第12話 ひめゆり野 ③ 汗国の思惑

 朧月の冷たい風が吹く夜のことでございます。

 ひめゆり野とつむじ野の境目である茨藻川の近くには大きな集落がありました。

 ここはサイファン族、つまりはオビゴド・サイファンの率いる一族の集落で、物々しい空気と喧騒でひしめき合う土地でした。

 右手に杯、左手には女の肩を抱きしめ、ふんぞり返り座る男、オビゴドは余裕そうな顔に反して焦燥に駆られていました。

 彼は広大な草原であるつむじ野を支配するチャイチャクラ汗国からエンギレンに攻め入り、ヒンデンブルクを陥落させて、森人共を奴隷とするよう命じられた方面軍の指揮官で、一族を率いてひめゆり野にやってきたのです。

 森に攻め入るために足がかりとなるひめゆり野は汗国に与していない中立地帯であり、強大な力を持つ森人達とことを構える為にも武力での掌握を避けて、なるべく穏便に掌握したいと考えていたのでした。

 脅しを使いつつも森の近くを陣取るヤム率いるセンウ族含めた多くのひめゆり野の部族達を掌握し、攻め入るための準備をほとんど完遂していたのですが、ある部族だけが反発していたのです。

 それが、ドギンと出会うことになったジョチフ族でした。

 あろう事か、彼らはひめゆり野のちょうど真ん中を遊牧していたので、オビゴドとしては行軍経路を妨げられる形となっていたのです。

 そのため何度も小競り合いが起きたのですが、狼のような男、アムル率いる騎兵達に尽く打ち負かされ、軍勢を少しづつ削られてしまっていたのです。

 この小競り合いは三年にも及び、本国であるチャイチャクラ汗国からは職務怠慢による刑罰を臭わす電報が届き、功に焦っていました。

 そんな時に知ったのが赤い牝馬バランドゥイルの話でした。

 最初は高々、速いだけの馬とばかりに思っていたのですが、その正体がジョチフ族の長の娘だと知り、これを好機と見て周辺部族達に命じて捕らえ、掟に従い、無理矢理にでも婚姻の儀を結んで、従わせようと企み、ついに捕らえることに成功しました。

 後は朝方にその姿を目にすれば王手をかけれると意気揚々と向かったのですが、予想外にアムファンは連れさらわれていたのです。

 その上、先にその姿を見たのは我らがドギン君であり、小鬼に図らずもしてやられた訳でございます。

 聞くところによると、その忌々しい小鬼があろう事かその娘と結ばれたらしく、オビゴドは烈火のごとく怒り狂っていました。

「クソッタレが!」

 杯を床に叩きつけ、女を痛がる程肩を強く抱きました。

 それから女の服を破り捨てて乱暴に抱きました。

 怒りをぶつけるように肉欲を思うままにして、力任せに抱き、女の艶っぽい声に興奮するばかりか、首を絞め上げてしまいました。

 あの、忌々しいロムスンの娘に同じように抱いたらどんな苦悶の表情を浮かべるのだろうか、それをロムスンの目の前で見せつけてやりたい、と暗き劣情を秘めるオビゴドはそのまま、女が泡を吹いて息絶えるまで締め続ける凄惨な行いをなしました。

「片付けておけ」

 既に身なりを整えて、外へ向かったオビゴドはパイプ煙草を吹かし始めました。

 峰々から運ばれる風は冷たく澄んだ空気にも目もくれず、西を向いてじっと睨みつけていました。



 短い草の葉で溢れた草原も、今や冬の訪れで辺り一面が白く染まり、雪原という言葉の方が相応しい程でした。

 その雪原に点が幾つも並び、その先を辿れば我らがドギン君の姿も現れてくるでしょう。

 あれからふたつも月を跨ぎ、ドギンはジョチフ族と共に暮らしました。

 その日々はドギンにとって、新しく知ることの方が多い毎日でした。

 羊の毛の剃り方や、冬に備えて越冬できる程度に家畜を減らし、屠殺にしても家畜の身体を余すことなく使う事や、その使い道も多岐にわたり、内蔵も塩洗いして蒸したり、焼いたりして日々の糧になりました(デーンは敬虔なるムスドンファ教徒なので内蔵を食べたりはしませんでしたが)。

 パイプ煙草を嗜むようにもなり、煙遊びにも精霊達の力が働いている事に気づいた時には、ドギンは喜びのあまりにその場にいたアムファンの手を握り、すぐにこのことを書き記さなくては、と言って羊皮紙を広げてその原理から詳細に書き残した程でした。

「こんな事、銀の君は知っていたのかも知れませんが、きっと他の誰も知らない、世紀の大発見ですよ!」

 その興奮する様に、アムファンは呆気にとられる他ありません。

 ドギンはすっかりトゥラムイ語(ひめゆり野、ウガル高原、その北方にあるイェン高原等のノーシアス中央に住む草原の民達の話す言葉)に熟知し、思うように言葉を操りました。

 そのため、アムファンもドギンの言っている事も自分たちの話す言葉も伝わるようになりました。

 しかし、アムファンは森人の言葉を話すのは難しかったようで、ぎこちないものでした。

 ある時、ドギンはアムファンとデーンで話している時に、尋ねました。

「今は私もこうしてトゥラムイ語を話せるようになったのですから、アムファンさんが無理に話そうとする必要は無いのでは?」

 すると、デーンとアムファンは(アムファンの方はおずおずと)目を合わせました。

 それからデーンは言います。

「森人や闇人に小鬼はそう思わないかもしれんがな。お前たちの言葉って不思議な響きなんだよ。だから話してみたくなる」

 その例えとして、エンギレンは森人の言葉であり、只人はエンギレンの事を闇の森という名前なのだ、とデーンは説明しました。

「砂漠のミラノル、草原のロヒルエノ、金細工のエンドール、銀細工のフロモル、なんて呼び方も森人の言葉だ。俺たちは等しく只人、森人、山人って呼ぶのにな」

「或いは、国や出身から、デーンさんの場合だと、海の民ですけどパラメシア出身なのでパラメア人、或いはヒンデンブルクにお仕えしているので、ヒンデンブルク人ということになります」

 アムファンが同意するように言ったので、ドギンが納得していると、アムファンは照れくさそうに顔を赤くしながら言いました。

「それに、私は、ドギンくんの事、知りたくて、その」

 言葉が連なるにつれて声を落としていくアムファンに代わって、デーンが咳払いをして言いました。

「つまりはだな、ドギン。お前を知るきっかけなら、そいつが森人語だろうが、なんだろうが、関係ねぇ。大事なことはドギンという小鬼がどういうやつかって事よ。それが人を知るって事だ」

 隣にいるアムファンは何度も小首を縦に振り、頷いていたので、ドギンはふと、南西の方を向いて静かに言いました。

「銀の君も、自分の事を知って欲しかったのでしょうか」

 そこには真剣な面持ちのドギンが居ました。

 アムファンは言いました。

「銀の君って、あの、おとぎ話の森人の事ですか?」

 ドギンはアムファンの方を向いて、寂しげな微笑みを浮かべると、また南西を向いて言いました。

「おとぎ話、そうですよね。私にとっても、銀の君は遠い昔に生まれた方ですから、そう思われても仕方ありません。私も、絵本の中で、初めてその名前を目にしたのですから」

 それからドギンは寂しさを残した顔で語りました。

「銀の君は、月明かりのガラドゥーラと呼ばれる、始まりの森人から生まれ、稀代の天才、メルナードと知恵の神、スィールから魔術、法学、医学、薬草学、鉱物学、工芸、人類学、剣術、ありとあらゆる知識を学び、バルブロンド崩壊から二百年後に月明かりの民達を率いて、おとぎ話として知られる楽園紀行という偉業を成しえた。その偉業は、本来たどり着く運命になかった民達、その定めを捻じ曲げ、導いた事にあります。しかし、それも、私たちでは計り知れない程の前の話です。その時を知る者は、夜の帳大王、いや、彼も同じ時間軸に居たとはいえ、共に暮らしていた訳では無いでしょうから、誰もいないのでしょうね」

 悠久の時を過ごした銀の君は、私との日々に何を感じただろうか、とドギンは思いました。

 ドギンはまだ日も沈まぬ気配すら見せないのに、森人の祈りを捧げました。

 それに習うように、アムファンもデーンも祈りました。

 アムファンはドギンに囁きました。

「銀の君も、きっとドギンくんの無事を祈っています」

 ドギンは目をつぶって頷きました。


 それから、ジョチフ族について他に知る事となったのは、越冬の事を交えてアムルが他の部族の巡回路を教えてくれました。

 本来であれば、冬が厳しい地域では山の陰に移り住み、冬を凌ぐそうなのですが、ジョチフ族は他の部族から嫌がらせを受けていて、ほかの部族が先回りして抑えてしまうので、大きな移動が出来ませんでした。

 それに、ジョチフ族の動きに睨みをつける監視の目があったり、相手の巡回路を把握せねば、忽ちに襲われてしまうという事をアムルはジャムカに話させました。

「そういえば、アムルさんは、私の事がお嫌いなのでしょうか」

 ドギンが尋ねても、アムルは何も話さず、表情ひとつ動かしませんので、ジャムカが代わりに答えました。

「失礼しました。アムルもきっとドギンさんの事を嫌っている訳では無いのです。ただ、兄妹揃って人見知りなので、特にアムルさんは極度の緊張から、顔が強ばり、口もきけなくなるのですよ。だから、何でも私に話させたがるのですが、きっと、心の中では初めて出来た義弟という存在に戸惑ってらっしゃるのかと思いますよ」

 答えるや否や、アムルはジャムカの横腹に拳を握りしめたまま当てて、ぐりぐり押しつけました。

「くすぐったいですよ。こんな事言われるのが恥ずかしいのであれば、これからは私に話させないでくださると助かるのですが」

 そう言うとアムルは間を空けてから答えました。

「無理だ。お前なら分かってくれる」

 その様子を見ていたドギンはこの友情を羨ましく思いました。

「私も、お二人のようになれますか?」

 ジャムカは微笑みを崩さずに、困った時の額をかく癖が出ました。

 すると、アムルは答えます。

「小鬼だ。同じようにはいかん。お前の好きにしろ」

 振り向きもせずにぶっきらぼうに答えましたが、ドギンにはなんだか背中を押されたように感じました。

 それからしばらくしてドギンは尋ねました。

「そういえば、何故ジョチフ族だけ、狙われているのですか?」

 すると、二人の表情が固まるのを感じて、すぐさまドギンは謝ろうとしましたが、アムルが答えました。

「チャイチャクラ汗国は闇の森を狙っている」

 それを聞いた瞬間に銀の君が頭を過ぎり、冷静にドギンは言いました。

「不可能なのでは?」

 アムルもまた、淡々とした口調で言いました。

「不可能だから、やらないのか?違うだろう」

 ドギンもまた、心当たりがあるだけに、その事を恥じて口を閉ざしました。

 ジャムカが付け加えました。

「彼らの祖先は闇に屈していた訳ですから、その流れを引く彼らもまた、闇の者と言って過言ではないでしょうね。それは支配階級だろうが民草だろうが、その認識はあるでしょうね。中流から下流階級の者からすれば、遊牧以外の生計、略奪がなければ生活が難しいし、支配階級にしても憎き楽を滅ぼすには莫大な富が必要ですから、同盟国であるパルシェとはもっと交易路を安全でなるべく旅費を抑えたいと考えているはずですから、そのためにも闇の森を攻めこみ、領土を得たいと考えるのはそこまで不思議なことではありませんからねぇ」

 それを聞いたドギンはあの森人達の自然溢れる故郷が火の海に溺れ、死の臭いを噴き上げながら硝煙を上げ、水を求め、命を乞い、生きとし生きる者の悲鳴を想像して、歯軋りをして、顔を歪めました。

「周辺の部族達は臆病だ。汗国の傘下でもないのに、その力に怯えて、悪に加担するなんて以ての外です。どうか、私をこれからも巡回に参加させてください。彼らにエンギレンを燃やさせるもんか」

 ドギンの目には力強さと熱意が籠り、その勇気に心動かされたアムルは頷きました。

 それからは雪が降り積もる日にもドギンは集落から離れた場所を回るようになりました。

 もちろん、自身の勉学も怠らないように、馬上で本を開き、読み進めつつも、間を置いて周りを見渡し、その優れた目を凝らし、風の精霊達の声に耳を傾け、不穏な動きを少しでも感じ取ろうと尽力しました。


 静寂しじま降る草原の上を身体に積もる雪を払いながら、今日もドギンは森やジョチフ族を守る為に、見張りをしたり、他の部族の巡回路や交易路に罠を仕掛けました。

 罠と言っても人を殺めるような危険なものではなく、罠に引っかかると爆竹が劈く音で驚かす程度の物ですが、馬がそれに怯え、その行路に近づかなくなるのです。

 馬上で暮らす彼らにとって遠回りをしなくてはならないのは非常に不便ほかならないことでございました。

 ドギンはこの二ヶ月の間、そうした地味で細やかな工作を少しづつ範囲を広げながら、繰り返したので、今やドギンは、単身で他の部族の集落付近まで、巡回可能な範囲を広げる事に成功したのです。

 勿論、この功績はロムスンやアムルの耳にも届き、二人はドギンの為に祝宴を催しました。

 ロムスンは杯並々に注がれた馬乳酒を豪快に飲み干し、笑いました。

 上機嫌なロムスンはドギンの肩を抱いて言いました。

「ドギン殿が来てからというもの、わしらは他の部族からの略奪や嫌がらせを受けず、天がドギン殿という光を授けてくださったわい」

 嬉々として話すロムスンを見て、ドギンもまた。

「ありがとうございます。しかし、天啓というのはひた向きに努める者に授けられると思います。私が成しえたことも、皆様が敵の事を知り、その研鑽の賜物でございます」

 役立てた事を喜び、それでいて謙遜を忘れずに答えました。

 アムルは二人の様子を見ながら杯を飲んで、口元を隠してみていました。

「小競り合いも続けば立派な争い。負傷する者も現れる。それを義弟殿は単身で行い、小競り合いも起きず、誰も傷つけずに、我らの安全と、敵方への抑止を果たしたのだ。大したものだ」

 そっと、小さく呟いたものですから二人には届きませんでしたが、聞き逃さない者もいました。

 ジャムカはいつもの癖をしながら耳打ちするように言いました。

「私としては、危ぶまれるべきかと存じますねぇ」

 アムルは驚き、瞳孔が少し開くとジャムカに、何故そのように人の善行を貶す事を言うのか、と尋ねるとジャムカは額をかいたまま穏やかな表情で囁きました。

「確かに、ドギン殿の行いで相手の巡回路を狭め、むしろこちらが一方的に敵方を知れるようになった事は評価すべき事でしょう。しかし、襲撃の危険が去ったとは思えません」

 なぜだ、と尋ねるアムルにジャムカは細めた目を少し開いて、静かに答えました。

「ドギン殿が行った事は、大局的に見れば、我々の領地の拡大です。追い詰められた狼が何をしでかすかなんて、アムルなら分かりますね?」

 海の砂浜で蒔いた網を手繰り寄せるように、アムルは思いをめぐらせて言いました。

「成人の試練か、あの時はお前が一番槍を上げると思っていたのだがな」

 それを聞くと、ジャムカの表情は緩み、その真ん丸な腹を叩きながら笑いました。

「いやはや、あの頃のアムルは何をやっても不器用でしたからねぇ、今もそうなんですけれども」

 そこまで話すと、言いたいことを思い出して、また顔を曇らせました。

「私は慎重にかつ迅速に、それを容易に成し得る、と過信していたから、必要以上に追い詰めてしまったのかも知れませんね。お陰様で今では戦場の事を考えるだけで恐ろしいですよ」

 そう言って手の震えをアムルに見せているのを、話が聞こえてきたドギンも盗み見ていました。

 ささやかな宴は空が仄かに明るく、東の地平線の上を昼の空色が帯びてきた頃まで行われて、あまり酒を口にしないドギンも、さすがに少しは飲んでしまってほろ酔いのまま、テントに帰ることとなりました。

 白い吐息は朝焼けに消え、朝から逃げ遅れた星屑が燦燦と降り、朝日に照らされて小さくも眩い煌めき模様が目の前に広がっていました。

 腕を抱いて震えながらもドギンは乾いた季節の美しい景色に感嘆し、うっとりとした顔で立ったまま動きませんでした。

 エウケルトにいた頃であれば、植飢えと寒さと暗闇に怯える生活をしていたであろうに、と思いながら、ノーシアスから海を隔て北にあるレストノースのまだ見ぬ雪原を想像し、夜空の星々と地上に光のカーテンが揺れると噂される絶景を一度でも目にしたいと思いました。

 この頃のドギンと言えば非常に活発でしたが、闇が蔓延る森や苦難の旅の中に比べれば気分は非常に落ち着いていました。

 むしろ落ち着いていたからこそ、略奪を行わない慎みを持つジョチフ族の暖かさや、アムファン達の優しさに報いたいと果敢に動いていたのかも知れません。

 ドギンはいつかレストノースに行く事があれば、その時はデーンとアムファンで見たいと願って、疑問に思いました。

「果たして、この旅の先には、そんな明日があるのか?僕は小鬼の未来の為に、銀の君から知識を教わっていたはずなのに」

 自分がおかしくなったのでは無いか、と鼻で笑い、冬風逸らしの魔術を唱えて、寒さをしのぎながら帰路に着きました。


 テントに帰ると、既にアムファンは目を覚まし、元気に朝餉の支度をしていました。

「おかえりなさい、ドギンくん」

 暖炉で鍋に火をかけていましたが、一度手を止めて、ドギンの方を向いて、その朗らかな顔を見せました。

 ドギンは風避けをしていたはずなので、ちっとも寒くなかったのですが、身体の芯が熱くなるようなお日様の気分でした。

「ただいま戻りました」

 ドギンは外套を脱いで衣類掛けに吊り下げて、ソファーに腰を下ろすと、アムファンがやかんから茶を、と言っても森人や西の只人が飲むような、紅が仄かに映る赤茶色のお茶ではなく、良く枯れた木の葉のような、自然な茶色のお茶、それを茶碗に注いでドギンに渡しました。

「父は、とてもお話が好きですから、きっと沢山飲まれた事でしょう、ここまで少し離れておりますから、身体も冷えていることでしょう。お茶と朝餉でも頂いて、今日は休まれてください」

 それから、暖めた鍋をテーブルの敷物の上に置いて、お皿に肉と野菜の入ったスープを盛り付けました。

 ここに来てからは、野菜なんてほとんど食べていませんから、新しい物を目にするようにじっと見つめました。

 とはいえ、酒の入った日には野菜が入っているくらいが胃に優しくてちょうどいい、とドギンは思い、まずはお茶を飲んでから、草原の民のやり方で祈りました。

「豊かなる糧を」

 それから、ゆっくり朝食を摂りました。

 暖かな優しい味にじっくり煮込まれた肉のほろほろとした食感と旨みが舌の上を滑り、喉に自然と流れて大変美味でした。

「いつも、ありがとうございます。今日も私が思うよりずっと早く目を覚まして、朝餉の支度をした後、言葉を学び、日々の仕事もこなして、それから、夜には草原を駆けて...って眠れていますか?」

 話しているうちに気が付き、目を丸くし、眉をひそめながらドギンはアムファンを見ました。

 おかしな表情をするものですから、アムファンは口元を抑えて微笑みました。

「私の勤めは夕方になる前に終わりますから、夕方頃にお夕飯の支度をして、夜に小一時間走る程度ですから、心配なさらないでください」

 そういうと、やかんを暖炉の近くまで持って行って、金槌で銅鑼を鳴らすように軽く何度も叩き、輪郭がぼやけた金属の音を外にまで響かせました。

 外からもやかんを叩く音で賑やかになり始めました。

 いつもドギンは目覚ましの代わりなのかと思っていたのですが、そうではないらしいと悟って、このカンカン鳴り響くこの一時に耳を傾けました。

 やかんを叩く音が小さくなると今度は少しづつ人の活気が大きくなり、ドギンはアムファンに尋ねました。

「今まで、気にも止めていなかったのですが、今のはどういった風習なのですか?」

 アムファンは答えました。

「おまじない、と言った所でしょうか」

 そう言って、お茶を注いで、ドギンの向かいに座りました。

 それからお茶に映る自分を見つめながら、アムファンは語りました。

「私たち遊牧民は安定とは程遠い、素朴で、少しでも季節の変わり目に怠けてしまうと、季節を越す事無く、多くの人々が命を落としてしまう。そんな過酷な日々だから、目覚めのお茶の、一口が美味しいと少し、その日がとても良い日に思えるんです」

 そう語るアムファンをドギンはじっと見つめ、それからもう一度、やかんの音を思い出してみました。

 ドギンは夜が怖くて、朝の陽射しがエルのありとあらゆるものを照らし出すあの瞬間、ホッと安堵する日々を送っていた事を思い、きっと、彼女らにとって、それが自分にとっての朝日と同じ事なのだ、と共感しました。

「やかんを叩いて、良いお茶が出来た事を皆に報せる、そうすればその日全てがとても良い日になる、そんなお呪いなんです」

 そう言って、お茶をゆっくりと飲み、満足気な表情をアムファンは浮かべました。

 ドギンもお茶をもう一口、飲みました。

 よく蒸された茶っ葉の渋い香りの中に微かに感じる甘みがなんだか特別な物のように感じました。

「ドギンくんにとっての、お呪いって、なんですか?」

 ドギンは少し考え込んで答えました。

「僕は、みんなから、色んな事を教えてもらった。その一つ一つが生きる糧になってるけど」

 茶碗に森人の女の姿が映ったような気がしました。

「銀の君が教えてくれたもの、かな」

 アムファンは尋ねました。

「それは、魔術の事でしょうか?」

 ドギンは頷きました。

「総括すると、そういうことかな。もっと深入りするなら、銀の君は僕に魔術を通して、僕自身の才能を見出してくれた」

 ドギンは夕沈み海での出来事を思い出しながら語りました。

「長年魔術を扱う人達からすれば、僕は未熟だけど、僕は他の魔術士と違って、精霊が見える、と言うよりも、精霊達の領域その物が見えるみたいなんだ。これってほとんどの魔術士や森人には出来ない事、なんだと思う。だから、相性の有無はあれど、大体の魔術が使える」

 それを聞くと、好奇の目を光らせていたアムファンでしたが、少しして不安そうな顔で尋ねました。

「私なんかが、聞いてよかったのですか?」

 ドギンは笑って答えました。

「僕はデーンさんとアムファンさんとロムスンさんにしか魔術が使える事を教えていないから、平気だよ。それに僕との旅になればどうせ知る事となったし、気にしないで」

 と話したあたりからドギンは、ハッとした顔で口元を抑えました。

「私としたことが、つい気が緩んでしまっていたみたいで、申し訳ございません」

 アムファンは笑みをこぼして許すと、ドギンは話を続けました。

「偉大な森人の女王が、私を認めてくださっていた。それに、光の中を歩くための道も示してくださって、他にも旅のために色んな物も用意して、特別だと思われている事が、少し誇らしいと言いますか、まさに日々を支えるお呪いのようなものなんです」

 しかし、と一言ことわってからドギンは言いました。

「皆さんとの日々も、私にとって実りあるものです。もちろん、路銀が尽きてきたので、ここで働いて潤った事もそうですが、デーンさんは何かと私の事を気にかけてくださるし、アムファンさん達の生活は私の知らない生き方の中で大切な事を教えてくれる。何よりも、アムファンさんは特に、仮初の夫婦にも関わらず、私といても嫌な顔ひとつしないでいてくれるので、危険な旅路な事を忘れてしまうくらいに安心しています」

 それを聞いたアムファンはそっと頬を赤くして嬉しそうに笑いました。

 ドギンにとっては本当に安堵するひと時で、旅路を終えた時に振り返ると、もっとも平穏で、胸が暖かくなる思い出であったと語りました。

 この時のドギン自身もまた、この先の不穏な予感がして、段々と軽やかなミスリルの鎖帷子が重く感じていたのです。



 それから食器を片付けて朝が過ぎ、アムファンも他の部族への書簡を書き始めましたが、ドギンは昼寝もせずに、今日も巡回に出る、と心配するアムファンを他所に外へ出かけました。

 厩で一頭見当たらないの確認して、自分の馬に跨り、晴れ間で雪の層が薄くなりつつある草原を駆けました。

 ドギンは誰の馬が居ないのかすぐに分かってしまい、不穏な予感が当たってしまった事に胸を痛めつつも、せめてジョチフ族だけでも穏やかなままでいて欲しいと願い、馬を急がせました。

 それから数里離れた所で人馬の影が見えて、ドギンは呼び止めました。

「ジャムカ殿!」

 丸い体を緩慢に翻してジャムカはゆっくり止まりました。

 いつもののんびりとした穏やかな表情を浮かべていたジャムカを見て、勘繰りは嘘であったのではないかと、疑いましたが、思い直し、ドギンは恐る恐る尋ねました。

「どちらに向かわれているのですか」

 ジャムカは表情一つ変えずに白々しく答えました。

「最近はドギン殿のお陰で、頻繁に遭っていた他部族の略奪も嘘のように減ったものですから、今や武官達も文官の手伝いをしてくれますので、仕事が減ったので少し体を動かそうと早駆けしていたのですよ。ついでに巡回も出来ますしね」

 ドギンはジャムカへの疑いが晴れず、慎重に言葉を選びながら尋ねました。

「その様ですね、しかし、、皆は腹を立てる事でしょう」

 ジャムカは何食わぬ顔で平然と答えました。

「確かに、もう数里ほど離れてしまいましたから、ここから帰るとなると西日が強くなるでしょうし、その間、抜けていて、しかも何も成果がなければ怒ることでしょう。しかし、それもまた、笑い話になりますからね」

 ドギンは言いました。

「何気ない事でも、得れるものもあるはずですよ。ジャムカ殿ほどの賢いお方であれば」

 ジャムカは首を傾げ、額を掻きながら言いました。

「何か要領の得ない言い方ですね。先程は何も得ていない前提であったのに、今度は得ているという言い方、川底で跳ねる小石の様に、コロコロ話が変わっている気がします」

 ドギンはこれを聞いて、矢張り見ていた、と確信して平然と答えました。

「いいえ、それはあくまで仮の話、私自身は貴方が何かを得ていると思って話していますよ。むしろ貴方の方こそ、そのような事を言って話し合いから逸らそうとしているではありませんか」

 黙ったジャムカにドギンは言葉を続けました。

「それに川を使った表現の仕方は、あまり草原の民は使いません。草原の民であれば渡り鳥を例えに持ち出すはずです」

 それを聞いたジャムカは猫の手のように曲がった人差し指の動きを止めて、細い目を少し開いてドギンを見つめました。

 そこに笑みはなく、口角が力無く下がり、殺気立つ姿にドギンは怯むも、言いました。

「オルヌアには二つの大河が流れていて、楽も、雀の頃も、その大河を中心に大きく発展した大国です。そこに住まう平原のミヌリオは大河と共に育ったと言っても過言では無いのです。そして、楽に住まう平原の民の、特に後宮と呼ばれる妃達が住まう宮殿に仕える男の特徴は」

「私のように丸みを帯びている」

 そう言うと同時にドギン達の前方から地を揺らすように蹄鉄の音が響き渡り、押し寄せてきました。

 その先頭には三又の髭を持つオビゴドが、暴虐の象徴たる鉄鎖を携えて現れました。

 その残忍で、獰猛な鬣犬ハイエナの様な鋭い目にドギンが驚いているうちにジャムカは馬をドギンに向かって走らせ、瞬く間のうちにドギンを引き釣り落としました。

 痛みに苦しむドギンにジャムカは馬から降りて足を踏みつけました。

 あまりの痛みに堪えきれずにドギンは声を上げました。

 それからジャムカはオビゴドの方へ向き直り、頭をたれました。

「遅くなり申し訳ございません。閣下」

 オビゴドは冷たい目のままジャムカに言いました。

「約束の時間は過ぎている。次は無い」

 あまりにも冷淡な口調にドギンは怯えながらも声を振り絞って言いました。

「ジャムカ殿、矢張り貴方がアムファンさんの事をこの男に伝えたのですね、それから今朝の事も伝えようとしている」

 そう言いきったと思った瞬間には首に飛んできた鉄鎖が巻かれ、喉を伝う空気をひとつも漏らさまいと言わんばかりに締めあげれました。

「声を上げても、助けはこない」

 冷ややかなオビゴドは薄ら、その口髭から笑みを零して、もっと強く締め上げました。

 身体中から汗が血の代わりに滲み、体が空気を求め苦しみながらも、ドギンは何とか、声に出しました。

「な、ぜですか、ぐぅっ!ジャムカどの!」

 ジャムカもまた、冷ややかな目でドギンを見つめました。

「貴方には関係の無いことでしょう。閣下、彼について報告したい事があったのですが、この際です。この犬畜生をやってしまいましょう」

 オビゴドは首を絞められ悶え苦しむ、脆くて小さい弱き者の姿に、とても背徳的で背筋から脳天に達する興奮で目を血走らせました。

「いいや、この穢れは、生まれながらにして穢れ、こやつには計画を壊された恨みもある。涎を垂らし、涙を浮かべ、顔が歪む程の苦悶の中で地獄の底で焚べられるのが相応しい!さぁ、もっと苦しめ!」

 そう言うと、オビゴドの周りにいた幾人かの騎兵達が槍をドギンの両腕諸共、地を穿つかのように突き刺しました。

 その一突きは凄まじく、一瞬、腕が仰け反り、血潮が大地を汚しました。

 意識は痛みで埋め尽くされ、ドギンはただ悲鳴を喚き散らす他ありませんでした。

 その姿に隠されし笑みが顕となり、恍惚とした表情をオビゴドは浮かべ、虎の様に恐ろしい低く不気味な笑い声を上げました。

「そうだ、もっと苦しめ、その聞くに耐えん醜い声を上げろ、そして無様に死にゆく己の定めに嘆くがいい!」

 そう言った後、血の匂いに栗の花のような匂いが混じり、噎せ返りたくもなりますが、首を絞める虐げし鎖がそれを許しませんでした。

 意識が遠のけばどれほど良かった事か、オビゴドはそうならないように水をかけ、長く苦しむように手心を加えたのです。

 それから栗の花の匂いを放つオビゴドがいいました。

「突き刺された腕の先の感覚はどうなっているのか、とても気になる」

 その邪悪な声は迅雷よりも早く耳から脳に伝わり、ドギンは何度も喚きました。

「やめてくれ、頼む、もう苦しみたくない!」

 ジャムカもまた焦りを露わにしてオビゴドに訴えかけました。

「早く始末しましょう、この者は...!」

 その時でした。

 ジャムカが言い終わらぬうちに、オビゴドはドギンの首を絞める鉄鎖を解いて、迅疾な一閃を弾きました。

 弾かれた槍は宙を舞って、離れた大地に突き刺さり、その柄を掴み、その矛先をオビゴドらに向ける者がいました。

 その姿を見て、ドギンを含めたその場にいたもの達は驚きました。

 ジャムカはその者を見て、ドギンを踏みつけた足をすかさず退け、ドギンもまた拘束を解かれたのを見て、唱えました。

「自由なる風の精よ、仇なす者を、払い除けよ!」

 忽ち、槍を突き刺していた騎兵達は突然の烈風に槍ごと吹き飛ばされ、近くにいたジャムカもまた、察知してすかさず離れたので、槍を構えるジョチフの狼、アムル・ジョチフがいる方へと急いで寄りました。

 聞きたいことは山ほどありましたが何か言う前に、アムルは声を荒らげてジャムカに向けて言いました。

「こんな結果、信じたくなかったぞ、ジャムカ!」

 アムルの剣幕と研ぎ澄まされた殺気と悲しみの混じる怒りの咆哮はまさしく狼そのものでした。

 その覇気は千にものぼる騎兵達も動揺し、オビゴドは得物を構え、ドギンですらも毛の下の肌がピリつくような痺れを感じるほどでした。

 ジャムカはいつもの調子で額を掻きながらオドオドと弁明しようとしました。

「違うんです、アムル。何か勘違いをしている」

 しかし、アムルは耳にも貸しません。

「足を踏む行為は我らにとって、腸が煮えくり返る程の侮辱を意味する事はお前も知っているだろう」

 それを聞いたジャムカは黙り、それを見て矛先も声も震わせながらアムルは続けました。

「昨晩、手の震えを見せた時に、気づいてしまった。二人で試練を果たした時も、それから俺に付き従っていた時も、一度も手なんぞ震えていなかった。最初は、疑う自分を諌めた。長年、同じ空の下を駆けた俺の知る友が、大事な妹を敵に売り渡し、陥れるような事はしない、とな」

 アムルの表情はしかめっ面のままでした。

 しかし、ジャムカを真っ直ぐ見つめるその瞳には哀しみと失望が宿り、なんとも痛ましく思えました。

「しかし、厩でお前とドギン殿の馬が居ないことに気づき、周りの者に二人の向かった方を尋ね、後を追いかけた。頼む、私の思い違いであってくれ、と思いながらな」

 誰も立ち入れぬ雰囲気に声は上がらず、アムルの声が冬風に吹かれながら悲しく響きました。

「やってきたら、矢張り、お前の手は震えていなかった。なんでいつもの思い込みであってくれないんだ。こんな形で、お前との友情が正しかった事を感じたくなかった」

 それを聞いたジャムカは鼻で笑いました。

「私は最初からそんな風には思っていませんでしたよ」

 それを聞いたドギンはジャムカを見ました。

 ふてぶてしい態度で、そしてまるで見下すような冷ややかな目でジャムカは二人を見ていました。

 オビゴドも腹を抱えて笑い、蔑んだ口調で言いました。

「狼殿はそんな幼子のような幻想をお持ちとは、これではこの者同様、《玉無し》の腑抜けのようだ」

 オビゴドの笑い声は騎兵の気迫を戻し、嘲りの声が上がりました。

「いいか?玉無し狼、こいつはな、楽の宦官の家系でな、左遷する道中に遊牧民に襲われ、こいつの一族郎党は皆、象踏みの刑で絨毯に肉片をへばりつけて死んだ。そりゃ、さぞ我らの事が恨めしい事だろう。たまたま通りがかった禿鷹野郎が拾ったそうだが、恨んでる連中と過ごす日々はさぞ屈辱的だったろうさ。だから、間諜にならないか、と内密の書簡を送るとな、真っ先に返事をよこしたのさ」

 それを聞いたアムルは驚愕の表情を隠せずにはいられませんでした。

 そして、ジャムカも嘲るようにして言いました。

「私が犬畜生を友人にするわけないじゃないですか?人という字が入っているのに」

 それを聞いたドギンは、アムルを見ました。

 顔には驚愕している様子は消え失せ、ただ口を閉ざし、俯く姿を見て、ドギンの心の中は空虚となり、そして静かに心の底から光が炎に焚べられ、貫かれた腕の痛みは引き、光は失われ、闇の中をただ、爛々と怒りの業火が猛り燃え盛っていくの感じました。

 嘲笑が巻き起こるこの場にドギンは言い放ちました。

「何が面白い」

 その言葉に煽られるように嘲りは増し、もはやその悪意すらも業火の激しさを増す薪となりました。

「アムルさんが何をしたって言うんです?ジョチフ族の方々があなた達に何をしたと言うんです?何もしていないでしょう。貴方たちが征服しようとしている森人達、一体、あなた達に何をしたんです?何もしていないでしょう」

 ジャムカは嘲笑いました。

「何が言いたいんです?」

 ドギンは心に潜む業火を抑えながら、それでいてこの感情を語りました。

「貴方達は何も考えず、そのむかつきや妬みのままに、思うがままに人を殺めた事でしょう。貴方たちの祖先がそうしたように。でも、ジョチフ族はそうじゃない、森人と同様に、ただ素朴に、純朴なるまま慎ましく生きてきた者たちです。罪のない人々なんです。あなた達が殺そうとしている人たちは、そういう人たちなんです。一体あなた達はどれだけその自覚があるんですか!」

 鬼気迫る勢いのドギンの圧に押され、ざわめきが沸き起こり、無謀な騎兵の一人がドギンの胸に一突き入れましたが、服の下に隠されたミスリルの鎖帷子が槍を砕き、睨みつけられると、その騎兵は恐慄いて引き返しました。

 それからドギンはジャムカに言いました。

「ジャムカさん、貴方の境遇には同情する。遊牧民を蔑む気持ちも理解できないわけじゃない。でも、ジョチフ族の人達はあなたの事を傷つけてなんかいない。貴方は犬畜生と友人にはなれないって言ってたけど、今、アマルさんがどういう気持ちなのか、痛いくらいに分かるでしょう?だって、あなた達は言葉を交わさずとも通じあっていた!分かった上でやっているのなら、貴方もまた、憎んだその遊牧民と何一つ変わらない」

 ジャムカは躊躇いながらも三日月の様に反り返る刀を抜いたのを見て、ドギンは行き場のない怒りを顕にしました。

「あなた達は何一つとして小鬼と変わらない」

 その言葉にオビゴドは高らかに言いました。

「そうとも、我らは先世の頃より、かの邪神、テルベイに仕え、地獄の暗がりで見つめる冥王に仕え、その尖兵となり、エルに住まう数多の自由のアルリオ(エルに暮らす人間全般を指す言葉)を蹂躙せし者なり!」

 その声と共に騎兵達は槍の石突きで地を突いて鳴らし、千の掛け声を響かせました。

 しかし、ドギンは臆することなく睨み返したので、癇に障ったオビゴドは馬を走らせ、鉄鎖を振り回しながら襲い掛かりました。

 それを見たアムルはすかさず間に入って石突きでその攻撃を逸らしました。

 しかし、オビゴドの鉄鎖術は巧みでした。

 跳ね返された錘の反動を利用してすぐに返しの一撃をお見舞いしようとしたのです。

 アムルもまた、この攻撃にも返したのですが、軌道の読めない自由変化する猛攻にただ防ぐ事にいっぱいになりました。

 隙を見て一撃を入れたかったのですが、少しでも判断を誤れば、槍と柄の接続部の微妙な凹凸に鎖が引っかかり、そのまま槍を巻取られてしまうからです。

 刀はありましたが、距離をとって戦う鉄鎖使い相手にはとても分が悪く、逃げる事すら危ういのです。

 ドギンもアムルを助け出そうとしたのですが、馬に跨り、走らせてくるジャムカの姿が見えて、それどころではありませんでした。

 それにジャムカは駆け寄りながらオビゴドにドギンが魔術を使える事を教えてしまったのです。

 しかし、風避けの呪いや簡易的な風の魔術のみを使っただけなので、風魔術しか使えないと思われていたことが、不幸中の幸いと言えるでしょう(勿論、ドギンもそう思わせるように最初に知られた魔術を元に考えていたのですが)。

 ジャムカはドギンの喉を突こうとしたので、ドギンはすかさず唱えました。

「振らせ!」

 間一髪、風の流れがジャムカの手元を狂わせましたが、簡易的な文句だったので効力はあまり高くなく、首元を掠りました。

 それを見て喉を狙うのを諦め、ジャムカは緩慢な動きでドギンの脳天に向けて刀を振り下ろしました。

 ドギンも避けながら簡易魔術を唱えてその一撃を躱しましたが、とても長持ちする訳では無いと察しました。

 こちらに寄ろとするオビゴドをアムルは何とか抑えていましたが、躱しきれない一撃がアムルのみぞおちに入りました。

 軽装だった為に、その一撃は重く血反吐が口から吹き出し、馬上でフラフラと揺れながら、落ちようとした時でした。

 赤い何が目にも止まらぬ速さで駆けてきて、馬上から倒れるアムルを背に乗せました。

 ドギンは感嘆の声を上げました。

「アムファンさん!」

 意識を保ったアムルは赤い牝馬になったアムファンことバランドゥイルの背に体勢を立て直し、そのまま駆けた勢いでドギンを抱き上げ、風よりも速いバランドゥイルの脚でその場を立ち去りました。

 アムルは振り返り、ジャムカの顔を見て、それから向き直りました。

 一瞬のうちにその姿は遠くの方へと消えていき、オビゴドは笑い声を上げました。

「なんと美しい牝馬だ。あれこそが俺の求めるものだ!この手で粉々に砕けていく様が目に浮かぶわ」

 しかし、その言葉に反してジャムカにこう言いました。

「引き返すぞ、あの速さでは追いつけん。それに追えば、奴らの全兵力と戦わねばならん。装備も兵糧もマトモにない我らでは無理だ。お前の伝令の為に来たのだからな」

 ジャムカは深く頭を下げ、馬に乗りました。

「それからだ」

 オビゴドはその鋭い目にジャムカを映して言いました。

「やつは、?」

 ジャムカは額を掻きながら言いました。

「あの卑しき者については、正直、底が見えません。少なくとも頭は回るようですので、気をつけねばならないかと」

 それを聞いたオビゴドは鼻を鳴らし、もうジャムカの事は見向きもしませんでした。

「俺の計画を邪魔する奴は許さんぞ、お前とは利害の一致、遊牧民を憎んでいようが俺には知ったことでは無いが、もし裏切れば、お前の親同様、象の足で踏み潰すのみだ」

 ジャムカはまたもや頭を下げて言いました。

「肝に銘じておきます」

 ジャムカに言わせれば、こうやって遊牧民同士が争い、共倒れてくれればそれでいい、こっちこそ、遊牧民の思惑なんぞ知ったことでは無い、と思いながら、馬を走らせるオビゴドの後を追いました。

 蹄鉄が鳴り響く雪の草原、別れ際のアムルの顔が頭から離れませんでした。

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