真っ白な肌をしていた。これは創造主と同じ色で、そんな男が豪華な衣装や聖職者の装いをしていればイザリースの重要な人物だと特定されてしまうだろう。ボロを着ていれば、イザリースから来た貧乏人。僕の使用人にさえ見えるというもの。
つまり、僕は馬車の上にいる商人を演じる勇者。そしてナタは顔を隠しながら僕の手下を演じる謎の護衛だ。
僕たちがヒルデリアに潜入する目的はひとつ。
「ラバシリ王子がいたら、真っ先に教えろ。できれば、すぐにでもイザリースを下ったチイ先生たちを追いかけたい」
ナタはそれだけ言うと、さらに深くフードを被った。
「分かってるさ。僕たちは生き残った人たちの運命を託されてここまで来たんだ。絶対ラバシリ王子に会って何が起きているのかを確認しないとね」
僕にとって、ナタはラバシリ王子の親友のような存在だった。王子がどんな状況に置かれていても、王子はナタにだけは心内を打ち明けてくれるだろう。
そしてナタにとって、必要なのは僕だ。ナタは目立ちすぎてヒルデダイト語も流暢には話せない。だからナタ一人ではラバシリ王子と出会うことすらできない。
だから僕は少しばかりナタを手伝っている。
ヒルデダイト国がイザリースに武力行使した。この事実はにわかには信じられない話だった。僕たちはその当事者だが、それでも信じられないと思う気持ちはある。
ラバシリ王子が愛した国、イザリースと共に平和な世界を目指した人々が突然殺人鬼になってしまった理由。僕自身、その原因が知りたかった。
「勇者様よ。そこから落ちると危ないから、下りて来たらどうだい?」
僕は荷馬車の主からそう呼ばれていた。単純な話で、荷馬車を借りる時に、どこから来たんだと言われてイザリースからだと答えたのが原因だ。イザリースから来たというのは嘘じゃない。だけどイザリースは天使たちが住む場所だからこそ、民は僕たちを特別な何かだと認めてくれるらしい。
そんなわけで、僕は鼻の先をくすぐられる気分で、
「こっちのほうが遠くが見えやすいんです」
僕はしばらく勇者のふりをして積まれた藁の上に居座った。
僕たちの馬車はヒルデリアの郊外から街の中心部に入っていく。
ヒルデダイトの首都ということもあって、交通量は多く、衛兵もまばらだった。誰もこのヒルデダイトが先日戦争を仕掛けた国とは思わないだろう。それほどまでに庶民の活気と雑多な光景は日常そのものだ。
「ヒルデリア城のほうに行ってくれ」
ナタが小声で馬主に指示して、
僕の乗る荷馬車はトコトコと坂を登っていった。
王子に会うなら向かう先は当然、王様がいる場所ということになる。
「これならすぐラバシリ王子に会えるかも」
と思った矢先、
僕はそれが不可能であることを確認した。「ナタ、隠れてて。警備が厳重になってきた」からだ。
石畳の道になると開かれた城門が見えてくる。鉄の装いをした騎士たちが馬にも兜をのせて闊歩し、赤い兵装で統一された戦士団が胸を張って行進する光景は、この時代では異質だった。
中でも全身赤い勝負服に身を包んだ金髪の青年が僕の注意を惹く。赤いジャケットに帯剣し、ブーツで大地を蹴って歩く姿は風を切るようで格好いい。しかも青年は女性のような長い髪、少女ではないかと思うほどに整った貌立ちをしていた。
「都会の騎士はすごいや」
僕には全てが見慣れない光景だった。
「あれがヒルデダイトの騎士だ」とナタは言う。
「ナタってああいうのに憧れてたのんだよね?」
「別に」
「アルゴスやスパルタでも王様お抱えの戦士団を見たことがあるけど、ああいうのとは全然違う。騎士に憧れるって気持ちがわかるかも」
「どこも似たようなものじゃないのか?」
「違うよ、あっちはみんな筋肉を鍛えていて凄く身体が大きいんだ。戦士団ともなると威圧感は半端ないよ。身体を武器に変化させたっていうか、そんな感じ。こっちの騎士団ってみんなおしゃれで……」
それと同時に城門前を通り過ぎる瞬間、僕は金髪の彼への印象を大きく変えていた。
一瞬、彼と目が合った。
青年の目が蛇のように僕を捕らえると、僕の身体はたちまち萎縮してしまう。そうでなくとも、彼がまとう気配は獲物を狙う蛇か、殺し屋そのものだ。天敵と言ってもいい。
僕の身体の中のDNAが蛇に睨まれたウサギのように天敵を認知して、震え上がってしまっていた。
僕は、「おしゃれだと思ったけど、なんか違う」と言いたくても声がでない。
盗み聞きした限りでは、彼らは現在警戒中であるらしい。
「竜爪章の戦士をこちらに回してくれ。私は王都外周まで馬を走らせてくる。荒くれ者どもがまた騒ぎを起こしているらしい」
長い金髪の青年は苛立っている様子だった。
「皇帝が新しい騎士団を新設するために、各地の猛者を集めていると聞いています。そいつらがまた暴れているのでしょう。セアル様が行くまでもありません」
城門前で話し込む戦士は中年の男性で、歴戦の勇者のような顔つきだったが、それでもセアルという青年には畏まる。
セアル、それが金髪の彼の名前。
「我がヒルデダイトの騎士として登用されるならなおさら、そんな礼儀を知らぬ奴らを野放しにしてはおけない。それに、イザリースからの暗殺者が紛れ込んでいる可能性がある。奴らは狡猾だ」
「イザリースから?」
「イザリースのサムライには手強い者もいる。そいつらが紛れこんでいた時、私でなければ対処できまい。相手をオーガと同じだと思うな」
「私もセアル様に同行いたしましょうか」
「お前たちは手筈通り動け。イザリースから来た者を見つけたら、女子供でも容赦するな。全て殺せとの命令だ」
セアルが身体を傾けると、その手が長剣に触れているのがわかった。
イザリースから来た者を殺すという彼の決意。
こうなると、僕もナタもおいそれとは出て行けない。
困った僕たちは城の周囲を一周したあとで、路地裏に馬車を止めることになった。
セアルの気配が遠く離れて感じられなくなったところで、僕はやっと吐息と言葉を吐くことができた。
「これじゃあ、ラバシリ王子に会うなんて無理そうだよ。どこにも衛兵がいて、僕たちを探しているみたいだった」
ナタも無口になる。顔も出せないし、声を掛けることもできない。これではナタも辛いだろう。
こう言うとき、やっぱり僕の出番が来たと思う。
「ちょっと冒険者が寄る酒場を探して、イザリースの戦争がどうなっているのか聞いてくるよ。騎士たちは怖いけど、それ以外はなんかこう戦争してるって雰囲気がないんだよね」
僕は荷馬車を離れた。
戻って来たのは小一時間ほど経った頃。
「よくわからなかったよ」というのがナタへの報告になった。
「イザリースのことはみんな何て言ってた?」
ナタが気にするのは当然で、昨日までは友人だと思っていた仲間がいきなり敵になるのはどう考えてもおかしいことだ。
「イザリースに悪魔が逃げ込んで、それを討伐しているって言う人がいたり、そもそも戦争が起きたなんて知らない人ばっかり。でも、クジャって人が新しい王様になったのは本当みたい。先代のムワタリ王が病死したって、そっちのほうが話題だった」
ここまでが僕が仕入れた情報だった。
「クジャってラバシリの弟だ。ラバシリはどうしてる?」
「そこまではさすがにわからなかったよ。王様なんて気軽に会えるものでもないだろうし」
「俺が行けば会える。駄目ならイザナミの使者だと言えばいい」
「でも今は無理。衛兵がイザリースから来た人を探しているから。たぶん僕たちみたいなのを警戒しているんだと思う。そんな雰囲気があったよ」
「じゃあ、どうする。王城からラバシリが出てくるまで、隠れて待つか」
「ラバシリ王子がお城に居ることがわかっているならいいけれど、そうじゃないなら、待っていても無駄になるかもしれない」
僕は思案する。
目に映る街並みは裏路地からの首都だった。大通りの賑わいは、大陸でも屈指の貿易路。若い冒険者が多いが、露店も多いし、荷物を運ぶ馬車も無尽蔵に行き交っていた。
僕が思い描くのは在りし日の父親の姿だった。どうしても商人の影を見てしまうのは僕の半生がそれだったから。
「ラバシリ王子を呼び出せないかな?」
父親ならそうしたに違いないと僕は思い当たった。
「どうやって?」
「商売だよ。商談に持ち込むんだ。商人がラバシリ王子を探すのは当然の流れだし、不自然じゃない」
「商売って言ったって、俺たちは売る商品なんて持ってない」
「こういうのはね。手元に商品がなくてもいいんだよ。約束をするだけだから」
「藁でも売るのか。藁を売りたいからラバシリ王子を出してくれって、結構不自然な気がするが」
「ラバシリ王子ってヒルデダイトとイザリースを行ったり来たりしていたよね?」
「まあな。イザリースとヒルデダイトを繋ぐ窓口だって言っていた」
「その窓口って、鉄鉱石のやり取りだったよね?」
僕にもそれくらいはわかる。
火の剣を求めたアーセナやアリーズの祖父、あるいは僕の父親がイザリースを探し当てた時も、キーワードは鉄鉱石と製鉄技術だった。
聖剣と呼ばれる力の象徴たる武器がこの世界に存在すること、そしてそれらを製造する技術があるのはイザリースだけ。
こうなると必然的に、鉄鉱石の行方を追えば最後にはイザリースに辿り着く。
ナタも頷いていた。
「ラバシリが鉄鉱石を買い付けて、イザリースに運んで来ていた。イザリースで作った剣や農具を持って帰ったり、技術者をイザリースで学ばせたり。そういうこともやっていた。やっていたというか、ラバシリが責任者だった」
「それだよ」
僕は手を叩いた。「鉄鉱石の買い付け。僕達はラバシリ王子と直接商談したいと訴えるんだ。大量に鉄鉱石をヒルデダイトに流すって話を持ちかける。これなら不自然じゃない」そして父親の真似をすれば、僕にだってそれらしいことはできそうだ。
「いけるか?」
「いける。たぶん、そういうのは僕も見たことあるから」
全然余裕。
「城門の奴らに直接掛け合うなら、俺は行けないぞ。ヘルメスが喋っている間、隠れていたほうがいいか」
「え?」
それでも行けるとは言えなかった。「城門の兵士って思いっきり僕たちを殺すって雰囲気出してたよ? もし僕が嘘をついてるってばれたら……」どうなるだろう。
「いきなり殺されるなんてこともあるかもな」
「だよね。それこそ、ナタが一緒に居てくれないと僕にだって無理だよ」
「でも俺が近づくのは危険な気がする。俺がいたら王城の中には入れないぞ」
「ちょっと待って、別にお城の兵士に声かけなくてもいいんじゃないかな。鉄鉱石を扱う業者や役人を捕まえて、そっちのコネを利用するんだ」
言えば、どんどんアイデアが出てくる。「そうだ。武器屋。ラバシリ王子が持って帰ったイザリースの武器は武器屋とかに並ぶんでしょ。だったらそっちにコネとかあってもおかしくない」もしくは、「鉄鉱石を運ぶ業者はどうだろう」だ。
「なるほどな」
「で、できれば、ラバシリ王子にお城から出てきてもらうようにするんだ。鉄鉱石に絡む業者に仲介してもらってさ」
「いけそうだな、それ」
「うん」
僕たちの計画は完璧だったに違いない。
そしてさらに小一時間経った頃。
「僕がさっき武器屋の人から教えて貰ったんだ。この茂みの向こうで間違いないよ。高台にある屋敷ってここしかないもん」
僕たちは裏路地からさらに奥へと荷馬車を進めていた。
まさにラバシリ王子の知人を介して王子に面談するという計画を実行していた。
「その屋敷に住む長老が、鉄鉱石の買い付けを牛耳る元締めで、ラバシリ王子と親しいって話だったか」
とナタは、再度僕に確認してくる。ラバシリ王子と親しい者ならばナタを見つけても騒いだりはしないだろうが、そうでない場合は近づけば即戦闘なんてことにもなりかねない。
「そう、正確には元官僚って言うのかな。引退してるんだって。さっき話しかけた人はそう言っていた」
「引退してるのに、商談持ちかけて大丈夫か?」
「だって」
おかしい話だが、僕たちはこの時このことを気にも止めなかった。おかしいのは、次のような状況だ。
「現役の役人は数日前にオーガに襲撃されて殺されたらしくって、今は誰が担当だかわからないってさ。だから昔そういうことやっていた人に駄目もとで当たってみるしかないよ」
「オーガにやられたって?」
「うんオーガって言ってた。オーガが人を食うんだってさ。最近多いらしいよ。オーガの殺人事件」
「盗賊とかじゃなくて?」
「盗賊みたいなものかもね。オーガってデーモンみたいなもんじゃないかな。イザリースの言葉でデオニとかじゃなかったっけ」
「ああ、狂人みたいなもんか」
それはすぐ忘れてしまう程度の雑談。
そんな話をしている内に、
僕たちは目的の屋敷の前だった。
最初こそ、僕たちは閉ざされた正門前に立って、
「すみませーん」と声を張り上げていた。
数十年ほどの歴史の重みに歪んだアーチ門の先に、小さなお城のような屋敷。蔦に呑み込まれそうな佇まいは風格にもなる。庭の手入れは行き届いていたが、そこには静寂だけがあった。
屋敷の召使いたちが僕達を窓際から観察している、そんな空気を感じた。
つまり、叫んでも呼んでも、誰も外には出てきてくれなかった。
「俺たち、怪しまれてる?」
ナタがため息をつくのも仕方ない。
「僕たち招待されたわけじゃないし。考えてみれば、僕たちを怪しいと思うのは正解だよね。ここってさ、衛兵たちが居る場所からはそれなりに離れているし、盗賊が好みそうな場所だ」
「そんなわけないだろ、ラバシリ王子と親しい長老の屋敷だぞ。絶対安全な場所のはずだろ」
「でも、周りを見ても人がいない」
「門番くらいいるさ」
ナタは、「ちょっと裏に回ってみる」と左手から屋敷を周り込んでいく。
「待つよりは何かしてみたほうがいいのかもね」
いいアイデアだと思う。だけど僕まで動いていったら、正門が開いた時に誰が対応するのか。
結局、僕は待ちぼうけだった。
アーチ門の前で、足元で石ころを転がして時間を潰すというどうしようもない展開。
そんな状況が変わったのは、
ドゴン。
大きな音と共に土煙が屋敷の裏手から立ち上ってきた時のことだ。
「ナタ?」
その場所にいるはずのナタを僕は真っ先に疑った。屋敷を半壊させたかと思うほどの音。何をやったらそんな風になるのか僕には想像もできなかった。
そして、
使用人たちの絶叫。
「オーガだ」という叫び声。
「オーガが出た。ご主人様が殺された」
そんな騒ぎになっていく。
使用人の誰かが、「騎士を呼べ」と声をあげたところで、僕の目の前のアーチ門が開いた。
「え?」
僕は使用人たちを顔を合わせて、絶句する。
使用人たちはまるでオーガを見たように驚き叫んでいた。
だけど、言いたい。
僕はオーガじゃなくて、商談を伺いに来た商人だ。
「動くな」
言われれば、僕は動かない。
なぜなら、僕はオーガではなく彼らにとっての来客のはず。お互いの主張を勘案しながら最善の解決策を探したい。
動かなければ、大通りを闊歩していた戦士たちが駆けつけてくるのを待つばかりで、当然ながらその顛末は次のようなものだった。
「貴様は何者だ?」
大通りで見た長い金髪の青年は、僕とはそう歳が離れているようには見えなかった。だが、態度は尊大だ。剣を抜き放って、いつでも首を飛ばせるといわんばかり。一回り歳上の兵士たちに命令して、屋敷の中を調査させる手際は鮮やか。
駆けつけた憲兵だった。
「僕は、商人ですよ。て、鉄鋼石の売買を希望してまして、担当の人と直接商談したかったんです。でも、なんか事件に巻き込まれてそういう人がいないって言うので、下の武器屋さんでここを紹介してもらったんです。居合わせたのは偶然で」
僕はぶるんぶるんと首を振った。
「見ない顔だな、どこから来た?」
セアルと呼ばれた青年戦士は、疑り深い。ここでイザリースとでも口にしたら、きっと頭の上から剣で叩かれていたことだろう雰囲気を感じた。
「ギリシャのちょっと向こう側のカリーブという街です。山の中だから鉄鉱石いっぱい取れるんです」
僕はでたらめな名前を口にする。ギリシャの向こう側にもたくさんの国があるが、そこまで把握している人間がいるとは思えないから。
適当で大丈夫。
「そこの荷馬車はお前のものか?」
「はい。積んでいた鉄鉱石は全部売れちゃって、これから帰ろうと思っていたんです。いい値段で売れたので、もっとたくさん売ろうと思いまして……」
「その話はいい」
セアルは蛇の目を僕に近づけた。蛇に睨まれたカエルは動かないと言うけれど、丁度僕もそんなふうに身体が硬直してしまう。彼が狙っているのは僕じゃなくて、情報のほうだ。
「逃げたオーガを見なかったか?」
「オーガ?」
「屋敷の主を殺害したオーガが壁をぶち破って逃げている。貴様もその時に居合わせたな?」
「壁をぶちやぶったんです? 僕はずっとここで誰かが出てきてくれるのを待っていたので、建物の向こう側のことは——」
「オーガは人間離れした力を持っている。だが人間に紛れて生活している。見た目からはオーガだとわからないものらしい。そういう人間とすれ違ったのではないか?」
僕は言われて、口元に手を添えた。思い出すのは、すれ違った誰かのことではなくて、ナタのことだ。
犯人がナタだとは思えないが、同じ場所にナタもいたはずで、ナタはイザリースの言葉しか喋れないから、捕まればすぐにイザリースの人間だとばれるはず。いや、ナタは強いから、衛兵くらいなぎ倒してしまうかもしれない。
どのみちそうなれば大問題。
僕はナタが騎士たちに見つかるんじゃないかと思って気が気でなかった。
「オーガなんて見てないですよ。見てたら、僕が殺されちゃってます。こんなところにオーガが出るなんて知らなかったから、雇っていた傭兵も解散させちゃって、護衛もつけてないんですよ? いるのは僕とそこの馬車の手綱を握っている人だけで」
僕はうまく唾を飲み込めずに吐きそうになる。
セアルという剣士に睨まれると、本能的にそうなってしまう。
セアルにしてみれば、こんな僕がオーガに本気で怯える青年に見えたのかもしれない。
彼が求めているのはオーガだった。
「こんな近場でオーガに暴れられた。奴を仕留めきれないのが悔やまれる」
セアルはそう呟くと、屋敷へと身体の向きを変えていた。「オーガの手がかりはありそうか?」と、屋敷に踏み込むのは、逃げたオーガの追跡を諦めたのと同時だった。
僕はセアルから解放されて内心ひやひやしながら、深呼吸をした。僕はこれで自由になったらしい。
衛兵たちがセアルに説明するオーガには次のような特徴がある。
「とんでもないバケモノです。ガーハンデ長老だと思われる人物は上半身が跡形もなく吹き飛んでます。争ったと思われる用心棒二人も、形を留めていません。壁ごとですよ?」
それは本物のオーガだ。
絶対にナタのことではない。
だったら、僕がこの事件に深入りするのは違っている。僕たちはラバシリ王子と出会わなくてはいけなかった。
余計な事件に首を突っ込んでいる暇はない。
僕にとっては商談相手が殺されたという事実が重要だった。ならば、次の商談相手を見つけて、再度アタックしてみるだけ。
僕はそっと現場を後にした。
屋敷からどれくらい離れただろうか。
「ちょっと休憩しましょう」
僕が荷馬車の運転手を務める男を止めたのは、休憩のためではない。ナタを置いていくことができなかったからだ。
振り返ったのは、セアルたちが追跡してこないかどうか確かめるついでに、ナタを探して一刻も早く合流したかったから。
ナタのほうも同じ状況だったらしい。
「ヘルメス、無事だったか?」
ふいに彼は荷馬車の横に飛び込んできた。
「それはこっちの台詞だよ。ナタが捕まったんじゃないかって、すごく心配してたんだからね」
僕は怒る素振りで、安堵の深いため息。
ただそんなため息はすぐに止まることになる。
なぜなら、
「オーガだってさ。僕たちが交渉しようとしていた相手をオーガが殺しちゃったらしいよ。それで衛兵たちがいっぱい来てた」
そんなふうに僕が状況を説明すると、
「オーガか?」
ナタがふいに首を傾げていた。
「凄い力のオーガだって言ってた。壁ごと人を押しつぶしたらしいよ」
「あいつが?」
「あいつって? ナタ、見たの?」
「ああ、なんかデカい斧持ってた。赤い髪の女子だ。窓から出ようとして、ボロが引っかかってなかなか出られないで藻掻いてたぞ。あいつ顔を真っ赤にして俺に助けを求めるような目をしてさ」
「それ、オーガじゃない? 見た目は人間と変わらないって言ってたかもだし」
「あんなやつがオーガなのか? 暗殺者って言ったほうがしっくりくるが、あんなに間抜けじゃ仕事にならないだろ」
「笑いすぎだって、そんなに笑うようなこと?」
僕はうっすらと背筋に殺気を感じて振り返っていた。
そのオーガは屋敷の外へ逃げて、まだ捕まってはいない。どこからか僕たちを観察している。
そんな懸念があった。
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