第10話 ひめゆり野① ジョチフ族のバランドゥイル

 青い夜の下に草原が広がり、その上を自由に駆ける一頭の牝馬、それもただの牝馬ではなく、紅玉のように鮮烈な赤い肌を持つ立派な牝馬が鬣を風に靡かせていたのです。

 それに跨る毛むくじゃらのドギンは迂闊にも馬具の一つも付いていない馬の背に揺られながら眠っていました。

 牝馬がそのことに気づいて、背に乗る者の事を気遣うように駆けていたのか、振り落とされるようなことはありませんでした。

 しかし、穏やかな草原がザワつくように強い風が吹きました。

 そして牝馬が悲鳴のような鳴き声をして暴れ始めたのでドギンも慌てて目を覚まし、辺りを見回しました。

 すると少し遠くの方に、来た道から馬に乗る草原の民の男達の姿が見え、こちらに駆け寄ってくるようでした。

 頑なに引き返そうともしなかったので、どうやらこの牝馬は、あの男達を怖がっているらしい、とドギンは感じました。

 それでもドギンとしては一刻も早くデーンと合流せねばという気持ちでいっぱいでしたので、迷いに迷いましたが、デーンと再開してからこの牝馬の事も連れ出そうと思い、耳にそばだてて囁きました。

「大丈夫、そばに居るし、後で君の事、連れ出してみせるから、どうか、彼らについて行ってくれないか?」

 すると、諦めたように牝馬は目を伏せ、項垂れるようにして暴れるのを止めました。

 その様子に後ろめたい気持ちを抱えながら、逃げ出した時のように腹にしがみついて隠れました。

 連れ出してみせると言ったのも何も出来ない自分を慰めるためでしかない、とドギン自身も強く理解していたので、助けてくれたこの馬に自分は何もしてやれない、これまでの旅同様、自分は何も出来ない、と無力さが心の中で澱のようになっていました。

 近づいてきた男達は皆、鉄片を貼り付けた薄片鎧で身を包み、立派な教会の屋根のような形の兜を被り、槍を持って馬に乗ってたので、ドギンは彼らが身分の高い者達だと、一目で分かりました。

 牝馬は少し後ずさりしたのですが、堪えるように足を止め、彼らが近くに来るのを待ちました。

 駆け寄った一団はすぐに、牝馬に頭絡をつけて、伸びた髭の先に飾りをつけた男の指示で何やら話し合いながら、来た道を引き返しました。


 彼らの話す言葉は、どこかパラメア語と少し響きが似ていて、かつて砂漠の民は草原の民であったという話を思い出しました。

 草原に暮らす人々が羊の毛を剃り、山羊の乳を搾り、馬と共に駆ける、そこに居眠りをしていたヘルロス様がその地へと現れて、草原が焼け焦げ、草の下に隠れたきめ細かなサラサラの砂が顔を出す、その光景にドギンは思いを馳せるのでしたが、それを語る銀の君の姿が浮かんでしまい、時が今に戻った気分でした。

 そうして、想像で時を超えては今に戻る、を繰り返すうちに、気分はどんどん落ち込み、周りを見ても、男たちが乗る馬の足並みに合わせて、窮屈そうに走る牝馬の足だけが見えて、自分の行いの愚かさを知って、ついに気分は奈落の底、ドギンは自分に失望するばかりでした。

 ドギン達があの場所に着く頃には、夜空の輝きも薄れ、少し淡い色が浮かんでこようとしていました。

 ドギンは手を離して、地面に伏して隠れ(牝馬もそれをわかって踏みつけないように跨ぎました)、集落の周りを這いながら、厩舎を探しました。

 きっと、今までの我らがドギン君であれば、こんな小鬼らしい事はしなかったでしょう。

 長屋の方から、嘶くのを聞いたドギンはそのまま近づきました。

 厩舎に風が吹くように作られた隙間が屋根のスレスレにあったので、そっと上がって覗きこみました。

 先ほどの男たちが牝馬を乱暴に馬房へ入れると、何やら髭に飾りをつけた男が悔しそうで、かと思えばよく分からない事を推し量るような難しそうな顔をして忙しそうに表情をコロコロ変えていました。

 やはり、聞き馴染みのない言葉なので、何を言っているのかは分かりませんでしたが、この牝馬に対して、バランドゥイル、と呼んでいる事だけは分かりました。

 バランドゥイルは疲れたのか、馬房に入ってすぐに、脚を曲げずに長いまつ毛の生えた瞼を閉じました。

 それを見た髭飾りの男はため息をついて、共を連れて、厩舎を後にしました。

 それに気づいたのか、牝馬、バランドゥイルは瞬きをして鳴きもせずに、涙を流しました。

 ドギンは見てられず、そして、今は使命の事なんて忘れたい、という気持ちで、隙間から身体を忍ばせて、厩舎に入って、すぐにバランドゥイルの近くに寄りました。

「ごめんね、こんなに嫌がるとは思ってなかったんだ」

 そう言ってバランドゥイルを抱きしめました。

 バランドゥイルは驚いた様子で、耳が少しだけ動きました。

 それでも構わずドギンは言いました。

「いや、違う。君の草原を自由に駆け回る姿を見ればすぐに分かった事だ。こんな所は君には窮屈で、似合わないよね」

 憩いの谷に訪れてしまった事、使命を果たそうと旅に出た事、デーンを巻き込んでしまった事、旅の中で友人となったデーンを三度も危険にさらしてしまった事、吸血鬼の甘言に迷ってしまった事、そして、銀の君の事など、旅の出来事を思い返して、悲しみが湧き上がってくるのです。

「僕は、間違えてばかりだ」

 嘔吐く様な苦しい声で、涙を流しながらドギンは話して、より強く抱きしめました。

 バランドゥイルの目にはとっくに涙はありません。

 少し後ずさると、体を倒しては腹をみせて、一緒に眠りにつこう、と促すように、首を腹に向けて何度か振って、その優しい目でドギンを見つめました。

 ドギンはバランドゥイルの好意を受け入れ、その腹に顔を預けて、赤子のように背中を丸めて目を瞑りました。

 バランドゥイルの肌は暖かく、脈打つ鼓動も息を吸ってゆっくりと膨らむ身体もドギンの頬に全て伝わってきました。

 闇を見つめるのです、という銀の君の言葉がやまびこのように、何度も心の中で反響するのを聞きながら、いつの間にかドギンは眠ってしまうのでした。


 まぶたの裏に明るさを感じてドギンは目を覚ましました。

 ヘルロス様が御光と共に空に顔を出し、その光が隙間から差していました。

 寝ていたのは短い間なのにも関わらず、よく眠れたのか、すぐに身体を起こし、座ったまま少し伸びをしました。

 しかし、心は晴れないまま、今日が訪れてしまった、と言わんばかりで、とても景気の悪い顔をしていました。

 消息の分からないデーンを探さねば、旅も始められない、だけど小鬼の自分が、一人で見つけられるだろうか、そもそも合わす顔なんてあるのだろうか、愛想を尽かしていないだろうか、尽きたに違いない、その前に殺されるのが関の山だ、使命も果たせぬまま死ぬのだ、段々ドギンは暗い気持ちになりました。

 やがてそれは、銀の君の元へ帰りたい、しかし、帰ることは出来ない、いや、元々身に余る旅ではないか、諦めよう、銀の君も許してくださるに違いない、しかしそれは本当か?お叱りになるだろう、小鬼がこのまま憩いの谷に居れる確証はどこにある?そもそもなんで僕は名乗りを上げてしまったのか、もしや銀の君は僕がそういうだろうと見越してそういう風に仕向けたのか、何を信じればいいのか、もう何も知りたくない、と言う疑心と怯えが埋めつくし、心に影が蝕んで隠し、もはや何が正しいのかさえ、分からなくなっていたのです。

 とにかく、牝馬を連れ出さねば、そういえばまだ感謝を伝えていない、とバランドゥイルの方へ身体を向けると、バランドゥイルの姿がありません。

 そこに横たわっていたのは、一糸まとわぬ美しい女の姿だったのです。

 栗色の艶やかな長い髪に、長いまつ毛、小麦色の肌に可愛らしい顔、線の細過ぎない柔らかな身体には熟れた果実が二つ実らせて、気持ちよさそうに静かな寝息をして眠っていたのです。

 そのあられもない姿を無防備に晒す女の姿を目にした時には、心の影は影などではなく闇へと変貌を遂げ、胸に茨の棘が刺さり、破裂してしまいそうなむかつきが心の中で顔を出しました。

 空気を欲するように浅い息をして、血が身体中に激しく巡り、目を見開いてその女を見つめました。

 胸を手で食い込むように抑え、何度も、落ち着け、と宥めようとしましたが、鋭い指の先は何度も胸を引っ掻き、手も足も震え始めたのです。

 激しく脈打つ鼓動が、女を孕ませ、子を産む母体としろ、そしてエルを、血で染めろ、と語りかけてきました。

 その心の声に誘われるように、抑える手を離して、栗色の髪の女の方へ手を伸ばし始めました。

 粘った涎を垂らし、邪悪に手を染めようとして、我に返り、伸ばす腕とは反対の手で抑えました。

 苦しみに喘ぎ、闇が、心のみならず身体まで蝕もうとしていたのです。

 ドギンはとにかく身体を壁に強くうちつけて、邪なる心を追い出そうとしましたが、望んだような望んでいないような事が起きるばかりで、小さく低い声で唸りました。

 そうやって暴れているうちに、女は長いまつ毛を持つ目を擦りながら、目を覚ましたのです。

女の様子と言えば、まだ夢と現実の間にでもいるのか、少し微睡んだ顔をしてぼんやりとドギンを見ました。

 その仕草にドギンは女の無垢さを感じて、その純粋さを蝕んでやらんとする気持ちを抑えきれず、女の腕を掴んで押し倒しました。

 女は突然の事に驚き、そして、唸るドギンに怯えて目の中いっぱいの大粒の涙を浮かべるのでした。

 それもまた愛らしく、汚してしまいたいと肉欲を募らせるのでした。

 しかし、ドギンは女の瞳に映るドギン自身の姿を見ました。

あまりにも醜悪な小鬼、いやドギンの言葉で言うところの悪鬼オークそのものではないか、と驚愕し、そして感情も誇りもまた奈落の底へと落ちた事に気がついて腕から手を離し、女から離れると壁に顔を向けて全ての汚濁を吐き出すが如く、嘔吐しました。

 息を切らせて、ドギンは悲嘆に暮れながら独り言を言いました。

「なんと愚かな...下劣極まりない、小鬼のようじゃないか!」

 涙を流すドギンは壁に額を強く、何度も、何度も打ちつけて、血の線を描くように、額を擦りながら、力無く膝を地面につけました。

 すすり泣きながらドギンは、憩いの谷で初めて銀の君と出会った時の自身の姿が蘇り、これまでの間違いばかりを起こす自分自身に、もはや期待も何も持てなくなってしまった、そう思い、掠れ声で呟きました。

「僕は、変わっていない。皆が、僕の為に手を差し伸べてくれたのに、僕は、どこまでも小鬼だ」

 散らばっている牧草や砂を意図せず握りしめ、地面に五本の線が抉るように出来ていました。


私にはこの時、何が起こっていたのか、後に彼の口から聞くまでは何も分かりませんでした。

ただ目を覚ましたら、優しくしてくれた小人は乱暴者のように私を押し倒していた訳ですから、少しは恐ろしくありました。

しかし、どうしてでございましょうか、この者の瞳の奥には憤りよりも、ただ泣きじゃくる子供のような深い悲しみと良心のようなものを感じずにはいられませんでした。

実際、彼は何を思ったのか私から手を離して、隠すように吐瀉物を撒き、なにかに怯えるように身体を震わせていたのです。

私にはそれが良心に揺れる人の姿にしか思えませんでした。

しかし、彼が思い悩んでいることについては心当たりがなかったので、きっと何も知らない彼を驚かせてしまっただろうし、魔が差してしまったのだろうと呑気なことを考えておりました。

しかし、慰めてもらった私が苦しんでいる彼を見て、今彼にしたいと思った事をしなければ、彼はずっと苦しみの中で生きるのではないか、ただ、その気持ちだけでいっぱいでした。


「だい、じょうぶ?」

 優しくたどたどしい声がドギンの耳に届きました。

 その手はまだ震えていて、振り返ると、緊張と恥ずかしさが混じりあって頬を真っ赤にした女の顔がそこにあって、その優しく、綺麗な目と目が合いました。

 握っていた手から砂や牧草が零れ落ちました。

 女は震えながらも、ドギンの背中を抱きしめました。

 そして、宥めるように、一生懸命、森人の言葉で話しました。

「おどろかせて、ごめんね?だいじょうぶ、こわくない」

 その言葉をゆっくり、何度も、繰り返しながら一生懸命、語りかける女の身体は震えていました。

 彼女の勇気に、ドギンの心は洗われるようで、涙は大粒となりました。

 しかし、心の闇は抵抗するものです。

 思ってもいない言葉を吐きました。

「僕は小鬼だ!穢れた種族だ、使命も友も、大事な人も忘れ去り、恨み、疑った!罰が悪いからって、バランドゥイルの事、後で助ける、なんて、いって、利用して...僕の事なんか、君になんか分かんないよ!」

「わかるよ」

 すぐに言葉を返す女にドギンは呆気にとられていると、女は腕を離して綺麗な指で女自身を指しました。

「バランドゥイル」

「え...?」

 頬は夏の朝焼けのように真っ赤、ですが真剣な眼差しでドギンを見ました。

「あなた、わたし、あった。あなた、わたし、いっしょ、はしった」

 驚きで何も言えず、ただ、その眼差しが真実を語り、この女が、紛うことなきあのバランドゥイルなのでした。

 拙い森人語で女は一生懸命、ドギンに伝えようとしました。

「あなた、やさしい!たすけてくれた、やくそく、まもった、なぐさめた。ありがとう。あなた、ごぶりん、でも、やさしい!」

 それからまたドギンの事を抱きしめ、あなた、やさしい、と何度も必死に伝えようと言葉を繰り返しました。

 必死になって伝える女に、すっかり影はなくなりました。

 抱きしめる腕に触れてドギンは言いました。

「ありがとう」

 女がやさしいと言い、ドギンがありがとう、と答える、それを泣きながら二人は何度も言い合いました。

 そうして泣きあっているうちにすっかり悲しみも枯れて、いつものドギンに戻っていました。


 さて、こんなに大騒ぎもすれば、人も集うものです。

 見張り番をしていた男が一人、確認にやってきたのですが、その男も驚いたことでしょう。

 毛むくじゃらの小人に、麗しき裸の女が泣きながら抱き合っていて、いつの間にか赤い駿馬の姿が見えない訳ですから、何が何やらと言った気持ちでしょう。

「おい、何者だ貴様ら、あの赤い馬を何処へやった!」

 見張り番の男が叫ぶと二人はそちらを向いて驚き、二人とも大慌てで、小人は手を前に突き出して首を細かく何度も横に振って、よく分からない言葉を話し、女は自分の姿に今気づいたように赤らめた頬をより赤らめて、(隠れるはずもないのに)ドギンの背に隠れ、その実った柔らかな乳房を隠すように腕を組んでしゃがみこみました。

 その様子を見て首を傾げるのですが、女の姿に劣情を抱いた見張り番は、女に言いました。

「男と若い裸の女で二人きりってのはよくある事だが、にしても厩舎でやられても困るんだよ、上に報告せねばならん。この事の意味は分かるな?」

 下品な言葉遣いと表情に、女は怯え、顔を伏せてしまいました。それを見た小人、我らがドギン君は察して、砂を下品な見張り番に投げつけました。

 油断していた見張り番は目に砂が入り、悲鳴を上げて、目を抑えて動けなくなりました。

 その隙にドギンは鎧も来ていない見張り番に鞘のまま短剣を突き出して体当たりしました。

 鞘の衝撃は思ったよりも強く、見張り番は倒れ伏して背中を曲げました。

 そのあとは鞘に納めたままの短剣を見張り番が気を失うまで何度も叩きつけました。

 そして、身ぐるみを剥いで、バランドゥイルの方には顔を向けずに渡しました。

「とりあえず、その、も、もうないのですが、念の為にって事と、暖かいし、

 恥ずかしそうにバランドゥイルが受け取り、身を整えている間、ドギンはこの男を縛り、厩舎の奥に隠しました。

 準備の終わったバランドゥイルにドギンは言いました。

「何でバランドゥイルさんが只人になったのかは、この際置いておきましょう。それより、あなたは馬に乗れますか?」

 始めの言葉は何を言われているのか分からない顔をしていましたが、最後の言葉で頷きました。

「わたし、のれる」

 そう言うと一頭の馬を選び、馬房から出すと跨り、ドギンを引っ張るようにして乗せると駆け出しました。

 出入口を抜け出すと騒ぎを聞き付けた昨夜の男達が向かおうとしていた様子で、突如現れた二人に驚き、髭飾りの男に関しては尻もちをつき、驚愕を隠せない様子でした。

 そんな事気にする間もなく、ドギン達は集落を後にしました。

 何が何やらと、髭飾りの男が立ち上がると、今度は別の方角から十人の伴を連れた三又の髭に丸め込んだ頭の男がやってきたではありませんか。

 髭飾りの男は冷や汗を流して畏まりながら言いました。

「オビゴド殿!い、如何致しましたか?」

 三又髭の禿男、オビゴドは厳かな空気で髭飾りの男に語りかけました。

「知れたことよ、ヤム殿。三日前にそなたが捕まえたジョチフ族のバランドゥイルの事だ。受け取りに参ったまでの事よ」

 それを聞くとヤムは手を擦りながら言いました。

「あぁ、その事ですね。それでしたら厩舎の方におりますよ」

 するとオビゴドは小心者であればすくみ上がるような目で睨みつけると馬を降りて案内するようにとヤムに命じました。

 案の定、ヤムはすくみ上がり、腰を低くしながらオビゴドを厩舎まで連れていきました。

 すると、どういうことでしょうか(皆様はご存知だと思いますが)赤い牝馬の姿が見当たらないではありませんか。

「どういう事かね?ヤム君、私の許し無しに、君のテントにでも連れこんだのかね?」

 それを聞いたヤムは、馬を愛する我が民でもそのようなことはしません、と憤りを顕にしましたが、一瞬のうちに身体を鉄鎖で縛り上げられ、オビゴドがナイフを喉元に突きつけました。

「お前の怒りなど聞いておらんよ、私は、どこにいるのかね?と聞いたのだ」

 威圧的な態度にヤムは震え上がり、何も知らないと喚き散らすと、奥の方で縛られている見張り番の姿を見つけました。

 拘束をとくと、男と女が二人で抱き合っていたこと、その時には赤い馬の姿はなく、自分を縛り上げると二人組は馬を盗んで逃げたと言いました。

 ヤムは首を傾げましたが、オビゴドは溶岩のように顔を真っ赤にして眉を釣りあげました。

「無能共め、その女こそがバランドゥイルだ!次も失態すれば、ヤム、お前達センウ族の首を跳ねて晒し首にしてやる」

 怯えきったヤムは顔を真っ青にして何度も頷き、頼りない声でドギン達を捕らえるよう部下たちに命じました。

 オビゴドは鉄鎖の拘束を解き、ヤムにも向かわせて、センウ族の集落を後にしました。


 馬を走らせるバランドゥイルにドギンは何度も尋ねました。

「あなたは何者なんですか?」

 その度、バランドゥイルは森人語に深く通じている訳ではなく、考えるように顔を顰め、その後は恥ずかしそうに微笑みながら、バランドゥイル、とだけ答える、それを繰り返していました。

 バランドゥイルのせいでもドギンのせいでもない問題に頭を悩ましていると、バランドゥイルがおずおずと尋ねました。

「あなた、なまえ、なに?」

 それを聞いたドギンは、今悩んでも仕方がないと割り切って、話しました。

「ドギン、私の名前はドギンです」

 すると、少し間の抜けた顔をしたバランドゥイルが言いました。

「ドゥギィヌ?」

 只人には発音が難しかったようで、(特にドギンのような小鬼は訛りが酷いです)とてつもない強大な敵と苦戦している様子でした。

「私の真似をして見てください」

 口を指さしながらドギンは言いました。

「最初の文字は、口を円の形にして、舌を上顎に付けて、声出す時に舌を離すと上手く発音できますよ。ド、ド、ドってね」

 それを見ていたバランドゥイルも真似をしました。

「ぅろ、ろ、ろ」

「あともう少しです。鼻息も交えて声に出してみましょうか」

「ド、ド、ド」

 バランドゥイルの発音にようやく納得したドギンは我が事のように喜びました。

「上手に話せてますよ!後は名前の最後を息を止めるみたいに話すんです」

 自分の喉をきゅっと締めるような手振りで話すと、バランドゥイルも理解したようで、少し深呼吸してから言いました。

「ドギン、あなた、ドギン」

 バランドゥイルが照れ笑いをする和やかな時間は過ぎていきました。

 後方から地割れのような揺れと音で崩れ去ってしまいました。

 厚手の毛皮の服を身につけ、弓を携えた軽騎兵達、百名が、ヤムを先頭にドギン達を追いかけてきたのです。

 事態がドギンの想像するよりも遥かに大変な出来事だと気づき、バランドゥイルもまた、馬を早く走らせました。

「何で、彼らは貴女を追うのですか?」

「今は、ダメ!」

 バランドゥイルに答える余裕はありませんでした。

 ホントはその言葉にも答えたかったことでしょう。

 しかし、言葉を知らない事と彼らが弓を引いた事で、もう頭はいっぱいで、必死に走らせる他ありませんでした。

 風を切りながら飛んでくる矢の嵐を、バランドゥイルは隙間を縫うように走らせ、全て避けました。

 草原の民は馬上での弓引きがとても得意で、神経を研ぎ澄まさなければ、避け切ることは不可能なのです。

 飛んできた矢の多くはギリギリを通り抜け、中には馬のしっぽの毛を散らばせた一矢もあったのです。

 ドギンも、何か役に立てないだろうか、と優れた目をじっと凝らしました。

 すると髭飾りの男、ヤムは手に弓ではなく、何か笛のような物を握っているのを見つけました。

 バランドゥイルは気づいている様子ではありませんでした。

 そして、アレがなにか、そして、バランドゥイルはきっと避けれない、と気づいたドギンは体が勝手に動き、馬から飛び降りるようにしてヤムの恐ろしい攻撃からバランドゥイルを庇いました。

 風を斬る音すら聞こえず、バランドゥイルにも何が起きていたのか分かりませんでした。

 倒れるドギンを救いあげようと引き返しました。

 ドギンは倒れた拍子に体を痛めたようですぐに身体を起こすことは出来ませんでしたが、銀の君がドギンに授けたミスリルの鎖帷子がヤムの攻撃を防いでくれたおかげで無事でした。

 駆け寄るバランドゥイルは涙目でドギンに呼びかけました。

「しっかり、しっかり!」

 ドギンは微笑みながら涙を拭ってあげました。

「大丈夫、忘れていたけど、私は師匠に大事にしてもらっていたので、このくらい平気ですよ。むしろ、貴女が無事でよかった」

 バランドゥイルに肩を貸されて起き上がるドギンでしたが、敵はもう目の前まで迫っていました。

 獲物を追い詰めた、と浮き足立ち、勝ち誇る下衆の雁首が揃った時に、彼らの足元に一斉に矢が射掛けられました。

 矢が飛んできた方を見ると、百五十余りの騎兵達が旗印を高らかに掲げ、ヤム達を睨みつけていました。

 この一団の頭と思われる男は、額に一閃の傷跡を持ち、吊り上がった目は狼の目、厳かで高潔な戦士の面構えをしていました。

 そして、その顔を見るや否や、ヤム含めた騎兵たちは恐れ戦き、ジョチフ・アムル、ヴォロル・アムル!と口々にして引き返していきました。

 バランドゥイルは喜びの声を上げて、狼のような男に、アバ!と呼んで抱きつくように駆け寄っていきました。

 その凝り固まった顔は全く動かなかったものの、男の方も思いがけないと言った雰囲気で、アムファン!と呼んで抱きしめました。

 再会を喜び合い、抱きしめ合う二人に、ドギンはただ置いてけぼりだった訳ではありません。

 ドギンは一先ず、二人の間に割って入ることにしたのです。

「バランドゥイル、彼らは一体?」

 バランドゥイルは説明しようとしましたが、その前に狼のような男を含めた彼の騎兵達が弓や槍、デーンが持っているような刀を突きつけました。

 ドギンは黙って手を挙げました。

 バランドゥイルは狼のような男に詰め寄って、必死に懇願しました。

 それを見て、一度を家来たちに武器を下ろさせて、バランドゥイルの話に耳を傾け始めました。

 ドギンには彼らの言っている事のこれっぽちも理解できませんでした。

 しかし、無表情の男の顔色がどんどん青ざめていく事だけは感じ取ることが出来ました。

 バランドゥイルが話し終えた時にも無表情でしたが、指に力が入っていないように感じられ、男は何も言わず、家来たちも困惑のまま、一人先にどこかへ行ってしまったのでした。

 バランドゥイルの方も不思議そうにしていると、笑いを殺すような咳払いを何度も繰り返しながら、丸みを帯びた温厚そうな男が家来たちに道を作られて現れました。

「恩人ドギン殿、ショックのあまり一足先に帰られた我が主人の無礼をお許しください」

 堪能な森人語を話す男に、ようやく言葉が通じる事への喜びと、安心に気が緩み、腰を抜かしました。

 それを見た真ん丸な男がドギンを起こしました。

「すみません、少し気が張っていたようで、それよりこれは一体、どういう事なのでしょうか?何故あなたは森人語をお話になられるんです?」

 真ん丸男は、その前に、と一つ付け加えて落ち着いて話しました。

「わたくしはロムスン様の召使いにして、先程帰られたアムルの友、ジャムカと申します。以後お見知りおきを、どうやら、アムファン様も貴方様の事をお気に召している様子でしたので、良ければ私共の集落で祝わせてください」

 丁寧で物腰の低いジャムカの申し出に、ドギンは申し訳なさそうに言いました。

「お気持ち感謝致しますが、まだ状況も呑み込めず、何が何やら、と言った感じで、それに、海の民の友人を探しているんです。申し訳ないですが、彼女を引き取ってくださった後はそのまま、探しに行きたいのです」

 すると、ジャムカは額を掻きながら言いました。

「海の民の御友人、心当たりがあります」

「本当ですか?」

 ジャムカの肩を掴み、それから粗相を恥いるように咳払いをしてからドギンは手を離しました。

「構いませんよ、我ら草原の民は空の下の森人同様、心は広く、今日、この手を交わせば皆、友でございます。それに大事な御友人でしたら、私達の集落で賓客として匿っております。道すがらお互いの事情など説明出来ればと思いますので、どうかご一緒して頂けませんか?」

 ジャムカの丁寧な提案にドギンも賛成し、バランドゥイルにまた、引っ張り上げられて乗せられて、草原の上を揺れながら進みました。

 ドギンは(銀の君の事は伏せて)これまでの冒険を語りました。

 その語り振りは話すうちに力が入り、それを聞いていたジャムカも皆に同じ熱で伝え、バランドゥイルを含めた周りはその話を深く聞き入るようになりました。

「なるほど、それは大変だったことでしょう」

 ドギンも気分を良くしてジャムカに尋ねました。

「そちらはどういったご事情があったのでしょうか、それに、バランドゥイルは一体、何者なのですか」

 自分の話だと理解したバランドゥイルは伏せ目がちで少し後ろめたそうでした。

 ジャムカは落ち着いた口調で話しました。

「私達、草原の民は、それこそ途方もないずっと前、我々の始祖達は元々、馬だったのでございます。草原を自由に駆け、空の下で、風と共に生きて参りました。しかしですよ。あちらをご覧なさい」

 そうしてジャムカが手で仰ぐ方へ向けると、はるか遠くに雄大な岩肌は白銀に隠され、雪で連なる山脈が見えました。

 そして、その奥に、稲の粒よりも小さく、山の中腹が狼の口のような形で崩れた大きな山を見えました。

「森人達の言うところの銀細工の民、つまり山人達が、現れなかった。思慮深い、貴方なら御山の王、というお話はご存知な事でしょう」

 銀の君が、森人の歴史を語る時に欠かせない、森人と山人の関係について話す上で大事な事だと聞かせてくれたので、もちろん、ドギンは知っていました。

 遥か昔、大陸が一つだった頃、大神さまはこの大地に森人と只人、そして小鬼だけを住まわせたのでございます。

 しかし、彼らにとって光とは、夜空の星々の輝きのみで、暮らすという事を知らなかったのです。

 それを哀れに思った工芸のアウローレさまと地母神セルフォールさまは頑強で、器用な山人をお作りになって、住まわせたのです。

 それに怒る大神さまは山人達を追い出そうとしました。

 しかし、セルフォールさまが山人を山に隠してしまったので、大神さまはドラゴンを刺しむけました。

 これがとても恐ろしい竜でございまして、見るものは恐ろしさのあまり、心が壊れてしまうと伝えられております。

 本来、この邪悪に立ち向かう為に森人は生まれたのでしたが、恐れ戦き、せっかく、助けてもらったのに、裏切ったのでした。

 山人達は山の中、つまりは洞穴で竜を迎え撃ちました。

 激しい戦いの末に、打ち倒した山人達はすっかり怯えて、大神さまに命乞いをしました。

 それを見た大神さまは自分の愚かしさを恥じて、彼らを義理の子としてエルに迎え入れ、とどめを刺した山人は石の裂け目山、つまりは竜を葬った山の王になった、というお話でございます。

「その頃に、彼の邪龍を目にした始祖たちは恐れ、馬の姿を失ってしまったのです」

 まるで吟遊詩人の語り口でジャムカは続けます。

「されど、忘れらぬ在りし日の誇り、まだ、人の形ならざる馬と友となり、草原を渡り歩くは草原の民、それが我らの起こりでございます」

 感慨深くなった騎兵の何人かは涙ぐみ、歌を歌い始めました。

 ドギンはそれに耳を傾け、かつて、草原そのものだった彼らの哀愁に浸りました。

 ジャムカも静かに語ります。

「彼女、本当の名をアムファンと言います。風の導きなのか、或いは大神の気まぐれか、始祖達の血を濃く受け継いでしまった。夜の間だけ、彼女は馬の姿に成ることが出来る。深紅の美しい牝馬に」

 ドギンはその話で全てが繋がりました。

 彼らの一族はその事を隠そうとしたのでしょう。

 しかし、それが災いし、一部の伝え聞く話から、その一族の大事な馬、家宝のような物だと考えたのだろう。

 実際、牝馬の姿をした、アムファン、いえ、あの姿であればバランドゥイル、を目にしたドギンもまた、この世にない素晴らしい馬だと感動しました。

 つまりは人のアムファンと馬であるアムファンが隔絶されて、彼らの一族のバランドゥイルと勝手に呼ばれて知られるようになり、様々な思惑で狙われるようになった、とドギンは考えているうちに義憤に駆られ、言いました。

「では、彼女の自由は?彼女が少し変わって生まれたからと言って、草原の下で自由であるはずの草原の民の娘の自由はどうなってしまうのです」

 怒りのあまりに大きな声で話したものですから、周りの者は驚き、何事かと騒ぎ立てました。

 伝わったのかどうか、それは彼女のみぞ知るところですが、肩を揺らしてバランドゥイル改めてアムファンは嗚咽しました。

 ジャムカはまたポリポリ額を掻きながら言いました。

「あなたもご存知だと思いますが、元々、草原の民に生まれた女は、テントの奥で隠されるように暮らします。アムファンさまは特にロムスン様の子女にあられますから、この事も含め、ほとんど自由なんてありませんでした」

 ドギンが何か言おうとした時にアムファンは後ろから抱きしめました。

 ドギンは振り返り、まだ幼さの残るアムファンの顔を見て、何も言えなくなりました。

 ジャムカは言いました。

「我らジョチフ族にとって、アムファン様は宝のようなお人です。そして内気な方でもあります。だから、アムファン様をお救いし、アムル様以外に心を開いた唯一の御方であるあなたには、心より感謝致します」

 冬の訪れを知らせる風に揺れる草花は、ヘルロスさまの御光に照らされていました。

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