第13話 ひめゆり野④ 旅支度

 西に沈むヘルロス様の御光を追うように、世にも珍しい赤い牝馬が風さえ置き去りにする速さで、白い雪の上を走っていました。

 その背には小さくて毛むくじゃらの小鬼と、手負いの狼の様な男が跨っていました。

 男の顔は無表情でしたが、牝馬と小鬼には彼が悲しげな表情を浮かべているのが分かりました。

 そこにはヴォロルと恐れられた男の面影はどこにもないように思えて、毛むくじゃらの小鬼、ドギンは慰めようとアムルに声をかけました。

「知った口を聞くようですが、アムル殿、あなたは何も悪くないです。あなたは彼に優しく接していたはずですから」

 それを聞いたアムルは自分を情けなく思い、空を見上げながら謝りました。

「気を遣わせてすまない」

 その顔を見て、ドギンもまた、自信をなくしそうになりました。

 自分がこの事を暴かなければ、彼らはそのままの関係で居られたのではないか、それまた、あの時、迂闊に一人で向かった事で窮地に立たされた事など、様々な後悔が押し寄せてくるのですが、アムルは言いました。

「あの時、俺の代わりに怒ってくれた。感謝する」

 それを聞いて、慰められたのは自分の方であったと、自分が思うよりも、自由の民は強いものなのだ、と思い、その言葉を受けいれました。

 されど、まだ自分自身の未熟さには反省せねば、まだ、悪に立ち向かう手段は何も無いに等しい、と考えていると、忘れ去られていた事を思い出して、口にしました。

「助け出してくれてありがとうございます。二人とも」

 バランドゥイルとなったアムファンは鳴き、アムルもまた。

「礼には及ばん」

 と、言いました。

 それからドギンは尋ねました。

「それはそうと、何故アムファンさんはここに?それに出発した頃はまだ夕方にもなっていませんよね?何故、バランドゥイルとしての姿になられているのです?」

 それにはアムルが答えましたが、言っていることはさっぱりでした。

「分からん、ただ煙草だと思う」

 ドギンは少し間を置いて、咳払いをし、目を細めながら指摘しました。

「お言葉ですが、アムル殿、もうジャムカ殿はいらっしゃらないので、もう少し話してもよろしいですか?」

 心做しか、アムファンも目を細めてアムルを見ているような気がしました。

 何となくですが、ドギンにも、今のアムルはぐうの音も出ない、といった表情をしている気がしました。

 それから少し顔を赤くして言いました。

リャンがここに居る理由は分からない。だが、煙草を吸えば、馬の姿になれる」

 なるほど、と頷くドギンは、パイプ煙草の起源について思い出し、つまりは先祖返りしたアムファンにとって、草の味のするものであらば、その身に流れる血が騒ぎ、馬の姿にもなれるということなのだろう、と思い、納得しました。

 また、アムルは、ここに居る理由も故郷に戻れば、次期に分かる、まずは帰ることだけ考えよう、と言ったので、それもそうかと納得したドギンはアムファンの鬣にしがみついてただ、西の方へ進みました。


 集落に着いたのはすっかり日も暮れた頃で、集落の前では隊列を組んだジョチフの騎兵達と、デーンがいました。

 ドギン達の姿が見えるや否やジョチフの人々は喜び、デーンは駆け寄りました。

「大丈夫か、その傷」

 心配するデーンの声でようやく自分の両腕の傷を思い出し、現実に引き戻されたように痛みがじわじわとやってきました。

「すみません。また勝手な事をして手痛い目に遭いました。祈祷師の方がいらっしゃいますよね?手当をお願いしたいです。今になって痛くなってきました」

 それを聞いたアムルはアムファンから降りて、ドギンを抱き抱え、祈祷師の所へ案内するように伝えました。

 デーンも着いていきましたが、アムファンだけは、姿は馬なので、祈祷師のテントに入る事は叶わず、帰されました。

 祈祷師の所で治療を受けながらドギン達がいない間の出来事をデーンは語りました。


 アムルがドギンとジャムカの後を追った後の事です。

 デーンがアムファンに森人語を教えに行こうとテントに尋ねると、ドギンの姿が見当たらないとアムファンが話したので、厩に行くと、三頭の馬が見当たらず、その馬は二人の知る人物の物ばかりでした。

 二人は不穏な予感がして、厩の周りに居た人達に話を聞くと、最初はジャムカ、次にドギン、最後にアムルが同じ方角へ出ていき、アムルもまた、同じようなことを尋ねていた事も知り、何か、よからぬ事が起きているのだと察しました。

 その時、アムファンはデーンに、ドギンが姿を消す前に話した言葉が、今思い返すと含みのある言い方にも感じ、また、前々からジャムカには底知れない雰囲気を感じて、とても苦手だったことを話しました。

 デーンもまた、三人が同じ方向へ向かったことに対して、ドギンがジャムカの後を追った事に、何か深い意味があると考え、アムファンが馬になって追いかけ、デーンは集落に残り、この事をロムスンに伝え、もしもの事があった時のために、武官達を集めて、隊の編成をしていたという事でした。


 それからデーンは、頭を掻きながらドギンに軽口を言いました。

「お前さんは変に、正さねば!みたいな所があっていつも突っ走るから、肝が冷える」

 これにはドギンも恥ずかしがりながら言いました。

「申し訳ございません。今度からは相談してから行動します」

 まったくだ、と同感するデーンを宥めるようとアムルは言いました。

「敵を欺くにはまず味方から、という言葉がある。オビゴドの企みには俺も気づいていなかったのだから、俺に免じて許してやれ」

 それを聞いては何も言えないといったふうにデーンが黙るとドギンは慌てて言いました。

「それはそうと、私達の旅の現状を改めて知る機会にはなったんです」

 デーンとアムルは、ドギンの方を見ました。

「何か分かったことでもあるのか?」

 とデーンが尋ねると、ドギンは答えました。

「整理すると二つの点で問題を抱えています。一つは私たちの敵となる勢力の全容です」

 それを聞いたアムルは言いました。

「オビゴドとジャムカ、それに賛同する他部族以外に何がある?」

 ドギンは答えます。

「それが、

 それにはデーンもピンっときた様子でした。

「確認なんですが、デーンさん、最初にひめゆり野に訪れた時、ヤムが率いるセンウ族で私達は逸れてしまいましたが、アクマイヌ共はどうなりましたか?」

 それに対してデーンは。

「散り散りとなってどこかへ行ってしまった」

 それです、とドギンは頷いて、改めて話し始めました。

「つまりはあの獣たちは私達のことを追っている。今は闇に隠れていますが、こちらを狙う機会を伺っている。それに、アレらは恐らく誰かの差し金である事、それに春を迎えて、旅立つ先は峠を越えた先のウガル高原です。私たちにとって未知の土地なんです。何があるか分かりません」

 一同は頷き、それを見てからドギンも話を続けました。

「もうひとつの問題は、私達にはまだ、敵に立ち向かう為の策を持っていない事です」

 これにはデーンも闇人や吸血鬼の事がありましたし、ドギンはそれのみならず、オビゴドやジャムカ、ヤムと対峙していましたから、尚更痛感していました。

「春を迎えるまで、後ひと月ほどあります。それまでに度の準備をせねばなりません」

 それならば、とアムルが付け加えました。

「俺は旅に同行はせんが、一つ問題を付け加えるなら道を考え直さねばならない。まだその時期は山の下で遊牧する他部族も多い」

 それを聞いたドギンとデーンは考え込んでしまいました。

 治療の終わったドギンは包帯を巻かれ、しばらくは住居で安静にしているよう祈祷師に言われ、解散しました。

 帰路に着いたドギンはテントに戻ると、馬の姿のアムファンが心配した様子で近づいてきました。

 ドギンはアムファンの顔を撫でながら優しく言いました。

「心配をおかけしました。しばらく安静にしなくてはなりませんけど、もう大丈夫ですよ」

 そう言って二人はベッドで眠りました。


 普段ならドギンくんはソファーで横になりますが、この時は私を安心させたかったのか、それとも自分も心細かったのか、後になっても語られませんでした。

 天窓から見える黒と銀の夜空の色だけは、今も鮮明に覚えています。


 それからはドギンは祈祷師の言う通り、テントの中で過ごしていました。

 なるべく腕を使わないよう、アムファンが食事や本をめくったりなど、手伝いました。

 その間にもデーンはふらっと現れて、アムファンの森人語を覚えるのを手伝ったり、情報収集に明け暮れていたようでした。

 ここ最近のドギンと言えば、何度も読んだであろう魔術に関する本の癖の付いた頁を読み直していました。

 曰く、銀の君に教わった事を、いざ必要な時に使えていないので、改めて調べ直す必要があり、今後の旅での必要になる、との事でした。

 そのためか、アムファンもすっかり魔術に関する触りの部分くらいであれば、復唱できるようになっていました。

 今日もそれは変わらず、ずっと教わった事の復習でした。

 アムファンはふと、疑問に思い、尋ねました。

「ドギンくん、以前、話してらした精霊の領域って、一体、何ですか?」

 それを聞いたドギンは本を読むのをやめて、辺りを見回し始めました。

 それから何か見つけたのか、本棚を指さしました。

「あの本を取ってきてください」

 アムファンが本棚に近づき、示された本を手に取りました。

 それは幼少の頃、西の帝国からやってきた行商からロムスンが買ってくれた変わった絵本でした。

 その絵本は中の絵が飛び出す仕掛けが施された、面白い絵本です。

 それをドギンの所まで持ってくると話し始めました。

「精霊の領域について話す前に、おさらいとして、私が魔力とは精霊その物であることを教えたのは覚えていますね?」

 それを聞いてアムファンが頷くと、ドギンは絵本を開きました。

「精霊たちはエルの全てを成す存在です。広く言えば、森人や山人、沼人リザードマン人魚マーメイドもまた、エルの美しさを保つための精霊と言って差し支えないです。つまり創造されたエルを支えるのが精霊なんです」

 そして開かれた頁には大きなお城とその手前に可愛らしい少女が別々に飛び出していました。

「それはエルを成しているものと言って過言ではありません。エルを成してる最も小さい存在を便宜上、精霊と呼び、様々な精霊達の特性を分けて考えられたのが所謂四元素と呼ばれて居ると考えられています。その四元素達がこの絵本のように城、森、少女の絵、という層を生して絵本としているように、それぞれの精霊たちの層がエルを成している、そのそれぞれの層を私は精霊術と照らし合わせて精霊の領域と呼んでいるんです」

 その話しぶりはとても熱が入っており、ドギンの目が輝いているようにアムファンは感じました。

「まるで神様達みたいに精霊も色々、何かを司っているのですね」

 アムファンが微笑みながら言うと、もうドギンの熱は冷めやまぬといったふうに話は止まりませんでした。

「そうなんですよ。精霊術の立場で見ると、精霊は人の力で、想像されし姿を与えて、直接エルに関与させる魔術があって、私が思うに、神々が森人や山人、自分を信仰する者達を眷属として扱うように、精霊達にも、精霊の神様のような者がいるのではないかと推測してるんですが、この旅が終わり、いつか自分自身の手で魔術の研究が出来るようになればそのことについて調べようと思っていて」

 などその言葉の羅列には流石のアムファンもついていけず、困惑していると、ちょうどいい所にデーンがやって来ましたので、この話は一旦、おさまりました。

「何だ、また魔術がどうこう話してるのか、ドギン夫人殿は大変だなぁ」

 とにやっと笑みを浮かべて二人を(と言うよりかは主にアムファンの方を)見て言いました。

 赤い顔をするアムファンとは打って変わって、そんな軽口にもドギンはさらっと流してデーンを迎えました。

「デーンさん、何か収穫はありましたか?」

 デーンは二人の向かいのソファーに腰掛け、アムファンが出したお茶を飲みながら話しました。

「何、少しばかり相談というか、俺からの提案というか、だな」

 歯切れの悪い言い方に二人は顔を見合せたので、デーンは笑いながら言いました。

「まぁ、まぁ、まずは俺の話を聞いてくれ、長くなるからな」

 そう言うと、デーンは至って真面目な顔をしたので、二人はデーンの話に耳を貸すことにしました。

 デーンが言うには、このまま北に進むには他の部族達の全員が他のところへ移るのに後もうひと月掛かるそうだという事で、三ヶ月も待ちぼうけているドギン達にとっては非常に、急がねばならないのが現状で、森人たちの言う、もうすぐがどれほどの時間を指すのか分かりませんが、そうじっくり事を構える余裕はありません。

 なので、道を変えて、東の茨藻川を渡り、つむじ野の山の近くにある峠を行き、龍髭山脈を通ってウガル高原を目指すのはどうか、というものでした。

 オビゴドがつむじ野に引き返してまでドギンを追うには、エンギレン方面軍の指揮を任せられている以上、本国の指示を仰がなくてはならないのでは無いか、と睨んだわけです。

 それに聞くところによるとオビゴドがひめゆり野にやってきたのはドギン達が訪れるよりずっと前のことで、半年も居たらしく、成果の上がらないチャイチャクラ汗国としても、オビゴドの要求に中々応えようとはせず、交渉は難航すると推測しました。

「ヤツらが俺たちを追うにしても、その頃には俺たちは、龍髭山脈にあるナズロルンに着いている筈だ。あそこはあの山脈に住む山人の王、くろがね山のトーリン、赤猪のトーリンが居る。そう簡単に手出しはできないはずだ」

 そう話すデーンになるほど、と頷くアムファンでしたが、ドギンはと言えば、少し難しい表情を浮かべていました。

 それを見てデーンは言いました。

「お前さんの言いたいことは分かる。問題はそれまで、どう潜り抜けるか、だ」

 噂に聞くところによると、オビゴドは汗国から爆竹を持ち込み、他部族に横流して馬が爆竹に慣れるよう調教させているらしく、春になる頃にはドギンが狭めた巡回路を使えるようになっていると言うのでした。

 それにオビゴド達は川沿いを拠点にしていたのでこれが川を渡る最大の難所になっているわけです。

「そうなると、私たちジョチフの民は警護に当たらないと行けませんから、陽動してもらう事も難しくなりますね」

 不安げな顔を浮かべるアムファンにドギンは慰めながら言いました。

「ロムスン殿やアムル殿ならば、オビゴドや他部族に遅れをとることはありません。あの時は軽装でしたから、しっかりと鉄片鎧を身に纏えば、負ける事なんて有り得ません」

 それから続けてこう言いました。

「それにオビゴド自身は森人との争いに向けて戦力をなるべく抑えたいはずですから、アムファンさんが私たちと居るだけで被害は抑えられます。大丈夫です、きっとここに居る人達の助けになっていますよ」

 それを聞いてアムファンは少しホッとした様子を見せましたが、険しい表情のデーンは言いました。

「それはそうと、俺たちもやつらに対抗する術がなければ話にならん。俺も吸血鬼との戦いで爆薬も残り僅かだ。ここぞって時に取っておきたいが、ドギン、お前は何かあるか?」

 それを聞くと、ドギンもまた難しい表情を浮かべました。

「色々と調べ直しているのですが、成果は今ひとつです」

 デーンは尋ねます。

「簡易魔術はどうなんだ?」

 それを聞いてドギンは。

「あまり決定打にはなり得ないかと、と言うのも、魔術は一節事の数で、効力が変わるからです。多いほど、力の使い方が具体的で、強力に働き、少ないほど、楽に扱えますが、具体性がなく、力も微々たるもの、すぐに使えますが、頼りになるとは言い難いですね」

 デーンは腕を組んで悩ましい顔をしました。

「ちゃんとした魔術を使うには隙が大きくなり、返って危険な訳だ。お前さんの魔術を当てにするのも難しいか」

 二人の会話を聞いていたアムファンはドギンに尋ねました。

「ドギンくん、魔術にはどういったものがありますか?用途によっては使えるものもあるかもしれません」

 それを聞いたドギンは羊皮紙を取りだして、それぞれの魔術について名を挙げながら記しました。

「そうですね、まずは簡易魔術、先程も言いましたが、素質さえあれば誰でも扱える、あるいは知らず知らずのうちに使っているもの、願掛けもこの部類でしょう」

 デーンとアムファンは机に乗り上げる勢いで見ました。

「次に汎用魔術、生活な用いる魔術で、これを扱えるものは立派な魔術士といっても過言ではありません。その次に四元魔術、精霊たちの力を借りて、扱う魔術ですね、主に戦闘にも用いられるのが人の定めと言いましょうか、話が逸れましたね、後は付与魔術、森人が得意とする魔術で、人や物に力を与える、準創造的な魔術、もっとも偉大な魔術です。そして、精霊術、精霊を人の想像の域に収めて、彼等を使役する魔術、と言った方が正しいでしょうか、これには魔術の術式を描いた陣が必要で、とても準備が必要な魔術です」

 そこまで聞いたデーンとアムファンですが、やはり、良い案が思い浮かばないようでした。

「一応、他にもその地域が根差す独特な魔術や、闇魔術と呼ばれるものや、地母神の加護を持つ光魔術もありますが、前者はともかく、闇や光の魔術は体系化されていないので、扱えるものは極わずかで、私も扱うことは出来ません」

 いざ並べてみたところで中々思いつかず、三人は頭を悩ませました。

 アムファンは頬杖を突き、ドギンは書いた文字をじっと見つめ、デーンは頭の後ろで腕を組んで、ソファーにどっしりともたれ掛かり、各々が、何かいい方法はないかと考えました。

「なんか簡易魔術みたいに手軽に扱えて、それでいて付与魔術のように強い力のあるものは無いものかねぇ」

 とデーンがボヤいていると、それを聞いたドギンはなにか思いついた様子でした。

「もしかしたら、何とかなるかもしれません」

 それを聞いた二人はドギンの方を向いて、嬉々として尋ねたので、ドギンは宥めるような仕草で話しました。

「確信はありません。まだ仮の段階なので、ここから何度か試さねばならないのですが、もし可能であれば、はい、かなり実用的かと」

 そういうとドギンは先程記して並べた魔術の中から、簡易魔術と精霊術に丸で囲いました。

 精霊術は本来、とても大掛かりな儀式を必要とする魔術です。地面に契約者の血を使って、陣と術式を書いて、その上、必要な物を供えて詠唱し、精霊を使役するというものです。

 これらはエルと見えざる層、精霊の領域を繋げることで少しの間、精霊を契約者の想像する姿で目に見えるようになります。

 彼らがエルに直接関与することが出来るようにするための、言わば家の玄関を作る為の行為です。

 それに必要なのが、地母神の身体、要するに大地と、精霊を結びつける契約者の血と、呼び出す層の精霊へのお供え物、という訳です。

 ここまで記してみると、この大変さが皆様にも伝わったかと思いますが、他にも、呼び出す場所も必要で、描く陣もかなり大きなものですから、文字通り、大掛かりでございます。

 そのため、アムファンは首を傾げましたが、ドギンはこう言いました。

「私の案としては、儀式も陣も、全て羊皮紙の中で完結出来れば、予め陣が描かれた羊皮紙を用意するだけで、まさに簡易魔術のようにいつでも精霊を呼び寄せれるのではないか、というものです」

 それでもアムファンは納得がいきませんでした。

「それこそ難しいのではありませんか?だって、大地に陣を書いて、儀式する事に意味がありますよね?」

 それにもドギンは答えました。

「陣の術式を書き換えて、地母神の身体というのを、もっと広い意味で捉えるようにすれば、地母神から生まれたものも、体の一部と定義する事が可能かと、それと、供え物と同じものを羊皮紙に擦り付ければ、羊皮紙に移り、儀式そのものを簡略出来ると思います」

 これでようやくアムファンは納得しました。

 デーンは言いました。

「なら、それで準備を進めよう。俺には専門外の事だからよぉ、何一つ手伝ってやれん。ドギンよ、仮に間に合わなくても気にするな。少なくともお前さんと相性の悪い魔術かもしれんが、姿隠しもある。無理だけはするなよ」

 そう言うと、立ち上がって帰ろうとしたので、ドギンは呼び止めたのですが、笑いながらデーンは。

「俺が居ても邪魔になるだけさ。それにギリギリまで火薬や情報を収集しておきたいしな。作戦は俺に任せろ。お前さんは研究にだけ集中するんだ」

 そう言ってテントを後にしました。

 ドギンはデーンの言葉に励まされたような気がして、早速、研究に取り掛かりました。

 まずは、通常の精霊術の術式を書き起こし、それぞれの一節がどのように働いているのか、隅々まで読み解くところからでした。

 これにはアムファンも協力してくれましたが、とにかく難解なものばかり、その上、複雑に文節が交わり合って、意味を生していました。

 一節を読み解くのに多くの時間がかかり、気づけば夕方で、アムファンは急いで夕飯の支度をしなければならず、夕飯がちょうど出来上がる頃には馬の姿に変わっていて、ドギンも解読するのに難航しました。

 ドギンは一晩かけてようやく二節目を解読し、朝起きたアムファンと目が合って、そのはだけた姿にどぎまぎしてしまう事がありました。

 それから朝餉の支度をして、朝食を食べ、アムファンと協力して解読し(この間にもアムファンは解読以外にもドギンの身の回りの事もこなしつつ)、夕餉にはアムファンが解読から離れ、夜なべしてドギンが解読を進めるという日々が五日ほど続きました。

 とにかく複雑なもので、文節だけでなく、術式を円のように並べ、その内側に六芒星の陣を描いた時に、六芒星の陣がそれぞれの方角を示し、それに対応するように術式も作られているので、その方角なども加味しなくてはならず、ただ文章を読み解くだけにはいきません。

 解読が進むにつれ、ドギンは何も口に含まない事が頻繁になっていきました。

 それに朝日が昇ろうが、正午になろうが、日が沈もうが関わらず、小一時間の仮眠を不規則に取って、後はほとんど眠らない日々を過ごしました。

 何度かアムファンが心配で注意しなくては睡眠は愚か、小一時間の仮眠すらもしない事がしばしばありました。

 そんな様子でしたから段々アムファンも心配で解読よりも身の回りの世話に時間を割くことが増えました。

 馬乳酒を頻繁に飲むよう勧めたり、オルヌアからやってきた行商から米を買って、お粥を作って食べさせたり、水浴び場までドギンを連れて行ったり、或いは夜になって、肉を食べて人の姿でいる時間を増やして手伝ったりなど、まさに身を扮して支えたのでした。

 そんな余裕のない日々が続くある日、様子を見にロムスンが訪れたのですが、辺りに散らばる紙や本を整理するアムファンと無我夢中に机と向き合うドギンの姿が見え、二人は来訪したロムスンに気づいていませんでした。

 それを見たロムスンは眉間に皺を寄せて叱りました。

「馬鹿者!」

 二人は怒鳴り声でようやく気がついたらしく、ドギンは慌てて立ち上がり、アムファンも掃除の手を止めて、立ち尽くしました。

 ドギンの方に床を強く踏みながら歩み寄るロムスンは胸ぐらを掴んでドギンを軽々と持ち上げてしまいました。

「何と怠惰な事だ。貴様はそれでも男か!」

 アムファンは急いで二人の間に割って入りました。

「ラウリ、やめて!」

 アムファンの制止にも意に返しませんでした。

「お前は静かにしていろ」

 アムファンは声を荒らげて言い返しました。

「ドギンくんは私や、デーンさんを守るために、一生懸命に机にかじりついてでもその術を研究しているの、邪魔しないで!」

 ロムスンはアムファンを見ました。

「お前もだ。それを怠惰だと言っておるのだ」

 掴んだ手は離さずに今度はドギンの方を向いて言いました。

「いいか?急かされる状況なのは分かる。わしも貴様が己の私欲のみで動くようなやつではないと、短い間だったが理解しているつもりだ」

 ただ、と言葉を切って、続けました。

「人は支えなしでは己の道も歩くこともままならん、足りないものを補い合うからこその人として生きていける。一見すれば、貴様らもそのようにも見える。だがな、己を疎かにしてはおらぬと言い切れるか?」

 力強く、諭すように話すロムスンの言葉に二人は何も言えませんでした。

「己や家族、友、あらゆる事を疎かにし、それを、努力だ、愛だ、なんだと言うのはな、努力でもなんでもない、怠惰だ」

 その言葉にハッと目を覚ましたような気分になって散らかった部屋を見渡しました。

「それを当たり前だ、とは思ってはならん。血の滲むような努力というのは何事も疎かにしないものにこそふさわしい言葉だ。男なら全てを守ってこそだろう?今のお前に誰を守れるというのか」

 そう言うと、ドギンを下ろしてから手を離し、二人の頭を撫でてからテントを後にしようとしたので、二人はお礼を言ったのですが、何も言わずに去っていきました。

 ドギンはアムファンの方を向いて謝りました。

「申し訳ございません。すっかり、アムファンさんに甘えていました」

 これを聞いたアムファンは慌ててかぶりを振って言いました。

「そんなことないです!ドギンくんのお世話をしているのもなんだか楽しかったと言いますか...でも、そうですね。私の方こそ、自分の事、大切にできていなかったかもしれませんね」

 そう言って、お互いに頭を下げたので、可笑しく思って笑いました。

 その日の夜はアムファンも久しぶりに肉を食さずに馬の姿になり、デーンを呼んで、三人で食事を共にしたのですが、その話を聞いたデーンは笑いながら言いました。

「まぁ、何でも丁度いいくらいが大事って事だな。何事も何かに偏り過ぎは良くねぇ」

 それから食事を終えてぐっすりと眠りました。



 解読を始めて三週間が経って、ようやく読み解くことが出来ました。

 もちろん、術式を変える作業などがありましたが、術式さえ分かってしまえば後は簡単でした。

 供物は、例えば果物であったり、動物の臓物だったりするのですが、術式と六芒星を書いた羊皮紙に果汁であったり、臓物そのものを刷り込ましたりなどで使えるようにするだけです。

 何度も実験しながら、その都度、修正を行ったり、とにかく試して成功するまでを繰り返すだけでした。

 とにかく、目処がたったことに二人は一安心し、この日は疲れから何も出来ませんでした。

 お茶でも飲んでもらおうとアムファンが立ち上がったのですが、ドギンの返事はなく、机に突っ伏して、いびきをかいていたので、毛布を持ってきて肩にかけました。

 その時はまだ日も沈みかけの時間でしたが、アムファンもそのままベッドに横になり、疲労がすぐに眠りへと誘いました。

 目を覚ましたのは次の日の昼頃でした。

 それから旅立ちの日の前日には、実験は成功し、後に、我らがドギンくんが歴史に名を残す事となった発明品が完成しました。

 最初に呼び出された精霊は風を纏い、半透明な身体を持つ辮髪の大男の姿をして、自由気ままに宙を舞い、精霊が通るところには強い風が吹きました。

 ドギン曰く、この風の精霊はまだ大きな力を持たない下位の精霊、との事で、風人ジンと記されている存在である、と言いました。

 それはそうと、デーンに完成を伝えると、デーンもまたドギンを抱き上げて喜びました。

「でかしたぞ、ドギン!やっぱりお前さんはとんでもない野郎だな」

 それから今後の旅について、改めて三人で話し合う事となりました。

 デーンは集めた情報を元に話しました。

「どうやら、センウ族が五千にもなる騎兵を率いて東の方を巡回しているようなんだが、爆竹で慣らすのが相当馬に負担がかかったみたいでな。ノロノロと走っている姿を何度か確認した」

 アムファンは確認しました。

「アバ(兄という意味)は何か仰っていましたか?」

 デーンは答えました。

「アムル殿は、率先してこれの撃退にあたる。との事だ」

 それを聞いてドギンは自信満々に言いました。

「なら巻き込まれぬようにしつつ、私の姿隠しの呪いで、どうにか川までは切り抜けられそうですね」

 それを聞いて笑いながらデーンは言いました。

「威勢がいいのは良い事だ。お前さんも事は頼りにしている。しかし、問題は川沿いをオビゴド率いるサイファン族の騎兵が三万も配置して、厳重に待ち構えている。簡単に渡る事は出来ない」

 恐るべき敵が三万も居て、そして自分たちを待ち構えていると聞いて、二人は固唾を飲みました。

 デーンは言いました。

「怖気づいたか?そりゃそうだわな。相手はノーシアスで名高いチャイチャクラ汗国の騎兵達だ。何度も大国、楽の防衛線を突破し、その蹄鉄であらゆる軍団を蹂躙してきた猛者だ。方や俺たちは旅の一行、正面からなら適う筈もない」

 含みのある言い方の後に不敵な笑みを浮かべ、デーンは言います。

「しかし、俺達もただの旅の一行なんかじゃない。一人は森人の国の一等航海士、一人は風よりも速く走る馬の姿になれるお姫様、そして、偉大な森人の女王の弟子だ。俺たちなら、不可能も可能に出来る」

 その励ましの言葉に、二人は腹を括り、決意を固めました。

 デーンは二人の顔をしっかり見て、それを見とりました。

「よし、作戦を説明するぞ...」

 それから、語り合い、茨藻川を越えるための作戦を話し合いました。

 決行は今夜、アムル達も陽動のために戦支度をして、焚き火を持った二千の騎兵達がセンウ族を追い払うために出陣した後に、ドギン一行も旅立つことになりました。

 三人は日が沈むまで、草原の乾いた風が靡く音に耳を澄ませました。

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