第4話 火の悪魔
黒い煙が丘を登ってくると、辺りはいっきに暗くなった。
これから冒険するなんて気持ちは吹き飛んだ。
僕は、煙をかいくぐるようにして煙の向こう側に走った。
怖いとは思ったが、それ以上の恐怖は背中にある。
異常な景色にナタがイザリースの神殿に向かって走り出していた。僕の身体は黒煙の下を拒んだ。だけどナタを追いかけないわけにはいかない。
なぜならバズズのような盗賊たちが見えないところで僕を待ち構えているのは必然だからだ。僕たちが取り返した剣を再度盗もうと距離を置いたところで、僕たちのことを観察していても不思議はない。
そんなところで、僕がナタとはぐれたりなんかしたら……。
僕は抵抗することもなく盗賊たちの殴打を浴びることになるだろう。
それが本来の盗賊というものだ。
だから、僕はナタの傍を離れるわけにはいかなかった。
彼が煙の向こう側に行ったなら、僕も行くしかない。
当然ながらナタの足は僕よりも速かった。一度見失えば、ナタの背中を見ることさえできなくなる。
煙を越えたら、広がるのは闇。道も景色もわからない。
ただ、
僕にはあてがあった
。
ここはイザリースで、創造主の住まう場所。同じところに巫女たちやサムライも居る。つまり、大切な人を守るためにも、戦うためにも向かうべき場所はそこしかないと思った。
神殿の場所はイザリースに住む者なら誰でも知っている。
もちろん僕にもわかる。
「神殿——」
僕はナタとはぐれた。だがそれは神殿に辿り着くまでの話。
神殿に行けば合流できると思った矢先、
景色は様変わりしていた。
燃えさかる屋敷から屋根がおちて大きな音を立てる。火の粉が舞う中、耳をつんざくような悲鳴が聞こえて、僕は立ち止まった。
海岸に立てば海から波が打ち寄せる。それと同じように僕が走って来たあぜ道が火の渦に呑み込まれて消えた。波のように打ち寄せるのは炎。
焔が押し寄せる水のように流れた。
黒い煙の下は、炎の世界だ。
「なに、これ」
僕は何も考えられなくなって、呆然だった。黙っていても、汗さえも焼き焦がす熱波がくる。火の粉を振り払うと、もうナタを追いかけている場合ではなかった。
「助けて」
言おうとして、僕は咳き込んだ。
のどが焼けるようで、声がでない。
神殿は近い。
それがわかっているからこそ、
「助けて」
僕は周囲に声を投げかけようとした。炎の向こう側がどうなっているのかさえわからない。だけど声が届けば、神殿にいる誰かが僕を見つけてくれる。
そう信じて、
「た——」
やっぱり声がでなかった。
喉のせいなんかじゃなくて、僕はただ声を出す方法さえ忘れてしまっていただけなのかもしれない。なぜならここは今まで僕が暮らしてきた世界なんかじゃない。
何処に迷い込んだのだろう。
声が——。
僕はしゃがみこんで息を整えた。整えようとした。
「アリーズ、お前が言った通りだ。光の剣を手に入れたぞ。これがアマノツルギか。俺が夢にまでみた、三つの願いが叶うツルギか」
ふいに神殿では聞かれないはずのヒルデダイト語が聞こえて、僕は顔をあげてみた。
神殿に誰か居る。
それはすなわち神殿がそこにあるという証。
声がでなくても、歩くことはできる。
僕はそしてその場面に出会った。
さきほど呼ばれたアリーズという男が、神殿から庭を眺める立ち位置で、赤い外套を翻すように振り返った。もちろん僕にではなく、喋りかけてきた男にだ。だからアリーズと呼ばれた青年は僕のことに気がついていない。
僕はと言えば、ここで足を進めることができなくなっていた。
原因はアリーズだ。
彼は豪奢な金髪に整った貌立ちをしていた。これが神秘的に見えたのは、彼が涼やかな顔をしているからだ。あるいは外套を寄せる手が炎のようにさえ見えた。
いや、彼の金髪の先が燃えて広がっていく。首筋から立ち上るのは炎の光。衣服も肌も髪も焼かれながら、でも彼は平然とそこに立っていた。
おかしいと思った。
焼けていれば出るはずの煙。それがなくて、僕はまるで焚火の炎だけを見つめている気分になる。
彼は火で出来ている。
「人間じゃない?」
思った瞬間、僕はここが創造主の住まう場所であることを知った。それは神々が集う場所であって、創造主により神が生み出される場所も等しい。
僕は行き会ったのは神だったか——。
違う。
僕は、その向こう側に草を編んだ王冠の戦士を見た。
その男は、
「これで俺はヒルデダイトの皇帝から世界の皇帝になった」
そう宣言した。
続いて、
「このツルギを守っていた女を何人か殴り殺したが、他に生きて居る奴はいなかったか。残念だ。俺はこいつで試し切りがしてみたい。俺がどんな強さを手に入れたかを、早く確かめてみたい。なあアリーズ、お前もこの力を見てみたいだろう」
王冠の男はそんなふうに要求していた。
誰?
僕の心臓は止まりそうになった。
こいつは敵。
本能がそう告げていた。
僕は王冠の戦士の顔を見た。
狂気の踊る目に耳まで避けるほどに笑う口。つり上がる鼻の陰影が炎の中で恐怖を奏でる。
その顔はとても人間のものとは思えなかった。
「悪魔だ」
僕が脳裏に導き出した言葉。
それは、いつか聞いた人間じゃない者たちの呼称。
「悪魔が……あ……」
その男を見ただけで突然呼吸ができなくなって、僕は思わず手で首を掻きむしった。同時に王冠の悪魔と目を合わてはいけないと思った。僕は隠れるように首を下げた。呼吸をするのと首を下げるのとどちらが優先するかと言えば、それは首を下げること。
絶対に王冠の悪魔とは目を合わせてはいけない。生存本能がそう僕に訴えかける。
「ヘルメス」
僕はふいに背中を叩かれて我に返った。
気がつくと、ナタが横で僕と同じように隠れる姿勢だった。
「ここはもう駄目だ」
ナタはそんな風に教えてくれる。ある意味、僕はまだ大丈夫だと言いたげな顔で。僕はそんなナタの顔を見ただけで、忘れていた身体の感覚を思い出すことができた。
呼吸も戻って来た。
だけど、思考はまだどこか別の世界を彷徨っていて、
ナタが動くと、僕は彼についていくことしか考えられなかった。
「アリーズどうした?」
王冠の悪魔は、どこか上の空だった火の悪魔に語りかける。上の空とは、話し相手を見ていないこと。つまりは、火の悪魔は神殿の外を眺めているのだろう。
神殿の外とは、僕のいる場所のことだった。
だから僕はもう神殿のほうには顔を向けられない。
悪魔たちに見つかったのかどうかを確かめる勇気が僕にはなかった。
僕は必死に足を引きずった。今は彼らに見つからないことをただ祈るだけ。
火の悪魔は、
「何でも無い。ふとあの時のことを思いだした」
とだけ王冠の悪魔に返事をする。火の悪魔が見ていたのは夢だったか。
「お前が戦いの最中、別のことを考えるなんてめずらしいな」
「カデシュの戦いの時のことさ。アーセナが泣いていた。なぜ思いだしたのかは、私にもわからない。この炎の中のどこか、あの時のアーセナの匂いがした。そんな気がしただけだ」
逃げ出した僕の背中では、悪魔たちの話し声がしばらく続いただろう。
僕はそうしてナタに手を引かれるままに、再び炎のトンネルを潜り抜けていた。
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