第2話 お稲荷さん

 一体どういう事なのだろうか。

 しかも今自分が居るのは結婚時から住んでいたマンションで渉は新居を見て来たと言っていた。

 続けて百合香は新聞を手にする。

 その日付は──一年前だ。


 渉だけなら嘘を言っているのだと思ったのだろうがテレビも新聞も一年前を示している。


 益々混乱した百合香は取り敢えず他のもので確認しようと急いで支度をして外へ出た。


「なんなの⋯⋯本当に前のマンションだわ⋯⋯」


 見上げたマンションは元々渉が住んでいた見覚えのあるもの。「おはようございます」と声をかけて来たのは管理人だ。


「桐島さん。何かありました?」

「管理人さん⋯⋯あの、変な事をお聞きしますが今って何年でしたっけ」

「え!? 2022年ですよ? 桐島さん⋯⋯どうされました?」

「あっいえ、あの、和暦で⋯⋯」

「ああ、そっち、そうですよね実は私もいまだに和暦何年だったか分からなくなる時があるんですよ。えーと確か令和四年──ああ、酒井さんおはようございます。ねえ酒井さん今って令和四年でしたっけ」

「おはようございます。ええそうですよ」

「いやね、今桐島さんと和暦ってまだ慣れないねって話をしていたんですよ」

「ああそういう事ですか。私もよくありますよ。四年も経つのにいまだに間違えますから。それでは行ってまいります」

「はい、行ってらっしゃい。ところで桐島さんもどこかへ出かけるのでは?」


 唖然としながら酒井の後ろ姿を見送っていた百合香に管理人は声をかけた。


「そう、でしたコンビニへ。その、切らしてしまったものがあって」

「引き留めてしまったね、何かあったらいつでも管理人室へ来てくださいね」

「はい。いつもありがとうございます」


 確認したい。それだけで何も考えず外へ出て来てしまった。

 渉の不倫と自分の離婚に関係のない管理人と酒井の話で今が一年前だと認めざるを得ないのにもっと確実なものが欲しいと百合香はコンビニへ急いだ。

 雑誌コーナーで女性誌とノートを手にした百合香はいつもは貰わないレシートを貰い自宅へ戻ると買ったばかりのノートを広げた。


「本当に、一年前だわ」


 レシートに印字された年、雑誌の発売日。それは確かに一年前。


「私、戻った⋯⋯の?」


 そんな事が現実にあり得るわけがない。

 けれど百合香にはこの一年の記憶がそして最悪な一年後を覚えている。

 

「ならば私は変えたい。渉と奈美子の思い通りになんて動いてあげない」


 自身に起きたこの奇跡を無駄にはしない。

 復讐。

 頭に浮かんだ物騒な言葉に苦笑が漏れた。自分が淺ましい存在だと自覚してしまう。

 それでも渉と奈美子にやり返したい。


 百合香はペンを握ると日付を書いた。

 続けてこれからの一年間に起きる事、その対処法の案。夢中でペンを走らせていた百合香の手が止まったのは突然の着信音だった。


「百合香? 大丈夫か?」

「渉⋯⋯ええ大丈夫だけど。何かあった?」

「よかった⋯⋯メールが返ってこないから不安で。もう昼だぞ何か食べなきゃダメだぞ」

「ごめんなさい。大丈夫」

「そうか? 必ず早く帰るからな。夕飯は俺が用意するから百合香はちゃんと寝てるんだぞ」


 渉の電話を切って百合香は時計を見た。渉に言われるまで意識していなかったが正午を過ぎている。

 渉が送ったと言うメールは十五分おきに入っていて本当に心配してくれているのだと伝わって来た。

 百合香はこの時は幸せだったのにと泣きそうになった。けれどこの幸せは一年後には壊されるのだと百合香は知っている。

 渉の裏切りの記憶はあるのだから。

 ならば変えなければいけない未来を変える。そう決意した百合香は再びノートにペンを走らせた。


「一年の出来事はこれくらいかな⋯⋯。渉と奈美子が顔を合わせたのって私の結婚式と一週間後のおばあちゃんの法事の時。祖母の法事で不倫を始めるなんてばちあたりね」


 奈美子は百合香より先に結婚している。彼女の結婚式には百合香だけが出席していた。となれば、初めて顔を合わせたのは百合香の結婚式。行動に出たのは祖母の法事。結婚したのは法事からさらに一年前だった。

 恐らく奈美子は百合香の結婚式で渉に目をつけ機会を伺い蜘蛛の糸を張り巡らしていたのだろう。

 祖母の法事は不参加とはゆかない。ならば二人に顔を合わさせ、それを奈美子の夫である亨に目撃させて味方に付ける事にしよう。

 奈美子は準備をしていたと言っていた。彼女に対抗するには百合香も準備をしなくては対等に戦えない。


「渉は奈美子に押されて関係を持ってしまったのかも知れない」


 渉は優しいのが弱点。強く出られると拒否できないタイプだ。流されて関係を持ち、離婚し奈美子と結婚せざるを得なくなったのだろう。

 だからと言って渉を許せるかと言えば否だ。

 不倫をした代償を払わせる。

 百合香は自分にできる事を全てノートに書き記した。けれど一年後の自分を知っているだけに不安になる気持ちもある。

 渉の裏切りで傷付いた心。それはどうしようもない事だ。いくら考えても不安が消える事はないだろう。

 それでもこの一年をやりきった時に今より強くなれる気がする。


「できれば親戚にも不信感を植え付けたいわね⋯⋯そうだ、二人の姿が見えなくなったら親戚を誘ってお寺さんの周りを散歩するのもいいわね」


 パタリとノートを閉じた百合香は大きく伸びをして、窓の外を眺めた。

渉と奈美子に復讐する気持ち。上手くいくのか不安はある。

 この一年で二人にとって一番ダメージのある事は何か、それを考える事が百合香を奮い立たせている。


「散歩に行こう⋯⋯そうだ近くにお稲荷さんがあったわね。新しい家に引越ししてからはたまにしかお参り出来なかったけど引っ越す前はよく通っていたのよね」


 結婚して短期のパートをするだけだった百合香はパートをしていない時は良く近所を散歩していた。

 その途中で見つけたのが小さなお稲荷さんだ。

 お稲荷さんには家内安全や厄除けの生活に関するご利益があるのだと祖母から教えてもらっていた。それを覚えていた百合香は家内安全をお稲荷さんへお願いしていたのだ。


「なのに、壊れちゃったんだよね」


 神頼みは気休めでしかない。自分には神様のご利益が与えられなかったのだ。

 それでも百合香はあの場所が好きだった。社務所がないお稲荷さんは初めて見つけた時少し寂れて荒れていた。

 それを百合香が短い参道を掃き、鳥居の埃や蜘蛛の巣を払い、社を拭いた。

 綺麗になったお稲荷さんにはご近所さんも訪れるようになったのかお供物がされているのを見かけるようになった。

 綺麗になったからとお参りするなんて少し現金な話だと思うが、それでも百合香はあの場所が綺麗になり、人が足を運ぶようになった事に満足していた。


「こんにちは、あら貴女⋯⋯」

「こんにちは、えっと何か?」

「やっぱり! ここを綺麗にしてくれた方ね」


 お稲荷さんに手を合わせていた百合香が振り向いた先、そこには柄杓と水桶を持った老婦人が微笑んでいた。

 老婦人曰く、百合香が掃除する前から彼女はこのお稲荷さんを掃除していた。けれど一人ではなかなか進まなかったのにだんだんと綺麗になって来たお稲荷さんを不思議に思っていたらしい。

 井戸端会議で女性が掃除をしていたと聞いて一言お礼を言いたくてもどこの誰か分からずにいたそうだ。

 

「お礼を言おうと思っていたのだけれど、なかなか貴女と会えなくてやっとお礼が言えるわ。ありがとう」

「いえ、でも、なぜ私だと思ったのですか」


 確かにお稲荷さんを綺麗にしたのは百合香だが、この老婦人がなぜそれが百合香だと確信したのか不思議でならなかった。

 首を傾げた百合香に老婦人は笑ってみせた。それはまるで悪戯っ子のような笑顔で。


「気味が悪く思うだろうけど私はそう言うのをなんとなく感じられるのね。貴女を見てこの人だって感じたからよ」


 以前の百合香なら愛想笑いで流したのかも知れない。

 信じられない事がこの身に起きた今の百合香には老婦人の言っている事が嘘とは思えなかった。

 だから百合香も不思議な話に笑って返した。


「このお稲荷さんはね、良くしてくれたものに奇跡を与える事があると言われているの──貴女、お稲荷さんの奇跡を受けた感じがするわ」

「奇跡⋯⋯ですか」


 お稲荷さんから与えられた奇跡。

 なのに百合香は奇跡を使って復讐をしようとしている。

 言葉に詰まった百合香に老婦人は続けた。


「お稲荷さんは無闇矢鱈に奇跡を与えないわよ。与えられたのならそれは貴女が有効に使いなさいと言う事だと思うわ」


 それはとても優しい声だった。「家内安全のご利益があるお稲荷さんで受けた奇跡だから貴女のこれからの人生が良いものになるわ」そう言ってくれた老婦人に百合香は思わず涙ぐんでしまった。

 そんな百合香の頭を老婦人はまるで子供をあやすように撫でてくれ、最後にこう言ったのだ。


「貴女の思うようにしていいのよ」


 まるでこのお稲荷さんから奇跡を受ける前、百合香に何があったと知っていたように──。








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