朝顔の庭
京泉
第1話 絶望を忘れない
それは物語の始まりのような、絶望を味わえと悪夢の使者に呼ばれたかのような目覚めだった。
カーテンの隙間からチラチラと瞼に差し込む陽の光が眩しくて目を覚ました。
ベッドの横にある台の上に置かれている時計を見ると時刻は午前六時を過ぎたところ。
普段より一時間も遅い朝。
なのに睡眠時間が足りていないのか、まだ少し頭がぼーとしている。
寝たまま両腕を目の上に持ってきて、少しでも多くの血液を目元に送り込むよう意識しながら、昨日のことを整理する。
昨日の夜のこと……。
それは人生の中で間違いなく最も絶望した瞬間だったのだ。
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「百合香のこと、愛していた。けれど⋯奈美子のことを好きになったんだ」
「ごめんねえお姉ちゃん、渉は私が好きなんだって」
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陳腐な三文芝居のような台詞、よくある昼ドラのような展開。それでもこの身が引き裂かれるような絶望を味わったのは事実なのだ。
思い出すだけで震え上がりそうになるけれど、目を瞑り深呼吸して、ゆっくりとベッドから降りる。
隣のベッドを見れば夫である渉の姿はなかった。
それもそうだとため息が漏れた。あんな事があったばかりなのに同じ部屋で寝るなんて滑稽だ。
鏡台の前に座り百合香は鏡に映る腫れた瞼と生気を失った輪郭をなぞり情けないと薄く笑ってみた。
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昨夜の話し合いは奈美子の一方的な勢いに押されて終了した。
「今日は帰るけどここは私と渉の家になるからお姉ちゃんは渉との離婚届早く出して出ていってね。離婚してくれないと私、不倫略奪したってご近所に広がっちゃうもん。それに離婚した後なら不倫の慰謝料いらないでしょ」
「何を言っているの。今、不貞を告白したのよ?」
「えー、でも不倫したって証拠ないでしょ? だって今日の今日までお姉ちゃん気付いてなかったし。うちの親もおばちゃんとおじちゃんもお姉ちゃんより私を信用するわよ。お姉ちゃん親戚の中でも地味で目立たないじゃない。私の方が親戚ウケいいの知ってるでしょ。お姉ちゃんが黙っていればいいし、まあ? 不倫だって言ったところで信じないわね。それに私はシングルだもの誰と恋人になろうが結婚しようが自由よ。お姉ちゃんが素直に離婚すればなにも問題ないの」
「まさか奈美子、あなた亨さんと別れたのって渉との関係が始まったからだったの?」
「やっぱりお姉ちゃんて鈍いよね。そうよ。私は準備して来たの。だから私は不倫していないし、渉は私のものになるし、慰謝料も払わなくていいし、こんな素敵な一軒家に住めるんだもの感謝してあげるわ。ありがとうお姉ちゃん」
昔から奈美子は狡猾だった。
百合香をお姉ちゃんと呼ぶが正しくは従妹。奈津子はお姉ちゃんと呼ぶことで親戚に姉を慕う妹の印象を植え付け愛らしい容姿とその大胆な性格もあいまって、よく周りから可愛がられていた。
けれどそれは奈美子の計算された演技であり、その本質は自己顕示欲の強い女だ。
だから彼氏を作るときも親に紹介してもらうなど外堀から埋めていくような、まるで蜘蛛の巣のように周到な作戦を立てて獲物を狩るのだ。
「百合香⋯⋯すまない」
「奈美子はああ言うけれど私はちゃんと慰謝料と財産分与を請求するわよ」
「ああ、当然だ⋯⋯でも奈美子には慰謝料を請求しないでくれ」
「⋯⋯騙して裏切っておいて都合のいい事を言うのね」
「すまない⋯⋯百合香」
ただ謝るだけの渉を一度も見ずにリビングを出た百合香は我慢の防波堤を決壊させた涙をシャワーで隠し、そのまま寝室へ篭ったのだった。
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あの後渉はどうしたのだろうか。
まだ百合香と渉は婚姻関係にある。不倫していても不倫ではないとアピールする為の準備をして来た二人の事だ、流石に奈美子のところへ行くような迂闊な事をするほど馬鹿ではないだろうしリビングででも休んで朝一に奈美子のところへ行ったのだろう。
謝るだけで自分の言葉がなかった渉。
言い訳を聞けば納得するとは言えないが一方的に告げるだけなのは不公平だろう。
たとえ安い理由だとしても言い訳をされたら怒りをぶつけられた。どうせ最後なのだから好きなだけ罵れたのに。
「バカね⋯⋯私も」
渉と百合香は仕事中に怪我をした伯父の見舞い先でだった。百合香が伯父の家に訪れた時、そこに居たのが伯父の後輩だという渉。
伯父は現場職、渉は営業職だけれど入社から可愛がり可愛がられる間柄だと聞かされた。
初めは挨拶だけ。何度か伯父の家で顔を合わせる内に伯父を心から心配している事や仕事に対して真摯な姿勢を垣間見て、何より向けられる笑顔に百合香は渉に恋をした。
だんだんと惹かれていった二人は、想いを伝え合い交際を始めた。
十回目のデートで行った映画館。映画が終わったあとのカフェで、渉はそっと百合香に指輪を渡した。
プレゼントを用意してくれていた事やその行動力に百合香は大喜びし、幸せ一杯の気持ちになったのだ。
なのに。
渉の裏切りに気が付かなかった自身に思わず自嘲の笑みが漏れた。
「離婚届⋯⋯その前に弁護士かな」
「物騒な言葉が聞こえたけど⋯⋯大丈夫か? 熱が出て来た? 今日はゆっくり休んだ方がいいな」
「なんで⋯⋯渉」
水差しと数種類の置き薬を手にした渉に百合香は言葉を失った。
「なんでって、なかなか起きないしうなされていたから起こさなかったんだよ。ほら薬、どんな症状がある? 自分の妻の看病をするのは俺の役目だろう?」
出勤を装って朝一番に渉は奈美子のところに行ったと百合香は思っていたのだ。
昨日の今日でしゃあしゃあと何を言うのだと睨みつければ何故睨まれるのかと不思議そうに首を傾げられた。
渉のその仕草が憎らしく、百合香にふつふつとした怒りが込み上げた。
「昨日は一方的に裏切っていながら⋯⋯なにを⋯⋯言っているのよ」
「昨日? 裏切り? 百合香大丈夫か? 熱は⋯⋯少しありそうだな」
「触らないで! 熱だって上がるわよ!」
「昨日は新居を見に行ってクタクタになったからと夕飯を外で取って、帰って早々に休んだだろう⋯⋯あ、うなされていたもんな嫌な夢見たんだろ。離婚届とか弁護士とかってそう言うことか。酷いなあ俺が百合香を裏切る夢なんて」
「新居⋯⋯」
百合香は急いでカーテンを開けた。
そこから見える景色、赤い電波塔と高速道路の高架。見下ろした先は二階の高さではない。それは結婚した時に住んでいたマンションからの景色。
「なんで⋯⋯」
「やっぱり調子が悪そうだな。ごめんな仕事早めに上がって来るから。今日は大人しく寝ていろよ」
よく見れば渉はワイシャツ姿。いつも六時半に出勤していたと百合香は記憶している。
「あっ半すぎちゃった。急いで出ないと。見送りはここでいいよ。じゃあ行って来ます」
「えっ⋯⋯あ、行ってらっしゃい」
渉は慌ただしく寝室から出て行く。嵐のように現れ去って行った渉を呆然と見送り、何が何だか分からないと混乱していた百合香はテレビを点けた。
そこから流れて来たのは百合香にとって今更なニュース。それを速報だとアナウンサーが読み上げていた。
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